行きはよいよい
「――というわけでお願いします、僕にダンスを教えてください」
そう言って、七瀬は目の前の女性――村雨 緑に対し深々と頭を下げた。
観葉植物の鉢に囲まれ、お洒落な雰囲気の漂っているこの場所は花屋『花鳥風月』。今は丁度客足も途絶えており、することも無くなったので休憩の時間である。テーブルの上に置かれたカップから紅茶の甘い香りが立ち上っていた。
「……なるほどね。俊くんの事情は大方理解したわ」
緑店長が頷く。
七瀬の携帯に、三良坂副部長からダンスの模範動画が送られてきたのは昨夜のことであった。善は急げとばかりに早速視聴してみた七瀬だったが、予想以上に難しく、一人ではどうやっても踊れるようになる気がしない。そもそも本番では渚とペアで踊るのだから、練習でも相手が必要だ。イメトレだけでは限界がある。撮影当日にも簡単なレッスンは開かれるそうだが、たった一時間かそこらに全てを賭けるのは、あまりにも無謀だと思われた。相手は渚なのである。失敗は許されない。可能な限りの努力を尽くし、ありったけの防衛線を構築した上で本番に臨まねばならない。
理想論を言えば、練習相手は渚であるべきなのだろう。出来ることならそうしたいが――気恥ずかしくて言い出せなかった。『踊れないのに私を誘ったんですね』等と思われた日には、岩壁に打ち付ける波濤がごとく、砕け散ってどこかへ消えてしまいそうな気分になる。
そんなこんなで昨夜色々と葛藤したあげく、緑店長に頼ろうとなったのだった。
「本当にお願いします。もう頼れるのが店長しかいないんです」
「そんなに必死にならなくても、無下に断ったりしないから安心して頂戴。これでも一時は社交ダンスサークルに在籍していた身よ。頭を振り回すような激しい系は専門外だけど、俊くんが言ってるやつなら力になれるわ」
「ありがとうございます、この恩はいつか必ず」
捨てる神あれば拾う神あり、だ。微笑む店長が女神のように輝いて見える。
もう一度頭を下げた七瀬の耳に、パチンと軽快な音が届いた。
「――さて、それじゃあ早速練習といきましょう」
視線を上げてみれば、緑店長はいつの間にか立ち上がって、こちらを見下ろしている。さっきの音は、彼女が手を叩いた時の音らしかった。
「え、今からですか?」
ちょっと展開が早くないだろうか。
「当然。善は急げって言うじゃない。……そうね、ここだと狭いから、裏庭でしましょうか。私に付いてきて」
返事をする間もなく、七瀬は緑店長に腕を掴まれ、半ば無理矢理に店の裏手へと連れて行かれた。
ここ『花鳥風月』は花屋としての側面と、緑店長と家族が暮らす家としての側面の二つを持っている。裏庭は後者に属する領域で、当然客は立ち入り禁止だ。そこには店長の好みを如実に反映したイングリッシュガーデンが広がっており、一見乱雑に植えられた草花が、自然の一部を切り取って移植してきたかのような錯覚を与えてくれる。ここには七瀬も何度か訪れたことがあって、季節ごとに違った景観を楽しめるのだが、今の季節だとエーデルワイスなどが開花中だ。外周には柵と生け垣が設置され、外から見えないようになっていた。
そしてそこそこ広い。それこそダンスの練習をする場所には困らない程に。
「あの、大丈夫ですか。もし今お客さんが来たら――」
「何となく気配で分かるから大丈夫よ。その時は急いで戻りましょう。――ところで俊くん、一番効率的なダンスの練習方法は何だと思う?」
「上手い人の演技をよく見る、とかですか」
「残念。正解はね、とりあえず踊ってみること。体に覚えさせるの。付け焼き刃だけど形になるのは早い筈よ」
そう言うと、店長は軽やかなステップで身体を回転させ七瀬と向き合った。掴んでいた腕をそのまま持ち上げて掌同士を重ね、もう片方の手でどこかから携帯を取り出し音楽をかける。響き始めたワルツはまるで野原を駆ける時の足音のようで、周囲の雰囲気に合っていた。
どうやら彼女は早速踊り出すつもりのようだ。出来ればちょっと待って欲しい。こちらはまだ心の準備が出来ていない。物は試しと言うものの、自分はダンスのイロハも知らない訳で――。
「それじゃ俊くん、私の腰に手を当てて」
「へ? ええと」
「“腰”よ」
右手首を掴まれ強引に引き寄せられる。そして踊りが始まった。
