さよならと言うよりは
このままここにいても埒が明かないので、取り敢えず、気を失ったままの高校生たちを起こすことにした。
声を掛けたが反応が無い。肩を掴んで揺さぶってみたところ、ようやく目を開けてくれた。
何が起きたのかよく分からない――そんな顔をしているものの、とりあえずは五体満足。気が狂ったりしている気配も無い。
状況説明は渚に一任した。……ついでに説教も。声を荒げたりはしないものの、その眼はどう考えても笑っておらず、彼女が本気で怒っていることがよく分かった。だがこれもきっと、彼らのためを思ってのことなのだろう。もう二度と、愚かな真似をしないように。
「幼馴染なんですよ」
帰路の途中で、渚は彼らの事をそう称した。道理で遠慮の無い物言いなはずだ。
※
いかなる一日もいつかは終わりを迎える。どうやら七瀬たちは結構な時間を廃墟探索に費やしていたらしく、高校生たちを救出してから、日が暮れ始めるまではすぐだった。
彼ら曰く、今日は新幹線を使って来たとのことだったので、七瀬も駅まで見送りとして付き添う。自転車の前かごに彼らの荷物を乗せてあげた。先輩としてのささやかなサービスである。
これからどうしようか、などと内心で今後の予定に頭を巡らせながら他愛の無い雑談を交わしていると、いつのまにか目的地に着いていた。
駅には彼らの他にも、制服姿の男女が大勢行き交っていた。遠方から電車で訪れる人は、まず間違いなくこの駅を利用するので、その混雑も当然ではある。七瀬は入口の手前で立ち止まると、渚たちに向かって片手を上げた。
「それじゃ。皆帰りは気をつけてね」
そう言った彼の元に、件の男子どもがやって来た。三人で顔を見合わせ、同時に頭を下げる。
「すいませんでした」
聞いたところでは、大学の周りを散策している途中に廃墟を見つけ、何故だが無性に入りたくなったのだという。七瀬たちが出会った女性の霊以外にも、種々雑多な霊があそこには寄り付いているようだったので、きっとそのどれかに“呼ばれた”のだろう。
渚に連絡を入れたのも、そうせねばならないと感じたから、とのことだった。断定は出来ないが、こちらは守護霊か何かの仕業だと思う。渚にも訊いてみたが同意見だった。
「別に気にすることはないよ。ただ、もう今日みたいなことはしない。いいね」
「「はい」」
彼らなりに反省していることは見て取れたので、やんわり釘を差すにとどめておく。言いたいこと――帰ったら墓参りに行っておけという忠告――は既に伝えた。
彼らに対して怒っていないと言えば、それは嘘になりそうだ。面倒なことをしたなという思いはたしかに存在する。だがだからといって、怒鳴り散らすのは七瀬の性に合わない。反省している相手に、わざわざ追撃を加える必要もないだろう。
代わりにうっすらと冷笑を浮かべて、次は無いということを暗に示しておいた。今度似たようなことがあっても、そこに七瀬のような“見える人”がいるとは限らない。今回は運が良かったのだ。
もし渚が廃墟に辿り着かなかったら。もし廃墟の女幽霊が、手の付けられない悪霊だったら。彼らは無事では済まなかったかもしれない。
まあ彼らの様子からしても、暫くはそういう場所に行くことは無いだろう。もっとも、今後誰かに誘われて山奥のトンネルへ……などということが、起きない保証は無いが。それで何かが起きても自業自得だ。
ちなみに彼らの中では、七瀬は“偶然通りがかった大学生”ということになっている。その方が、色々とスムーズだからだ。午前中の出来事をわざわざ話す必要は、特に無いように思われた。
もう一度頭を下げた後、少年達が改札に向けて歩き出す。
渚も後に続きかけ……しかし数歩進んだところで不意に立ち止まると、振り返った。
胸の前で両手を握りしめている。その視線が、改札と七瀬の間を、ためらいを含んで所在無さげに揺らぐ。
しばらくして、結局七瀬の所へ戻ってきた。
「あの」
