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徒然怪奇譚  作者: どくだみ
四夜:角部屋の女霊
36/55

角部屋の除霊

 その日の夕刻、七瀬は再び部長の部屋を訪れていた。

 皆目見当がつかなかったために、とりあえず放置していた一つの謎が、まだ未解決のままだったことを思い出したからだ。

 何故、あの幽霊は部長の部屋へと現れたのか。

 当の幽霊自身にもその答えは分からないようだった。南部長を襲った理由も、ただ単にそこにいて気に入らなかったから、という理不尽かつ単純なもの。二人の間に確執があった訳でもなければ、何か縁があった訳でもない。赤の他人と言っていい関係だ。

 そうなれば次に怪しいのは、部長の部屋ということになる。住人に瑕疵が無くとも、間取りや立地条件で幽霊を呼び込んでしまった……なんてことは、意外に少なくない話だ。建物に霊道が通っていた。すぐ隣が墓場だった。例を挙げて行けばキリがない。

 最初の怪奇現象は寝室で起こった。なら、寝室を見れば何か分かるかもしれない。その考えを部長に伝えると、彼女はためらうことなく肯いて、七瀬を招き入れてくれたのだった。


 幽霊がいなくなったことで、部屋の雰囲気も清涼なものに戻っていた。

 開け放たれた窓から外の新鮮な空気が入ってきている。部長曰く、気分を一新するための換気だそうだ。その甲斐あってか、数時間前まで漂っていた嫌な感じは、最早完全に払拭されていた。

 ちなみにだが、弱い幽霊くらいなら、換気をすることで部屋から追い出すことが可能だ。換気とは書いて字の如く、部屋の『気を入れ換える』ということ。淀んだ気を澄んだものに交換すれば、そこは幽霊にとって居心地の悪い場所になる。妙な執着心でもない限り、自ずといなくなってくれるのだ。

 大多数の人には、幽霊云々なんてのは眉唾物の話に聞こえるかもしれない。だが、科学的にも換気はいいことであるとされる。閉め切っているとすぐカビが生えてくる、風呂場や洗面所などの水回りは勿論のこと。普通の部屋でも、生活する内に色々な臭いが染み付いていくものだ。清潔感を保つためにも、換気は大切なのである。

 後半部分は、どこかで聞きかじった程度の知識だけれど。


「そういえば、もう気分は大丈夫なのか?」


 部長が言った。朝出会ったときは寝巻きのままだったが、今は着替えて、いつも通りの私服を着ている。


「大丈夫です。少し休んだらよくなりましたよ」


 実はまだ、絞められた首に若干痛みが残っていたりするのだが、心配をかけてもいけないので黙っておく。幽霊はもう消滅している訳だし、放っておいてもおよそ問題ないだろう。身体を休めればすぐに治る筈だ。

 とりあえず、今夜はゆっくり風呂に入ろうと思う。


 部長が寝室の扉を開けて、七瀬の方を振り向いた。


「入っていいぞ」

「えっと、じゃあ、失礼します」


 自分から頼んでおいて何を言っているんだという話だが、妙齢の女性の寝室に入るのは、少しばかり緊張した。

 勿論、部長に対してそういう感情がある訳ではない。しかし、“寝室”というだけで、どこか他人には触れ難い聖域のような感覚を覚えてしまうのだ。

 “親しき仲にも礼儀あり”という諺だってある。誰であれ、相手のプライベートな領域に立ち入る時には、気を配るのが常識というものだろう。


「私がいると邪魔になるか?」

「……そうですね、特には。むしろ付いていてくれた方がありがたいです。触られたくないスペースとかあるでしょうし」

「分かった」


 部長が肯いて、後ろ手に扉を閉める。

 部屋は住人の性格を表すそうだが、此処もまた御多分に漏れず、部長らしいさっぱりとした雰囲気だった。

 入って正面にはベランダへ続くガラス戸。左手にはベッドと、そのすぐ上に窓がある。対して右手には、それなりに大きな姿見が置かれていた。

 散らかりとは無縁の空間。スペースに余裕がある訳ではないものの、寝室全体が小奇麗に整えられて、清潔感に満ちている。

 一目見回しても、引っ掛かる所は一切無かった。霊道が通っている訳でもない。窓の外に墓場など、勿論在りはしない。幽霊を呼び込んだ原因は、部屋の作りではなさそうだ。


「何か見つかったか?」

「……いえ。今のところはまだ何も。部屋そのものに原因があるわけではなさそうなんですが」


 そうなると次に疑わしいのは、家具やその他の小道具ということになる。

 ふと、姿見に目が留まった。左右逆の寝室がそこには映っている。七瀬は身体を近づけ、鏡面に手を這わせてみた。鏡には魔力が宿る――なんていう話を聞いたことはあるが、目の前の姿見から特別何かを感じるわけでもない。

