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徒然怪奇譚  作者: どくだみ
最終夜:怪奇譚の行く末
52/55

忍び寄るもの

 怖い夢を見た。


 夜中、ふと目を覚ました渚の脳内に、まず浮かんできたのはそんな思いだった。

 とてつもなく恐ろしい何かから必死になって逃げていた記憶が、頭の片隅に朧気ながら残っている。駆り立てられ追い詰められ、なりふり構わずもがいていた、そんな気がする。

 具体的に、何が追いかけてきていたは覚えていない。けれど捕まれば怖い目に合う、という確信はあった。

 夢らしく、感じていた焦りと恐れは現実以上に現実じみていて、けれどこうして覚醒した後だと、それはあっという間に忘却の彼方へと過ぎ去ってしまう。広げた手をいくら掻いても、朝方の霧を捕まえられないのと同じだ。

 部屋はまだ暗い。ならばもうちょっとだけ眠れるな、と渚は寝起きの頭で考える。

 一応、大学が始まるのは今日からだ。だが携帯のアラームが鳴っていないということは、起床までまだ猶予がある。

 布団の暖かみが実に心地いい。迷わずその身を委ね直して、渚は何気なしに寝返りを打った。


 目の前に、頭があった。


「……え」


 ベッドと壁の隙間から、人の頭が突き出ていた。

 明かりが無いためはっきりと詳細は見えない。だがそこにあったのは形からして確かに、豊かな髪を湛えた人の頭で。感覚に従うなら、それはこちらの方を向き、他ならぬ自分を見つめていた。

 すぐには事態を飲み込めなかった。

 理解が追い付かなかった。ある筈のないものが、あり得ない場所にある。

 今、見ているものが夢の名残でないなら、それはベッドの下に潜んでいて、首から上を外に出していることになる筈。だがベッドは……壁際にくっつけてあるのだ。頭も、首も、腕さえも入る隙間などそこには無い。

 どうなっているのか分からない。冷水をバケツでかけられたかのごとく頭が一気に冴えた。異質な存在に鳥肌が湧き上がり、渚は慌ててそれから離れようとする。

 しかし身体は動いてくれない。イメージでは、自分は既に布団をはねのけて、玄関の方にでも駆け出している。だが実際は、寝返りをうったままの状態で、悪夢から抜け出てきたような存在と対峙し続けていた。

 逃げれない。

 人生初の金縛りは、考え得る限り最悪の形でやってきた。

 頭の横から手のようなものが伸びてきた。蛇に似た動きで、渚の目の前を蠢く。

 数秒か、あるいはほんの一瞬の後、それが渚の右手首を掴み上げた。全身の血の気が、急速に引いていくのが分かった。


「ひ……!」


 心臓が止まった気がする。

 そこには生気も優しさもなく、あるのはただ死を思わせる冷たさのみ。

 喉に詰まっていた悲鳴が、堰を切ったように流れ出た。


「い、いやぁああぁっ!!」


 その直後、フッと身体の硬直が解ける。

 渚は必死になって布団から這いずり出た。闇の中、どこに何があるのか完全に不明だったが、とにかく逃げなくてはいけない。

 焦りと恐怖で、足がもつれる。バランスを崩して左腕と両膝を床に打ち付け、痛みで目の端に涙が滲んだ。後ろを振り向けば、そいつは真っ暗な部屋の壁と完全に同化してしまって、今どこにいるのかさえ分からなくなっていた。


 ――明かりを。まずは明かりをつけないと。


 照明のリモコンを探す。

 確か、昨夜このあたりに放り投げて寝た筈だ。

 記憶を頼りに床を探っていると、右手が何か硬いものに触れた。あった、と喜んだのも束の間、渚は勢い余ってそれを弾き飛ばしてしまう。見つけた希望はどこかへと行ってしまった。


