Dancing Queen
後日七瀬たちは、残った謎についてあれこれと想像を巡らせた。
主な中身は、最後に聞こえた正体不明の機会音声についてだ。
いくつもの説が生まれては立ち消え、飲み物を片手に二人は頭を悩ませた。そうしてついには、あの建物自体が一つの巨大な怪異だったという結論に達した。
長年使われた品物には魂が宿ると言われている。所謂付喪神というやつだ。それと同じ理屈で、あの建物にも何かしらの魂が宿ってしまったのだ。
普通なら、出来上がってからたかだか数年しか経過していない建物にそんな事は起こらないだろう。
そう、普通なら。
あそこには霊道が通っていた。それはすなわち、建物全体がより“あちら側”に近い環境にあったということだ。
無数の幽霊たちから何かしらの影響を受けた可能性は否定出来ない。
荒唐無稽に聞こえるかもしれないが――家に宿る神様だってこの世にはいるのだ。魂の憩う器が少しばかり大きくなっただけと考えれば、あり得ないこともない。そんな気がする。
付喪神と霊たちの関係は、決して悪くはなかっただろう。アリの巣に仮暮らしをする蝶の幼虫、あるいは魚の巣を間借りするエビのように、平和な共存関係を築いていた筈だ。だがある日突然、不運な置き忘れによって霊道が封鎖され、限りなき数の魂が建物へと流れ込み始めた。
それを元へと戻すために、付喪神が七瀬たちを取り込み、霊たちに案内をさせた――これが、考えに考えた末に出した仮説だ。彼らが妙に親切だった理由も、一応説明が付く。
この説を確かめる手段は、今のところ無い。
そしてもちろん。わざわざ確かめに行こうとも思わない。
※
ついに運命の日がやって来た。
大袈裟に聞こえるかもしれないが、七瀬にとっては間違いなく運命の日だった。
九鳥大学映画研究会、自作映画エンディングシーン撮影日。つまりは渚とダンスをする日。
前日の夜はなかなか眠れなかった。高揚と不安にさいなまれて意味も無く部屋の中を歩き回り、ベッドの上でゴロゴロと転がった。そういう訳でいかんせん寝不足気味なのだが、目はこれ以上ないほどに冴えている。
中央体育館の入り口で、渚を待っている七瀬の目の前を、参加者たちが次々に通り過ぎていく。
その内訳は実にはっきりとしていた。
まず、明らかに恋人同士であろう男女のペアが全体の六割。
次に、好奇心半分で友人と連れ立って参加したであろう、同性のコンビがおよそ四割。
そして性別は同じながらも、どこかカップルじみた雰囲気を漂わせている者が少数ながらいる。
だが正直なところ、他人の様子など七瀬にとってはどうでもよかった。それよりも上手く踊れるかどうかの方が心配だ。
緑店長がコーチをしてくれたおかげで、何とか形にはなったものの。一つ一つの動作はお世辞にも優雅とは言えない。練習でそれだから、本番はもっとひどくなる筈である。
踊るのが下手だからといって、撮影そのものに影響が出るわけではないだろう。ただ、撮影なんかよりも渚がどう感じるかの方が七瀬にとっては重要なのだ。
――ダメだ、緊張する。
落ち着こうにも落ち着けない。
人混みの中に渚の姿を見つける。直後に目があって、七瀬が小さく手を振ると渚も同じように手を振り返してくれた。
「すいません、少し遅れました」
「大丈夫。僕も今来たとこ」
渚が身に纏った白のカーディガンと薄青色のロングスカートは、透き通るような青空を思わせる。七瀬の好きな色合いだった。ふわりとした髪と柔らかな微笑みによく似合っている。
腕時計を見て七瀬が言う。
「丁度いいタイミングじゃないかな。そろそろ時間だし。足はもう大丈夫なの?」
「はい。見ていてください」
完治したことを示すために、左足を軸にしてクルリと一回転してみせた渚から、柑橘系の甘い香りが漂ってくる。
意図せぬ誘惑に少しだけ理性をくすぐられた。けれど、元気であるのは良いことだ。
「この通りです」
「言うこと無しって感じ。今日はどうかお手柔らかに」
「周りと比べて見劣りしないくらいには頑張りますよ」
弾んだ口調の返事に七瀬も覚悟を決めた。
ここまでくればもうどうにもならない。無様な姿を晒さないよう精々全力を尽くすとしよう。
「さてさて。二人とも準備は万端かな?」
声のした方向に振り向いてみれば、そこには三良坂副部長の姿がある。
七瀬たちがダンスをするきっかけを作った張本人だ。副部長自身は友人と踊ると言っていたので、七瀬と比べて明らかに余裕の度合いが違った。
「万端なように見えますか?」
「ああ……どうやら二人とも、だいぶ緊張しているようだね」
「副部長から見て分かるくらいには緊張してます」
「リラックスリラックス。身体が固まっていたんじゃあ動こうにも動けない」
タクトのように指を振りながら言う。
「大丈夫。所詮エキストラだから、多少ミスをしたところで撮影に支障は出ないさ。まあ……」
