長い、長い夜
謎の人形に関して、七瀬はその一切を忘れることにした。
人形の正体や、人形があの場所に落ちていた理由は正直言ってとても気になる。だが、どれだけ頭を悩ませてみても、実物が手元に無い以上は何も出来ないのだ。
「下手に関わって向こうから寄って来ても嫌だし」
「触らぬ神に何とやら、ですね」
「うん。だから気にしないのが一番だよ。……多分」
嘘でも確信を口に出来ないのが自分の悪いところだ。
無視と放置は、今の自分たちが取れる最善にして唯一の選択である。行き着く先が望ましいものになるかどうかは……残念ながら不明だ。そうだと信じる他なかった。
体調に異常を来したとか取り憑かれたとかいうことは、今のところ起きていない。
「下手に気を病むよりも、僕はイルミネーションを楽しむのに集中しようかなってね」
怪異との遭遇からおよそ半刻。花畑をあとにした七瀬たちは、『陽の広場』へと続く坂道を下っている。
地平の彼方へと身を隠した太陽の代わりに、綺麗な月が中空へと踊り出ていた。天と地の区別無く、見渡す限りが薄闇に包まれている。
気温は低下し、手がかじかんで仕方ない。手袋をするなりポケットに突っ込むなりすれば、その問題は解決するだろう。けれど、今や七瀬の片手は渚のそれと繋がっている。一時の暖かみのために手放す気はさらさら無いのであった。
「なら私もそうします。もうすぐ点灯ですよね」
「だね。もうそろそろだと思うんだけど。……っと、始まるみたい」
鐘の音が遠くから響いてくる。
それは六時半の知らせにして、イルミネーション開始の合図だった。園内の電球が、入場口の方から順ぐりに点灯を始める。
最初の内は、一つ、また一つと。ある瞬間からは、堰を切ったかのごとく一息に。
まるで、一人の偉大な魔法使いが、公園全体に魔法を掛けていくかのようだった。
思わず、ほぅ、という感嘆のため息が漏れてしまう。
――これは、いい意味で想像以上だ。
光で出来た動物たちのシルエットが、次々と周囲に浮かび上がる。きらめき、またたき、彼ら専用のステージで、ここぞとばかりにその姿を見せつけてくる。
薄暗く、不気味とすら感じた夕刻の公園は、ものの数秒で別世界へと変貌していた。
幻想的な風景を堪能しながら、七瀬たちは『陽の広場』まで戻った。
クリスマスツリーも盛大に彩られ、目を見張るような光の奔流の中で、我こそが主役とばかりに存在感を放っている。
そこかしこにいるカップルらしき男女は、写真を撮ったり手を繋いで語り合ったりと、各々の方法で聖夜のきらめきを楽しんでいる。そのおかげか、ツリーの周りは他より温かい空気に満ちていた。
丁度そのタイミングで、ひゅるる、という特徴的な音が辺りに響く。テンション高めの渚に肩を叩かれる。
「先輩! 見てください」
彼女が指さした先では、一筋の火の玉が天空へ向けて打ち上げられていた。直後、火の玉は弾けて、黒地の空に大輪の花が咲き誇る。
パッと、世界が金色に照らされた。
「すごい。花火まであるんですね」
「うん。――僕も知らなかったよ」
視線が自然と、そちらへ吸い寄せられた。
丘陵公園の地理とイルミネーションの時間は、あらかじめ頭に入れてあった。だがこのイベントの存在は知らなかった。……ちょっぴりリサーチ不足だったらしい。
まあ、予期せぬ驚きと感動を渚と共有出来たのだから、結果オーライであるのだけど。
初発の残滓が消えていく中、後続が続々と打ち上がる。その勢いは破竹のごとし。開花の終わりは想像すら出来ない。糸川丘陵公園は、どうやら倹約の二文字をこの世から消し去りたいらしかった。
辺りを見渡すと、運良く空いているベンチが見つかる。
「座って見ようか? 渚ちゃん」
「はい」
渚が頷く。
隣り合ってベンチに腰を降ろし、背もたれに身体を預ける。狙ったのか偶然か、背もたれは花火を見るのに最適な角度だった。
花火とは実にはかないものだと思う。数秒程度の寿命を終えれば、またたく間に夜空へと溶けて消えるのだから。
けど、だからこそ……
「綺麗ですね」
七瀬の思いを渚が代弁してくれる。
散り際のサクラがそうであるように、物事の良さは終わり時に最も引き立つ気がする。仮に、花火がずっと空中にあったら。それはただの照明か、太陽の劣化版にしかならないだろう。
終わりがあるからこそ、人々はそれを慈しみ、執着し、そして永遠を希求するのだろう。今の自分がいい例だ。今日という日が終わって欲しくない。叶うなら、ずっとこうして彼女の隣にいたい。
締めはその日一番の大玉だった。打ち上がった火球から金色の光が弾けて広がり、さらにその先端が、パラパラという音を立てて線香花火のように燃え上がった。
弧を描いて落ちていく火花の軌跡が、空に柳を作り出す。
次第に、糸川丘陵公園に静けさが舞い戻ってきた。
「……終わったね」
万感の思いを込めて七瀬は呟く。
「終わりましたね」
「途中にあった星形のやつ、特にすごかったね。初めて見たよ」
