逢魔が刻のニアミス(2)
「散歩に行かんかね」
優しく肩を叩かれて、ようやくそれが自分に向けられた言葉なのだと気づく。
時計の針は七時を微かに過ぎていた。つい先ほど夕食を食べ終わって、今は居間で一息付いているところだ。
テレビでは夏らしく心霊特番を放送していた。おどろおどろしいBGMがかかって、ブラウン管の中から芸能人の悲鳴が聞こえてくる。『お分かりいただけただろうか』。何度この台詞を耳にしたかもう覚えていない。
七瀬が振り向くと、そこには穏やかに微笑んだ祖母の姿がある。
「随分と涼しくなってきよる。出歩くには丁度ええ頃合いじゃろ」
太陽はもう山の向こうに沈み、わずかな残滓だけが空に残っているばかりだった。対して、夜の気配がその反対方向からじわじわと強さを増している。七瀬のいるこの空間は今まさに昼夜の境目に位置しているのだ――と言ってみれば、どことなくファンタジーチックだ。
網戸を通って吹いてくる風が、汗ばんだ体に心地いい。誘いを断る理由はないだろう。
「うん、行くよ」
七瀬は答えると、近くにあった団扇を持って立ち上がった。
※
「学校は楽しいかい?」
コンクリートで舗装されていない、まさにあぜ道と呼ぶにふさわしい道を二人は歩いていた。
両脇には一面、見事な田んぼが広がっている。そよ風に合わせて稲の葉が一斉になびいたかと思えば、二人の足音を察知した蛙が田んぼへ跳び込んでいった。水音、一つ。耳の奥まで沁みわたる。
「楽しいよ。休憩時間はいつもみんなで遊んでる。ドッヂとか、泥団子を作ったりとか」
「仲良うしとるんね」
「もちろん!」
「うんうん、ええことええこと」
祖母は何度も頷いた。辺りは薄暗かったけれど、その顔に満面の笑みが浮かんでいる事が、何となく七瀬には分かった。
「友達っちゅうのは宝物じゃけん。大切にせんといけん」
こちらに語りかけてくるようで、また独り言のようでもある。返事をしていいものかどうかよく分からないまま、しばらく田舎道を歩き続けて、やがてその会話はうやむやになってしまった。
※
山の麓に差し掛かった。
逢魔が刻に見る山々の景色というものは、どうしてこうも不気味なのだろう。昼間は子供心をくすぐる雑木林も一転して魔物の巣窟のように感じてしまう。枝の間で赤い瞳が煌めく想像をしてしまって、七瀬はそっと視線を逸らせた。
足もとの地面はゴツゴツとしている。長い間放置されたアスファルトが、雨風にさらされて削られたのだろう。転んだらとても痛そうだ。
その時ふと。二人の進む先に、七瀬は長身の白い人影を見つけた。
彼、あるいは彼女は――ここからでは横を向いていることが分かるだけで判別出来ないが―――宙に浮いているように見える。よくよく目を凝らせば、ただ単に、何かの上に腰掛けているだけだったのだけれど。一瞬妖怪か何かと思ったので、それに気づいてホッとした。
「あそこに誰かいるね」
「うん?どこだい」
「ほら、あそこだよ」
「あそこって言われてもねぇ、ばあちゃん目が悪いから……」
祖母は体を前屈みにして、七瀬の指が差す先を凝視した。だがそれでも、その眼には人影の姿が映っていないのか、おかしいねぇと首を傾げる。
不思議に感じたのは、七瀬も同じだ。
――あんなにはっきり見えてるのにな。
心の中でそう呟いたのがもしかすると届いていたのだろうか。白服の頭が途端に、錆びついたロボットのような、ぎこちない動きで回り始めた。金属の擦れるあの音が頭の中で再生された。
そして七瀬の方を向く。
寒気がした。
同時に、祖母が七瀬の手を強く掴んだ。突然のことに訳も分からず、そのまま引き摺られるようにして七瀬は来た道を戻らされる。段差に躓いて転びかけた。
「帰るよ」
「え、でもおばあちゃ」
「しばらく、口を塞いどきんさい。親指の先も隠して」
有無を言わせぬ迫力だった。こんなに険しい表情の祖母を、七瀬はこれまで見たことがない。言われるままにもう片方の手でグーを作り、早足の祖母に必死でついて行く。
後ろを振り向きかけて止めた。祖母の呟きが耳に入って来たからだ。
「夜中に墓場におるなんて、きっと録なモンじゃないよ」