パチリとウインク。その口元に浮かんでいるのは意味深な笑み。
「ダンスのお相手に情けないところを見せるくらいで済むとも」
「……意地悪な人ですね」
そう言われると余計に意識してしまうではないか。
「何のことかな?」
三良坂副部長はわざとらしく肩をすくめてみせた。
「ま、深いことは考えず楽しめばいいと思うよ。それこそ、“ダンシング・クイーン”みたいにね」
※
『皆さん、本当に申し訳ありません――!』
体育館全体を見渡せる二階部分の廊下で、映研の関係者らしい丸眼鏡の男性がいきなり頭を下げたとき、その場にいた全員が何事かと耳を傾けた。
彼曰く。事前に大学へ提出した体育館の使用申請に間違いがあったらしい。本来なら余裕を持って二時間半を確保している筈だったのだが、蓋を開けてみれば使える時間はほんの三十分程度。不幸にも後がつかえているため、今からでは延長も出来ないそうだ。
『僭越ですが、ダンスをぶっつけ本番ということにして、撮影を続行する所存です』
メインホールにざわめきが満ちていく。予定時間の八割と、豊富な練習の機会が消し飛んだのだからその動揺ももっともと言えよう。お手本動画を使って独学でダンスを身につけてきた者など、ほとんどいないに違いない。七瀬だって、緑店長の助けを借りなければ形にすらならなかっただろう。
『踊れない方は、手を繋いでクルクル回るだけでも結構ですので、お付き合いくださればと……!』
飛び出してきた苦肉の策。何が何でも今日やるという鋼の意思を感じる。きっと彼らもスケジュールが厳しいのだろう。
まったくもって予想外の展開に、渚と七瀬は顔を見合わせた。
「……どうしようか」
「どうしましょうか」
「一応、お手本動画の振り付けは練習してきたんだ」
「私も練習してきました。少しだけ、ですが」
二本の指でコの字を作って、“少しだけ”を強調してくる。
無難な案を取るのなら、周りに合わせる風見鶏でいればいい。あまり練習をしてきていないであろう大多数の人々が、わざわざ踊るとも思えないので、七瀬たちも必然的に“手を繋いでクルクル回る”ことになる。
さすれば失敗は起きないだろう。
だが果たして、自分はそれで満足するだろうか?
遡ること二週間前から今日に至るまで、裏で必死になって練習し、心の準備も何とか済ませてきたのだ。なのにこのままでは尻切れトンボで終わり、せっかくの努力が意味を失ってしまう。
そして何よりも。好きな人と踊れるなんていう一世一代の機会を、みすみす捨てられる筈が無い。
「僕は踊りたいな。足を引っ張ることになるかもしれないけど、それでも」
断られそうな気もしたが、渚の反応は予想以上に好意的だった。
「先輩がその気なら、私も踊らない理由はありません。私だってこの日のために、部長さんに頼んで練習してきたんですから」
「え、そうだったの?」
驚いた。まさか南部長が一枚噛んでいたとは。大抵の事をそつなくこなしそうな印象はあるが、ダンスもその守備範囲に入っていたのは知らなかった。
「そうですよ。時間のある時、先輩には秘密で」
渚が手を差し出してくる。彼女から見て、右を上に、左を少し下に。そしてかすかに首を傾げる。
「シャル ウィ ダンス?」
何だかんだ彼女もノリノリだ。迷わずその手を取って、七瀬は応えた。
「シュア」
――願わくばミスをしませんように。
『始めますよー! ぶつからない程度に広がって! 皆さん準備はよろしいですか?』
急かし気味の開始宣言を受けて、集まった人々が慌ただしく散らばっていく。幸いにも体育館は、全員がのびのびと動けるに十分な広さを備えていた。派手に動き回らなければ追突の心配もないだろう。
『撮影した映像はのちに加工され、別の映像と合成されて映画のエンディングシーンとなります。当日はどうぞご贔屓に。それでは、レッツ、アクション!』
いよいよだ。
天井のスピーカーから流れるワルツの三拍子が、両耳の鼓膜を揺らした。視線で渚に合図を送る。小さな首肯が返ってきたのを確認してから、七瀬はそっと、パートナーの軽やかな身体を導き始めた。
二人の動きは、最初の内はどこかぎこちなく、されど互いの歩幅を知るにつれて、次第に滑らかになっていく。
一、二、三。緑店長直伝のリズムを口ずさみながら、前へ、後ろへ。
夕暮れの渚に寄せては返すさざ波の如く。高鳴る心臓の鼓動に合わせて、床板に刻むのは妖精のステップ。
スッと片方の手を持ち上げれば、渚が華麗に一回転を決めて。
そこは二人だけの世界。彼女だけしか眼に入らない。その他の有象無象はおしなべて波に拐われ、どこか遠い所へと流されて消える。
夢を見ているようだった。
一時の魔法の時間はあっという間に過ぎていく。気付けば演目は終演へと向かっており、伴奏のボリュームも小さくなっていく。
このままずっと踊っていたい気持ちとは裏腹に、七瀬の身体は練習の通りに動いた。