「イチ、ニ、サン。ニ、ニ、サン――。そうそう、そんな感じ」
練習はそれから一時間ほど続いた。練習とは言っても、七瀬は店長の動きについて行くだけで精一杯だったのだけれど。
※
部員全員の働きの甲斐あって、大学祭の準備は至極順調に進んでいた。
打ち合わせよりはや二週間が過ぎた今日。九鳥大学の元寄り駅を南口に出たところに存在する、とあるビルの前に、七瀬と渚は立っていた。その建物はいわゆる複合施設というやつで、中には本屋や飲食店など多彩な顔ぶれの面々が店舗を構えている。とは言っても用があるのは最上階の百円ショップだけだ。文芸喫茶で使うテーブルクロスを作るための布地を南部長が注文していたのだが、それがつい昨日届いたとのことで、二人で取って来いと直々にお達しを受けたのである。部長も副部長もそれぞれ用事があって、出て来るのは難しいらしい。
しかし何はともあれ。渚と一緒に買い出しというのは、七瀬にとって喜ばしいことの筈である。おそらく南部長も、それを知った上で頼んできたのだろう。
ただそれは――目的地が、この建物でなかったらの話だ。
「ねえ、渚ちゃん。――こういうのも、もしかしたら縁って言うのかな」
数ヶ月前、文芸部の新歓コンパでここを訪れた時のことを思い出す。建物の四階を占めるカラオケと、そこで遭遇した幽霊のことを。部長のおかげで何事も起きなかったが、当時は随分ヒヤヒヤしたものだ。
出来ることなら訪れたくはなかったが、世の中そう望み通りにはいかない。
「……だとしたら、切りたい縁ナンバーワンですね」
渚が応えて、建物を見上げる。
幽霊がいるとはいっても、それだけなら問題ない――部長からここに行くよう頼まれた時七瀬はそう考えていた。霊がいるのは四階。なら、そこに行かない限り顔を合わせることはないだろう。速やかに目的の物を回収して撤収すれば、何事も起こらない筈だった。
だがここに来てみて、七瀬は自分の予想が甘かったことを知った。
何故かは不明だが、建物の纏う霊的な気配が明らかに強くなっていたのである。大多数の人は分からないだろうが、七瀬の瞳には、建物全体を包むうっすらとした黒い霧のような物がはっきり映っていた。それはまるで、沼底のヘドロを一掴み分掬って空気に溶かしたかのよう。
同じ事に、渚も気付いているらしかった。お互いの方を向いて視線を交わせば、二人の間で緊張が共有される。
「……これ、どう思う?」
「前に来たときはもっと普通だった筈です。少なくとも、今みたいにはっきりした気配ではありませんでした」
「それは僕も同感。……もしかしたら、僕たちが知らないだけで、心霊スポットも成長したりするのかも」
「こんな風に、ですか」
「こんな風に。何の証拠もない予想だけどね」
そう言って、改めて建物の方を向いた。自動ドアの向こう側には大勢の人が行き交っているが、どことなく、皆顔色が悪そうに思える。内部を彷徨う霊たちの存在が、彼らに悪い影響を与えているに違いなかった。
「……これからどうしますか? 先輩」
「必要な物だけ回収してすぐに戻ろうか。何かに出会っても全部無視して、出来るだけ早く」
理想を言えば、このまま踵を返して立ち去りたい所だが。そうした場合でもどっちにしろ、文芸部員の誰かがここを訪れることになる。つまりは誰かがリスクを負うわけだ。
それを知っていながら他人に押しつけるのは……人として恥じるべきことだと思う。
肩へかけたショルダーバッグに七瀬はそっと手を這わせた。以前彼を助けてくれた種のお守りは、今もその中に入っている。
「……渚ちゃんにはここで待ってもらって、僕が一人で行って来るってことも出来るよ?」
「ダメです。先輩が行くなら私も付いていきます」
「だよね。じゃあ、一緒に行こうか」
「はい、行きましょう」
互いに頷きあってから建物へと入った二人の後ろで、自動ドアが音を立てて閉まった。
※
目的地の百円ショップは七階、つまりは最上階にあるので、エレベーターを使うのが手っ取り早い。入り口の地図で位置を確認すると、七瀬と渚は一直線にそこへ向かった。一階には本屋が店を構えているのだが、その中を突っ切るルートである。
途中、本の背表紙の間から伸びている手やら本棚の上に座ってうなだれる半透明の人影やら、それっぽいものを見かける。絡まれると面倒だ。極力視線を反らして通り抜ける。
