2.想定外の依頼
「叔母様、申し訳ありません、今、なんと仰ったのですか」
空耳かと思い、ソフィアは聞き返した。
が、どうやら耳は正しい言葉を捉えていたらしい。
「あなたに、レオ殿下に本を読んで頂くお役目を引き受けて頂けないかしら」
久しぶりに訪ねてきたウィンデル侯爵夫人は、母の弟の奥方であり、また、この国の王妃の妹である。
まるで歳をとることを忘れたような見目の夫人は、優雅に微笑んだ。
「あなたが、『眠りの魔術師』であることを、王妃様にお耳に入れたら、一度でも良いからぜひにと仰せになったのよ」
庭の一角に設えられたテーブルの上には、ティーセットが一式整えられているが、今、ウィンデル侯爵夫人の向いに座るのはソフィアただ一人である。
二人で話したいと言う言葉を訝しく思ってはいたが、まさかこんな話を切り出されるとは思ってもみなかった。
―――とんでもないことを言われたような・・・
叔母が何か冗談を仰ったのとも思ったが、目の前に座る貴婦人の顔にそのような表情はない。
さきほどまで近くに聞こえていた鳥のさえずりが、急に遠くに感じた。
―――何の話をされていたかしら
ソフィアは叔母との会話を反芻した。
しかしこれといって特異なことが話題に上がっていたわけではなかった。
最近の天気の話から始まり、ソフィアの近況、家族の様子、それから王都の流行について。
段々とそのあたりからソフィアの集中力が切れてしまったのがいけなかった。
いい天気だなぁ、今日は後であの話の続きを読もう、とぼんやりと考えているうちに、この国の王太子、レオ殿下の話に至ったのである。
ソフィアにとっては遠い王都の、高貴なお方。
一般的なレディであれば、関心を寄せて聞き入ったであろうけれども、ソフィアは社交界の噂話にとんと興味がない。
叔母には申し訳ないけれども、心ここにあらず、という状態になってしまったのである。
ソフィアは諦めて率直に言った。
「叔母様、本当に申し訳ありません。わたくし、お言葉を聞き逃してしまったようですの。わたくしと、恐れ多くも王太子殿下の本読みが、どうしてもつながらなくて・・・」
叔母は穏やかなほほ笑みを崩さなかった。
「まあ、よいのよ、ソフィ。わたくしのお話が回りくどく、長すぎたのよ。そうね、真っすぐなあなたには、まっすぐにお願いするべきだったわ」
ソフィアは少し困ったように頭を傾げた。
貴族の令嬢らしく物事はオブラートに包んで話すべきであり、行動はいつも優雅におっとりと急いてはいけないと、家庭教師によく注意されるからである。
もちろん、注意されるのはソフィアが真逆の行動をとるためであるが、なぜか叔母はそのようなソフィアの気質を前から気に入って、兄弟姉妹の中でも一番可愛がってくれているのである。
揶揄するつもりがないことは重々わかっているから、ソフィアは叔母が次の言葉を続けるのを黙って待った。
「つまりね、ソフィ。レオ王太子はあまりにおいそがしい御身で、どうも最近は睡眠もよくとっていらっしゃらないようなのよ。周りの者はもちろんお休みになられるように心を砕いてできることはしているのですけれど、殿下ご自身が眠れないようで・・・王妃様が心を痛めていらっしゃるのを、聞いたのよ。その時、ソフィ、あなたのことが思い浮かんだの」
「わたくし・・・ですか?」
依然として話が全く見えない。
ソフィアは困惑したまま尋ねた。
「そうよ、ソフィ。あなたにしかできないことだと思うの。あなたの手にかかれば、誰もが健やかな眠りの中に落ちて、それは見事な手腕だったことを覚えているわ」
「叔母様・・・わたくしのことを『眠りの魔術師』と面白がっていただいたのは随分と昔のことですし、それも子供相手の寝かしつけ程度の話ですわ。尊いお方にお聞かせるできるようなものではございません」