ピアノが最後の一音を奏でると同時に、二人は絡め合っていた手を離す。一歩だけ後ろへ。相手への敬意と感謝を込めてお辞儀を送った時、丁度、空気に残っていたメロディーの余韻が消え去った。
やり切った。練習の時より、何倍も上手く。
『……ブラボー!』
映研の男性が感極まった声を上げる。
七瀬も全く同じ思いだった。
※
「――控えめに言って最高だった。流石は渚ちゃん」
撮影がお開きになって、七瀬の口から真っ先に飛び出てきたのは賞賛の響きだった。
互いの息を合わせることがダンスでは最も重要とされている。独りよがりでは上手くいかない。踊りの最中、七瀬は渚を置いてぼりにしないよう終始気を付けていたが、それはつまり、彼女の方も同じだけの気配りをしてくれていたということだ。
「ありがとうございます。でも……ちょっと、大袈裟ですよ。私は先輩に合わせるだけで必死で」
「大袈裟に聞こえる? 一応僕の本心から出た言葉なんだけどな。練習は少しだけだって言ってたけどさ、あれ嘘でしょう」
少なくとも自分と同等か、それ以上の時間を費やしてくれたに違いない。そうでないなら、きっと彼女はダンスの天才か何かだ。
「さあどうでしょう? "少し"の基準は人それぞれですから」
胸の膨らみに手を添えて渚は応えた。小悪魔じみた天使の微笑みが、目の前で花開く。それは七瀬の心臓を一直線に打ち抜いた。
こんなに尊いものを間近で拝めるなんて、前世の自分はいったいどれだけの善行を積んだのだろう。
「先輩だって、一つ一つの動作がすごく手慣れていたじゃないですか。"一応"の域を超えてますよ」
「今回はたまたま上手くいっただけだよ。まあ、どこまでが"一応"に入るかは人それぞれだけどね?」
ささやかな意趣返し。数秒間の沈黙が後に続いて、そして二人は同じタイミングで小さく吹き出してしまった。
「そこのお二人」
ふいに、背後から声をかけられた。
肩越しに振り向く。
見覚えのある丸眼鏡の男性が、人懐こそうな笑みを浮かべて立っていた。
「貴方は、たしか二階から指示を出していた」
「映研会長の日比谷といいます。ちょっとお伺いしたいことがありましてね。今お時間をもらってもよろしいでしょうか?」
「時間? はあ……。まあいいですけど」
映研のトップが、たかだかエキストラの自分たちに何の用事だろうか。
日比谷は丸眼鏡をくいっと持ち上げてから、七瀬たちを指さした。
「率直にお訊きしましょう。二人とも、映研に入るつもりはありませんか?」
「映研に? えっと、それはどうして僕らなんです?」
「いえ、上から全体を眺めていたとき、ふと貴方たちに目が惹きつけられましてね。互いに信頼し合った以心伝心の動きをお二人の間に見たのです。それが構想中の自作映画に雰囲気がピッタリだったんですよ。是非スカウトしたいなと」
「あ――、なるほど」
誘い自体はありがたい。信頼とか以心伝心とかいう言葉も七瀬としては嬉しい。
だが了承するかはまた別の話だった。七瀬自身、映画を観ることは好きだが撮ることにさほど興味は無いし、スクリーンの花形を飾るのはどう考えても荷が重い。そして何より話が突然すぎる。
「すいません。僕はもう文芸部に入ってますし、二つを掛け持ちできるほど器用じゃないので」
「私も遠慮しておきます」
渚も七瀬に続く。
「そうですか。残念ですがそれなら仕方ありませんね。突然こんなことを訊いて申し訳ない」
日比谷は気を悪くした様子もなく、罪悪感を抱かせない快活さで何度も頷いた。
「いやぁそれにしてもお上手でしたよ。お互いに相手へ合わせようとしていて。お二人、実に素晴らしいカップルなのですね」
一拍の間ののち。
「か、かっ……!」
喉をつまらせたような声を上げて、まず初めに渚がショートした。
カップル……私と先輩が……カップル……、と壊れた機械のように同じ言葉を繰り返す。
一方の七瀬はといえば、全身から謎の汗が噴き出してきて、返す言葉を見失ったまま斜め下を向き黙りこくってしまう。
「え、どうかされましたか?」
「……あの、実は僕たち、付き合っている訳ではないんです。彼女は同じサークルの後輩で、それで」
しどろもどろになりながら何とか応えを絞り出した。
「付き合ってな……は? え、あ――……それは失礼を致しました。では、私はこれにて」
何かを悟った表情で日比谷はその場を立ち去ろうとした。だが何を思ったのか、途中で立ち止まって、おもむろに七瀬たちの方に振り返る。
そしてとどめの一撃を放った。
「……お似合いでしたよ?」
「へっ!?」
情けない声。その意味を七瀬の脳が処理するよりも早く、日比谷の背中は人混みの中に消えていく。
後に残されたのは、思考の停止した大学生が二人。
その目の前を、つがいのアゲハ蝶二匹が踊るような軌跡を描いて通り過ぎていった。




