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徒然怪奇譚  作者: どくだみ
五夜:心霊スポットへの招待
38/55

幸運は予期せずして

 カーテンの隙間から差し込む朝日に瞼をつつかれて、七瀬俊は目を覚ました。

 今は九月の下旬。巷では、しぶとく勢力を保っていた夏の暑さも衰退し、秋がその重い腰を上げ始めている。段々と気温が下がって過ごしやすくなるこの時期は、七瀬のお気に入りでもあった。今はまだあちらこちらに夏の面影が残っているものの、もう少しすれば山々は紅く色付き、本格的な季節の移り変わりを感じさせてくれるだろう。

 七瀬はベッドから起き上がって、大きなのび(・・)をした。窓の外からは雀のさえずりが聞こえてくる。カーテンを開ければ、朝日の粒子が待ちわびていたかのように部屋一杯に差し込んできて、残っていた眠気を消し去っていく。ちょっとチリチリするが、それも含めて心地いい。

 七瀬の朝は、まず朝ごはんを作ることから始まる。ちなみにパンではなくご飯派だ。世の中には朝ご飯を食べない人も一定数いるそうだが、それをすると昼までお腹が保たないので、毎日きちんと摂るようにしている。彼らはきっと体質が違うのだろう。真似をしようとは思わないし、思えない。

 冷凍してあるご飯を電子レンジで温めている間、キャベツと玉ねぎを適当に切り刻み、豚肉と合わせて野菜炒めにする。昨夜の残りである味噌汁をそこに添えれば、あっという間に立派な朝食の出来上がりだ。

 食べ終わった後はテレビのニュースでも観ながら、紅茶を淹れて一息。立派な肩書きを携えたコメンテーター達が、外交問題に関して議論しているのを流し聞く。いつもならこんなことをする余裕は無いのだけれど、今日は夏休みの最中。講義は無い。だからこうしてのんびり出来るのだ。

 中学や高校と違って、大学の夏休みは八月から始まり九月一杯続くのだが、それももう終盤に差し掛かっていた。

 この一か月と少しの期間をどう過ごしてきたかは、きっと人それぞれだろう。バイトに精を出す人もいれば、自堕落に暮らした人もいる。かくいう七瀬はというと、短期で家庭教師のバイトをしたり、オランダ語の夏季集中講義に参加したり、部室に顔を出してみたりとそれなりに充実した毎日を送った。

 紅茶を飲みながら、七瀬は今日一日の予定に頭を巡らせる。午後からは、十月の中旬に開かれる九鳥大学大学祭、通称『九大祭』へ向けての打ち合わせを部室で行うことになっている。逆に言えばそれまでは暇で、時間は有り余っている状態だ。

 紅茶を飲み干し、皿を洗った後、七瀬は習慣となった筋トレを始めた。今年の春に渚と再開して以来、ささやかながら続けている取り組みだ。周りにはヒミツである。当初思っていたよりも早く成果が出始め、そのおかげでやる気も維持出来ている。

 ちなみに筋トレを始めた理由は、『身体を鍛えれば多少なりとも見栄えが良くなり、渚ちゃんに振り向いてもらえないだろうか』という邪な感情なのだった。

 とは言ってもそこまで苛酷な中身ではないので、筋骨粒々とは程遠いし、今後そうなることも無いだろう。同級生と比較しても、自分は断然細身な人間だ。

 全ての行程を終え、床にごろりと寝転がる。丁度そのタイミングで、机の上に置いてあった携帯からメールの着信音が響いた。


 ――誰からだろうか。


 同じ体勢のまま手だけを動かして、携帯を掴んだ。確認。差出人の欄にあるのは『上川 渚』の三文字。

 その意味を理解するや否や七瀬は瞬時に起き上がると、ピンと背筋を伸ばした。

 彼女からのメール。内容が何であれ、重要でないことがあるだろうか。いやない。率直に言うと、そもそも要件など対した問題ではないのだ。彼女がメールを送ってくれたという事実だけで、この胸の高鳴りは自力で抑制出来ない域へと達してしまうのだから。

