3.はじめての世界
叔母からの突然の依頼から1か月。
ソフィアは家族と離れ、領地から遠く離れた王都へと向かった。
もっとも、王太子殿下がいる宮殿は王宮ではなく、王都から少し離れた春の離宮と呼ばれる場所であった。
当たり前といえば当たり前だが、宮殿というものは桁外れの壮麗さで、本に読んだ物語の世界に迷い込んだようである。
「こんな場所がこの世にあるのですね・・・」
馬車から降り、目を丸くして呟くソフィに、叔母はふふ、と笑った。
「たまに領地から離れるのも、いいものでしょう?」
――― 一か月前は、こんなことになると思ってもみなかった。
ソフィアはまだふわふわと夢の中にいるような気がしていた。
叔母の冗談のような話に頷いてしまってからの叔母の行動は速かった。
さすがにそのまま言うのは色々と外聞が悪いということで、家族には、王都に行く叔母についていく、という話になったようだった。
もっとも、本当のことを言ったところで、世間知らずなソフィアでさえも理解不能な話を、家族が信じるはずもなかっただろう。
元からソフィアを気に入ってた叔母であり、奔放なところもあることは親族皆が分かっていたことだから、そろそろソフィアも王都での楽しみや社交界を垣間見てもよい年頃だ、自分も楽しめる、と思いついたように言ったウィンデル侯爵夫人の言葉に反対する者はいなかった。
ウィンデル侯爵夫人は場が場ならその身のこなしは完璧であったから、特に父は、ソフィアがしばらく一緒に過ごせば少しでも粗雑さが直ると思ったのかもしれなかった。
嘘ではないかもしれないが、本当のことは言っていない叔母の大胆さに驚き、家族に隠し事をしているようでソフィアは胸が痛んだが、お役目のことはともかく、図書の間に自由に入る二度とない機会という魅惑に、勝てるはずもなかった。
消極的同意のままに、あれよあれよと準備は進み、叔母と旅立ち、今や宮殿に着いてしまったのである。
きょろきょろと見渡すのは不作法と思いながらも、中へと足を踏み入れたソフィアは好奇心を抑えることができなかった。
入った瞬間、花の香が胸いっぱいに広がる。
大きなホールの真ん中に、大人一人では抱えきれないほど大きな銀の花瓶があり、そこから零れそうなほどに色とりどりの花が活けてある。
その奥には、幅広い階段があり、途中で左右に分かれて二階へと続いているようだ。
壁にかかっている絵画は、風景画が多く、広いホールを一層奥行きを感じさせるものになっている。
「お待ちしておりました、ご案内いたします」
低い声にハッとして前を見ると、いつの間にか執事のような恰好をした青年が目の前に現れ、深く頭を下げていた。
「まあ、オリバー。久しぶりね」
――― この人がオリバー
王都へと向かう道すがら、叔母はこれからのことをソフィアに説明していた。
王太子殿下は春の離宮に住んでおり、ソフィアはそこに二週間滞在することになる。
宮殿ではオリバーという王太子殿下の従者がすべてを取り仕切ってくれる。過ごし方や困ったことがあれば、何でもオリバーとソフィア付のメイドに相談すればよい。
オリバーは王妃様の信頼も厚く、誰よりも王太子に忠誠を誓う切れ者であると。
顔を上げたオリバーは、ソフィアが想像していた男性よりも年若いようだったが、精悍な感じは思った通りで、無表情ではあったが信頼に足る、実直な人であろうことが一目で見てわかった。
燃えるような赤髪で、眼鏡の奥から鋭い視線がソフィアに注がれる。
「この可愛らしいお嬢様が、ソフィア・クレイン嬢よ。よろしくお願いするわね」
「オリバー・ブラウンと申します。どうかお見知りおきください」
オリバーはソフィアに向かって丁寧に礼をした。
どう応対すればよいかと思ったが、自分は侯爵家令嬢といえどもまだ半人前の身だ。
ソフィアは微笑みながら片足を後ろに下げ、ゆったりとカーテシーをした。
「こちらこそよろしくお願い申し上げます、オリバー様。何もわからぬ身ですから、どうか色々と助けてください」
