人形、再び
「後輩の話でもしよう」
七瀬が帰ってくるのを待つ間、理恵と三良坂はババ抜きをして時間を潰していた。
何故二人でババ抜きなのか? 仕方ない、他にすることが無いのだ。優秀な暇潰しアイテム、それがトランプである。神経衰弱、ポーカー、スピード、ブラックジャック。挙げ句には大富豪で手札のインフレを引き起こし。それでも七瀬が戻ってこないので、ついに二人ババ抜きに手を出したのであった。
「後輩ってのはつまり?」
「渚と七瀬のことだ。私ら共通の後輩なんてあいつら以外にいないだろ」
理恵の脇には二つのコップが置かれている。一つは空、もう一つは琥珀色の液体で満たされていた。湯気はもう当分前に立ち上るのを止め、上から覗けば、溶け残った蜂蜜が下の方で揺蕩っているのが分かる。
三良坂が二枚の手札で口元を隠し、試すような視線でこちらを見つめてきていた。あのどちらかがジョーカー。もう片方が勝利への一枚である。
使い込んだ自前のトランプなら、皺や折れ曲がった跡で判別出来たかもしれない。だが生憎、これは長年部室に放置された持ち主不明の品だった。
どちらを選ぶか迷っていると、三良坂はこれみよがしに片方を突き出してくる。何とも策士じみた真似をしてくれるものだ。だが……策士は得てして策に溺れる。
「あの二人ね。……何時くっつくと思う? 賭けでもしてみるかい」
「今にもゴールインしそうだが、永遠にあのままな気もするな。告白するタイミングを完全に逃してる。まったくもってじれったい」
「裏であれこれと手を尽くしたにも関わらず、ね」
「……気付いてたのか」
「何となくは勘づいていたさ。これでも意外に周りのこと見てるんだよ?」
くっくっく、と三良坂は忍び笑いを洩らす。
いらぬお節介かなとは思いつつ、老婆心で行ってきた数多くの手伝いを理恵は思い出した。渚にダンスの練習を頼まれたので、付き合い。デートに着ていく服を一緒に選び。半ば惚気け話と化した報告を聞いて、共に喜んだりもした。
あまりにも慎重で初々しい二人のやり取りに、見ているこちらまでむず痒くなってくる。人の不幸は蜜の味と言うが、彼らの恋愛譚も負けず劣らずだ。徹底的に蜂蜜を煮詰め、作り上げた、甘味の結晶のような感じがする。
「……ちょっと煮詰め過ぎたのかもしれないな」
あてもなく呟く独り言。
「料理の話かな?」
「……ったく、分かってて言ってるんだろ?」
意識をトランプに引き戻す。理恵の指が、差し出された手札の上を行き来する。
どちらがどちらか。
確率は五分五分だが、賭け事における五割は信用ならない。
「三良坂、お前はどうなんだ? いい巡り合いとか――何かしら」
「特には。……そんな話をして、揺さぶりをかけようって算段だね?」
「ふん、バレたか」
こっちかな、などと、カードを一つ一つ指差して鎌をかけてみる。ニヤリと笑って小首を傾げる以外の反応は返ってこない。
つくづくポーカーフェイスの上手い奴だ。
何気なく、壁の時計を確認する。
「……七瀬のやつ、やけに遅いな」
下で七瀬と別れてから、既に四十分近くが経過していた。
部室から体育館まではそれなりに離れている。とは言え十分もあれば往復出来る距離だ。返却と言ったって、受付に手渡すだけの筈。時間を使う場面など考えもつかない。
少し前に携帯のトークアプリでメッセージを送ってみたが、未だに反応は無し。
「あのまま帰ったとかじゃない?」
「……いや、荷物を置き去りにして帰りゃしないだろう」
「だよねぇ。何かあったのかな」
「ああ。多分大丈夫だとは思うんだが……」
昼間の大学だ。危険らしい危険なんてありはしないし、きっと何かに足止めをくらっているだけだろう。
そう考えてはみたものの、四十分というのはどうにも不安を煽る遅さだった。連絡の一つや二つ、合って良さそうなものなのに。
「……ちょっと電話してみるよ」
指をトランプの端に合わせ、直感に任せてカードを引き抜く。
そこに画かれていたジョーカーの下卑た笑みを見て、南 理恵は小さく舌打ちをした。
※
こと怪奇譚において、家は聖域だと思う。
廃墟やら何やら、所謂“そういう場所”で幽霊に遭遇するのは、まあ仕方ないだろう。彼らの領域だ。よそ者が入れば当然、千差万別の反応を投げ付けてくる。