 これではないみたい――そう思って、七瀬が興味をなくしかけた時。

 ふと、鏡の中のある一点に目が止まった。


「――もしかして」


 ベッドのすぐ上にある窓と、この姿見とが、ちょうど向かい合わせになっていたのだ。

 トリックじみた一つの仮説が、頭の中で組み上がり始める。

 残された最後のピースが音を立てて嵌まった。そうして辿り着いた結論は、理不尽なまでの偶然によって成り立っていた。


「――部長」

「どうした」

「この部屋で初めて怪奇現象が起きた時、部長は月を見ようとしていたんですよね」

「ああ。それは朝にも話した通りだが――そのことが、何か関係あるのか?」

「あるのかないのか、今から確かめます。――それで部長、一つだけ頼みたいことが」


 まだ、それが真相であるという確証はない。今の段階では仮説に過ぎない。だからこそ、自分の考えていることが本当に成立するかどうか、確かめておきたかった。


「月を見ようとしていた時の様子を、出来るだけ再現して欲しいんです」

「あの時の――? まあ、構わないが……。思いだすからちょっと待ってくれ」


 暫く頭に手を当てて考え込んだ後、部長はおもむろに部屋の反対側へ向かった。そして、寝心地の良さそうなベッドに身体を預けて横になった。


「たしか、私はこうやって寝転がっていた筈だ。そして、月を見ようと思って上半身を起こした。……こんな風にな」


 説明に沿って起き上がると、そのままカーテンに手を伸ばす。


「……で、こう、カーテンを開いたんだ。それから私は電気を消そうとして振り返った。その時――」


 部長の指が、真っ直ぐに姿見を指し示た。


「鏡の中に何かが映っていた。黒い霧みたいな何かが」


 当時の光景が頭の中に甦ってきたのか、彼女は小さく身震いをして、話を終えた。


「ありがとうございます。……すいません、思いださせてしまって」

「いや、いい。何かを確かめるのに必要だったんだろ。――それで、何か分かったか?」

「はい。この部屋に幽霊がいた原因を、部長のおかげで特定出来ました」


 七瀬は言った。

 今しがたの実演は、七瀬の考えを裏付けるのに十分なものだった。部長の証言と状況とを合わせて考えれば、可能性はたった一つに絞られる。仮説が確信に変わった。


「これは――合わせ鏡です。合わせ鏡が、近くを彷徨っていた幽霊をこの部屋に呼び込んでしまったんです」


 ※


「合わせ鏡……って、ちょっと待ってくれ七瀬。それはおかしくないか」


 南部長が手を上げて、七瀬の説明を中断させた。


「合わせ鏡が何なのかは私にでも分かる。二枚の鏡を向かい合わせにした、あれのことだよな。鏡が鏡を映して、その繰り返しがどこまでも続いていくやつだ」

「そうですね。夜中の二時に合わせ鏡をすると魔物が飛び出てくる、とか、オカルト的な噂には尽きません」

「だけど、七瀬。この部屋にある鏡はあれだけだ。一枚ぽっちでどうやって合わせ鏡を――」


 そこまで言ったところで、唐突に部長は口を閉ざした。窓に視線を向ける。次いで、心中の驚きを表すかのように瞳が見開かれた。唇の間から、小さな独白が漏れる。


「――そういうことか」


 七瀬が気付いたことと同じことに、聡明な南部長も思い至ったようだった。


「なるほどな。だから、あのタイミング(・・・・・・・)だったのか」

「確認しますか」

「ああ。――二枚目の鏡がどこから出てきたのか、だが」


 確信に満ちた動きで、南部長はすぐ横の窓に手を当てた。


「この窓が鏡になった。だな? 七瀬」

「はい。間違いないと思います」


 七瀬が頷いた。

 こちら側が明るく、向こう側が暗い場合、ガラスは鏡のような働きをする。このことは、夜にカーテンを開けてみれば分かりやすいだろう。そこには夜闇に包まれた屋外ではなく、電灯に照らされた室内の光景が映っている筈だ。

