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徒然怪奇譚  作者: どくだみ
閑話4
37/55

閑話:このスミレ色の世の中は

 幽霊騒動の翌々日。

 教授の急な用事によって生じた空きコマを、七瀬は文芸部部室で過ごしていた。

 『その光景を見た二人は立ち尽くすしかなかった』。手元のノートパソコンに映る書きかけの小説は、そんな一文で終わっている。十月に行われる九鳥大学大学祭――通称『九大祭』では、七瀬たちも文芸誌を販売するのだが、この小説はそれに掲載するためのものだ。

 締め切りまでまだ三か月近くある。しかし三か月というのは長いようで短い。七瀬は一人暮らしだから炊事洗濯は自分でしなければならず、加えて学業もおろそかに出来ないのだ。一日の内、趣味の執筆に割ける時間はそう多くない。

 棚からぼた餅的に湧いた、この暇な時間。部の活動に充てるには丁度良いのだが――。


「はあ……」


 いかんせん思うように筆が進まずにいた。七瀬以外の部員は今皆出払っているため、彼のため息を聞く者は誰もいない。椅子の背もたれに体を預け、そのまま背中を逸らせる。

 原因は明白だった。

 先日の幽霊騒動が、未だ七瀬の中で尾を引いているのだ。普通に講義を受けていたり友人と一緒にいるときはどうということもないのだが、こうして一人でいると、ふとした瞬間に、二日前の出来事が意図せず脳内に甦ってくる。恐ろしい記憶が頭の中で再生される。あれほど死を身近に感じたのは、これまでの人生で初めてだった。

 日を跨ぐに連れて恐怖が緩くなってきてはいる。それでもまだ、自分の浅はかな決断を悔いる気持ちが根強く残っていた。

 あの時七瀬は、言葉で以て幽霊に成仏してもらおうとした。幽霊のためにも自分たちのためにも、それが最善なのだと信じて疑わなかった。

 だが今思えば――きっと、自分は怖かったのだろう。

 強硬手段に出た結果、幽霊と事を構えるのが怖かった。そのことが自分の目を曇らせて、幽霊の企みを見抜けないまま、一見穏当に見える方法へと飛び付いてしまったのだ。文字通り自分の首を絞めることになるとも知らずに。

 “優しい”と言えば聞こえはいい。けれどもそれは、“臆病”を上手く言い換えただけで。挙げ句の果てには自分だけでなく、渚や部長までも危険に晒すところだった。


 ――馬鹿だな、僕。


 自分の弱さを痛感する。

 これから先、似たような事が起こらない保証はどこにもない。そうなった時、再び無事に済む確率は、もしかしたら宝くじの当選確率より低いかもしれない。

 理不尽だ、と訴えることは簡単だ。しかしいくら声を上げてみたところで、事態が良くなることはない。悪意に対して正論とは無力なもの。

 じゃあ――その時自分はどうすればいいのだろう。

 逃げる。耐える。あるいは、理不尽には理不尽で応じる。

 人が理不尽と対面したとき、とる行動は様々だ。けれども、その内のどれが正しいのかは分からない。考えても答えは見付かりそうになかった。

 七瀬がもう一度ため息を吐いた時、不意に携帯が震えた。手に取って見てみると、部長からメールが届いていた。

 同じタイミングで、外から足音が聞こえてくる。

 数秒後。扉を開けて、上川渚が部室へと入ってきた。


 ※


 どれだけ親しい仲であれ、その日初めて会った相手には、まず初めに挨拶をすることにしている。

 『挨拶をされて嬉しくない人はいない』というのが上川渚の考えだ。勿論嬉しさの度合いは人それぞれだろうが、嫌と感じる人はそうそういないだろうと思う。そして逆に、自分から挨拶をして返事を貰えると、こちらもまた嬉しい気分になる。