だが家は、生きている人間の領分だ。安全な筈の空間だ。そこに怪奇が踏み入って来られたらどうしようもなく恐ろしいし……十中八九、そいつは録なものじゃない。
話を聞いた後、七瀬たちは状況を確認するべく渚のアパートを訪れていた。
昼間だからか、住人はその大半が出払っているらしく、人気の無いアパートは放課後の学校じみた静けさに包まれている。大学の喧噪がとても遠い所のもののように感じた。
「……何とかなればいいんだけどな」
いざ扉の前に立ってみると、緊張と恐怖が一気に湧き上がってくる。それを堪えて、七瀬はグッと拳を握りしめた。
何かいる。アパートの敷地に足を踏み入れた時点で、その事は直感的に分かっていた。そしてそいつの居場所が、渚の部屋であることも。
「……七瀬先輩。朝、家を出た時より、気配が強くなってます」
「どういう意味だろうね、それ。もしかしてそいつが戻って来てるとか?」
「そう……なのかもしれません」
声を震わせながら渚が応える。
「危なそうだったら、一旦戻りましょう」
「分かってる。去年の夏みたいな無理はもうしないよ」
「本当にお願いしますよ」
「大丈夫。僕を信用して?」
「元からしてます」
渚が鍵を開け、ドアノブに手をかけた。互いに頷きあってから、扉を少しだけ手前に引く。生じた隙間から二人は室内の様子を窺った。
玄関のすぐ横に洗濯機。そこから奥に向けて、流し台と冷蔵庫が廊下沿いに並んでいるのが分かる。戸が半開きになっていてはっきりとは見えないが、その先にあるのはリビングだろうか。部屋の間取りは至って普通のようだ。
「変なやつは……今のところ見えない、か」
遮蔽物を退かしたためか、感じる気配はより一層強くなる。意識を集中させ、直感でその出所を探し出す。
近くにいる。左……いや前方だ。ドロドロと粘つく念が、廊下という空白地帯を介して伝わってくる。胃の底から込み上がってくる吐き気を七瀬は必死に堪えた。
「先輩、分かりますか」
「うん。……あの先に」
そう言った直後、首筋がぞわりとそそけだつ。
相手からの念が強さを増した。気付かれている。無数の視線に四方八方から晒されているような気がして、全身から嫌な汗が吹き出した。
だが、向こうのペースに呑まれればそれまでだ。ハッタリでもいい。まずは落ち着かないと。
数度、大きく息を吸って、自分の心を落ち着かせる。
七瀬にとっては、ここはあくまで他人の部屋。だが渚にとっては唯一無二の自宅だ。不快感も嫌悪感もひとしおだろうな、と七瀬は思った。
「僕が先に行くよ。入ってもいい?」
「はい。……行きましょう、先輩」
応えて、その手が七瀬の服の裾を掴む。初めての出逢いから今に至るまで続く、お決まりの態勢だ。
一息で振り払えるほど貧弱な繋がりだけれど、こうしてくれるおかげで、自分は一人じゃない事を実感出来る。
玄関で靴を脱ぎ、一歩ずつゆっくりと、気配の源に向かって近付いていく。
「……何だろう。何か、違う」
「渚ちゃん?」
「ちょっと違和感があるんです。夜に会った時は気付かなかったんですけど、この気配、幽霊のものとは少し違うような」
「幽霊のものとは違う……か。何にせよもうすぐ分かるよ」
戸を開き、リビング全体を視界に収める。
入ってすぐ右にクローゼット。その隣に本棚が二つ。小説や辞書がきっちりと詰め込まれている。窓の近くではテレビがさりげなく存在感を発揮し、机の上ではノートパソコンが開いたままの状態で置かれていた。
綺麗な部屋だな。そんなことを考える。幽霊が出る物件と聞いて想像するような、ゴミや埃でぐちゃぐちゃに荒れ果てた空間とは似ても似つかない。多少、物が散らばっているくらいだ。
庇が外側に長いためか、真昼の今でも、日差しは部屋の中程までにしか届いていない。夕方になると光量が物足りなくなりそうではある。
一見、それらしい姿は無かった。視覚だけに頼るなら、ここはただの居心地のいい部屋として映るだろう。
だが……入り口から向かって右奥に置かれたベッドの上に、そいつはいた。
「先輩、これ――!」
渚の白い手が示す先。
“それ”がここにあることが信じられず、七瀬は息を飲む。