「本当に。どうやってあんな形にしているんでしょうね」
「魔法か、それとも僕らには分からないプロの技術かな」
「魔法ということにしておきましょう」
「へぇ、何か理由でも?」
「その方が、ロマンチックだからです」
渚が小さく笑って言った。
「じゃあ、あれは魔法ってことにしよっか」
冷たいものが鼻先に触れた。真上を向けば、空気中が何やらきらめいている。
「雪だ」
天気までもがイルミネーションに参加していた。空の彼方から舞い降りてきた雪の結晶が、電飾の明かりを反射して、幻想的な景色に一層の彩りを加える。
花火の余韻が冷めやらぬ内にこれとは、完璧なタイミングである。
運命だろうか、それとも単なる偶然だろうか? もし運命ならこの上なくロマンチックだ。もし偶然なら、それを司る神様はずいぶんと演出上手だ。
意味もなく伸ばした手のひらに、雪の結晶が舞い落ちたかと思えば。まばたき一つの間にそれは溶けて消え、どこにあったかもわからなくなる。
冬が産み出した落とし子にとって、人肌はあまりにも熱すぎるのだ。
風が吹き、頭上で木の葉の擦れる音がした。何気なくそちらに目を向けると、擦れていたのは木々のそれではなかった。
枝の途中に、そこだけ緑が生い茂っている箇所がある。寄生植物の類いだろうか。葉の形からして、おそらくヤドリギ――
「――うん?」
――ちょっと待てよ。
記憶が確かなら、ヤドリギには二つの花言葉があった筈だ。
一つは『困難に打ち勝つ』。そしてもう一つは――『私に口付けを』。
いや、それだけならまだ問題ではないのだ。愛を唄う花言葉はそれこそ数えきれない程あるのだから。
重要なのは、ヤドリギにはこんな逸話があることだ――“ヤドリギの下で唇を重ねたカップルは、永遠に結ばれる”。
そしてこれを曲解して、創り出された言い伝えがもう一つ。
“ヤドリギの下では、男は女に口付けをしてもよい”。
全身が火の付いたように暑くなる。
実際に口付けをすることは、絶対にあり得ない。あり得る筈がない。だがそれでも、“そういう”意味合いがあるというだけで妙に意識してしまう。
自分が狼狽えるだけならまだいい。だが彼女にこのことを気付かれるのはよくない。座ろうと提案したのは自分なのである。
「先輩?」
このままでは、あわよくばを狙うキス魔認定されかねない。よろしくない。それはちょっとよろしくない。
「七瀬先輩? 上に何か――」
「あああぁ! 何でもない、何でもないよ渚ちゃん! ちょっと考え事をしてただけだから」
考え事。まあ嘘ではない。その中身は公表出来ないにしても。
挙動不審な返事に、渚は小さく首を傾げることで応えた。
明らかに不思議がられている。この微妙な空気を、何とかして打破せねば――。
「ああ、そうだ」
ある物の存在がふと思い浮かんだ。
「渡したい物があったんだ。ちょっと待ってね」
繋いでいた手をそっと離し、そのままショルダーバッグの中をがさごそと探る。
それはすぐに見つかった。というより、バッグの中身はそれと貴重品ぐらいなので、見つからない筈は無いのだが。
取り出すのは白無地の紙袋。一日中持ち運んでいたため若干皺が付いてしまったが、幸いにもどこかが折れ曲がったりはしていない。次第点だ。
どうぞ。そう言って七瀬は紙袋を差し出す。
「これは――」
「クリスマスには、やっぱりプレゼントが必要かなって。今日付き合ってくれたお礼も兼ねてね」
半分くらいは嘘だったりする。サンタクロースにかこつけて好きな人に贈り物をしたかっただけだ。
中身はワイン色のマフラーである。当初は手作りクッキーのつもりだったが、失敗のリスクを払拭仕切れなかったため、無難な品に決めたのだった。
眼を輝かせて渚は袋の中を覗き込む。直後、紛れもない笑顔が浮かんだ。七瀬は内心でホッと息をついた。どうやら"外れ"ではなさそうだ。
「ありがとうございます……! あの、今、ここで巻いてもいいですか?」
「勿論。それはもう渚ちゃんの物だからね」
「それでは、謹んで」
うやうやしい手つきで渚はマフラーを取り出す。
タグを外し、瞼を降ろし、ゆっくりと首に巻いていく。
そして最後に、ご満悦といった表情でワイン色の布に口元を埋めた。
「……すごく、嬉しいです」
「どういたしまして」
喜んでもらえたようで何よりだ。
色のおかげか、マフラーを巻いたその姿はいつもより大人びて見える。いつもとはまた違った魅力があった。よく似合っていると言って差し支えないだろう。少し地味かなと思ったが、何のことは無い、我ながら完璧なチョイスだ。
そんなことを考えていると、不意に渚が鞄へと手を伸ばした。数秒後その手は、七瀬があげたものと同じような紙袋を引き連れて再登場する。
これはもしや。
「……あの、後出しみたいになってしまうんですが、実は私もプレゼントを用意していまして」
「え」
「たいしたものじゃないですけど、もし良ければ貰ってください」
これはよく出来た夢か何かか?