 ましてやその相手が――恋する人だとしたなら、なおさら。


「――先輩、おはようございます」

「おはよう、渚ちゃん」


 いつも通りに渚が声をかけると、七瀬からもいつも通りの挨拶が返ってくる。もはやお決まりになったこのやり取り。渚にとっては毎日の楽しみでもある瞬間だ。

 “おはようございます”と言って、それに七瀬が返事をするとき、少しだけ彼が笑顔になることを渚は知っている。こちらの心にささやかな春を添えてくれるような、優しくて温かい笑顔だ。

 今日の七瀬も例に漏れず、微かに頬が弛んでいた。何も知らない人からは、微笑んでいるように見えただろう。

 だが、毎日こうして顔を合わせている渚はその表情に違和感を感じた。心なしか今日の七瀬は、憂いを帯びているように見えたのである。


「――先輩」

「……うん?」

「……いえ、何でもありません」


 訊こうとして寸前で踏みとどまる。

 渚の心中を知ってか知らずか、七瀬は『そう』とだけ応えて、視線を手元のスマートフォンへと移した。渚も隣の椅子に腰を降ろして、七瀬の指先が液晶の上を撫でるように動くのを、密かに見つめていた。


「――よかった」


 ふと、七瀬の口からそんな呟きが漏れる。


「どうかしたんですか?」

「今、部長からメールが届いたんだ。“昨日と今日と、異常はまったく無し”だって。よく眠れたみたい」


 “異常なし”。それは、先日の除霊が間違いなく正しいものだったという何よりの証明だ。

 メールの文面を読み上げる七瀬の顔を窺えば、そこには笑顔が浮かんでいる。部長の暮らしに平穏が取り戻されたことを心底喜んでいるようだった。

 他人の幸福を我が事のように喜べる――こんなところもやっぱり素敵だ。

 勿論自分も、彼に負けないくらいに嬉しい。こうして南部長からの吉報を聞いているだけで、やり遂げたという満足感が湧いてくる。


「何よりです。上手く除霊出来ていた、ってことですね」


 だがその一言で、七瀬の顔に陰が戻ってきた。


「“上手く”かぁ……」

「……先輩? すいません、変な事を言っていたら謝りま――」

「あ、いや、それは違うよ。渚ちゃんじゃなくて、これは僕自身の話だから」


 彼は慌てた様子で首を横に振った。表情は穏やかだったが、それは本心を隠すための仮面だと渚は思った。

 目を見れば何となく分かるのだ。今の彼は、何か迷っている時の目をしている。

 渚は何も言わないまま、七瀬の隣に座っていた。もしこのまま彼が何も口にしなければ、渚もあれこれと訊くつもりはない。だがもし彼が何かを打ち明けてくれたなら、その時は全力で話を聞くつもりだ。

 彼の心中を完全に知ることも、その悩みを完全に解決することも、非力な自分では出来ないだろう。それでも少しくらいは役に立てる筈だし、役に立ちたいのだ。自己満足と言われれば、それまでなのだけれど。


「――渚ちゃん」


 数秒、数十秒、あるいは数分が経過した頃だろうか。自分の名前が、七瀬の桜色の唇によって紡がれる。


「――はい」

「少し、話を聞いて欲しいんだ。……頼めるかな」


 渚は肯いた。断るという選択肢など、万に一つもある筈がなかった。


「ありがとう」


 そう応えてから、七瀬は神妙な口調で語り始める。


「……話っていうのは、僕らがやった除霊のことなんだ。ねえ、渚ちゃん。あの時僕らは、幽霊を追い出すことと成仏してもらうことと、二つの選択肢を持っていたよね」

「そうです。成仏してもらった方が幽霊のためにもいいという理由で、結局は後者を選びました」

「うん。それで僕は、自分を伝わせて幽霊を成仏させようとしたけど――結局、騙されていただけだった。もうすこしで死ぬかもしれなかったでしょう」


 その言葉からは、彼があのときの決断に後悔していることがありありと伝わって来た。


「……確かに実際は、私たちの考えは上手くいきませんでした。でもだからといって、成仏してもらった方が彼女のためになるという理由が、間違っていたとは言えないと思いますよ」