 それと同じことが、この部屋でも起こった。


「月を見ようとカーテンを開けた……その瞬間に、この部屋の中で合わせ鏡が出来上がったんです。それが、あの幽霊を部屋に入れる原因になった」


 姿見と窓。本来ならこの二つは、向かい合わせになった所でどうにもなりはしない。

 しかし、夜ならば。窓ガラスは即席の鏡となって、意図せず合わせ鏡が生じてしまうのだ。簡単に作れるから過小評価されがちだが、合わせ鏡も立派な呪術の一つだ。幽霊の一体や二体、招き入れるだけの力はある。

 部長と幽霊の間には、本当に何の関係もないのだろう。寝室に偶然合わせ鏡が出来上がった時、偶然近くを幽霊が通りかかった。

 そうして幽霊はこの部屋に入り込み、今日の早朝、部長へ牙を向いたというわけだ。


「つまり――私はただ単に、運が悪かったんだな」

「はい。誰が悪いわけでも、なかったんです」


 偶然の重なりが引き寄せた不運。それが七瀬の辿り着いた結論だった。内と外とで分たれた明と暗。その違いが、何の変哲もない窓ガラスを、一瞬の間だけ鏡として存在せしめたのだ。

 もし、カーテンを開ける前に電気を消していたなら。

 もし、合わせ鏡が出来た時に幽霊が近くを通らなかったら。

 きっと何事もなく、部長は月を眺めていたのだろう。

 それは“理不尽”と言い換えることだって出来るかもしれない。

 何故なら彼女がしたことと言えば、ほんの少し月を見ようとカーテンを開けた、ただそれだけなのだから。

 どうして彼女に、責任を負わせられようか。


「……そうか」

「……大丈夫ですか?」

「うん……まあ、もう終わったことだ。アレコレ考えても仕方ない」


 部長はため息をついた。納得は出来ても、やりきれない思いがまだ残っていることが、傍から見ていてよく分かった。


「……よし。あの鏡を動かすぞ。もうこんなことになるのは勘弁だからな」


 膝と手を打ち鳴らして、部長が立ち上がった。


「手伝います」


 二人で力を合わせて姿見の向きを変える。二度と、この偶然が繰り返されないように。

 かくして南部長の平穏は、再び無事に確保されたのだった。


 ※


 七瀬が帰って三時間後、南理恵は壁にもたれ掛かって、一人スマートフォンの画面を眺めていた。

 そこに映っているのは、0から始まる11桁の数字。恋人の携帯の電話番号である。彼は今遠方に出掛けていて、ここ数日は会えない状況が続いていた。

 率直に言って寂しい。文芸部の親友たちでは、どうにも誤魔化せないタイプの寂しさだ。それでも、別に今生の別れではないのだからと自分に言い聞かせ、今日まで過ごしてきた。

 だが今、理恵は無性に恋人に会いたかった。彼の顔が見たい。そして思いっきり抱き締められたい。

 夜になったことで、死に触れられた昨夜の出来事を思い出してしまったのだった。七瀬と渚のおかげで幽霊はいなくなり、大元の原因も取り除いている。既に安全は、理恵の手の中に戻っていた。