 何度か瞬きをして、その名前が自分の見間違いでないことを確かめる。大丈夫、間違いない。自分の願望が作り出した幻などではなさそうだ。

 それからようやく、震える指先で七瀬はメールを開いた。現れた本文はたちまちの内に、浮かれる七瀬をさらなる喜びの渦へと突き落としていった。


『お久しぶりです。突然連絡をしてすいません。

 今日の午後にある文芸部の打ち合わせ、先輩も参加されますよね。

 もしよければ、大学まで一緒に行きませんか?』


 最後まで読み終えた七瀬は、堪えきれず口に手を当てた。

 何ということだろう。夢のようだ。

 確かに自分のアパートは、彼女の住むアパートから大学までの道の途中にある。だがだからといって、彼女と二人きりで、一緒に大学へ行くなどと。理論上は可能だが、そんなのまるで、まるで……恋人同士みたいではないか。

 勿論答えはイエスだ。断る理由などあるものか。すぐさま返信を打つ。


『ありがとう。是非一緒に行こう。

 もしよかったら、一時頃に僕がそっちまで迎えに行くけれど、渚ちゃんはどうしたい?』


 そうした方が、彼女と一緒の時間が長くなるという姑息な算段だ。こういう時、頭の回転は異様に早くなるものである。

 返事は韋駄天の速さでやって来た。


『それでは先輩の案でお願いします。楽しみに待っていますね』


 ――やった。


 内心でガッツポーズを決める。口元がニヤついているのが自分でも分かった。分かっていても止められないのだ。

 ニュースの占いコーナーなど観るまでもない。断言しよう、今日の自分の運勢は大吉だ。むしろそうでなければ、この幸運はいかにしてもたらされたというのか。上手く行き過ぎて、逆に怖いくらいだった。

 さてそうなれば、相応の準備をせねばならない。まずは顔を洗って、髪も整えて――。

 上機嫌に任せてカーペンターズの『Top of the world』を口ずさみながら、七瀬は洗面所へと向かった。


 ※


 渚のアパートの場所は、以前闇鍋をした帰りに彼女を送り届けたので知っている。緩やかな坂道を下って、十字路を左に曲がったその先だ。

 三階立ての建物は新築ということもあり、外壁に目立つ汚れは見当たらない。中に入ったことは無いが、同様に清潔感溢れる空間なのだろう。

 入り口の隣にある自転車置き場には、雨を凌げるように屋根が備わっていた。

 その近くにはナンテンの木が植わっている。冬になる赤い実が印象的な木で、七瀬の実家でも、小鳥たちがよく食べに来ていた。名前の由来は『難を転ずる』と書いて『難転』。そのことから魔除けの木としても広く知られている。ただし、木の名前としては『南天』と書くのが普通だ。

 敷地に入ってすぐの所に自転車を停めた。見上げれば、一つの階につき五つの窓。全て合わせて十五部屋分が存在している。渚が暮らしているのもこの中のどれかだ。どこかは知らない。

 ショルダーバッグから携帯を取り出す。『今着いたよ』と渚に連絡を入れようとして――その必要が無いことに、七瀬は気がついた。

 アパートの入り口から、駆け足でこちらへ向かってくる渚の姿を見つけたからだった。


「渚ちゃん、おはよ――いや、今は時間的に“こんにちは”かな」

「こんにちは。すいません、わざわざ迎えに来ていただいて」

「気にしないで。僕から言い出したことなんだから」

「ありがとうございます。……あ、自転車――」


 『ちょっと失礼します』と断りを入れてから、渚は自転車をとりに戻る。夏休みの初めに買ったらしく、二週間ほど前、部室で顔を合わせた時に教えてくれた。外観は、銀を基本色としており随分とメタリックである。使い始めて日が浅いためか、軽く見た限りでは傷一つ無かった。


「お待たせしました。行きましょう、先輩」


 ※


 夏休みの序盤、七瀬のバイト先である花屋に、南部長が恋人と連れたって訪れるというイベントがあった。

 曰く部長は、七月上旬に起きたあの女霊騒動の全てを恋人に伝えたのだという。結果その恋人の中で七瀬は『彼女を助けてくれた人』と半ば英雄化され、合うなりお礼を言われてしまった。

 そこに、嫉妬とかそういう感情は一切無く。ただただ純粋な感謝だった。彼も南部長と同じくらいにパートナーの事を信じ、大切に想っているのだと確信させられるような振る舞いだった。

