幽霊屋敷徒然探検記(2)
リビングと二階とで迷った結果、二階から先に調べることになった。
そこに待ち受けているのはおそらく子供部屋。半螺旋状の階段に足をかけると、板が軋んで嫌な音を立てる。手すりは所々がささくれだっていた。不安感が二割増になった。
「足元、気をつけて。朽ちてるかもしれない」
「はい。先輩の方こそ」
先を行く七瀬が、振り向いて頷く。
幽霊の有無によらず、廃墟探索には危険が伴う。足板が突き抜けて落下、そして大怪我、なんていう事態も、有り得ない話ではないのだ。そうなれば少年達の捜索は二の次になるだろう。
一段一段を慎重に踏みしめ、安全であることを確かめながら、二人は二階への階段を上っていった。その先に現われたのは唐茶色をした木製の扉だった。洋風で、家全体の雰囲気とよくあっている。それなりに立派なものだった。だが今や、ドアノブのメッキは半分近くが剝がれており、その高級感は失われていた。
扉を開ければ、風圧で埃が舞い上がる。その先には予想通りの子供部屋。床には、これまたいかにも値の張りそうな絨毯が敷かれていた。
「ここの家族、結構金持ちだったみたいだね」
入りながら、部屋全体を見渡してみる。
窓を覆うように張られたカーテンは、かつては立派だったのだろうが、今はボロボロの破れかぶれとなっていた。部屋の奥の勉強机には、中学校の教科書が開かれたまま埃に埋もれている。『図形の合同』。証明問題に苦労したよなあと、懐かしさに唇が緩んでしまう。
部屋の角にあるのは、これまた立派なベッドだ。どうやらこの家は、子供のためならお金を惜しまないスタイルだったらしい。
掛け布団はひどく掻き乱された状態でほったらかしにされていた。近づいてみると、そこには強い力で引き裂かれたような跡が数か所見受けられた。
一見したところ、この部屋には誰もいないように思える。
だが。
「先輩、分かりますか」
「……何かいるよね」
二人の第六感は、この部屋のどこかに潜むナニモノかの濃密な気配を、たしかに捉えていた。
「ただ……場所までは特定出来ないな。渚ちゃんはどう?」
「私にもそこまでは……。すいません、役立たずで」
「そんなこと言わないで。僕だって分からないんだから、お互い様」
警戒のレベルを引き上げる。一目見まわして幽霊の姿が見えないという事は、きっと幽霊はどこかに隠れているのだろう。
頭の中で、怪しい場所をピックアップしていく。
「机の陰、クローゼットの中、あるいはどこぞの怪談みたいに、このベッドの下の暗闇の中。いるとしたらこの辺りかな?」
「覗き込んだ途端にやられそうですね。生憎、私は鎌で切られるのはお断りです」
「死因が鎌って、随分と世紀末な世の中……。とりあえず、簡単に部屋を調べてみよう。もしかしたら、この気配は渚ちゃんの友達かもしれないからね」
「分かりました。まずはこの下から――」
渚はその場にしゃがむと、ベッドの下に視線を向けた。
七瀬も同様に体勢を低くした、その時。
「ひっ……!」
小さな悲鳴と共に、突然渚は後ろへと仰け反った。
「……っと」
咄嗟に手を伸ばして彼女を支える。
緊張が走った。もしかすると本当に、何者かが潜んでいたというのか。
だが悪い予感とは裏腹に、ベッドの下から這い出て来たのは一匹のゴキブリだった。
渚はこれに驚いてしまったのだろう。確かに気持ち悪い見た目だが、一先ず害は無い。七瀬はホッと息をついた。
「……七瀬先輩」
それなりに勢いよく仰け反ったせいで、渚の身体は、七瀬に半ば抱き抱えられるような形になっていた。左手を背中に回されているその様は、まるで今からお姫様抱っこをされるかのようにも見える。
「どうしたの?」
「あの、受け止めてくださってありがとうございます。もう、大丈夫です」
それだけ言って、渚は立ち上がった。身体は七瀬の方に向けていたが、その視線は何故か、何もない左下の空間をさ迷っていた。
「うん。怪我がなくて良かったよ」
その後も、示し合わせた訳ではないが何となく二人で寄り添ったまま、室内を調査して回った。
その途中、不意に渚が床の一角を指差す。彼女の口から絞り出すような声が漏れた。
「先輩、あれを……!」
コイン大の赤黒いシミが、絨毯にポツポツと浮かんでいる。幾つも幾つも。微小なものまで含めれば、それはまさに数え切れない程。