「謙遜することはないわ、ソフィ。あなたの不思議な才能は、誰もが認めていたのですから」
きっぱりとソフィアは否定したつもりだったが、一度心に決めた叔母は譲らない様子であった。
その性格は、良く思えば自分に通じるものがある。
「ソフィ、突拍子もないことを言っていることは重々承知よ。でも、どんなことでも、試してみたいという気持ちになっている王妃様・・・いいえ、私の実の姉の悩みを、私は軽くしてあげたいのよ。もちろん、ソフィが解決できるとは限らないわ。それでも、あらゆる手立てを尽くすことを、手助けしたいの」
そういうウィンデル侯爵夫人の顔は、心から、血の繋がった姉と甥を心配する家族のそれであった。
ソフィには、その思いがわかった。
幼いころ、弟が病にかかり、数日が峠と医者に宣告されたことがあった。その時、ソフィアは自分にできることはなんでもしたいと思った。誰かから、好きなものを断つと望みが叶うと聞き、ソフィアは大好きなストロベリープディングを、一生食べないと神様に誓ったものである。
それが絶対的に効果があるとは幼心にも確信があったわけではない。それでも、一縷の望みであっても、自分にできること尽くしたいという気持ちからであった。
王妃様の思いに幼い自分の経験を重ねることは不敬であるかもしれないけれど、どんなことでも試す価値あることはやってみたい、という気持ちは、己ではなく大事な人の身だからこそ一層強くなることを、ソフィアは感覚として理解したのである。
「ええ、もちろん、王妃様のお気持ちも、叔母様のお気持ちも、とてもよくわかりますけれど・・・」
思わずそう同意したソフィアに、叔母は我が意を得たり、と頷いた。
「そうよね、わかってくれると思ったわ、ソフィ。これは大げさと思うかもしれないけれど、王太子殿下のみならず、王妃様をお救いすることよ。ひいては国家のためになることよ!」
「ええっ」
急にスケールが大きくなったことに動揺して、ソフィアは首を激しく振った。
「お待ちください、叔母さま。わたくしは、お気持ちはよくわかりますと申し上げましたが、わたくし自身がお役に立てると申し上げたわけではありません。本当に、いったいわたくしの何が役に立つというのか、皆目見当もつかないのですから・・・」
早急に結論を出そうとする叔母を止めようとしたものの、それは叔母がもう一押しすることを進めたに過ぎなかった。
叔母はきらりと目を光らせた。
「ソフィ」
「は、はい」
この表情をする時の叔母に敵う者は誰もいない。母も、父も、もちろんソフィア自身も、だ。
「あなた自身が、自分が役に立つかどうか、ではないのです。あなたが何かを成し遂げる可能性があるかと他の者が思っているかどうかが大事なのです」
凛と告げる叔母に、何も言えるはずもなかった。
自分が王太子殿下の本読み係に、という荒唐無稽な話にもかかわらず、それはたいそう深い意味のある、使命のように思われてきたから不思議なものである。
「は、はあ・・・」
勢いに気圧されて、令嬢らしからぬ間の抜けた返事しかできなくなったソフィアに、叔母は用意周到に、今度は飴を提示したのだった。
「ソフィ、王太子様のいらっしゃる宮殿には、この国随一の蔵書を誇る図書の間があるのを知っているかしら?」
「あっ・・・!まさか・・・」
叔母はいたずらっぽく笑い、片目を瞑った。
「王太子殿下もお忙しい方ですから、本をお読みする時間は長くはないわ。でも、ご興味のある本を選ぶことは大事なお役目ですからね。それ以外の時間、好きなだけ図書の間にいられるよう、取り計ってあげるわ」
どうかしら、と叔母の目は尋ねかける。
ソフィアは、それに対して、『NO』といえるはずもなった。