 道中その事を渚に話すと、目を細めてこう返された。


「素敵なカップルなんですね」

「うん。まさに“相思相愛”って感じだったよ。見てるこっちまでほのぼのさせられるんだもの」

「理想の関係ですよね。……何だか、憧れます」

「折角だから胡蝶蘭の切り花を勧めてみたんだけどね。置く場所が無いからって断られちゃった」

「胡蝶蘭の花言葉は……“変わらぬ愛”ですよね」

「そう。まあ、そのことに気付いてもらえたかどうかは分からないけど」

「部長さんならきっと分かっていそうな気がします。それに気付かれても気付かれなくても、先輩の好意は変わりませんよ」

「それもそうだね、ありがとう。でもやっぱり、気付かれなかったら少しだけ寂しいかも」


 そう応える七瀬だったが、心中にはある悩み事が生まれていた。

 何故だか分からないが――久しぶりに会った渚が、前よりも可愛くなっているように思えて仕方ないのである。

 もちろん彼女は元から愛らしいし、その麗しさが増すのはいいことだ。だがそう考える度に、この言葉が頭をよぎる。“女性は恋をすると美しくなる”という、誰が言ったか定かではない言葉が。恋をすると美しくなるのならば、その逆が有り得ても何ら不思議はない。

 ここで仮に『渚がますます可愛くなっている』という七瀬の感覚が正しいとしよう。それはすなわち、今の彼女には誰か好きな人がいるという逆説的な証明になるのではなかろうか。いやそれどころか、自分が知らないだけで、彼女には既に付き合ってる相手がいるでのはないだろうか。悲しい話だが、自分の情報網はそう広くないのだ。

 知らない男と手を繋いで仲睦まじく歩く渚の姿を想像し、七瀬の顔から血の気が引いた。


「――先輩? 大丈夫ですか?」


 挙げ句の果てには、当の本人から心配されてしまう。

 今は大学の駐輪場に自転車を停めて、部室まで歩いているところである。夏休みであるため人影はまばらで、普段は学生で賑わうキャンパスも、どこか閑散とした雰囲気だった。


「え、ああうん、大丈夫。ちょっと考え事をね」


 嘘ではない。その中身は誇れるものではないにしても。

 彼女に好きな人がいるのかどうか。七瀬にとっては重要な問題だった。何しろその答え次第で、勝ち目の有無がはっきりするのだ。

 渚の名前を呼ぶと、『はい』と応えが返ってくる。今このタイミングなら、話の流れでさりげなく訊けそうな気がした。


「少し気になったんだけどさ。渚ちゃんって――」


 自分に、訊く資格など無いことは分かっているのだが。


「――“好きな人”、いたりする?」


 出来るだけ、何気ない風を装って。


「す、好きな人、ですか……!?」


 いきなりの質問に、渚は激しく戸惑っているようだった。急に顔を赤く染め、服の裾を握りしめて、斜め下を向く。『えっと』『その』『あの』を何度か繰り返した後ようやく、渚は消え入りそうな声で返事をした。


「……秘密、です」

「う、うんそうだよね。変な事を聞いてごめん。忘れて」


 七瀬が言った。

 今の問いで彼女を困らせてしまったことは明白だった。“好きな人の有無”なんていう明らかにプライベートな内容を訊かれて、戸惑わない訳が無い。自分は彼女に、恥ずかしさを耐えて正直に答えるか心苦しさを耐えて嘘をつくかという、二者択一を迫ってしまったのである。

 罪悪感が心に突き刺さった。


「――――ただ」

「え?」

「私が好きな男性のタイプだったら、はっきりしています。それは、優しくて、穏やかで、笑った顔が素敵で、傍にいると安心出来て、そしていざというときに自分を預けてもいいと思えるような人です」


 無理だ。

 優しくて、穏やか。ここだけならともかく、後の三つは自分にはハードルが高すぎる。傍にいると安心出来るような人とか、どうやればなれるのだろう。誰か教えて欲しい。

 七瀬が返事に窮していると、渚は不意に立ち止まって七瀬の方を向いた。


「あの、七瀬先輩」

「うん? 何」

「……分かりませんか?」


 ――はい?


