清楚な緑の朝
気付いた時、七瀬はどこかの公園にいた。
公園と言えば子供たちの活気に溢れた空間を思い浮かべるだろうが、ここの様相はまさしく殺風景の一言に過ぎた。砂場には崩れかけのお城。頂には朽ちかけたおもちゃのスコップが突き刺さっている。ブランコと滑り台の支柱はびっしりと錆で覆われ。人の管理を離れて長いことが容易に想像出来る有様だった。
しかしそれらに反して、花壇では黒百合の花が我が世の春とばかりに咲き誇っていた。灰色の雲が空をすっぽりと覆っていて、陽光は地面に届かない。夕方の世界をモノクロ化すれば、こんな景色を再現出来るだろうか。
七瀬以外に、周囲に人影はない。
いない筈なのに。七瀬は今、何かから逃げている。それが何かは分からないけれど、逃げなければいけないと誰かが頭の中で叫んでいた。可能な限り、足が保つ限り、遠くへ。逃走を諦めれば全てが終わってしまう。
どのくらい走っていたのかの記憶は無かったが、少なくとも、身体が悲鳴を上げるほどには逃げ続けていたらしかった。
肺と足が限界を迎え、七瀬はついに立ち止ると、植込みの陰にしゃがんで身を隠す。そうして息を整える。動悸が激しい。心臓の立てる音が、太鼓みたいに大きい。
そっと、枝の隙間から様子を窺ってみた。見渡す限りでは公園内に追っ手の姿は無い。
――逃げ切った。
不意に背後から気配を感じたのは、まさに、一息つけるかと思ったその時だった。振り向く間もなく。何かの手がそっと首筋に触れて、そして沿うように撫で上げて来る。氷かと間違うほどに冷たい手。
『みいつけた』
※
「――っ!」
悲鳴にもならない声を上げて跳び起きた。次に目に入ってきたのは、見慣れた自室の光景である。
脳内が完全に覚醒するまでの、数秒間の沈黙の後。七瀬は誰にともなく呟いた。
「夢……?」
答える者は誰もいない。心臓の鼓動がやけに激しい。息も荒い。加えて全身がじめっとしている。
そこでようやく、七瀬は自分がぐっしょりと嫌な汗をかいていることに気付いた。
何か、とても恐ろしい夢を見ていたという確信がある。頭の片隅に引っ掛かっている、恐怖と焦燥の欠片がその証拠だ。しかし奇怪な事に、いくら頑張ってもその内容は、まったくと言っていい程思い出せなかった。
直前まで見ていた筈の夢なのに 。うなされて目覚める程の悪夢なのに。その部分だけポッカリと切り取られたように、夢の一欠けらたりとも浮かび上がってこない。
これでも、記憶力はいい方だと自負しているのだけど。
「……何なんだろ。気持ち悪い」
独り言を呟きながら、覚えていない夢の内容にあれこれと想像を巡らせる。
怖い夢といったら、やはり何かに追いかけられる夢だろうか。七瀬も何度か見たことのあるタイプで、追跡者は得体の知れない何者かからターミネーターまで様々だ。大抵捕まる瞬間に夢から覚めるので、後味が悪いことこの上ない。
あるいは、どこか高い場所から落下する夢か。下から吹き付けてくる風に煽られて体が浮き上がるあの感覚は、夢とは思えないくらいにリアルだ。思わず背筋がそそけ立ってしまう。
他には、歯が抜けていく夢というのもある。だが意外なことにあの夢は、場合によっては吉夢だったりするらしい。夢占い師ではないため詳しくは知らないが、抜ける場所と抜け方によって色々あるそうだ。
考えている内に寝なおす気が失せた。立ちあがって電気を点けに行く。途中、何かに躓いてよろけた。
「……っと」
電気が点くと、部屋の中は一気に明るくなる。
布団のシーツが台風でも通ったかの如く荒れていた。どうやら自分は相当うなされていたらしい。ますます夢の中身が気になるが、やはりどうにも思い出せない。
何気なしに時計を見ると、その短針は四時五十分を指している。
寝直すべきか否か。少し迷った七瀬だったが、生憎もう完全に目が覚めてしまっているのでこのまま起きていることに決めた。遅く寝るのは体に毒だが、早起きは三文の得、というやつだ。
「――お茶でも淹れよ」
温かい飲み物で一息ついてから。いつもより少し早い朝ごはんにするとしよう。