否応なしにあの時の記憶を思い出す。忘れようにも忘れられない。幸せに満ちていた筈のクリスマスイブを、不安の二文字で塗り潰していった存在。
あちこちがほつれ、薄汚れたその服は、打ち捨てられたボロ雑巾を思わせる。かつては持ち主を魅了した筈の微笑みも、今では不気味さのみを抱き。その裏側に潜む何ものかの意識が、そこに投影されているような気がする。
両の眼球を失ったフランス人形が、ゆったりと壁に背をもたれかけて、ベッドの上に鎮座していた。
「どうして、これがここに――?」
戸惑いつつも、七瀬は人形を睨み付ける。
こいつがいるなんて渚は一言も言っていなかった。どういうことか訊こうとして隣に目を向ければ、渚は目を見開いたまま身体を震わせていた。裾を掴む力が僅かに強くなる。
その様子にただならぬものを感じて、七瀬は人形から渚を隠せる位置に動いた。
「……朝には、なかったんだよね」
頭だけ後ろに向けて訊けば、小さな、けれどはっきりとした首肯が返ってくる。
――これは、予想以上に大事になりそうだ。
まさかこの人形は、自分たちを糸川丘陵公園からここまで追いかけてきたとでも言うのだろうか。そしてどうにかして渚の部屋に入り込み、彼女に危害を加えようとした? もしそうなら、何の目的でそんなことを? 自分ではなく彼女を標的にしたのは、いったい何故だ?
頭が混乱してくる。謎が謎を導き、ぐるぐると回って深みへと嵌まり込んでいく感じがする。
駄目だ。まずは、どこかで落ち着いて一度思考をまとめよう。それから次に、こいつをどうするか考える。その後は、何故この部屋に現れたのかも突き止めて――
「了解。……あー、そうだね、取り敢えず外に出よう。外に出て考えよう。ちょっと……予想外過ぎた」
一先ずは安全な場所へ。大学でもお洒落なカフェでも、取り敢えず人の気配があればどこでもいい。得体の知れない存在と同じ部屋にいるよりはずっとマシだ。
渚の肩に手を当てて、そっと、されど強引に玄関の方向へと促す。
外へ出て、後ろ手に扉を閉めると、緊張も少しだけ解れた。
「……よし。渚ちゃん、大丈夫だった?」
「……なんとか。人形を見た時は叫びそうになりましたけど……もう、大丈夫です」
「分かった。すごい顔色悪いけど……まあ僕も似たようなもんか」
あんなものを見て、すぐに笑えというのはちょっと無茶な話だ。
「これからどうしましょう。私は、どこか落ち着ける場所に行きたいんですが」
「同じ事を考えてたよ。今のままじゃ頭も回らない。適当な所で休みながら、今後の作戦会議といこう」
明るい内に片が付けばいいが……そう上手くいくだろうか。
きっちりと部屋を閉錠してから、七瀬たちはその場を離れた。悩んだ末に大学のカフェへ向かう。あそこなら、少なくとも人は多くいる筈だ。ましてや昼間の今なら、いかな怪異とてそうそう手出しは出来まい。
十分弱かかってカフェに着く。壁の時計は十三時を差しており、もうじき授業が始まるからか、客の数は思っていたよりまばらだった。パソコンとにらめっこしている者が数名、仲良くお喋りをしている者が数組。どこからかジブリの曲が流れている。
全体を軽く見渡した後、手頃な窓際の席に向かい合わせで腰掛ける。店員に適当な飲み物を頼んでから、七瀬はおもむろに口を開いた。
「まずは情報を整理しよう。渚ちゃんが何かに襲われたのは、昨日の夜。だけどその時、そいつは電気を付けるといなくなった。渚ちゃんは朝まで起きていたけど、変なことはそれ以上無かったんだよね。人形もなかった」
「はい。日が昇るまでずっと起きていたし、部屋からも出ませんでした。怖かったので電気とテレビを付けたままで。そしてそのまま大学に来て、先輩と遭ったんです」
「鍵は……間違いなく閉まってたね。そうなると、誰かが渚ちゃんのいない間に部屋へと侵入して、あの人形を置いていった、ってのは考えにくいかな」
合鍵でもあれば別だけど。そう付け加えた七瀬に、渚は首をはっきりと横に振る。
「部屋の鍵はこれ一つだけです。管理会社ならマスターキーがあると思いますが」
「まあ、流石にそれはないだろうね。ベランダから他の部屋に移れたりするんだろうか」