外見は平静を保ったまま。けれど手の平からは、早くも嫌な汗が滲み出て来て。
明らかに尋常ではない数の幽霊がそこにはいた。普通にしているだけでも息苦しさのようなものを感じて、呼吸が荒めになる。普段通りに振る舞うよう絶えず自分に言い聞かせはしたのだが、それでも無意識の内に足並みは速くなっていた。
そうしてやっとの思いで辿り着いたエレベーターは、対照的に空っぽだった。
誰も乗っていない。
もっと正確に言えば、"なにも"乗っていない。
その事にホッとする反面でどこか不気味さを感じつつ、七瀬は壁に寄りかかって大きく息を吐いた。取り敢えず、この間だけは落ち着いていられる。
自身を乗せた鉄の箱が最上階へと向かう間、二人が何かの言葉を交わすことはなかった。代わりに視線を交わしあって、互いの存在を確認する。
一、二、三……。液晶に表示される数字は段々と大きくなる。それが七に達した数秒後『七階です』という電子アナウンスと共にエレベーターの扉が開いた。
「――あれ」
最上階の光景を見た七瀬は思わずそう呟いてしまった。
幽霊の姿が、一人たりとも見当たらなかったからである。目に入る人は皆精力的で、辺りは人の営みの気配に満ちあふれて、照明も一階より明るいように思えた。
「……いないね」
「……いませんね。一階と同じぐらいにはいるかと、覚悟していたんですが」
「うん…………そりゃあ、いない方が僕らにはありがたいんだけど、何だか気味が悪いな」
エレベーターを出て、周囲を見回してみる。気配すら感じない。渚とも所感は一致しているから、自分の霊感が狂ったわけでもなさそうだ。
となれば、この階に幽霊がまったく存在しないことは――もしかすると一人二人はいたりするのかもしれないが――明らかである。つい先ほど、霊の詰め放題と言ってもいいような空間を見てきた七瀬は、目の前の状況に喩えようのない違和感を覚えた。
「こんなことってあるのかな。そりゃあ心霊スポットだからって、幽霊が均等に散らばってるとは限らないけど……」
「それにしても偏り過ぎではないでしょうか。私、こんなのを見たのは今日が初めてです」
「僕もだよ。……この建物、一体どうなってるんだろうね」
一階は霊の巣窟、最上階はその反対。きっとそこには何かしらの理由がある。幽霊は重たいから下へと沈んでいくのです、なんて、科学の教科書に書かれていそうな話は聞いたことがない。
となれば、一階に霊を引きつける何かがあるのか。それともその逆で、最上階には霊を寄せ付けない結界のようなものが張ってあったりするのか。
調べれば答えは分かるかもしれないが、七瀬に生憎そのつもりはなかった。
何故かというと危険そうだからである。心霊スポットの内情に首を突っ込むなど、よほどの理由が無ければやりたいとは思えない。
君子は危うきに近寄らないものだ。空けた箱がパンドラの箱でない保証はどこにもない。危険を避ける最良の方法は関わらないこと。火事の火の粉も、川の対岸までは届かないように。
※
目的の品は、何事もなく無事に受け取ることが出来た。
帰りのエレベーターの中、思わず緊張の糸がほぐれかける。
異変の第一波がやって来たのは――まさにその時だった。
「――――何」
一切の予兆なく、天井の明かりが激しく明滅を始めた。同時に強い揺れが襲いかかってきて、七瀬は立っていられず、床に膝をついた。
明と暗が交互に入れ替わる。隣に視線を向ければ、不安げな渚の顔がコマ送りのような具合に映って見える。彼女の名前を呼ぼうとしたが七瀬自身も動揺していて、上手く声が出てこなかった。
地震だろうかと思った。だがそうなった場合、最寄りの階へ緊急停止する筈のエレベーターは、なおも下降を継続していた。
永遠のような時間の後。始まったときと同じく、異変は急速に収まった。
七瀬は手すりに掴まって立ち上がった。まだ足が震えている。頭がクラクラする。胸に手を当てて、数回呼吸をして自身を落ち着けた後、渚の方に目を向けた。彼女も七瀬と似たような状態だった。
「先輩」
渚がこちらを呼んでくる。必死に絞り出したような声だった。
「――渚ちゃん、大丈夫?」
「……はい、なんとか」