※
七瀬が植えたハーブは、暑さにも負けず順調に育っていた。
タイムとカモミール。恵みの雨と太陽の慈しみを一心に受け、次々と新しい葉を作り、今ではもはや当初の面影が残っていない。輝くような緑色が陽光に美しく映えていた。細かな水滴をその表面に宿して、ハーブは一層瑞々しく見える。どちらも上々の成長である。そろそろ剪定も兼ねた収穫の頃合いだろうか。
朝、とはいってももう九時頃。土曜日かつ朝方とあって、構内の人影はいつもよりまばらだった。
ハーブに虫がついていないか七瀬がチェックをしていると、不意にその視界が陰って、澄んだ声が後ろから降ってきた。
「先輩」
「うわあっ! ……なんだ渚ちゃん。おはよう」
いきなりの事だったので驚いてしまった。
デジャヴを覚えつつ振り向けば、そこには可憐な微笑みを浮かべて、上川渚が立っている。
「おはようございます」
そう言って七瀬の肩越しにプランターを覗き込んだ。彼女の頬が思いがけず顔を掠めて、ドキリとなる。
「ハーブ、随分育ってきてますね。花が咲いている方がカモミールでしたっけ」
「うん。丁度今、そろそろ収穫時かなって今考えてたとこ」
「ハーブと言えば、やっぱりハーブティーでしょうか」
「どうしようかな……前に一度調べたんだけど、思っていた以上に、ハーブには色んな使い道があってね」
例えばお風呂に入れてみたり。はたまた料理にハーブを加えることで、香りを添えてみたり。今ここにあるタイムだって、フランス料理には欠かせないとまで言われている。それこそ、ハーブの数だけ使用法があるのだ。
「でもやっぱりハーブティーかな。なんたって簡単に出来るし、時間もかからない。よければ一緒に飲もう」
「私にも分けてくれるんですか」
「勿論。前に約束したもんね。……じゃ、収穫といこうか」
「私も御一緒します」
そう言った渚は、持っていた荷物を部室の中へ置きに行った。戻ってきた彼女に、七瀬がハサミを手渡す。
タイムの収穫は、伸ばしたい芽がある節のすぐ上で切り取るようにして行う。そうすることで脇芽を伸ばし、枝数を増やすことが出来るからだ。
とは言っても、七瀬にそのあたりのこだわりは無いので。使う分だけ適当に切る。
よもやま話になるが、タイムの花言葉『勇気』は古代ギリシャから来ているものだ。当時、タイムの香りは勇気や活力を湧き起こすと信じられていた。それは中世にも受け継がれる。故に女性は、恋人や戦いに赴く戦士へタイムの葉を添えた贈り物をしたそうだ。
一方、カモミール。こちらの花言葉は『清楚』。
厳密に言えばこの花は、一年草のジャーマンカモミールと多年草のローマンカモミールの二種類に分けられる。今回のは後者で、近づいてみると、かすかに林檎の香りが漂ってくる。タイムと違い、収穫するのはこの花の部分だ。
「どのくらい摘めばいいですか?」
「好きなだけどうぞ。使う分だけにしてもいいけど、どっちにせよ乾燥させれば保存出来るからね」
収穫したハーブはここから一日天日干しにする。外に置いたのでは風に飛ばされてしまうため、部室の中で。窓際の一角を借りることにした。新聞紙を敷き、その上にハーブを並べる。
作業の終わった二人は息をつき、互いに顔を見合せて、満足気に微笑みあった。
「これでよし。明日の朝には乾いてるかな。……フレッシュハーブってのもあるから、お茶を淹れようと思えば今でも出来るけど」
「どうせなら、楽しみは後に取っておきたいです」
「うん、じゃあそうしよう。まだみんな来ないだろうし、それまでゆっくりしてようよ」
七瀬が言った。
実は今日、この九鳥大学文芸部はとある内部行事を控えている。通称『相互閲覧会』と呼ばれるそれは、部員全員が集まって互いの書いた小説を読みあうというもの。作者の匿名はペンネームによって保障されている……筈だったが、最近は部員が少なすぎて、誰が誰だか筒抜けなのが現状だ。
予定では十時開始。あと一時間ある。
ちょっと早く来すぎたかな、と内心で苦笑いをした。
「渚ちゃん、何か飲む?」