オリバーがふっと表情を緩めた気がした。
「ただのオリバーで結構ですよ、ソフィア様」
一瞬見せた笑みがあまりに自然で、もしかするとこの人はとてもいい人なのかもしれない、とソフィアは思った。
後でそれがとんでもなく勘違いであることを知ることになるのだけれども。
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それからソフィアは叔母と共にこれからしばらく過ごすことになる客室に通された。
そこは、ノーウォーク侯爵家の自室よりもずっと広く、立派だった。寝室だけではなく、応接間や衣裳部屋までついている。
しばしお茶を飲みながら叔母と取り留めない話をしてあと、旅の疲れもとれたわと叔母は立ち上がった。
「もう行かれるのですか」
急に心細くなって、引き止めるような言葉が口から出た。
「わたくしも、あなたともっとゆっくりしたいのですけれど、ごめんなさいね、ソフィ。こちらにくると色々と用事ができてしまって・・・いつでも使いを屋敷の方に寄越して頂戴ね。王都の名所をたくさん案内するわ。図書の間に飽きたら、いつでも遊びに来ていいのよ」
侯爵夫人ともなると、色々な晩餐会に呼ばれてしまうのだろう。
心配そうな気配を見せ始めた叔母に、慌てて言った。
「ありがとうございます、叔母様。おいそがしいのはよくわかっています。わたくしのことは心配なさらないでください。わたくしができることを精一杯致しますし、図書の間を見られるのが待ちきれませんわ。きっと楽しい2週間になると思います」
そう、そう言ってくれると安心するわ、と叔母が言ったのと同時にドアがノックされた。
「失礼致します」
オリバーだった。
「ちょうど良かったわ。オリバー、わたくしはこれで失礼しますけれど、ソフィア嬢のことを、くれぐれも宜しくね」
「承知致しました」
慇懃な態度で礼をするオリバーに満足そうに頷くと、叔母は見送ろうとするソフィアとオリバーを制し、
「では、また楽しいお話を聞かせてね」
と意味深に笑ってから、召使に案内されるままに部屋を出ていった。
しんと部屋が静まり返り、品よく設えられた室内にソフィは残された。
叔母には強がって言ったものの、ふかふかのソファに身を沈め、ずいぶんと場違いなところにきてしまったと小さくため息をついた。
今までの自分の世界は、隅々まで知り尽くした城館とその周りの庭であったが、今はまるで夢の世界の宮殿にひとり取り残され、自分の存在が本当に小さなものだということを思い知らされる。
叔母の前ではそれなりに取り繕うこともできたが、こうして一人で考える時間ができてしまうと、不安が少しずつ大きくなってくるような心地だった。
ささやかな変化さえも優秀な従者は見過ごさないのか、部屋の入口付近に立ったまま、オリバーが口を開く。
「本日はお疲れと存じますので」
気遣いの言葉が出たと思ったが、次に続いたのは想定から一歩も二歩もずれたものだった。
「殿下のお部屋にご案内するのは、明日の夜からとさせて頂きます」
「は、、、いいいっ―――!?」
思わず、淑女らしからぬ素っ頓狂な声を上げてしまった。
が、無理もないことだ。
無表情の従者から発せられたのは、とんでもない言葉だ。
「あの、あの、殿下のお部屋って・・・夜って・・・」
そのあとは言葉にならず、パクパクとソフィアは口を開いたり閉じたりすることしかできない。
ソフィアがまだ少女だとしても、夜、男性の部屋にいくことがとんでもなく非常識で未婚の令嬢として恥ずべきことかは知っている。
顔を赤く、そして青く変えたソフィアの様子を見て、思い出したようにオリバーは、ああ、と言った。
「申し訳ありません、言葉足らずでした。ご心配なさっているようなことではありません。殿下のお側に上がるときには、あなたには男装をしていただきます。そうですね・・・お名前はフィン様というのはいかがでしょうか」
まるで解決になっていない。
――― 男装して夜、殿下の部屋に行く!?
