念願の海へ
北の国とこの国の関係は改善に向かっていて、警戒していた妨害も今のところはないらしい。
代わりにジャータカ王国が不気味なくらい静かなのだとか。
こちらの様子を窺って、対策を考えているのかもしれない。
面倒な事件は、学院の夏期休暇に入るまでには起きなかった。
そして、私が個人的に気にしていたタリスとノイアちゃんの進展も見られないまま。
普通に夏休みが来てしまった。
とにかく。
「平和過ぎて爆弾も作れなかったけど、そんな生活はしばらくしなくていいのね」
「休みの間も爆弾は要らなくない?」
テトラが猫を伸ばしながら私に突っ込みを入れる。
「爆弾はさておいて、旅行に行く前の準備は終わった?」
ヴェルの言葉に はっとしたテトラは、猫を抱えたまま部屋を飛び出して行く。
「何か忘れてたみたいね」
「ちゃんとやってるって言ってたのに……」
何が終わっていないのか、勝手に確認させてもらう。
工房の道具は片付いている。旅行の荷物もまとまっている。
もしかして、足りないのはお土産だろうか。
海に行った後に秘めの庭へ帰る予定だ。テトラはこの学院に支給される食材で両親にご飯を作りたいと言っていたから、ギリギリまで食材を用意するのを待っていたのかもしれない。消費期限とかあるし、仕方ないか。
長期休暇の間のナクシャ王子は、この国で保護されているもう一人のジャータカ王族と一緒にロロノミア家の管理区で過ごすらしい。イライザさんがそこに遊びに行く約束をつけたので、大人しかった。この国の王族たちはナクシャ王子とアーノルド王子が鉢合わせないように気をつけているし、私が心配する必要はないだろう。
生徒達が馬車に乗って故郷に戻っていくのを見送った後で、私たち講師も順番に出かける用意をする。
不良が学院内に隠れていないか確認したし、後は住み込みの警備の人に任せても大丈夫。
休みの前に、城下町の仕立屋さんで淡い水色の夏服を用意してもらった。旅行の間ぐらいは年相応の格好をしておきたかったのだ。そうでなくても、黒い衣装は見た目からして暑いし、旅行先で不審者扱いされても困る。日よけの白い帽子も用意したし、遊びに行く用意は万全だ。
ヴェルとテトラも夏向きの軽装だけど、三人して護身の道具はしっかり用意してきたから、道中で何かあっても対処できる。徒歩で秘めの庭に帰るという最悪の状況も想定もしたので、非常事態になっても大丈夫。
武装と爆弾作りの道具を揃えてきたけど、コンテナで移動する道中は何も起きずに済んだ。最近は魔獣が出ることも少ないし、野盗も見かけない。騎士団と魔術結社が頑張っているおかげで治安はいいようだ。
三人で会話したり用意したおやつを食べるうちに、目的地に着く。
この国の西にある唯一の港町は、白い石を積んで整備された湾口と街並みで、太陽光を眩しく反射している。
港の北側に白い帆を掲げた船がいくつも並び、漁帰りの船から沢山の積み荷が忙しく運ばれていた。
鳥たちがその周囲を飛び交い、漁のおこぼれにあずかろうとしている。
そこだけ見れば、どの世界にもある活発な港町だ。
ただ、南の入江から陸にかけて、銀の直方体が長く横たわるように存在している点だけが異質である。あれは海水を真水に変える設備で、この近隣一帯の生活用水を作っているから、多少景観がおかしくなるけど仕方がない。
その設備内で海水から分離された塩が、最近はこの国の中で食用として流通するようになっている。
それに加え、この海から北の大陸へ行く航路が確保され、街では貿易拠点としての準備が始まった。
諸々による好景気で、とても賑わっている。
やっと辿り着いた街の光景に、私達は感嘆の声を上げる。
「明るくていい所みたいね」
「本で読んだだけじゃ、海がどんなものかは分からなかったから、来られて良かったよ」
私とヴェルがのんきに話すのに対し、テトラがぼんやりという。
「思ったより潮風ってキツイんだね」
テトラは魔術の基本属性が火だから、海とは相性が悪いのかもしれない。
けど、町を歩くうちにすぐに慣れたようで、いつものようにあちこちをきょろきょろと見回している。
宿を探し、自分たちで食材を持ち込んで料理できる所に泊まるのを決めた。
この地域はあの直方体の設備のおかげで、どの宿でもお風呂の真水が大盤振る舞いらしい。そうであれば、遠慮無く入らせてもらわなくては。
この国に生まれてからずっと、お風呂に毎日入れないことが悩みだった。この地域で暮らすのに慣れたら、帰るのが辛いかもしれない。
借りた部屋に荷物を置いたところで、観光に出かけた。
どんな海鮮料理があるのか楽しみにしている私と、変な生き物がいないか探すテトラと、海岸沿いの地形が入り組んでいるのを面白そうに観察するヴェル。
それぞれ違うことを考えているのはいつも通り。
南の地域は貴族の避暑地があるようで、お屋敷がいくつも並んでいる。
銀の直方体の側にあるので景観はいいとは言えないだろうけど、真水が優先的に得られるから好物件なんだろう。
遠目にそれを眺め、テトラが言う。
「貴族の避暑地があるのに、ゲルダリアの家はここに遊びに来たことないの?」