応えるまでに少し間が空いていたのが気になった。微かに顔を歪めているようにも見える。
「……本当に?」
「大丈夫です。何でもありません」
はっきりとした答えが帰ってきたので、七瀬もそれ以上は訊かなかった。きっと気のせいだろう。
渚が続ける。
「今の揺れは、地震でしょうか」
「だと思うよ。結構揺れていたから大きめの地震かな。……いや、でも、ちょっと待って」
先ほどの揺れは自然現象である――そう結論付けかけた七瀬を、ある違和感が邪魔をした。少し考えて、七瀬はその正体に思い至る。
「確か……地震警報、鳴らなかったよね」
「え? あ――」
七瀬の一言で、渚も同じことに気がついたようだった。
『地震大国』とまで言われるこの国では、地震発生時の速報体制が隅々まで整っている。特に、自力で立っていられなくなるような強さの揺れが来る場合には、その地域に緊急地震速報が発令され、携帯などから警告音が鳴り響く。たとえマナーモードであっても、警報系の通知に限り、例外として音が鳴る。
少なくとも七瀬の知識では、そのようになっている筈だ。だが実際は揺れの前も後も、今の今まで二人の携帯は沈黙を保った。もちろん電源はちゃんと点けてある。
念のため携帯を取り出して確認したが、通知は来ていなかった。
その事実から、一つの予感が頭の中で組み上がる。
――今のは地震じゃない。
その事を渚に伝えると、彼女は腕を組んでしばらく考え込んだ。彼女なりに、七瀬が示した可能性を検討しているようだった。次にその口が開かれるまでに十数秒の沈黙が過ぎる。
「……もし先輩の言っていることが正しいなら、私たちが考えないといけないことは、大きく二つですね。一つ目は、揺れの原因は何だったのかということで、もう一つは――」
「今、何が僕らに起きているのかということ……だよね。さっきの揺れが単なる機械の故障ってことはあるかな?」
「故障だとすると、それはそれで怖いですね。ただ……私はこれまでに、さっきみたいな故障の仕方を聞いたことがありません。急に停止した訳でも、ワイヤーが切れた訳でもないですし……」
「まるで巨人の手に掴まれて振られているみたいだったものね」
心なしか、エレベーター内の気温が少し下がっている気がする。うなじのあたりがチリチリする。この悪寒は単なる思い込みだろうか。出来る事ならそうであって欲しい。
こういう状況に陥った時は慌てず冷静に行動すべきだとよく言われるが、現実に体験してみるとそれは、言うは易く行うは難しの典型例でしかなかった。
渚が一緒にいるおかげでパニックにはならないものの。どうにも落ち着かない。
一秒ごとに強くなっていく不安感という名の百足が、鋼鉄の床から染み出してきて、足下から身体を這い上がってくる。
ぐるりと周囲を見回せば、階数を表示する液晶画面に目が留まった。そこに映し出されていたのは、文字でも数字でもない謎の記号。
「取り敢えず――外に出ましょう」
「そうだね。考えるのは後にしよう」
七瀬は腕を伸ばして『開』のボタンを押し込んだ。一瞬、機械が反応せず二人してエレベーターに閉じ込められる……なんていう未来が思い浮かんだが、幸いにも杞憂に終わった。扉はいたって普通に稼働し、そのことに少しだけ緊張が緩む。
だがその安堵は、一秒も続かない内に立ち消えた。
「――――え」
言葉を失った二人の目の前にあるのは、来たときと同じ本屋だ。けれどもそこに、生きている人の姿は一人とて無かった。少なくともここから見渡せる範囲には、店員も客も見当たらない。
だがそれだけならさしたる問題ではない。空間の異質さは別の所にあった。
誰もいない。その筈なのに、何か得体の知れないものの気配がそこら中から伝わってくるのだ。そこは明らかに、記憶の中にある一階とは別の空間になっていた。
『深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ』という、ある哲学者の言葉が思い浮かぶ。虚空に隠れた何者かの瞳がじっと自分たちを観察している想像をする。本棚の影、あるいは吊り広告の裏側に、実際に何かが潜んでいるような錯覚さえ感じる。
『――階。――――です』
ノイズ混じりの音声が天井のスピーカーから流れてきた。静まりかえった中で、その声はやけに響いて聞こえた。