本気でそう感じかけてしまったので、確認のため手の甲をつねる。痛い。すなわち、これは夢ではない。
全身が歓喜に震えていた。紙袋を受け取る両手は小刻みに震え、喜びを超えた喜びで頭はいっぱいになる。
どんな言葉でこの気持ちを伝えればいいのだろう。
どんな言葉なら、この感謝を余すこと無く届けることが出来るだろう。
考えて考えて、けれど何も思い浮かばず、結局口にしたのは誰にでも言えるようなありきたりな五文字だった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「……中、ここで見てもいいかな」
「勿論です。それはもう先輩の物ですから」
指先に固いものが触れる。取り出してみるとそれは小瓶だった。サイズは手のひらにすっぽり収まるくらい。コルクで詮がしてあり、中には七瀬が見慣れた植物の茎が入っている。
「こういうの、ポプリって言うんだっけ」
「はい」
「中のタイムは……部室で育ててるやつかな?」
「はい」
どう考えても渚の手作りであった。
一ヶ月前、部室で交わした会話が脳内によぎる。
まさかあれが伏線であったとは。てっきり料理か何かに使うのだとばかり思っていたため、これは予想外だった。
その容量からして、採取したタイムのほぼ全てがポプリの素材と化した筈である。つまりそれは、他ならぬ自分へのプレゼントのためだけに、彼女が手間隙をかけてくれたということで。
――こんなことなら、自分も手作りの何かにすれば良かった。
七瀬は内心で天を仰いだ。
彼女だけが手作りで、自分は市販の物だなんて、手抜きをしたみたいではないか。
勿論、物よりも気持ちこそが大切だというのは承知している。だがそれはそれとして、好きな女性には自分が受け取った以上の好意を返したいし、色々と見栄を張りたかったりするのだ。
足りない分は、感謝の言葉で補う他ない。
「……すごく嬉しい。ずっと大切にする」
両手でポプリを包み込み、胸元に押し当てる。
暖かい。瓶自体は冷えきっているけれど、それはこの上なく暖かい。
「家に飾るよ。出かける前にはいつも香りを嗅ごうかな」
「いえ、そこまでされなくても」
「だってそれくらい嬉しかったんだもの」
「……ありがとうございます。ただ……」
「ただ?」
「嬉しさだけなら、私も先輩には負けてませんから」
斜め下に視線を向けながら、渚は続ける。
「先輩が喜んでくれた分と、先輩からプレゼントを頂いた分。一たす一は二なので、私の勝ちです」
その瞬間、七瀬の中で何かのスイッチが入った。
「それを言うなら僕だって。渚ちゃんが喜んでくれた分と、渚ちゃんからのプレゼント。でもってさっきの台詞。合計三だよ」
「今の台詞は私にとって二の価値がありました。合わせて四、やっぱり私の勝ちです」
「その言葉、そっくりそのまま返すよ。これで五対四だ」
いや僕が。私が。照れ臭さのせいでムキになった。お互いが引き所を見失い、終わりの見えぬ、不毛なやり取りを延々と続ける。
そしてある瞬間。ふと我に返った二人はその馬鹿さくだらなさに気づき、同じタイミングで吹き出してしまった。
