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徒然怪奇譚  作者: どくだみ
五夜:心霊スポットへの招待
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帰路

 特に何事もなく自動ドアを抜けた先には、見慣れた駅前の景色と無限の蒼穹が広がっていた。

 そこが現実であることを示すのは、ゆるやかな風と四方から聞こえる雑多な音と、半透明ではない人々の姿。これこそまさに、自分たちが渇望していた光景だ。


「ああ、世界が広い……!」


 いつもは嫌な残暑の熱気も、この時ばかりは愛おしい。

 瞼を降ろして思いっきり深呼吸をすれば、身体の隅々にまで解放感が満ちていく。そのまま続けてのび(・・)をした七瀬の隣で、渚が胸に手を当てた。


「本当に、本当に戻ってこれたんですね」


 言葉の一つ一つに喜びが滲み出ていた。それについては七瀬も似たり寄ったりで、現に何もしなくても、自然と口元がほころんでくるのだ。


「これが嘘か幻だったら、私は泣いてしまいますよ」

「泣くことにはなるかもね。まあ流すのは、五体満足で帰ってこれた感動の涙だけど」

「ふふ。絶好調ですね、先輩」


 渚につられて七瀬も笑う。

 思い返してみれば今回の一件は、よく分からない内に始まっていてよく分からない内に終わっているという、謎だらけの事件だった。自分たちを呼んだのはあの霊達だろうが、いくら大勢集まったからといって、人間二人を別世界に引きずり込める力が果たして生まれるものだろうか? 何か別の力が働いていたような気もする。それに、最後に聞こえた声の主もまったくもって不明だ。

 謎、謎、謎。謎だらけ。

 でもそれでもいい。どんな冒険談も生きて帰ってこそ語り継げるもの。

 残った謎の答えは、あとで好きなだけ予想することにしよう。


「こうして笑うのも何だか久しぶりな気がします」

「本当に。……渚ちゃん、空を見て、空」


 七瀬に合わせて二人で天を仰いだ。


「太陽もいつもより眩しく見えない?」

「はい。眩しすぎるくらいですね。もうちょっと弱くしてくれてもいいんですけど」


 暑いのは苦手です、と渚は呟いた。それについては七瀬も百パーセント同感だ。

 彼女の言う通り外は暑い。あの異空間に唯一いい点を見出すとすれば、それは室温が快適なことだった。冷房が効いていたのかは謎である。そんな中でそれなりの時間を過ごしていたから、余計に外気が暑く感じるのだろう。

 じわりと汗が滲み出てくる。速やかな帰還を提案しようと渚の方を向けば、彼女は服の襟を持って上下させ、ささやかな涼を得ようとしていた。

 こめかみや首筋のあたりに流れるような汗がある。この気温を考えれば、格別それは不思議ではない。


 ただ、やけにその量が多い。


 よく見れば表情もどこか辛そうだ。桜色の唇は固く引き結ばれて、眉間に皺を寄せて、まるで何かを耐えているかのような――。


「――渚ちゃん?」


 そう、声をかけた直後のことだった。


「っ……!」


 短い悲鳴と共に渚が膝を付いた。

 左の足首を押さえてうずくまる。瞳を強く閉じて表情を歪め、荒く大きく息を吐く。

 七瀬は急いで彼女のそばにかがみ込んだ。


「渚ちゃん!? 大丈夫」

「くっ……すいません、先輩」


 渚がスカートの裾をめくると、その下の足首が赤く腫れ上がっていた。見ているだけで痛々しく、思わず顔をしかめてしまいそうな程に。


「足を、痛めてしまって……」

「……だいぶ腫れてる。相当痛いでしょう」

「いえ大丈夫です。このくらい大したことは」


 立ち上がろうとして、食いしばった歯の隙間から小さなうめき声が漏れる。


「駄目だよ! 僕には全然大丈夫に見えない。お願いだから無理しないで」


 気丈に振る舞おうとする渚を制してから、七瀬は辺りを見渡した。

 何をするにもまずは、彼女を落ち着ける場所に連れていかないといけない。本人は大丈夫だと口にしたが、実際はそうでないことくらい誰でも分かる。

 痛めた足で無理に歩き続ければ症状は悪化して、やがては取り返しの付かない事態に陥ってしまうかもしれない。

 詳しいことはよく分からないが、少なくとも、安静にするのは悪手ではない筈だ。


 建物の入り口を出た所にあるベンチが目に留まった。丁度建物の陰にもなっており、ここよりかは幾分涼しいだろう。


「肩を貸すから。取り敢えずあそこに座って休もう?」


 七瀬がベンチを指して言うと、渚は少し躊躇してから、申し訳なさげに頷く。

 そうして支えた渚の身体は、七瀬が思っていたよりも随分と華奢で、軽かった。


 ※


 肩を貸してくれた七瀬の身体は、渚が思っていたよりも随分と逞しくて、力強かった。

 己とさして変わらぬ細身の身体から、これだけの力が出ることに少しだけ驚く。正直なところ頑張れば一人でも歩いていけそうだったが、今回ばかりは、彼の優しさに甘えることにした。

