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徒然怪奇譚  作者: どくだみ
四夜:角部屋の女霊
35/55

除霊オペレーション:結

 冷たさとは死の象徴である。人の身体は命が尽きれば冷たくなるし、幽霊が近くにいれば、霊感の無い人でも寒気を覚える。その他、気温的な話をすれば、エベレストの頂上や南極大陸はおよそ生命の気配無き極寒の地だ。生存を否定してくる何かを目の前にすれば、人は本能的に恐怖する。

 朦朧とする意識の中。七瀬が感じていたのは、上半身を包むように存在する底抜けの冷気だった。

 どれだけ藻掻いたところで、自分を絞め殺そうとする力が弱まりそうな気配は一切なかった。必死に息を吸おうとするが、それもまた無力な足掻きに過ぎない。すぐに耳の奥がキーンとなって、走馬灯がちらつき始める。

 死が、目の前にまで歩いて来ていた。

 だが視界が完全な真っ暗闇になる寸前、急に、七瀬の首は力から解放された。


「……っ!……げほっ!」


 同時に金縛りも解けて、七瀬は本能的に息を吸い込んだ。咳が出る。恋い焦がれていた酸素が、急激に肺へと流れ込んで、むせる。それでも身体は、むさぼるように空気を求めて、激しく呼吸を繰り返していた。

 全身に酸素が行き渡るに連れて、視界も次第に落ち着きを取り戻していった。喘ぎながら喉元に手を当て、もう絞め付けられていないことを確認する。

 そこでようやく、背中に何か温かいものが当てられていることに、七瀬は気が付いた。

 それは二人分の掌。身をゆだねてしまいそうな程に心地いい気が、触れている箇所から、絶えず七瀬の身体へと注ぎ込まれていた。幽霊の冷気はたちまちに相殺されて、残るは憑依されていることを示す倦怠感のみとなる。


「――い! ――ぱい!」

 

 誰かが自分の名前を呼んでいる。


「――七瀬先輩――!」


 振り向いて確かめずとも分かった。渚と南部長が、自分を死の淵から引っ張り上げてくれたのだと。

 二人分の気がこのまま七瀬の全身を満たして、幽霊を押し出すに至るかと思えた。だがその希望を抱けたのはわずか一瞬の間のことで、幽霊が抵抗を開始するやいなや、二つの力は拮抗状態に陥った。

 どちらも一歩とて引かない。せめぎ合いの余波は七瀬にも及んで、落ち着いていた景色が今度は二重三重にぼやけて見え始める。車酔いに似た感覚がする。お世辞にも心地いいとは言えない。

 だがそれは、見込みがあるという証でもある。

 渚と南部長、そして、二人が持っているであろうお守りと荒塩。こちら側が持つ四枚の手札は、既に全て切られている状態だ。もし幽霊にこれ以上の力があれば、憑依を解くことは難しくなるだろう。しかし今、両者はほぼ互角の状態にある。

 つまり、あと一つ。

 あと一つ何かの力を借りることが出来さえすれば、天秤はこちらに傾く。

 取り憑いていた肉体から離れる時、幽霊は一瞬だけ無防備になる。そこを狙って、形代へと吹き込むことが出来れば……その意思に関わらず強制的に、幽霊を形代へ移すことが出来るかもしれないのだ。


 ――何かないか。


 周囲に目を走らせる。シャンと伸びた緑色の葉が、ふと七瀬の視線に留まる。

 陽の光を一心に浴びて、瑞々しく艶めく菖蒲の葉が、幸運にも手の届く位置にあった。それは――古くから、魔除けの力があると伝えられてきた植物だ。

 咄嗟に手を伸ばして、水際に生えている菖蒲の葉を掴んだ。清涼な感覚が掌から伝わってきて、七瀬の全身へと浸透していく。それに合わせて、視界も再び落着きを取り戻した。

 迷わず形代に息を吹きかければ、女性の声で舌打ちが聞こえたのを最後に、ふっと身体が軽くなる。幽霊が手元の紙へと、吸い込まれるように入っていくのが分かる。

 成功だ。

 そう確信して、形代を川へと流した。人型の紙は暫く水面に浮かんでいたが、段差になっている辺りで流れに飲み込まれて、それっきり見えなくなった。


 ――終わった。


 ようやく終わったのだ。幽霊の企みに引っ掛かって紆余曲折、あげくには生死の境を彷徨いかけたけれど、ひとまずは皆無事に。

 あの幽霊がもう戻って来ることはない。部長も今夜からはよく眠れるはずだ。そして、七瀬は今も生きている。

 それこれも、渚や部長が助けてくれたからこそ、為し遂げ得たことだ。仮にもし二人がいなければ――いや、一人でもいなかった場合――自分は幽霊に取り込まれていただろうから。