自分はあまり常識的な方ではないらしいと思っていたが、次から次に常識でないことを言われて、ソフィアの頭の中は大混乱となった。
「ちょ・・・ちょっと待ってください。何を言っているのです、私が男装って・・・なぜ男装する必要があるのです!?ましてや、本をお読みするのに殿下のお部屋に・・・それも夜に・・・伺うなんて!」
ソフィアは相手の非常識さを質したつもりであった。
しかし、オリバーはむしろソフィアが非常識なことを言っているかのような口調で淡々と答えた。
「一点目ですが、殿下は女性をお側に近づけるのを好みません。お仕えするのは男性ばかりですので、それに倣っていただきます。ノーウォーク侯爵家はご子息とご息女が多いことは有名ですので、殿下も不思議には思われないでしょう。十代の少年とあらば見目的にも問題がないかと」
すごく失礼なことを言われた気がしたが、あまりにオリバーが平然と言うのでソフィアはただただ茫然と聞き続けることしかできなかった。
「二点目ですが、恐れ入りますが、ソフィア様は、殿下の不眠を何とかできないかと乞われていらっしゃったのではないのですか?」
「えっ、まあ・・・そうですけど・・・」
「では、逆にご質問を理解しかねます。殿下が昼寝をする時間があるほどお暇とでもお思いですか。のんびりとどこぞのご令嬢のように詩の朗読でも聞きながら茶会を楽しむ時間があるとでもお思いですか」
ぐっと、ソフィアは唸った。
オリバーの指示は非常識であるけれども、言っていることは道理が通っているような気もしてくる。
ひどい物言いに腹が立つが、叔母の依頼を受けた時点でこのようなことを想定しなかったソフィアの落ち度なのか。
いや、そもそも叔母はこのようなことになるのを知っていたのだろうか。
まるで考えがまとまらず、ただオリバーを見返すことしかできない。
「・・・どうしても気が進まれないのであれば、ウィンデル侯爵夫人に私から申し上げましょうか」
そこまでは思いやりのある言葉だと思った。
しかし人が好さそうと思った自分を憎らしく思うほどに、冷たい表情でオリバーは続けた。
「本読みで殿下の不眠をどうにかできるとは思えませんから。そんな可能性の低いことにあなたが令嬢としての慎みを犠牲にする必要もないでしょう」
そして、呆れたような口調とともにため息をついた。
「失礼ながら、ウィンデル侯爵夫人も何を考えていらっしゃるのか・・・王妃様に徒に望みを持たせることを進言されるなど、良識のあるご婦人がなさることとも思えない」
最後の方はまるで独り言のようであったが、ソフィアが頭に血を上らせるのに十分なセリフだった。
「叔母様は・・・ウィンデル侯爵夫人は、十分に思慮のある方よ!」
思わずそう声を荒げていた。
「わたくしがお役に立つのかどうかはわからないけれど、叔母様たってのお願いですもの、試さずにすごすごと帰るわけにはいかないわ!」
おや、とオリバーは眉を上げた。
「・・・では、予定通りお進めしてよろしいのですね」
「結構よ!」
――― もはやウィンデル侯爵夫人の名誉の問題なんだわ
叔母がこのような事態を想定していたかどうかはわからない。
いや、想定してならばさすがにこの話を持ってくることなどなかっただろう。
それでも、すでに話は進んでしまったのだ。
ソフィアを巻き込んで。
――― いいわ、別に貴族の令嬢の慎みなど元からないのだから
こういう土壇場となると、元来の性格が全面に出てきてしまう。
あたふたとしていた様子から、急に居住まいを正し、妙な威厳を見せ始めたソフィアに、オリバーは僅かに口の端を上げた。
「ではそのように」
オリバーはそして、自分の妹のアリアというメイドがソフィアの身の回りの世話をすると説明した。
「何か必要なものや、私に伝えるべきことがあれば、アリアにお申し付けください」
と、そこで言いにくそうに言葉を切った。
「・・・十分言いつけておりますが、アリアは少々言葉が多いたちでして。身内の恥を申し上げるようですが、くれぐれもアリアの言葉は耳半分に聞き流してくださいますよう」
言い終わらないうちに、ドアがノックされ、男性の召使いが中に入ってきてオリバーに耳打ちをした。
微かな言葉の端から、殿下がオリバーを呼んでいることがわかった。
簡単に召使に指示を伝えるオリバーから、本当に彼らの仕事というのは一分たりとも無駄にできないものであることが伝わった。
「それではオフィア様。これにて失礼を致します。アリアに声をかけてまいりますので、しばしお待ちください」
短く要点だけを述べて、オリバーは礼をすると、部屋を出ていった。
その後ろ姿を見送って、ソフィアは今度こそ大きなため息をついて、ソファのクッションをぎゅっと抱きしめた。
「どおおおおうしよおおおおううう」
低い低い自分の声が、部屋にこだました。