 どういう意味なのだろう。

 彼女なりに何か伝えたい事があるのだろうが、七瀬にはそれを汲み取れなかった。


「えっと……ごめん、何のこと?」

「あ、いえ……何でもありません。……すいません、今のは忘れてください。私も先輩の質問は忘れますので」

「う、うん分かった。じゃあお互いに、ってことで」


 結局何が何だかよく分からないまま、七瀬と渚は再び歩き始めた。


 ※


 大学祭の出し物を何にするかということは、既に決まっていた。教室の一つを洒落た感じに装飾して、落ち着ける空間を作る。訪れた人にコーヒーや紅茶を提供。ついでに文芸誌も販売する。所謂文芸喫茶である。

 その装飾の方向性を如何にするかが、今日の打ち合わせで決めなければならない事だった。『落ち着きのある』『洒落た』という前提はあるのだが――実に抽象的である。具体的には何一つ決まっていないに等しい。

 七瀬を含む部員たちは、文芸部部室の長机を囲むようにして腰掛けている。上座に君臨しているのは南部長で、両肘を机につき口の前で手を組み合わせていた。七瀬と三良坂副部長が向かい合わせ、渚は七瀬の隣である。残る二人の部員も、それぞれ空いた位置を埋めるように座っていた。

 部員たちの前には、アイスコーヒーの入ったカップが置いてある。南部長が淹れたものだった。


「――さて、三週間後の大学祭に備えて、今日はこうして集まってもらった訳だが」


 部長が切り出す。


「まず、原稿の締め切りを確認しておくぞ。前々から言っていたように、締め切りは明日だ。書き上げた原稿はメールで私に送ってくれ」


 皆に向けて言ってから、副部長を指差す。


「特に……三良坂、いいな? 流石にもうおおかた書き終わっているよな? 今回ばかりは締め切りを伸ばすつもりはないぞ。”可及的速やかに、身を粉にして間に合わせるよう要請する”」

「政治家みたいに言わなくたって大丈夫さ。大船に乗ったつもりで安心してほしいね」

「そうか。その船の名がタイタニックじゃないことを祈るとしようか」


 部長が苦笑した。

 三良坂副部長は締め切りを破る常習犯だ。本人曰く『ストーリーは出来ているが文章化が出来ない』。それでも、生みの苦しみは部長や七瀬もよく分かっているので、毎度しぶしぶ期限を延長するのが慣例となっている。今回はどうなるだろうか。


「それじゃあ本題に入ろう。どんな風に飾り付けをするか――私もおおまかに考えて来た。これを見てくれ」


 部長が手に持っていたルーズリーフを机の上に滑らせると、全員の視線が集まる。七瀬も軽く身を乗り出して、それを覗き込んだ。アイデアがイラストと文章を用いて簡潔に纏められている。


「ちょっと地味に見えるかもしれないが……どうだろうか」

「……いいんじゃないですか。あまり飾り付けると派手になりますから」


 七瀬が言う。

 部長の原案は、各所に会場となる部屋の内装を取り入れたシンプルなものだった。正面の黒板にメニューを記し。そのままでは見栄えの悪い机には、白のテーブルクロスを被せて洒落た感じを出している。全体的に清潔感が漂っていた。

 本人は『地味かもしれない』と言っているものの、六人という文芸部の人員からすれば、妥当な規模の装飾だと思われた。口には出さないが、部長もそのあたりを考慮しながら案を纏めてきたのだろう。


「机の上に植物をあしらうのはどうですか。もっと落ち着いた雰囲気になりそうです」

「植物か。七瀬らしい意見だな。だけどいい案だ。植物にはリラックス効果があるし、緑色は目に優しい。何を置くかが問題だが――」


 そこまで言ったところで、部長は何かに気付いた様子で喋るのを止めた。口元に人差し指を当てて、渚の方を見る。


「どうした? 渚」

「あ……すいません。少し、思ったことがあって」

「何だ?」

「私たちは"文芸部”ですよね。だったら、文芸部らしさをもっと強くするのはどうでしょうか。販売はしなくとも、装飾として本棚を置いてみるとか」

「文芸部らしさか……確かに、その通りだな。いい意見をありがとう」


 部長が渚に微笑みかけてから、続ける。


「それなら部室(ここ)にある本棚を運ぶか? 台車はどっかから借りれるだろうし――」


 その後も打ち合わせは盛り上がり、全員の案を纏め終わるまでには三時間程かかった。


 ※


「七瀬くん。君は、ダンスに興味があったりするかい?」


 打ち合わせの後。部室を出ようとした七瀬は、三良坂副部長に呼び止められていた。


「ダンス、ですか?」

「そうとも。大学祭で、映研が独自映画を制作して上映するらしいんだけど、そこにエキストラダンサーとして参加してみるのはどうかなと思ってね」

「……ちょっと、待ってください。話が急過ぎて」

「ん。じゃあ一から話すよ」


 そうして、副部長が語り出した説明によれば。九鳥大学映画研究同好会――通称『映研』は、これまでの例に漏れず、今年も独自映画を制作して上映するつもりなのだという。そのエンディングで、主人公含む大勢の人々が一緒に踊る場面があるのだが、映研だけではキャストの人数が足りない。故に現在、各会員の人脈をフル活用して、エキストラを募集しているのだそうだ。