「ん? どうかした?」
――お礼やら挨拶やら。諸々の事は、もう済ませてあるはずだけど。
何かやり残したことでもあっただろうかと、七瀬は首をかしげる。
一方で渚は、戸惑うような瞬きを数回繰り返した。左下を見て、右上を見て、ようやく視線が七瀬の方に向く。そして、静かに口を開いた。
「“一期一会”って諺がありますよね。一生のうち、会うのは一度だけ、と。私、先輩と――私以外の視える人とこうして知り合ったのは初めてなんです。それなのに、これでお別れにするのはもったいないような気がしてしまって。だから、先輩にとっては迷惑かもしれませんが、一つ質問させてください」
離れた男子達には、その声は届くこともなく。
桜色の唇が紡ぎ出す言葉を、ただ一人七瀬だけが聞いている。
「私は、先輩と」
一拍の間があった。
「――またいつか、どこかで会えるでしょうか?」
かすかに上目づかいで、渚は言った。
頬をほんのりと染めて、浮かべているのは照れ臭げな表情のはにかみ笑顔。
地平線の向こうへと沈んで行く太陽が、その大きな瞳に映って、黄金色の宝石のように輝いていた。
「ああ……えっとね」
理由を付けるとするならば、目の前に立つ彼女の姿があまりにも可愛過ぎたから、だろうか。七瀬は自身の狼狽を隠しきれぬまま、右斜め下に目線をずらす。目の前のそれは、直視するにはあまりに眩しすぎた。
自然と胸が高鳴って行く。初めは、ゆっくり。そして次第に激しく。心臓が身体の中を縦横無尽に跳ね回っている想像をする。
――溶けてしまいそうだ。
所在無さげに、その右手がぶらぶらと揺れる。心を落ち着けるのに数秒、どう返すべきか考えるのにさらに数秒を要した。合計で十数秒の後、やがて七瀬はゆっくりと応えを返した。
「……会いたいと思っていれば、その人とはまた会える筈。それこそ、未来はこれから出来上がっていくんだからさ。運命とか奇跡なんてのは、所詮後付けの理由だよ」
そうであって欲しいという淡い期待も、もしかすると、そこには混ざっていたのかもしれない。
「だからきっと、僕らもまた会えるよ。いつかと言ったら、それはきっとペンタスの花が咲く頃かな」
「ペンタス、その花言葉は?」
「“希望が叶う”。五月くらいが開花時期だね」
渚はクスリと笑った。
「さすがです、先輩」
七瀬からも笑みが漏れる。胸のあたりがくすぐったくて、そのまま暫く笑い合った。
心地よいそよ風が二人の間を駆け抜けていく。渚の前髪を揺らし、七瀬の首筋を撫でていく。火照った体には丁度よかった。
向こうで渚の幼馴染たちが待っている。七瀬は手を上げてそちらを指差した。
「さ、渚ちゃん、そろそろ行かないと。友達が待ってる」
別れを促す。名残惜しさが、これ以上増大する前に。
「じゃあ最後に、もう一つだけいいですか」
なにかな? そう訊き返すと、渚は何故か一度深呼吸をした。そして何やら意を決したような風で、七瀬の目を真正面から見つめてきた。
「初めて会った時、私のことを柊に喩えてくれましたよね。私は先輩程植物に詳しくは無いですけど、私からも言わせてください。……先輩は、私にとってカスミソウのような人です」
「花言葉は“親切”、あるいは“清らかな心”かな。そう思ってくれて嬉しい。……覚えておくね。また逢える時まで」
応える彼の顔が赤かったのは、夕日以外の要因もあったのだろう。
未来がどうなるかは分からないが、今この瞬間の記憶は、ずっと心に留めておこうと七瀬は誓った。
「私も忘れません。今日の事は、忘れようと思っても忘れられないです」
渚は小さく頭を下げると、可憐な微笑みを浮かべた。それは彼女が、七瀬に初めて見せた時のものと同じ、春先の白スミレのような柔らかい笑顔。
――花が咲いたみたいだった。
「それでは、また」
「うん、またいつか」
互いに手を振り合う二人の影が、熱せられたアスファルトの上に伸びている。
長く長く、どこまでも。