「ベランダは階ごとに共有されてます。ですが防火扉は破られていなかったので……」
「それもないか。もしかしたら外から梯子を使って……いや、無理だね。目立ちすぎて間違いなく警察を呼ばれる」
「ということは、誰かが私の部屋に入ったわけではなさそうですね。元からそんな感じはしていましたが」
「多分。取り敢えず超常的な何かが起きたってことにしよう」
「あとは……あの人形ですよね」
「……どうしたものかな、あれは」
危険なものであることは間違いない。渚の部屋にまで現れたことで、人形の危険度は七瀬の中で跳ね上がっていた。ましてや霊体だけでなく、実体を伴って侵入してきている。そこらの雑霊とは訳が違うのだ。
関係のありそうなあの“少女”の姿が、未だ見えていないのも気になる。
だがひとまず、目下の課題は人形の処分だ。
神社にでも持っていこうか。七瀬がそんなことを考えた時、ポケットの中で携帯が震えた。確認してみれば、液晶には南部長の番号が表示されている。
「もしもし? どうかしたんですか?」
『どうかしたんですか? それはこっちの台詞だよ。どこで道草食ってるんだ、紅茶が冷めちゃったぞ』
苛立ちを全面に押し出した仰々しい声色で、部長との約束を完全に忘れていたことに気付く。
「冷めても飲めるから大丈夫ですよ。すいません。ちょっと、急に大切な用が入ったので」
『だが冷めたら美味しくない。まあ、自分の荷物をほったらかすくらいには大切な用ってことだな』
「ええ。……そうですね」
無難な返答がすぐに浮かんでこず、お茶を濁すような応答になってしまう。自分の声が、いつもより固くなっているのが分かった。
『……その口調。あまりいい用事でもなさそうだが?』
沈黙を以て肯定に替える。電話の向こう側からガタガタという物音がした後、部長は遠慮がちに提案してきた。
『オーケー、取り敢えずお前の荷物を届けに行こう。三分で着く。動くなよ』
そして一方的に電話が切られる。まだ場所を教えていない筈だが……。
「どなたからですか?」
「部長。ここに来るから待ってろって」
まあ、分からなければ向こうから電話をかけ直すだろう。携帯を脇に置き、届いた紅茶を一口飲んだ。
しかし予想に反して二度目の着信は無く。しばらくして二人分の荷物を背負った南部長が、七瀬たちの前に姿を現した。
「金を払って飲むやつは、私が淹れたのより美味しいか?」
空っぽのカップを指して、ニヤリと笑ってみせる。持ってきてくれたショルダーバッグをこちらに渡してから、部長は渚の隣に腰を降ろした。
エスプレッソ一つ。メニューは見ず、通りかかった店員にそう伝える。
「部長。どうしてここだと?」
七瀬が訊くと、部長は人差し指を上に向けた。口ずさむ軽快なメロディーは、店内を満たしているものと同じ旋律だった。
「この曲。電話越しに聞こえたんだ。前に来たとき流れていたのを覚えていてな」
「探偵か何かですか?」
「耳のよさならシャーロックにも負けんぞ?」
怪奇談義は中断。務めて普段通りに振る舞う。
何かがあったことは部長も察しているだろう。察したからこそここにやって来たのだ。けれど余計な心配はさせたくないし、怪奇系のトラブルに部長を巻き込みたくもない。単なる痴話喧嘩とかならまだしも、今回の相手は明らかに危険なやつなのだ。
だから気持ちだけ貰って良い具合に誤魔化そう。部長には悪いけれど。
「あの、部長さん……!」
渚が会話を遮る。
「何だ?」
「部長さんはどうしてこちらに?」
「用事があったのさ。まず一つ、七瀬に荷物を渡すこと。そして今、二人の様子を見てもう一つ用事が出来た」
そこで一旦言葉を区切ると、南部長は七瀬と渚の顔を順繰りに眺めた。背もたれに身体を預け、細長い人差し指を唇に当てて四拍子を刻む。もう片方の手で茶色がかった髪をかき上げれば、漂うのはほのかに甘い柑橘系の香り。続きを待つ二つの視線に対して、部長は淀みない口調で応えた。
「お前らがそんなに思い詰めた顔をしてる理由、だ。何かあったんだろう。それも結構な大事が。迷惑でなければ――私に聞かせてもらえるかな?」
……こうまで言われては、話す以外の選択肢は無さそうだ。