「……そうだね。確かにそうだけど……実は、他にも理由があったんだよ」

「他にも、ですか」

「……"怖かったから”って言ったら、渚ちゃんは軽蔑する?」


 そう言う七瀬の表情は、今にも割れてしまいそうだった。


「僕はあの時――内心、怖かったんだ。無理に追い出そうとして、反撃を受けるのが怖かった。だから、彼女が話の通じそうな相手だと分かったとき、ろくに疑いもせず信じこんだんだよ」


 その言葉は、渚よりも七瀬自身に対して告げられているように聞こえた。どこか、教会で懺悔をしているときと似ている。彼の一言一言が、見えない刃物になって、彼自身の心に刺さっていくのだ。


「他の人からすれば“優しい”風に見えるのかもしれないけど。でも自分にはよく分かるんだ。……こんなのは優しさじゃない。ただ臆病なだけだって」


 ――それは違う。

 自分の中で、誰かがそう叫んだ。


「結局、そのせいで僕は幽霊に騙されて……一歩間違えれば、渚ちゃんや部長まで危険な目に合わせるところだった。……情けないよね。ちゃんと考えていれば、気づけたかもしれないのに。無理矢理に追い出すまでいかなくったって、別の方法を探すことも出来た筈なのに」


 違う、違うのだ。

 幽霊を成仏させる方針は、七瀬だけでなく皆で決めたこと。それなら責任は全員にある筈だ。

 確かに自分は当初、彼に幽霊を取り憑かせる案には反対していた。だがそれは、彼を危険に晒したくなかったから。彼のためと見せかけて、裏を返せば単なる自分のわがままに過ぎないものでしかなかった。

 それに。幽霊の嘘に気付けなかったのは、こちらも同じだ。


「……ごめん。変な話を聞かせちゃって――」


 申し訳なさそうに七瀬は言った。話を切り上げるつもりなのだろう。


 ――そうはさせない。


「――七瀬先輩!」


 咄嗟に七瀬の手を取る。

 偉そうに何かを語る資格など、自分は持っていない。七瀬の全てを知っているわけでもない。

 だからこれから自分がすることは、きっと、単なる自己満足以外の何でもないのだろう。

 けれど渚は、我慢が出来なかった。


「そんなこと、言わないでください」


 自分の好きな人を、否定して欲しくなかった。

 両手で彼の手を包む。初めて触るその手は、自分のものより一回り大きくて少し骨ばっていた。

 突然の出来事に七瀬は驚きを隠せずにいた。次にこちらが口を開くまでに、彼がしたことといったら、数回の瞬きだけであった。


「先輩の言っていることは、確かにその通りなのかもしれません。けれど、一つだけ間違っています。――先輩は、絶対に臆病なんかじゃありません」

「え、でも――」

「先輩!」


 七瀬はビクリと身体を震わせた。その眼を見ながら渚が続ける。


「去年の夏を思い出してください。二人であの廃墟に入りましたよね。もし、本当に先輩が臆病だったなら――どうしてあの時私と一緒に来てくれたんですか。どうして、クローゼットから幽霊が跳び出してきた時に、私を庇ってくれたんですか」


 一年前。廃墟の前で、二人が予期せぬ再開を果たした日のことは、渚もよく覚えている。

 あの時、七瀬の表情には恐れが見えた。本人は隠していたつもりだったのかもしれないが、こちらから見れば丸わかりだった。

 だがそれでも彼は、一生懸命力になろうとしてくれた。危険を承知の上で手を差し伸べてくれた。

 一人きりだったあの時、彼の存在がどれだけ心強いものだったか。忘れようにも忘れられない。

 彼の誠実さに自分は救われた。そしてそここそが、彼に心惹かれた何よりの理由だった。

 たとえ本人の言葉であろうと、『彼は臆病だ』と肯定するわけにはいかない。そうしてしまえば、この想いまで裏切ることになるからだ。


「先輩が本当に臆病者だったなら、あんなことは出来なかった筈です」


 他人のために、恐怖を乗り越えることの出来る人――その優しさは、決して、弱さ故のものでは無い筈だ。断言してもいい。


「先輩は強い人です。私が保証します。だから、だから……そんな、自分を辱めるようなこと、もう言わないでください。こうして先輩と一緒にいれるのも、遡ってみれば先輩のおかげなんですから」