 肩に手を回して掴み、身体の半分を預けるようにすると、随分と楽に足を踏み出していける。


「ごめん、ちょっとここで待ってて。すぐ戻るから」


 渚がベンチに腰を落ち着けたあと、七瀬はそう告げてどこかへ走っていってしまった。

 その背中に着いていこうにも、足が痛くてどうにもならない。仕方ないので視線で七瀬を追いかける。やがて彼は道を挟んだ向かい側にあるドラッグストアへと入っていった。

 こうして座っていても、足首の鈍い痛みはなかなか引いてくれない。結構な時間酷使し続けたのだから、当然といえば当然の報いだ。あの時躊躇せずに相談すれば良かったかもしれない。


 一人でいたのはさして長い間ではない筈だが、気持ちの上では十分も二十分も過ぎたように感じる。

 しばらくして戻ってきた七瀬の手には、何かのスプレー缶と救急テープが握られていた。


「こういう時は、まず患部を冷やして、それから固定してあげるのが良いんだって」


 聞いたことがある。たしか、安静、冷却、圧迫、挙上、だった筈だ。


「ちゃんとした診察は無理だけど、応急手当くらいなら出来るよ」


 少し申し訳なさそうな風に浮かべる、彼の笑顔がまぶしい。

 自分は今どんな顔をしているのだろうか。


「……すみません。私のために、わざわざ」

「ううん。気にしないで……って言うと余計気にするかもしれないけど、気にしないで。自分がやりたくてやったことだから。ただ……どちらかと言えば、謝られるよりお礼の方が嬉しいかな」


 そこまで言うと、七瀬はこちらの返事を待つことなくその場に(ひざまづ)いた。

 目を細めて腫れている箇所を観察している。

 ありがたい。おかげで、真っ赤になっているであろう自分の顔を、彼に気付かれずに済んだ。


「……ありがとうございます。先輩」

「うん。……ごめんね、ちょっと触るよ」

「はい」


 彼の手が、まるで清流を掬いとる時のような優しさで、痛めた足を持ち上げる。

 吹き付けられるスプレーの白が、炎症の赤を上から塗りつぶしていく。包み込む冷たさが心地よい。渚は肩の力を抜いて、ベンチの背もたれに身体を委ねた。


「――いつから?」


 訊きながら、七瀬が救急テープを手に取る。

 そんなものを使うのは初めてなのだろう。彼の手つきは不慣れな事がありありと分かる程不器用で。けれど一方で、一つ一つの動作はどこまでも丁寧で慎重だった。


「エレベーターが揺れた時です。最初は、すぐに痛みは退くだろうと思っていました。でも歩き回っている内に、段々と痛みが強くなって……」


 衝撃があまりにも突然だったため、備えることが出来なかったのだ。気付いた時には時既に遅く、揺れが収まるに反比例して痛みが足下から這い上がって来ていた。あそこで七瀬に相談していれば、きっと、今のような事態は避けられた筈だ。

