外の人などいない
王子やフェン様と立て続けに会話した次の日。
よく眠ることができず、うなされるようにして起きた。
のろのろと一日の準備を始める。
学舎へと向かいながら、昨日のことで少し後悔していた。
フェン様に対して安請け合いをしてしまったような気がしている。
――その言葉に後悔しても、もう手を引かせることはできないからな?
脳裏にあの台詞が蘇る。
流石に、私としても自分の発言を撤回しようとは思わないけれど。
王族と行動を共にすることがあれば、私も王族が警戒しているような危険と遭遇することになるわけで。
何か起きたら魔術研究棟に逃げ込めばいいとはいえ。
助言をもらったような、不安の種を蒔かれてしまったような。
落ち着かない。
こういう気分のときは……。
故郷ではどうしていたっけ。
私は、
ああ、そうだ。
故郷の伯爵様に会いたい。
柔らかな巻き毛の、長い金の髪が陽の光できらめく様を思い出す。
それをなびかせ、馬で領地を駆ける伯爵様。
あの眩しい姿は、皆の憧れだ。
迫力のある人ではなくて、他人を落ち着かせる効果のある人だから、会えばきっと私の今の不安とか感情の乱れも治まると思うのに。
どうして今まで意識から抜け落ちていたんだろう。
私のこの、フォントルロイ卿への憧れは。
頭を打ち付けて記憶が混濁してから、最初から存在しなかったかのように消えていた。
それは、私にとって大事な感情なのに。
ゲームとしてこの世界を外側から眺めていた人達には、ノイア・ミスティの感情は見えない。
というより、ノイア・ミスティ個人の感情なんて無かった。
私は、世界の外側にいる人の意識をこの世界に降ろすための器だから。
余計な想いや感情を抱えることは許されていない。
自我を有してはいけないのだ。
でも。
16年生きてきたこの世界のノイア・ミスティは。
この王立学院に来てからも、過去の記憶を捨てたくはない。
過去に得た感情を無かったことにはできない。
この世界で16年育った私は、故郷の伯爵様に憧れていたのだ。
この学院で勉強して無事に卒業できたら、伯爵様の元で働きたいと思っていた。
その感情は、私をこの世界の橋渡しとして扱う『この世界の外側の誰か』には要らないもの。
『乙女ゲームの中の私』は、学院の中にいる誰かにしか興味を持ってはいけない。
私を通してこの世界を外側から見ている人達には、私の憧れの人が誰かなんて関係無いのだ。
私の意思を無視して、他人のために興味のない誰かと恋愛ごっこをしないといけない。
急に悲しくなった。
私のこれまでの人生が否定されているようなもの。
あんまりだ。
そう思ったら、涙があふれてきた。
こんなにも気分が沈むのは、いつ以来だろう。
胸が痛む。
この歳になってまで、歩きながら泣くなんて。
みっともない。
涙を拭うけど、一度流れ出したそれは止まりそうにない。
落ち着かないと。
そうだ。
今の私は、外側にいる誰かの意思を知った上で、それを無視することができるんだから。
そして。
『この世界の外側の、幼馴染みの仲を裂きたくない私』と、『この世界に生まれた私』の感情は、両立可能だ。
今の私は二人分の感情と意識が混ざり合うような状態ではあるけど、そこに矛盾が生まれずに済むのは不幸中の幸い。
「何かあったんですか、ノイア先輩」
声をかけられ、顔を上げる。左を見ると、タリスさんが居た。
泣いている私を心配そうな顔で見下ろしている。
しまった。
朝早く出てきているとはいえ、真面目な生徒であれば私と同じ時間に学舎へ向かうんだから、知り合いに会ってもおかしくなかった。
慌てて言い訳を考える。
「……ちょっと、故郷が懐かしくなってしまって。情けないことです」
鼻声で少ししゃくりあげるように弁解すると、タリスさんは表情を柔らかくする。
「そういう気持ちは僕も分かりますよ。先輩、始業までまだ時間がありますから、少しそちらで休んでいきませんか」
近場にあったベンチに、二人並んで座る。
ぐずぐす鼻を鳴らす私に、タリスさんは穏やかに言う。
「感情の発露に対して情けないとかみっともないとか、思わなくてもいいと思うんです。貴族はそういうのを恥として止めさせようとしますけどね」
慰められると、逆に恥ずかしいというか、涙が止まらなくなる。
でも少し、落ち着いた。
「ありがとうございます、タリスさん。ちょっと気が楽になりました……」
「いえ。こちらこそ、一人でいると気が滅入るところだったので」
タリスさんが一人で過ごしている理由は何だろう。
聞くに聞けずにいる中で、タリスさんが言う。