ひしゃげた円状の形から、そのシミがどのようにしてついたのかを想像出来る。何かしらの液体が、至近距離から飛び散って作られたに違いない。シミの一部は壁にまで及んでいた。ふと嫌な想像が頭に浮かんで、七瀬は眉をしかめた。
「血、なのかな?」
「違っていて欲しいですね。ただの絵の具、ということは考えられないでしょうか?」
「それにしては周りに筆とかは見当たらないよね。仮に絵の具だとしても、壁にまで散るってことはそうそうないだろうと思うよ。よっぽど天真爛漫な創作でもない限りは」
「そもそも、絵の具で汚れたのをそのままにしておく筈がありませんよね」
「そうだね」
「じゃあ、やっぱり?」
七瀬が小さく頷いて、肯定を示した直後。それに呼応するかのように、部屋に据え付けのクローゼットの扉の向こうで、何かが動いて物音をたてた。即座にそちらを振り向く。
ゴトリ、という、何か重いものが動くような音だった。
「家鳴り……じゃないね。何かいるみたい」
「……開けてみますか?」
「本音を言うと開けたくは……ないなあ。中にいるのが探し人の可能性ってどれくらいだろう」
こんな所にいるわけがない、と普通ならなるだろう。だがここは幽霊屋敷。オカルト絡みの話なら、何が起きてもおかしくない。
しばらく躊躇していると、再びガタリという物音がした。これは「開けるな」ということなのか、それとも「開けろ」なのか。残念だが分からない。分かるのは、中に何かがいるということだけだ。
「開けてみようか。渚ちゃんは下がってて」
「大丈夫です。私も一緒に」
渚が七瀬の左横に並んだ。正面のクローゼットを、凛とした風で見据えている。すごい、と七瀬は思った。
自分なんか落ち着いているようでいて、内心ドキドキしっぱなしなのだから――ん?
「渚……ちゃん?」
いつのまにやら。彼女の右手が遠慮がちに、服の裾を掴んできていた。七瀬がそれを見ていると、気づいた渚はパッと手を離す。そして顔を赤らめて俯く。
「あ、あの、すいません。怖かったので、つい………」
――なんだ。
七瀬は笑った。冷静を装っていたのは、どうやら二人ともらしい。
「いいよ。実を言うと僕だって、内心怖かったからお互い様。だから服の裾くらいならいくらでも使って」
そう応えると、渚は七瀬の瞳をじっと見つめてきた。
「先輩……いえ、何でもありません」
「……?」
七瀬も見つめ返す。まばたきの向こう側に、かすかに潤んだトルマリン色の瞳が見える。
「あのほんと、何でもないんです。忘れてください」
そのままクローゼットの方に向き直ったので、七瀬も特に追及はしないでおいた。
二人が同じタイミングで生唾を飲み込んだ。一度深く深呼吸をして、激しく脈打っていた心臓を落ち着かせる。
「どうしてかな。今不意に、食虫植物を思い浮かべちゃった」
「……さしずめ私たちは、誘われて来たハエか何かですかね」
二人で取っ手に手をかけ、そしてひと思いに引き開けた。
「っ!」
案の定、と言えばいいのか。
そこには半透明の男の子が、体育座りでうずくまっていた。見た感じは中学生くらい。うつろな視線は戸惑うように、あるいは何かに怯えているように、あてもなく虚空を彷徨っている。
――安全、なのだろうか。
少なくとも、明確な悪意は無さそうだが。
二人が互いに頷きあって、そっと扉を閉め始めたその時。幽霊がこちらの存在を捉えた。直後、何かに取り憑かれたかの如く勢いよく立ち上がると、そのまま宙を滑るような動作で二人に向けて跳びかかってきた。
「っ! 危ない!」
それは咄嗟。まさしく本能的に。七瀬は渚の華奢な体を背中に庇う。
幽霊はそのまま彼と衝突した。そのまま身体を突き抜けて消えていく。包み込むような冷気と同時に、全身を台風が突き抜けていく感覚がした。
腰砕けになって、七瀬はその場に倒れこんだ。
「先輩!」
放心状態にある彼を渚が抱き起こす。
「大丈夫ですか、私のことわかりますか。柊の花言葉は何ですか」
「……“知見”、だね。大丈夫。ちょっとくらっとしただけ」
「――良かった」
彼女が安堵の溜息を漏らす一方で、七瀬は目を細めてある事を考え込んでいた。
「渚ちゃんは聞こえた?」
「え? 何がですか」
「あの男の子の、声」
それは先程、幽霊が彼の体を突き抜けていく時のこと。
その声はあまりにもか細くて、今にも消え入りそうなほど幽かだった。けれど確かに、あの子は七瀬に対して囁いて来たのだ。
小さく、短く。
“下に行って”と。