「あ、はいでは。眠くなってきちゃったので、コーヒーをお願いします……はふ。すいません欠伸が」
「っ……、コーヒーね。僕も久しぶりに飲んでみようかな」
危なかった。
無防備に欠伸をする彼女の姿に、思わずクラっとなりそうだった。まったく心臓に悪い。
※
コーヒーの入ったカップを片方、椅子に座っている渚の前に置く。それからその隣に、七瀬も並んで腰掛けた。
「お待たせ」
「いただきます、先輩」
一口啜る。口に入ってきた液体は苦い。ただその苦さも偶にはいいかもしれない、と、七瀬は何気なしに思った。背もたれに体をもたれかけて天井を見ていると、何だか心が落ち着いてくる。
「……“一緒に休もう”か」
コーヒーの花言葉が、自然と口をついて出てきた。まさしく今の状況にピッタリだ。
そしてふと隣を見てみれば。片思い真っ只中の相手がそこにいる。カップを両手でそっと持って、嬉しそうな笑顔で静かにコーヒーを飲んでいる。その黒髪は、夜半の清流に形を与えることで作り上げたかのようだった。掌に掬い上げたなら、そのまま空気に溶けてしまいそうだ。
――撫でてみたいな。
ふっとよぎったそんな思い。けれど伸ばしかけた右手は、直後に動きを止める。
そんなこと、万が一にも出来る訳がない。だって自分なんかが気安く触ったら、花のような彼女の笑顔を、きっと壊してしまうから。
そもそも、許可なく勝手に女性の体に触れるなんて男として論外ではなかろうか。紳士性の欠片もない行為だ。少しでもそんなことを思った自分が恥ずかしい。
「……先輩?」
視線に気づいたのか、渚が首をかしげた。
「へっ!?」
「どうかしましたか」
「い、いやそのね……。あの、そ、そう、渚ちゃんのカバンについてるそのお守り。良いなって思ってさ」
即興で見出した苦し紛れの理由だ。そんな七瀬の動揺を知ってか知らずか、渚はそのお守りを手に取ってみせる。
「これですか? 正月に近くの神社で買ったものです」
「近くって言ったら……稲白神社?」
「はい」
近所にある神社の名前を出して間を繋ぐも、そこから話が続かない。変に意識してしまっていつものように舌が回らないのだ。流れる沈黙が気まずかった。
次に口を開いたのは渚だった。
「そういえば、先輩はお守りとかって持っていますか?」
「お守りか……そうだね」
持っているかどうかで答えれば、持っている。ただしそれは、一般に見られるような普通のお守りではない。
自身のカバンから、七瀬は小さい巾着袋を取り出した。群青の布地に、流れ星を思わせる金色の刺繍糸が走っている。田舎の夜空を切り取って材料とすれば、よく似たものが作れるだろう。
「これ。中に入っているものがちょっと特別なんだ」
袋に指を入れて中に入っているものを外に出す。白い半紙に包まれたそれを、七瀬は渚の目の前に置いた。彼女の瞳が二、三度瞬く。
優しい手つきで、七瀬はそっと包みを開いていった。そこに姿を現したのは、乾燥剤と。そして三つの黒い粒。大きさは丁度アーモンドくらいで、表面には光沢があり、電球の光を反射して艶めいていた。
「これは……種、ですか?」
「正解。何の種かは今だに分からないけどね。色々と調べたけど、どこにもそれと同じものは載ってなかった。緑店長――バイト先のあの人だけど、彼女に見せても分からないって」
「先輩でも分からないなんてよっぽどですね。先輩はこれをどこで?」
「えっとね。買ったとか見つけたとかじゃなくて、もらいものなんだ。もう何年も前のことになるけど」
「もらいもの……じゃあその人ならこれが何なのか分かりそうです」
「うん……いや多分無理。これをくれた相手からして、きっと人間じゃないから」
七瀬が首を横に振る。
「人間じゃ、ない?」
「うん。まあ当時の僕は、そんなこと考えもしなかったんだけどね」
あの日歩いた田舎道。照りつける日差しに蝉の鳴き声。そして“彼女”のこと。それらの記憶はどれも、ついこのあいだのことのように鮮明で。
「話せば長い事なんだ」
始まりは、七瀬が小学生の頃にまで遡る。




