夏の名残り
七瀬が祖母の部屋に呼ばれたのはその翌日、実家から帰る日の朝だった。
部屋の敷居を跨いでから後ろ手で障子を閉める。祖母は手の動きで七瀬に座るよう促すと、持っていたものを差し出してきた。
群青色の巾着袋。大きさは丁度手の平に収まるくらい。表面には金色の刺繍糸が、流れ星の軌跡のように縫い込まれている。七瀬が手に取ってみると、どうやら中に何か入っているようだった。
「お祖母ちゃん、これ」
「昨日、婆ちゃんが夜なべして作ったものよ。中身が何か、分かるかい」
「え。……っと、何だろう。何だか固いよ」
「ええよ、出してみんさい」
袋の口を開けて逆さにした。アーモンド大の黒い粒が三つ、そこに姿を現す。
「これ」
「ん」
「昨日、サクちゃんから貰った種」
「お守りって言うとったけん。ずっと持っとくには容れ物がいるじゃろう。それでよければ使いんさいな。そのまま持っとるよりかは幾分良かろ」
「うん……。ありがとうお祖母ちゃん。大切にする」
「そう改まって言われると何だか照れ臭いねぇ。……でな、俊」
名前を呼ばれて顔を上げると、祖母と目が合った。心なしか真剣な表情をしていたので、ここからは真面目な話なのかなと子供心に察した。
「昨日、夜に散歩に出たじゃろ。その時俊、道に誰かおるのを見つけよったね」
昨夜のことだから、七瀬もよく覚えている。結局あの後、引き返した理由は聞けずじまいだった。
「うん、白い服を着た人だったよ」
「実はその人の姿、婆ちゃんにはどうしても見えんかっての。目が悪いんかとも思うたが……こんなことが、前にもあったことはあるかい?」
「……どういうこと?」
「俊には見えとるのに、周りの人にはそれが見えてないっつうことよ」
「僕にしか見えないものがあったこと? そんなのあるわけないよ。だって、もしそんなのがいたら、まるで……」
――幽霊みたいじゃない。
冗談のつもりだったのだけれど。祖母は笑わなかった。
「“幽霊”……かもしれんのよ。昨日、あそこで俊が見たもんは」
「うそ」
笑いとばそうとして顔が引きつる。氷水を頭からかぶったような感覚と共に、昨夜の記憶が思い起こされて、そして一つのことに気づいた。
夜闇の中で――ましてそれなりに距離が開いていた相手の服が、どうして白いと分かったのだろう。
考えれば考えるほど恐ろしくなってくる。途端に部屋の気温が下がったような錯覚に襲われて、体を強張らせた。いつもは気にも留めない蝉の鳴き声がやけにやかましく響いて聞こえる。
「……俊、……俊。そんなに怖がらんくてもええ。お盆じゃけの。どこぞの御先祖さんが戻ってきたんかもしれん」
祖母の手が種と一緒に七瀬の手を包みこんできた。それはしわくちゃの手だけれど、世界で一番か二番の優しさを持っている。
おかげで、少しばかり恐怖が和らいだ。
「大切なのは気を確かに持って、堂々としとることよ。昨日のことは忘れてしまいんさい。それが一番ええ。……ここにお守りも、あることじゃしのう」
「サクちゃんの種……これを持っていれば、大丈夫?」
「うむ。その種を持っとって、俊はどんな風に感じるかえ?」
「何だか……あったかいよ。不思議とホッとなってくるんだ」
「なら、ええ。そのお守りはきちんと俊を守ってくれる」
「そんなのでいいの」
「十分よ」
力強く頷いてから、祖母が続けた。
「あれこれと難しゅう考えるより、気持ちで決めた方がええこともある」
文字に書き起こしてみれば、一見無責任な文言のように思えるけれど。穏やかでありながら揺ぎ無い口調で告げられたその言葉は、一人の小学生を安心させるには十分なものだった。
以前小耳に挟んだ話では、幽霊とは気持ちの塊みたいなものであるらしい。ならば祖母が言うように気持ちを強く持っていれば、幽霊が見えても、そんなことが今後再び起きても、大丈夫だと。自然とそんな確信が、心に湧き上がってきた。
遠くで母親が自分の名前を呼んでいる。そろそろ帰らなければならない。
「おや、そろそろ時間だねぇ。向こうでも元気におやりよ」
「うん。……バイバイ、また来年ね」
微笑む祖母に手を振って、七瀬は部屋を後にした。左手にお守りの種が入った巾着袋をしっかりと握りしめて。
そのまま玄関に向かって靴を履き、外に出てから後ろ手に実家の扉を閉める。
ガチャリという音。
それは同時に、短くも濃密な一夏の冒険が、その幕を閉ざした合図でもあった。