 けれどその時自分は、こんなの大したことないと自らに言い聞かせて、痛みに蓋をした。

 そして実際に、建物を出た時までは何とか耐えれていたのだ。小さな段差に足を引っ掛け、同じ場所を挫くことになるとは思ってもいなかった。


「これでよし」と七瀬が呟く。巻き終わったテープは少し窮屈だったが、患部を固定するという本来の役目は間違いなく果たせているように思えた。

 渚の隣に腰を降ろしてから、七瀬はさらに訊く。


「じゃあ、さっきまで我慢していたのは……?」

「えっと、それは……」


 迷惑をかけたくなくて――一瞬そう答えかけ、しかしすんでのところで口を閉ざす。

 何故なら、その答えは不誠実だから。

 迷惑をかけたくない気持ちも確かにあったが、本当は、彼に弱い所を見せたくない思いの方が強かった。

 だって仕方ないではないか。普段の自分は彼に頼ってばかりで。一方的に真心を受け取っていながら、その半分も返せないでいる。絶対にフェアじゃない。

 良きパートナーとは互いに支え合うものだと聞く。だからあの時、またもや彼に助けを求めれば、自分が彼に釣り合わない存在であることを認めてしまうような気がした。

 けれど、そんな浅はかな考えは大抵上手くいかない。今こうして彼の優しさにあやかっているのが何よりの証拠だ。

 冷静になって考えてみれば、足を挫いたことぐらいで、弱い所も何もあったものではないというのに。


「強がりたかったんです」

「え?」

「私の弱い所を、先輩に見せたくなかった。いい格好をしていたかっただけです」

「……」


 返ってくるのは、かける言葉を失ったような沈黙ばかり。

 戸惑っていることがありありと伝わってきた。こんなに重たい答えが返ってくるとは思わなかったのだろう。


「……そうだったんだ」


 暫くして七瀬はそう言った。


「……すいません、意味分からないですよね」


 不甲斐なさに邪魔をされて、彼の方を見れない。いや、見たくない。きっと今自分に向けられているのは、困惑と憐れみの視線だから。


「その気持ち、多分分かるよ?」

「……え?」

「僕だって、似たようなことをよく考えるもの」


 予想外の答えに七瀬の方を向くと、彼は温かな眼差しをこちらに注いでくる。

 喉から手の出そうな程に求めてやまない何かが、一瞬だけ、その瞳の奥で瞬いたような気がした。


「理由は渚ちゃんと違うかもしれないけど、この人の前では強くありたいって相手は僕にもいる。僕ら以外の人もきっとそう。多かれ少なかれ、みんな似たようなことを考えてると思う」


 少し口ごもった後、微かに頬を赤らめて彼は続ける。


「でも次からは、何かあったら躊躇わずに教えてほしい、かな。渚ちゃんのことなら、僕は、迷惑だとか大変だとか絶対に感じないから。そりゃあ出来ることはそう多くないけれど、渚ちゃんが困っていたら、出来る限りの事をしたい。そう思ってるから」


 七瀬は一旦そこで言葉を区切った。次に何を言おうかと、考えているみたいだった。


「渚ちゃんがどう思うかは分からないよ。言いたくなければ言わなくていい。だけど僕は、相談してくれた方が嬉しい」


 その言葉を聞いて顔を背ける。恥ずかしさに邪魔をされて、彼の方を見れない。

 不意討ちをくらったようだった。それもこの上なく強力な一撃を。

 体中の血液が沸き立って、凄まじい速度で全身を駆け巡っている。熱くて熱くて、このまま炎となって燃え上がってしまいそうだ。


「先輩……その……本当に…………そういうところですよ」


 腰かけたベンチの横、いくつかのプランターが目に留まる。

 そこに咲いているのは、アサガオに似た薄ピンク色の花、ペチュニア。

 自分はその花言葉を知っている。偶然か運命か、今の彼に送るにはピッタリの言葉だ。

 それは――


 ※


「だけど僕は、相談してくれた方が嬉しい」


 七瀬がそう言うとどういう訳か、渚は再び明後日の方を向いてしまった。

 彼女の両手は膝の上で固い拳を作っている。口を開いて何かを言ったようだったが、声が小さくて七瀬には聞き取れなかった。

 ただ少なくとも、さっきまで彼女の顔を塗り固めていた憂いの色は、今しがたの一言で取り払われたように見えた。

 どれだけ前向きな人であれ、怪我をしていると気持ちも落ち込んでしまうものだ。自分の言葉が、多少なりとも彼女の支えになっていたらいいのだが――。


「……あれ、見てください」


 言われて向けた視線の先では、褐色のプランターの上に色鮮やかな花が咲いている。まるで梅の花弁を重ねて作ったような心安らぐ赤色だ。


「……ペチュニアだね。これがどうかした?」

「いえ、大したことではないんです。ただ……ペチュニアの花って、先輩みたいだなって、ふと思って」


 渚の拳はいつのまにかほどかれていて、両手の指が、落ち着かない様子で服の裾を弄んでいる。


「それって、いったいどういう――」


 訊こうとしたその時、七瀬の携帯が高らかに着信を告げる。見てみれば、そこには南部長の名前があった。


「はい、もしもし」

『遅いぞ。お前たち』


 キツメの声色で、元々の用事を完全に失念していたことを七瀬は思い出す。


『いったいどこで道草を食っているんだ』


 腕時計を確かめれば、体感以上に時間が過ぎていた。

 その長さ、およそ三時間。だが気持ちの上ではせいぜい一時間かそこらだ。

 もしかするとこちらとあちらでは、時間の流れる速さが違うのかもしれない。


「あ――……、ちょっと異空間に行っていました」


 しばしの沈黙ののちに、返ってきたのは長いため息だった。


『……もう少しマシな言い訳はなかったのか?』

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