 だからもう、怯えることはないと分かっているのに――今夜、ぐっすり眠れる気がしない。

 好きな人に。自分を守ってくれる人に、傍にいて欲しかった。

 指が受話器のマークに触れて、恋人へと電話がかかる。一回一回のコール音がとても長く感じた。息を止め、祈るような気持ちで、彼の声が聞こえてくるのを待った。

 そして。


『――もしもし、理恵?』


 数日ぶりに聞いたその声は、たちまち理恵の心を鷲掴みにしてしまう。彼女が待ちわびていた響きに間違いなかった。


「もしもし拓哉? 今、少し時間いいか。……ちょっと話したくなって」


 そう言うと、彼――本庄 拓哉は『勿論いいよ。何を話そっか?』と応えてくれた。

 暫くの間は、とりとめのないことを話して過ごした。彼が外出先でどんなことをしたのか、等といった他愛のない内容である。

 そうしている内に、理恵は昨夜のことを思い出した。

 自分が幽霊に襲われ、もうダメかと思ったあの時のことだ。彼が電話をかけてくれたおかげで、自分は部屋から逃げだすことが出来た。

 履歴が残っていなかったあたり、あの着信音は、恐怖から来た幻聴かもしれない。

 一応、確かめておこう。


「なあ拓哉。今朝の二時ぐらいに、何かしてたか?」

『二時? そのころはホテルで寝てたけど……何かって、例えば?』

「……私に電話をかけたりとか」

『理恵の迷惑になるじゃんか。俺はそんなことしないよ』


 それもそうだ、と思った。彼は自分の都合よりも、こちらのことを考えてくれる人だった。

 やっぱりあの着信は、気のせいか何かで――。


『――あ、いやでも、電話はかけたね』

「え?」

『夢の中で、だけど』


 電話をかける夢を見た……そういうことだろうか。


『俺もよく覚えていないんだけど、理恵に電話をかけなくちゃならない、って強く思ったんだ。それで理恵の携帯に電話をかけて……理恵が出る前に夢が終わった。気付いたら朝になってたよ』


 理恵は言葉を失った。履歴には残らない着信があった、ほぼ同時刻に、その相手は電話をかける夢を見ていたというのだ。

 単なる偶然とは思えなかった。

 拓哉が夢の中からかけた電話が、現実の携帯へと繋がった――そんなことを思い浮かべる。

 昨日までの理恵なら、あり得ないと一笑に伏していただろう。だが今日彼女は、怪奇の存在を知った。この世には、時に常識では考えられないことが起きると実感したのだ。

 理屈ではなく、直感的に。彼が助けてくれたのだと感じた。

 本人には自覚など無いのだろう。けれどもそんなことはどうでもいい話だった。

 彼が自分を守ってくれていた。そのことが、会いたい思いを加速させる。


「なあ、拓哉」


 気付けば、口にしていた。


「今から――私の所に来てくれないか?」


 堰を切ったように、彼への想いを唇が紡いでいく。

 止まらない。


「……会いたい。すぐにでも、拓哉に会いたいよ」


 迷惑だということは分かっていた。

 彼はついさっき、こちらに帰ってきたばかりなのだ。ゆっくり休んで疲れを取るべきなのだ。

 けれど、一度溢れた感情を再び元に戻すことは、不可能な話だった。


『――分かった。今からそっちに行くよ』


 理恵の口調に並々ならぬものを感じたのだろう。彼からの返事はたったそれだけ。

 アレコレと追及してこない優しさに、ますます愛しさが募る。

 電話が切れた。理恵は耳元からスマートフォンを離して目の前にもってきた。液晶に表示される恋人の名前、“本庄拓哉”の四文字。そこから彼の顔を思い浮かべるのは、彼女にとって造作も無いことだった。

 そうしていると、玄関のチャイムが鳴った。


 ――誰だろう?


 夜に訪ねてくる相手に心辺りは無い。拓哉にしては早過ぎる。通話が終わってまだ一分も経っていないのだから。

 玄関に向かい、念のためにチェーンロックをかけてから扉を開けた。

 直後、言葉を失う。


「――――え」


 そこには想い人の姿があった。照れ臭げな笑みを浮かべて、目の前に立っていたのだ。

 幼馴染、そして恋人として過ごしてきた二十年弱の月日が、彼は本物だと告げていた。それでもなお自分の目を疑ってしまう。

 会いたいと言ってからこんなにすぐ来てくれるなんて――まるで魔法みたいだ。


「――驚いた? 実は理恵から電話がかかってきた時、もうマンションの入口まで来てたんだ」


 拓哉は持っていた紙袋を掲げてみせる。


「お土産。早めに渡しとこうかなと思って――」


 正直なところ、彼がここにいる理由など何でも良かった。存在だけで十分心は満たされる。この瞬間、彼に関すること以外の全てが、頭の中から追い出された。

 チェーンロックを外す時間さえ惜しい。自身と彼とを分つ最後の鎖が解錠されるや否や、理恵は扉を開き、愛する人の胸元へと飛び込んだ。突然のことに彼は一瞬よろめいたが、すぐに体勢を立て直して、彼女の身体をしっかりと支えてくれた。

 わがままな自分も、欲深い自分も、まとめて受け止めてくれる人。

 思いきり抱きしめる。互いの口元が、互いの耳元にあった。


「それにしてもどうしたの? いきなり会いたいだなんて」

「……私にだって、そういう時があるんだ。……女なんだぞ」


 応える理恵の目元から流れ落ちた一滴の雫は、その存在を誰にも知られることのないまま、夜の闇へと溶けていった。

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