「ああ、もう……!」


 嘆いたところでどうにもならない。

 背後はもはや振り向く気にもなれない。ベッドの下の隙間から、刻一刻と、じわじわと、得体の知れない怪奇が這いずり出てくるのが目に浮かぶようだ。

 もう、リモコンは諦めるしかない。

 渚は、壁に取り付けられたスイッチに縋ることにした。

 壁伝いに玄関の方へ。いつもの感覚を頼りにして、スイッチのありそうな場所を必死に探る。

 やがてその手が、明らかな凹凸を捉えた。


「っ! あった……!」


 ホラー映画だと、よくここで照明が壊れていたりするものなのだが、そんな事も無く。押せばすぐさま、白色の光が室内を満たす。

 振り向いたが、そこには何もいなかった。

 布団が乱れ、照明のリモコンが部屋の端に吹っ飛んでいる以外は、何の変わりもないいつもの自室だった。


「え、あれ……?」


 嫌な気配はまだ感じる。だから夢ではないのだろう。だがさっきまでと比べれば、気配は相当貧弱になっていた。何かがいるというよりは、その痕跡のような気がする。

 

 いなくなったのだろうか?


 何度か深呼吸をした。部屋の中を今一度見回してみるも、やはり不穏な影は見当たらない。

 それでも安心出来なかったので、念のため、渚は部屋中をくまなく調べて回った。

 クローゼットの中。何もいない。

 カーテンと窓の間。不安気な表情の自分が映っている。

 そしてベッドの下にも……怪異の姿は見当たらなかった。後で片付けようと思いそのまま放置していた、段ボールが折り畳まれているばかりだ。

 恐怖が安らぎかけたその時、右手首に鈍痛が走った。


「っ……!」


 寝間着の袖を捲り上げてみれば。何かから掴まれたのと丁度同じ位置に、どす黒い色の手形がある。

 渚は思わず息を飲んだ。それから両腕を肩に当て、込み上がる震えを何とか抑えようとした。

 一人でいることがとてつもなく心細く感じる。全身がすうっと冷えていき、どうすればいいのか分からなくなる。


 捕まえた。


 逃がさない。


 自身に刻まれた(しるし)が、沈黙の内にそう語りかけてくるようで――。


 ※


「結局、それから一睡も出来ませんでした」


 声には次第に不安が混じり、最後の方は途切れ途切れになりながら、渚は話し終えた。


「……そう、なんだ」


 七瀬は頭に手を当て、長い息をつく。


「取り敢えず渚ちゃんが無事でよかった。だけど……」


 手放しには喜べない。

 思った以上に事態は深刻そうだった。何か変なものを道端で見掛けたとかその類の事なら、ああ怖かったなの一言で済む。だが今回は、実際に渚が襲われているのだ。しかもその正体はまったくもって分からないときた。


「腕は、まだ痛むの?」

「触れば少しズキズキするくらい、ですね」

「……見た目よりはひどくないのかな。良くも悪くも普通のアザじゃあなさそうだし」


 渚の右手首に意識を集中させれば、うっすらとだが嫌な感じが伝わってくる。注意しなければ気付かないレベルだろう。しかしそれを抜きにしても、触るのを躊躇する程に、その跡は痛々しい。

 幽霊に掴まれた箇所がアザになっていた、なんて怪談話は、古今東西枚挙に暇が無い。墓場で掴まれ、廃墟で掴まれ、沼やため池でも掴まれる。けれどその治し方まで書いてあるものは、自分の知る限り皆無だ。

 役立たずな創作物め、と内心で呟きながら、七瀬は唇を噛む。

 取り敢えず彼女のアザには包帯でも巻いておくとして――今知らなければならないのは、彼女を襲ったモノの正体だ。


「渚ちゃんが襲われたその“何か”は、その時以降出て来てないんだよね」

「はい。……でも」

「でも?」

「何となくなんですけど……私は、これで終わるようには思えないんです。掴んできたってことは、私を捕まえるつもりだった訳ですよね。だから夜になれば“あれ”はまたやってくる。そんな気がして――」