「もう、これじゃあきりがないですよ」
「ふふ。それ渚ちゃんが言えた台詞?」
これまでにないほど柔らかな空気が、二人の間に揺蕩っていた。
意味深な沈黙。頬を弛めたまま、お互いに見つめ合う。
渚の、普通の人よりかは幾分か長めの睫毛に、雪の結晶が引っ掛かっていた。
自分が吐き出した息は、周囲の灯りを反射してキラキラと輝き。渚のそれと混ざりあった後で、横へと流されて消える。
――今なら、言えそうな気がする。
「ねぇ、渚ちゃん」
滅多に出さないような本気の口調に、渚も何かを感じたようだった。神妙な面持ちで上半身をこちらに向け、手を膝の上に落ち着かせる。
きっと彼女は、これから自分が言おうとしていることなんて見透かしているだろう。
「僕は」
以前、友人からこんなことを言われた。
たとえ失敗しても『これからも友達でいてね』なんてほざいて場を気まずくしてはいけない。些細なことのように笑い飛ばして、何もなかったかのごとく振る舞えばいい。そうすればその後も仲良くしていけるだろう。
正しいとは思う。理想だとも思う。
けれど、参考にはなりそうもない。失敗を軽く笑い飛ばす――きっと自分には不可能だ。それくらいに、自分は上川 渚という女性にのめり込んでしまった。
「僕は、渚ちゃんのことが」
『ねぇ。お兄さんたち』
「好――え?」
さえずるような声が告白を遮る。
そちらを向けば、七瀬たちのすぐ近くに、金髪の少女の姿があった。
「は、え?」
予期せぬ出来事に戸惑ってしまう。
この子は誰だ? いつからそこにいた? ついさっきまで、自分たちの周りには誰もいなかった筈だ。一体いつの間に――
「先輩の知り合い……ですか?」
怪訝な表情で渚が訊いてくる。
「いや、違う。渚ちゃんの知り合いじゃないの?」
「違います。心当たりすらないです」
「じゃあ、この子は……?」
少女に視線を走らせる。その服装はお世辞にも整っているとは言えなかった。白と青を基調にしたそれは、見た感じドレスのようだが、汚れ、擦り切れ、半ばぼろきれと化しつつある。
ボサボサの金髪が額まで覆い被さり、夜ゆえに生じる視界の悪さと合わさって、少女の口元から上を窺えなくしていた。可愛いというよりは不気味な印象だ。
「迷子、かもしれません」
渚が立ち上がる。少女の前でしゃがみこみ、目線を同じ高さに合わせた。
「どうしたの? お母さんかお父さんはどこ?」
『…………しょう?』
「……?」
正直なところ違和感しか覚えない。迷子と言ったって、それにしてもみすぼらし過ぎやしないだろうか。これじゃあ浮浪児もいいところだ。
この子の容姿が、花畑で遭遇した人形と良く似通っているのも気になる。
漠然とした不安を抱きながら少女を観察する。その足下に目を向けたとき、七瀬は思わず息を呑んでしまった。
少女は何も履いていなかった。
凍えそうなほど寒いこの夜に、少女は靴下すら履かず、素足で地面を踏みしめていたのだ。
信じられない光景が、七瀬の頭にある疑惑を浮かばせる。
――この子は、本当に生きている人間なのだろうか?
