最初の将軍と最後の将軍との出会い《室町は戦国です》
時は、1573年…。
室町幕府、足利将軍家の第15代将軍、足利義昭は今まさに、織田信長の面前にて、命乞いをしていたところ。
義昭「信長殿!このとおり頭も丸めもうした、じゃから、命だけはお助けをー!」
信長「よかろう、命だけは助ける。京の都からは出ていかれるように。」
こうして足利尊氏以来、約240年続いてきた室町幕府は、15代義昭を最後に滅び去り、影も形も、跡形もなく消滅させられた。
それからまもなく…。
義昭「はあはあ…、た、助けてくれ…。」
義昭は追いはぎに追われていた。
当時、この手の追いはぎなどが、身分の高い御仁から、金目の物を奪い取るようなことは、日常的にあったという。
義昭「た、助けてくれ!わしを誰だと思っておる!
わしは足利幕府15代将軍の義昭じゃ!」
追いはぎ「うるせえ!室町幕府なんて、もう無いんだろ!?
だったら将軍もクソもあるか!」
義昭「わしは将軍じゃー!わしは将軍じゃあーっ!」
なすすべなく、追いはぎたちに着ぐるみはがされてしまった義昭。
その後、諸国を転々とし、『貧乏公方』などと、さけずまれるまでに落ちぶれていた義昭。
その時、とある荒寺に身を寄せていた。
義昭「この義昭が、足利公方である義昭が、こんな荒寺のようなところで暮らすことになろうとは…。」
さらに時は流れて、世は太閤、豊臣秀吉の天下となっていた。
そんな1597年のこと、義昭は間もなく臨終を迎えようとしていた。
義昭「室町幕府の再興をついに果たせないまま、黄泉の国へと逝かねばならぬのか…。」
この翌年、1598年に死を迎えた太閤秀吉が、徳川家康や、前田利家や、正室の北政所、側室の淀君など、多くの人々に看取られながら亡くなり、そして盛大な葬儀を行ったのに対し、
義昭を看取ったのは、そしてその葬儀を執り行ったのは、かつての家来たち30人ほどだけだったという、寂しいものになった。
これが負け組の性なのか…。
その後、義昭は黄泉の国をさまよっていた。
どこまで行っても、同じような景色が続く。
義昭「はて、ここはどこなのじゃ…。」
そこに姿を現したのは、
義昭「おお、あなた様は、もしや、室町幕府の開祖、足利尊氏公!?」
やはり、足利尊氏だった。しかし、義昭がイメージしていた尊氏とは、様子が違うような…。
尊氏「義昭か、義昭なのだな。やはりお前もこちらに来たか。」
義昭「尊氏公…。尊氏公の立てた室町幕府を、この義昭の代でつぶしてしまったばかりか、再興を果たすこともできず…。」
尊氏「まあ、よい。それより、つもる話でも聞こうか。
それより、その手に持っておるものは、何なのじゃ。」
義昭「これにございますか?これはコンペイトウと申すものにございまする。
とても甘い味のする菓子にございまする。」
義昭は尊氏にコンペイトウを手渡した。
尊氏「おお!うまい!」
尊氏もコンペイトウは、いたく気に入ったようだ。
義昭「このコンペイトウという菓子は、南蛮渡来の菓子にございまする。」
尊氏の時代には、まだ南蛮との交易は行われていなかった。
1543年に鉄砲が伝わってから、キリスト教や、南蛮の食文化などが伝わってきた中で、コンペイトウもまた伝わってきた。
義昭はそれを目の当たりにしてきた。
室町幕府は1467年の応仁の乱をきっかけにして、その権威は失墜し、その間、諸国の戦国大名たちが競い合う戦国の世が、長らく続いていた。
その間の将軍たちは皆、その戦国の世の争いに翻弄されたといえる。
そしてその最後の1人となったのが、義昭だった。
義昭「それから、わしを京の都より追放したあの男は、本能寺にて明智光秀の謀反によって、自害に追いやられた。
その光秀を討ち、今や太閤などと呼ばれて権勢を振るっておるのが、
あの豊臣秀吉という男じゃよ。
こともあろうに、朝鮮や明にまで出兵しおって。」
こんどは尊氏が義昭の話の聞き役になっていた。
なんでもかんでもよくしゃべるのが義昭だ。
義昭「あの男は、千利休を切腹に追いやり、甥の秀次をも追い落とし、無残にも首をはねた。
まあしかし、今やもう、病に倒れ寝たきりになっておるからな。
まもなくあの男も、わしの後を追って、こちらに来るじゃろう。」
この時に義昭が言ったとおり、1598年、豊臣秀吉は家康らに看取られながら、ついにこの世を去った。
そして、徳川幕府の治世へと、時代は動いていく…。