 想像しただけで怖気が走るような結末。回避することができたのは、本当に運が良かったと言えるだろう。

 二人へ感謝をしたくなって、七瀬は後ろを向こうとした。

 だがそれより早く、七瀬の手首を誰かが掴んだ。そしてそのまま、有無を言わさずに引き寄せた。

 七瀬が振り向いてみれば。片手で彼をしっかと掴み、もう片方の手で巾着袋を握り締める、今にも泣きそうな顔をした後輩の姿が、すぐ目の前にあった。向き合って、七瀬が無事であることを確認した彼女の瞳から、透明な二粒の水滴が瞬きと一緒にはじき出された。


「――渚ちゃん」


 自分に向けられた眼差しを見て、即座に思い知る。

 幽霊を取り憑かせると提案したとき、彼女がどれだけ心配していたか。

 幽霊のされるがままになっている七瀬を見て、彼女がどれだけ不安だったか。

 そして――全てが無事に終わって、彼女が今どれだけ安心しているか。

 人一人分の心が、それら三つの感情全てを詰め込めるだけの容量を、持っている筈がなかった。自分が彼女に強いていたのは、過剰なまでの精神的負担。後悔に胸を貫かれて、言おうとしていた言葉は喉の奥でつっかえたまま、すぐには出てこなかった。

 沈黙は時に雄弁となる。こうして見つめているだけで、彼女の思いが痛いくらいに伝わってきた。


「先輩」

「その……ごめん」


 結局。申し訳ない思いの方が、感謝よりも先に口をついて出た。


「僕、大丈夫って言ったのにこんなことになって。騙されたまま、最後までそのことに気づかなくって。渚ちゃんの気持ちを、全然分かってなかった。……心配掛けたよね。――でも、助けてくれてありが――」


 七瀬は最後まで言う事が出来なかった。

 言い終わるよりも早く、渚が七瀬を思いきり抱きしめてきたからだ。


「え、あ――」


 突然のことに、七瀬も何が何だか分からない。

 後ろに倒れてしまわないよう気を付けるのが精一杯だった。


「えっと……渚ちゃん?」

「……すいません、先輩。私はわがままです」

「え?」

「本当なら、先輩は今すぐにでも、休まないといけない筈なんです。私のことなんて、後回しにしないといけないんです。……でも……我慢出来ません。だから、ほんの少し……少しの間だけ……」


 七瀬の胸元に顔を埋めて、途切れ途切れの声で言う。所々でしゃくりあげる。

 まるで、溢れ出しそうな感情を、必死に食い止めているかのようだ。


「このままで、居させてください」


 七瀬だけにしか聞こえないような、か細い声だった。


「分かった」


 短く応えてから、渚の気が済むまで、自身の所有権を彼女に預けることにした。

 幸か不幸か、ここに来るまででだいぶ汗をかいたため、シャツはじんわりと湿っている。渚にとっては、心地の良いものではないかもしれない。だがおかげで、多少追加で塩水――例えば涙のようなもの――を吸ったとしても、他人から見ればそれは分からない筈だった。

 ふと七瀬が視線を上げれば、声をかけあぐねている様子の南部長と目が合う。


「部長」

「うん?」

「さっきは助かりました。ありがとうございます」


 七瀬たちと違って、南理恵という人間に霊感はない。

 今回彼女にも霊が見えていた理由は推測するしかないのだが、おそらく、幽霊が彼女の部屋にいたせいで、縁のようなものが出来ていたからだろう。

 霊感が無い人間でも、時として先祖の霊なんかを見てしまったりする。それと似たことが、部長にも起きていたのだ。


「いや、むしろ助けられたのは私の方だ。感謝してる。あと……七瀬、お前が無事で何よりだ。あんまり私らを不安にさせてくれるなよ? 寿命が縮んでしまう」


 ただやはり、七瀬や渚と違って、部長は霊に慣れていない(・・・・・・)。その分恐怖も強い筈だ。

 にも関わらず、渚と共に自分を助けようとしてくれた。その事が素直に嬉しかった。


「心配をかけました」

「うん、許してやるから、暫くそうやってじっとしてろ」


 言いながら、そっと渚を指さす。言いたいことは何となく分かった。

 渚の背中に腕を回して、優しく肩の辺りをさすった。すると応えるように、抱きしめてくる力がさらに強くなる。


「先輩、知っていますか」


 顔は上げないまま、渚が言った。


「……“柊”は、魔除けにもなるんですよ」


 細く、けれどもしっかりとした声で、そう伝えてくる渚のことが、割れそうな程に恋しく感じて。七瀬は腕に力を込め、彼女を抱きしめ返した。

 一瞬、その肩がビクリと震えた。だがすぐに渚は、体重を七瀬の方にかけて、自分自身の身体を委ねてきた。

 そうしてそのまま、何も言わずに、互いの体温を確かめ合った。

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