『…………、しましょうよ』
「……うん? ごめんね、お姉さんよく聞こえなかった」
猛烈に嫌な予感を覚えた七瀬が、立ち上がって渚を引き戻そうとした時だった。
「もう一回言って――」
怪異特有の気配が少女から立ち上る。
その腕が唐突に持ち上がった。そして七瀬が動くよりも早く、両側から挟み込むようにして渚の頭を掴んだ。
「……!」
声にならない声が唇の隙間から漏れる。氷の中に閉じ込められたかのようだった。鳥肌が立ち、全身の産毛がそそけ立つ。
危険だ、と直感が警笛を鳴らしていた。
こめかみに抱く焼けるような感覚。背筋を貫く刺すような冷気。本能的な少女への恐怖と、想い人が脅かされていることへの焦燥が、七瀬の思考を一息の内に呑み込んでいく。
咄嗟には動けなかった。
動かなければ。このままだと彼女が危ない。そう、頭では理解しているのだ。なのに怯え竦んだ身体は、金縛りにあったかのように硬直し、言うことを聞いてくれない。
『ありがとう』
鼻の先が触れあってしまいそうな程に、渚と少女の顔が接近する。
少女の顔は渚に隠れ、ここからは窺えない。渚の身体が大きく痙攣した。その明白な拒絶反応が、七瀬を突き動かす。
突っ立ってる場合じゃない。
「渚ちゃん!」
彼女の手を掴んで思い切り引っ張る。と同時に、渚は身を捩って逃れようとした。拘束は存外すぐに解かれた。
細身の身体が反動で倒れ込んでくるのを、七瀬は抱き止める。
「あ……あぁ……」
彼女の手が、何かすがり付く物を探すかのように差し伸ばされた。
迷わずその手を取る。これ以上ないほど弱々しい。
「こいつ、渚ちゃんに何し――」
『じゃあ、二十数えるね』
少女は七瀬を無視し、そう呟いた。
口元に笑みが浮かぶ。醜悪で、この夜の空気よりも冷たい笑みが。
本能的に身構える。だが、少女がそれ以上何かをしてくることは無かった。背を向けて走り去り、そのまま宵闇と人混みの中に姿をくらます。
後には、訳の分からないまま立ち尽くす七瀬と、その腕にしがみついて小さく肩を震わせる渚だけが残された。
いなくなったのだろうか。
注意深く辺りを見渡すが、少なくとも視線の届く範囲に少女の姿は無い。嫌な気配も、今はもう感じない。ひとまずは息を付いてもいい筈だ。
「渚ちゃん。……もう大丈夫。いなくなったよ」
恐る恐る、渚は視線を持ち上げた。
瞳には涙が満ち、両手は小刻みに震え。乱れた息遣いがその動揺を如実に物語る。普段は冷静な彼女がここまで怯えていること、それ自体がもはや異常と言ってよかった。
「何があったの」
渚が落ち着きを取り戻すまで待ってから、七瀬はそう訊いた。
「……あの女の子、目が無かったんです」
「目が?」
「目の、目のある所に真っ黒な穴が空いていて。 でも、その奥にやっぱり目があって……!」
途切れ途切れの説明は要領を得ない。
「大丈夫。大丈夫だから、落ち着いてもう一度話してくれる?」
空いている方の手で、再びパニックになりかけた渚の背中をさする。渚は何度か大きく肩を上下させた。そうして呼吸を整えてから、ゆっくりと、自身が見た恐ろしいものについて語り始めた。
「目が、無かったんです」
「うん」
「目のある所には、えぐり取られたみたいに、黒い穴が空いてました。けど――」
息継ぎ、一回。彼女の唇はまだ震えている。
「穴の奥から、視線を感じたんです。目なんてないのに、見られてるって感じたんです」
「目なんてないのに、ね……」
額面通りに受け取ったのでは意味不明な内容だ。かと言って比喩である訳もない。気のせいで済ますのはあまりにも脳天気すぎる。
彼女は本当に、ある筈の無い視線を浴びたのだろう。得たいの知れぬ存在から、至近距離で。
自分の何倍も何十倍も、恐ろしい思いをしただろう。
「七瀬先輩」
「何?」
「あの女の子……花畑の人形に、似てませんでしたか」
「そうだね。怖いくらいに似てた」
最も気になる点の一つだった。類似は必ずしも両者の関係を保証するものではない、と分かってはいるのだが。あれだけ酷似した二つの怪異がさして間を置かずに現れたのだ。関係無いと考える方が不自然だ。
「二つが同じ存在だった……ってのは有り得るかな」
「もし同じだとしたら、私たちはどうなるんでしょう。それに、あの『二十数える』って」
「言葉通りに受け取るなら、多分カウントダウンだろうけど」
少女が立ち去ってから、二十秒はとっくに経っている。
今のところは何も起きていないし、起きそうな兆候も見当たらない。周囲は変わらず七色に輝き、恋人たちが愛を囁き合っている。気を張り詰めている自分たちを除けば、いたって普通の光景だ。
だが一方で、あれがただのこけおどしだったとも思えない。意味の無い意味深な発言は人間の特権。怪異の放つ文言には何かしら意味がある筈だ。
じゃあその意味はと問われると、これといった答えは出てこず。
「よく分からないな」
結論を言えば、全てがその一言に集約してしまうのだった。
「今日は、もう帰ろう」
時間はまだまだ余っている。だが、今からイルミネーションを観て回ろうという気はもはや皆無だ。いつまた怪奇が自分たちの前に現れるかと思うと、そんな余裕は夜闇の彼方に消し飛んでしまう。
期待と、興奮と、幸福を抱いて臨んだ聖なる夜。それらは丸ごと不安に塗りつぶされて、七瀬たちは丘陵公園を後にする。
光の速さで過ぎるかと思われた、その夜は。予想に反して、長い長いものとなりそうだった。