 彼の傍にいて、他愛のない雑談をするだけで、自分は幸せな気持ちになる。特別なことは何もいらない。楽しいことは他にも沢山あるのだが、自分の大学生活に最も大きな彩りを添えてくれるのは、間違いなく彼の存在だった。

 だから自分は、今の彼を肯定する。他人に何を言われようが、七瀬俊という人間の全てを受け入れる覚悟がある。――彼がこちらのことをどう思っているかに関わらず、だ。

 渚のそんな思いは、真っ直ぐに相手へと伝わったようだった。


「……分かった。ごめんね、渚ちゃん。そしてありがとう」


 憑き物が落ちたような表情で七瀬は言った。顔に差していた憂愁の影は消え、光が戻っている。安心させてくれようとしているのか、彼は小さく唇の端を持ち上げて、照れ臭げな笑みを浮かべてみせた。

 いつもの七瀬だ。やっぱり、こうしている時の方が、沈み込んでいる彼より何倍も素敵だ。


「……はい。……もしまた今回のようなことがあっても、大丈夫です。先輩は心配しなくていいですから」

「……? それはどういう意味?」

「え、えっとそれはですね。……あの、聞いても笑わないでくださいね?」

「そんなことしないよ。約束する」

「ありがとうございます。……わたしが言いたいのはですね、つまり、先輩が理不尽な目に合った時は――」


 ※


「“私が先輩を助けます”……って」


 夜。床に着いた七瀬は、昼間の出来事を思い返していた。

 最後に彼女が言った台詞を、口の中で転がしてみれば。蜜のような甘い味がする。


「〜〜っ!」


 じっとしていられない。布団の上で意味もなく転がったり、タオルケットをバサバサと振り回したりして、行き場の無い高揚を消費する。

 理不尽という言葉は、本来こんな時に使うのではないかと、錯覚してしまいそうになる。あれこそまさに理不尽な可愛さだ。

 こうして数時間を挟んでいてさえ、思い出すだけで胸が高鳴るのだから、重症もここに極まれりである。その時の光景と声とが脳裏に押し寄せてきて、途端に何も考えられなくなり、バカになってしまう。

 だってそうだろう?

 自分の好きな人から、至近距離で見つめられてあんな台詞を言われれば、誰だって心を撃ち抜かれる筈だ。

 彼女の瞳は、今でも鮮明に思い出せる。そこに広がっているのは、透き通る月明かりを丸ごと凝縮して作り上げたような、温かく淡い夜の色。


「……あれは、反則だって」


 今日のことは絶対に忘れられないだろう。奥底に刻み込まれたあの瞬間は、決して風化することなく、自分の命が続く限り覚えているに違いない。

 彼女の言葉には、自分があれこれと悩んでいた事の全てを、吹き飛ばしてしまうくらいの力があった。自己嫌悪に陥りかけていた自分に、確かな自信を与えてくれた。それへの感謝と、元から持っている気持ちとが相乗効果を引き起こして、ますます愛しさが募る。

 “好きです”と、一言伝えられたら。どんなにかいいことだろう。

 だが、言うは易し行うは難し。告白は、七瀬にとってあまりにもハードルの高い挑戦だった。

 もし断られたら、という事を想像してしまうのだ。失敗した場合二人の仲は、とてつもなく気まずいものとなるだろう。それはすなわち、今まで歩んできた道のりが、儚くも瓦解することを意味する。部室でどうでもいい話をして笑い合ったり出来なくなるかもしれない。

 今の七瀬に、そんなリスクを背負うだけの勇気は無かった。仲の良い先輩と後輩、という心地よい間柄が、いつかは上がらなければならないぬるま湯のようなものだと知っていても。


 ――やっぱり自分は臆病なのかもしれない。


 当たって砕けるぐらいなら、いっそこのままで――――どうしても、そう考えてしまうのだった。


「…………いくじなし」


 タオルケットに顔を埋め、呟いたその言葉は、誰にも届くことは無い。



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