「私が海に来たことはなかったわ。今はどうしているのか分からないけど」
「弟とそういう話はしてないの?」
テトラの問いかけに、言葉を少し詰まらせる。
「日常的な雑談までは、していないから」
「……ふーん」
私が家から離れている間、タリスがどう過ごしてきたのかは気になっているけど、質問しにくかった。あの子は苦労してきただろうに、自分からは打ち明けようとしない。
両親との手紙も、最低限の生存報告みたいな話だけだった。
向こうからくる手紙はやたら厚くて長文だけど、家の話より私のことを心配する内容ばかりだし。
現在のソーレント家がどんな状況なのかは、まるで知らずにいた。
帰るつもりがないのに、根掘り葉掘り聞くのはためらわれたから。
避暑地の区画を迂回しようとしたところで、予想外の人に出会った。
向こうもこちらにすぐ気づいたようで、私に向かって会釈する。
「おや、ソーレント様。ここで会うことになるとは奇遇ですね、お久しぶりです」
肌を隠す衣装ではあれど、暑さを感じさせない佇まいの、北の国の医術師。
あの交渉のときとは違い、彼も軽装だ。休暇なのだろうか。
まさかルジェロさんがまだこの国にいるとは思わなかった。
「……人違いです」
帽子を両手で抱えて顔を隠し、ついそう答えてしまった。
髪と目の色が違うのに、すぐにばれるなんて。
考えてみれば、一緒にいるのがヴェルとテトラだし、別人だとは思ってもらえないか……。
無礼な対応をした私に、ルジェロさんは楽しそうな声色で言う。
「これは、失礼致しました。良い休暇をお過ごしください」
それだけ言って、従者と思しき人たちを連れてお屋敷の方に去って行く。
もしかして、私はお忍びで遊びに来たと勘違いされたんだろうか。
彼が気を利かせて引いてくれたので、私たちも街の散策を続けることにした。
桟橋を歩きながら、海水で使い魔を作れないかと三人で試していた。
普段は水が貴重品だから、こうやって遊ぶようなことはできない。
でも、海でなら限界まで実験できる。
流石に私たち一人の魔術で海を割ったり渦潮を作ったりまではできないけど。
海水の塊が波の上でちゃぷんと跳ね、猫の形になる。本来の猫よりもサイズのあるそれは、近場に居た鳥を驚かせて海の中へ消えた。
想像したより、水を魔術で操るのは楽しかった。
海水でできた猫と鳥と兎が、私たちの後をついてくる。
散策中に出会った漁師さんたちが、面白がって猫形の使い魔に魚を投げた。
テトラが操る猫は、それを器用に口で受け止める。そのまま魚を飲み込んで、猫の形の中で魚が驚いたように泳ぎ始めた。
「ああ、面白いねえ。いいもん見せてもらった記念に、魔術師さんにはいくつか魚をあげよう」
「おじさんありがとー!」
テトラも楽しそうだ。
気前のいい漁師さんたちのおかげで、猫の中では種類の違う五匹の魚が泳いでいる。
そのまま宿まで歩いて帰り、用意した生け簀の中に飛び込んだ使い魔は海水に戻る。
「せっかくお魚をもらったなら、どう料理するのがいいかも調べに行こうよ」
「そうね、調理道具と調味料も調達してこなくちゃ」
テトラとそんな話をしながらまた宿を出たところで、ヴェルが考え込むように黙っていることに気付く。
「どうしたの?」
私の問いに、彼はすぐ表情を緩める。
「何でもないよ」
商店街には、魚以外にも海の幸が並んでいた。
四角形の貝や、ザリガニみたいな甲殻類、タコとイカが合体事故を起こしたような軟体生物など、種類が豊富だ。
この国の海は思った以上に魔境らしい。
得体の知れない生き物は自力で調理できるか怪しくて、テトラですら敬遠した。今日は魚だけ調理しよう。
お店の人から教わった通りの香辛料と道具を買い込んで、宿に戻った。
調理場でも真水が使い放題で感動する。
ヴェルが魚を捌いて、私とテトラが焼いたり煮込んだり。役割分担できるときは、ヴェルに火だけは任せない。
そうして魚の香草焼きと白身魚のスープが出来た。パンも買っておいたし、今日の夕飯はこれで充分だろう。
夕飯を堪能して、夜景を観に行こうと三人で宿を出る。
まだ一部の人にしか北の大陸へ行く許可は降りていないけど、往来が自由になれば今以上にこの街は騒がしくなるだろう。そうなると治安も悪化するかもしれないから、夜に出かけるなら今のうちだ。
角灯に火を入れて、港まで向かう。
夜釣りの船が、松明を掲げて出航していく。あの船はどこまで遠出するんだろう。
「沖まで行ったら、巨大な生物とかと遭遇したりするのかな」
「明日、漁師さんたちに聞きに行ってみる?」
船乗りと海の巨大生物の戦いは、この世界でもあるんだろうか。キラナヴェーダの世界では船の移動はなかったから、海にどんな生き物がいるのかは知らなかった。
始祖王が封じていた期間が長いから、この海域の生物の研究もこれからだろう。
ここで研究して、未知の生物の第一発見者になるのも楽しそう。
潮騒を聴きながら月明かりの下を歩くのは、とても気分が高揚する。
今なら、中ボス戦が始まっても余裕で倒せそうだ。
テトラもヴェルも、夜の海を楽しんでいる。
来て良かった。
休暇の間ぐらいは、煩わしいことを考えずにおきたい。