 濡れ羽色の瞳が不安げに揺れている。

 出来ることなら、大丈夫だよ、と返したかった。

 けれど七瀬の考えも、渚とそれと同じだったから。安っぽい励ましの言葉は喉の奥深くで詰まって、永久に出てきそうにはなかった。


「……いくつか訊いてもいい?」


 そう言うと、渚は頷く。


「最近、どこか曰く付きの場所に行ったりした?」

「……どこにも」


 そうだろう。彼女はそういうタイプではない。危険へ片足を踏み入れることに興奮を覚えたりもしないし、降りかかる火の粉からは全力で遠ざかる。霊感はもてあますもの。自分と同じ、安全第一な人間だ。

 むしろそうであったからこそ、彼女との仲は今日に至るまで続いてきたのだ。


「付いて来られた訳じゃないのか……じゃあ、他に何か、思い当たることとか」

「……無いです。何も……何も無いんです……!」


 渚は首を強く横に振った。


「肝試しにも行ってない。石碑を倒したわけでもない。昨日は普通の、いつも通りの一日だったんです」

「なら、どうしてそいつは渚ちゃんの部屋に……? そもそもどうやって中へ入ったっていうの」


 日本の某都市伝説しかり、西洋の吸血鬼しかり。基本的にあの類のモノは、家主から招かれない限り中へ入ることは出来ない。家自体が結界の役目を果たすからだ。

 ただし、それでも例外はある。


「……南部長の時と、同じ感じなのかな」

「去年の、夏のやつですか」

「そう、たしか前に話したよね。あの時幽霊を呼び込んだのは、知らず知らずの内に出来てしまった合わせ鏡だった。渚ちゃんの部屋でも似たようなことが起きているのかも」


 完全な推測だが可能性は高いかもしれない。そもそもこれ以外の理由が思いつかない。

 外気に晒され続けて、手に持っていたミルクココアの缶はいつの間にか冷えきり。吹き始めた風が、二人の体温を少しずつ削り取っていく。


「戻って、確かめるしかないですよね」

「そうだね。それに渚ちゃんは、どうするにしたってずっと家に帰らない訳にはいかない」


 そう言えば、沈黙が返ってくる。

 渚は怖がっていた。

 家に戻ったとして、またそいつと遭遇したら? 明るくたって出る(・・)時は出るのだ。次はもっと恐ろしい目に会うかもしれない。逃げられないかもしれない。もしそうなれば……一体どんな目に遭うのだろう?

 何か安心させる言葉を掛けたかったが、七瀬はまだ、怪奇が己の領域に入り込んでくる恐怖を味わったことがない。おいそれと宥めることは出来なかった。

 どうするべきか考えに考えて。七瀬は意を決して静けさを破る。


「僕で良ければ……手伝うよ」


 きっと、そう多くの事は出来ないだろう。

 名のある霊能力者みたいに、颯爽と怪奇を祓うことは出来ない。

 魔除けの御札か何かを手渡して、渚に安全を届けることも出来ない。

 南部長の時も、自分一人では間違いなく返り討ちに遭っていた。

 本当に、自分には力が無いのだ。そんな事は自分でも分かる。嫌なくらいに実感している。

 だが、それでも……。


「前に言ったでしょ。“困っていたら出来る限りの事をしたい”って。何が出来るかは分からないけど――。だから……ね? お願い、そんな顔しないで」


 “放っておけない”。この気持ちは微塵も弱まりはしない。

 自分にも幽霊は見えるのだ。力が無いと言ったって、何の役にも立たないことは無いだろう。何の役に立つかはまだ分からないにしても。

 せめて心の支えくらいには……。そう思いながら、七瀬は渚を見つめる。沈黙が再び二人の間を満たした。

 こちらが言えることは全て伝えた。あとはそれを、彼女がどう受け取ってくれるかによる。遠慮されれば、迷いながらになるだろうが、一先ずは身を引こう。逆に頼られれば、時間でも何でも、持っている物はいくらだって費やしていい。


「七瀬先輩、それなら……!」


 そして何よりも。自分の好きな人には、笑っていて欲しいのだ。


「一緒に……来てくれますか?」


 懇願にも似たその問いに、七瀬は迷わず応えを返した。


「うん。元からそのつもりだったよ」

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