「会いたい人達に思うように会えない環境が続くと、どうしても気分が沈みますね」
「……タリスさんも、誰か会いたい人がいるんです?」
都合良く振られた話に乗って、知りたいことを聞いてみる。
すると、タリスさんはあっさりと答える。
「そうですね。僕は、姉さんに会いたいです」
「お姉さん、ですか」
「はい。事情があって、今は会えないんですけど。今はどうしているのかもわからなくて。多分元気にしていると思うんですけど」
その事情に、最近知り会ったばかりの私が触れるのもためらわれる。
ゲルダ先生と、タリスさんのお姉さんについてちょっと確認してみたいけれど。
もう少し詳しく事情を聞けるような間柄になるまで、そっとしておいたほうがいいかもしれない。
「……いつか、お姉さんと会える機会が来ると良いですね」
「はい」
今日も放課後に魔術研究棟へ向かう。
学院に来てからまだ十日も過ぎていないけど、これが日課として定着している。
最近はもう庭の変な植物も気にならなくなって、研究室まで一直線に歩く。
研究室をのぞくと、魔術師の三人だけじゃなく、フェン様が既にいた。
今までに見たことのないような高級な椅子と卓が部屋の中に運び込まれていて、そこでフェン様は王族らしく、ものすごく優雅にくつろいでいらっしゃる……。
流れてくる茶葉の匂いも今まで以上に芳しい。上質なモノだ。
そんな空間で、魔術師の三人が居心地悪そうにしているのは、多分気のせいではない。
ゲルダ先生はかろうじて笑顔だけど、あとの二人の表情筋がまるで動いていない。
「……あの、お待たせしました……?」
私がそう言いながら研究室に入ると、ゲルダ先生がぱっと表情を明るくして声を上げる。
「いらっしゃいノイアさん! そんな、待ったと言うほどのことではないから大丈夫よ!」
あっ、これはかなり待っていたっぽいですね?
待ち人来たりて歓喜雀躍みたいな勢いだ……。
フェン様は王族特権で授業を受けずにここに来ていたのだろう。
フェン様を背景か何かの扱いにして、私の魔術の研究が始まった。
ゲルダ先生の提案で、今までに使ったことのない属性の魔術について試していく。
土、水、風、と、順に違う魔術を発動させていく。
私は簡単な魔術であれば、火の属性以外も使えるようだった。
「……ということは。魔力さえ補うことができるなら、太陽の魔術も月の魔術も使える可能性がある、かも」
ゲルダ先生がそんなことを言う。
高位の魔術は、それこそ専門に極めている人でないと難しいはずなのに。
魔術師の三人は、ああでもないこうでもない、と考え巡らせている。
肝心の金環蝕の魔術についてはまだどういうものなのか分からないままだ。
金環蝕の魔術について分かっているのは、太陽の魔術を打ち消すということだけ。
三人の話を聞いているのかくつろいでいるのか分からなかったフェン様が、唐突に提案する。
「いっそイデオンも呼んできて研究に参加させるか?」
太陽の魔術はロロノミア家の王族に発現することが多いらしいけど、フェン様は王族の中でも例外の魔力皆無の人なので、参考にならない。
この学院で太陽の魔術を使えるのは、イデオンさんだけ。
なので、フェン様の提案は妥当かもしれない。
ディーさんがその提案に疑問を呈する。
「彼は王子の護衛担当なので、私用を頼むわけにはいかないのでは?」
それに対して、フェン様はさらっと怖いことを言う。
「正確には、力量を見極められない愚か者がアーノルドに喧嘩を売って殺されないようにするための壁なわけだが、」
それからフェン様は、ディーさんを見据えて続ける。
「調子に乗るような頭の軽い連中を、誰かがうまい具合に躾けたらしいじゃないか。あれ以降、イデオンの仕事がないと聞き及んでいるが」
その言葉に、ディーさんはフェン様から目を逸らしてあらぬ方向に視線をさまよわせる。
何かあったのだろうか。
自重せずにトラングラさんが聞く。
「え、ディーが何かやったわけ?」
「……大したことではないよ……」
気まずそうにするディーさんを置いて、ゲルダ先生が口を開く。
「この春からもう一人、太陽の魔術使いがこの学院に来たという噂ですけど……。
その人にも協力をお願いしてみて、無理そうならイデオンさんにお願いしてみましょう」
その言葉に、フェン様はやけにいい笑顔になって言う。
「なるほど。太陽の魔術使いが、他に? それはいいことを聞いた。是非かけあってみたい」
あっ、これは……王族特権が発動される予感が……。
色々と、大丈夫かな、これから。