 採用条件は特に無し。服装は私服で。飛び入り参加オッケー。参加者には文化祭当日の映画無料鑑賞券が贈られる。副部長が語ったこれらの謳い文句からも、映画研究同好会の必死さが伺える。

 ちなみに副部長は、同好会にいる友人から直接頼まれ、断れずに了承してしまったらしい。


「……ということで、どうだい? 七瀬くんも参加しようじゃないか。大丈夫、ダンスと言っても激しい系じゃなくて、舞踏会で踊るようなゆったりとしたやつだ」

「何が『ということで』なのかちょっとよく分からないんですが……」


 七瀬は口を濁して、しばし考え込む。

 ダンスの経験など、中学時代の合宿でマイムマイムを踊ったくらいである。すなわちゼロに等しい。練習をしても、周りに合わせられるようになるのが精一杯だろう。

 だが、それはそれとして。


「……でも、面白そうですね」


 新しいことというのは、やっぱり魅力的に感じてしまうものだ。やらずに後悔するよりはやって後悔した方がいい、という言葉だってある。

 折角の機会だ。物は試しの精神で、頑張ってみてもいいかもしれない。


「そうだよねえ。ああ良かった、仲間が出来た」


 七瀬の返事を聞いた三良坂副部長は、ホッとした表情で応えた。

 そんな二人の会話へ、横から渚が加わってくる。


「あの、すみません。私もそのダンスに興味があります」

「上川さんもかい? それなら遠慮無く参加してくれて構わないとも。『人数は多ければ多いほどいい』って向こうも言っていたからね。詳しいことは、後々メールで送るから」


 七瀬のみならず渚まで食いついてくるとは思ってもいなかったらしく、副部長は満足げに、机の上に置かれたポテトチップスの袋へ手を伸ばす。だがそれに対して、渚はどこか緊張した様子で、両手の指を胸の前で絡み合わせていた。


「あの……ダンスということは、男女でペアになって踊るんですよね」

「うん? まあそうだろうね。確か、ペアはその場で自由に決めるとか言っていたかな。余ったら……まあ、同性同士でも構わず組ませるんだろうさ」

「ペアは、自由で――」


 渚が反復する。中身は分からないが、何かしら思うことがありそうだった。

 そして副部長の答えは、七瀬の方にもある考えをもたらしていた。


「あ、あのさ、渚ちゃん」


 これはもしかすると、チャンスなのではないだろうか。

 ペアは自由。それはすなわち、自分が渚と共に踊るという未来も、十分あり得るわけで。


「仮にだよ。仮に、自分が誰かと踊るとしたら――知らない人とペアになるよりは、知っている相手との方が上手く出来そうに思えない?」


 落ち着こうとするほどに、緊張はその強さを増していく。

 誘え、誘うのだ。話の流れに乗って、いつものように何気ない調子でやればそれでいい。降ってわいたこの幸運、無駄にするには惜しいものがある。


「そう思います。見ず知らずの相手では、気まずさがありますよね」

「うん。だから、ね。もし、渚ちゃんも参加するつもりなら――――」


 心臓が高鳴り、口の中が渇く。


「僕とペアを組んでみる……ってのはどう?」


 祈るような気持ちで返事を待つ。

 渚は目を見開くと、じっと七瀬を見つめてきた。その桜色の唇が開くまでの間は、実際の所数秒に過ぎなかったが、七瀬には何十分にも何時間にも感じられた。


「――はい、喜んで。私も同じことを言おうと思っていました」


 応える渚の顔に浮かんでいたのは、花が咲いたかのような満開の笑顔。その返答が本心から来ているものだということを、如実に示していた。 


「宜しくお願いしますね、先輩」


 春を運んでくる妖精が、もしこの世界にいたら、きっとこんな感じで笑うのだろうと思った。


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