帰り道での怪奇語り《続》
「――え?」
一瞬、言葉が出なかった。
あの時。皆で楽しく騒いでいる、そのすぐ近くに、怪奇が居た。気配も感じさせずに、じっと息を潜めていたというのだ。にわかには信じられなかった。
「僕の後ろに?」
「先輩の、すぐ左後ろに」
芯が切れかけているのだろうか。頭上で明滅する街灯の光が、目に障る。
「私はその影を直に見たので、何かがいることに気付けました。言い出す時が無くて、黙っていたんですけど」
「そんな気配は……無かったよ」
「気配を感じなかったのは、私もです。もしこの目で見てなかったら、私もきっと」
「……ごめん、ちょっと整理させて」
七瀬は右手を掲げながら目を閉じた。渚から聞いたことと自分が感じたこととを、頭の中で組み立て直す。やがてゆっくりと口を開いた。
「それが何かは分からないけれど、僕らが鍋を食べている時、それはすぐ近くにいた。その後僕と渚ちゃんが感じた視線は、確証は無いけれどきっとそれのもの。明かりが点くと同時にそれは消えた」
独白気味にそこまで言い終えて、ふっとある事に思い至る。
それは四人で闇鍋を食べていて、七瀬が副部長から、お茶を要求された時のこと。
『七瀬君、俺の方にもお茶を回してくれ。うどんが熱い』
『はい、ここに。あ、すいません当たりました』
あの時七瀬は、やかんを副部長に渡そうとして、暗闇の中で距離感を間違えぶつけてしまったと思っていた。だが――。
それは、本当に副部長その人だっただろうか?
やかんを当てたことを謝った時、向こうからは何の反応も無かった。今考えればそれも奇妙だ。そのあたり律儀な副部長なら、何らかの返事を返してくる筈だろうに。
もしかするとあの時やかんをぶつけた相手は、渚が見たという何者かでは――。
「――」
――不気味だ。
食事中七瀬は、近くに居たそれの気配にまったく気が付けなかった。ニアミスをしていたというのに、だ。
仮に気配の隠蔽が相手の意図的なものだったとしたら、そいつはかなりの力を持った存在だと言うことになる。
加えてその後の視線には、七瀬に対してはともかく渚に対しては明らかに敵意が込められていた。
しかもその理由に、まったく思い当たる節が無い。目の前の夜闇が、真相の全てを覆い隠してしまったかのようだった。
分からない、という事は、時に何よりも不気味で恐ろしいものになる。人が暗闇を恐れるのも、その中に何があるのか分からないから。闇を見通すことが出来ないからだ。
気味が悪い。落ち着けない。渚が見た何者かが、夜闇の中、自分たちを追跡してきている想像をしてしまう。左右に視線を向けても、目に入るのは数匹の羽虫と渚だけだった。その渚は、自分と違って冷静で、目を細めて何かを考え込んでいる。
「――渚ちゃんは、すごいね」
「え? 何がですか」
「今こうして落ち着いていられることが、だよ。ほら、僕なんか怖がりだから? 落ち着いているように見えても、内心結構ビクビクしてるんだ」
「誰だって怖いと感じる時はありますよ。私だって訳の分からないものは怖いです」
「うん。それでも僕よりは落ち着いてる」
「そうですか? ……えっとですね、それはきっと」
渚は苦笑してから続ける。
「上手く説明出来ませんが……私にとって幽霊は日常の一つみたいなものなんです。生まれた頃から見てきましたから。関わる時は関わりますし、関わらない方がいい時には関わりません。勿論、幽霊を怖がることだってあります。だけどそれは、幽霊だから怖がるって事ではないんです」
「人も幽霊も、あまり違わないってこと?」
「極端ですけどそうです。それに……」
「それに?」
「今は、先輩が傍にいますから。私と同じものを見れる、先輩が」
いきなり見つめられて、心臓が高鳴る。
渚は空を見上げて、唄うような口調で言った。
「それだけで、凄く安心するんですよ」
七瀬もつられて夜空を仰ぐ。いつの間にか雨雲の過ぎ去った空には、無数の星々が輝いていて。その様はまるで、大きなキャンパスに金箔の粉を撒き散らしたみたいだった。
気付けば空気の質が変わった気がする。心地よい夜風が優しく二人を撫でて行った。
七瀬はそっと口を開く。
「僕も、渚ちゃんが隣にいてくれると安心出来る。だけど僕は……見えるだけだよ? 幽霊を除霊するどころか、触ることも出来ない」
「それで、十分です」
渚の首肯に迷いは無かった。少なくとも、七瀬の目にはそう映った。
「いいの?」
「はい。……先輩と出会ったあの時だって、先輩がいてくれたおかげで、廃墟の中でもあんなに落ち着いていれたんですから」
沈黙。どちらも何も言わぬまま、ただただ時間が流れていく。
「――あっ」
流れ星、一筋。紫黒の空にキラリと光った。まさしく瞬きをする一瞬の内に、それは消えていったけれど。
「願い事、し損ねちゃいました」
「渚ちゃんの願い事って?」
「秘密、です。……口に出すには、少し恥ずかしい願いなので」
人差し指を唇に添えてくすぐったそうに笑う。それを見た七瀬にも、自然と微笑みが浮かんだ。
二人で並んで、一面に広がる星々を見る。
「……星が綺麗だね」
今は梅雨。こんなに雲が無い空なんて、滅多に見れやしない貴重なものだ。
いつのまにか、感じていた薄気味悪さはどこかに行ってしまっていた。
「ねえ、不思議な気持ちにならない? 宇宙にはこんなにたくさんの星があるのに、僕らが届くのは月だけなんだよ」
四十五億年間、地球の傍に寄り添ってきた月。それは今もこうして、夜を行く者の足元を柔らかく照らしている。
兄弟か、家族か。あるいは恋人に喩えようか。どれも正解で、どれも今一つ物足りないように聞こえる。
「月に届けばそれで十分です。それ以上望んだら罰が当たりそうです」
「あはは。渚ちゃんはおもしろいことを言うね。でもたしかにそうかも。月は地球のたった一人の家族みたいなものだし。他の星に浮気したら怒っちゃう」
「誰だって浮気されたら怒ります。……もちろん私も」
「え?」
「あ――、な、なんでもありません。今のは忘れてくださいね」
慌てたように首を振る渚を見て、七瀬は首をかしげた。何故にそこまで動揺しているのか分からないけれど、何でもないと彼女が言っているので、きっとたいしたことではないのだろう。
どこかからまた、犬の鳴き声が聞こえてきた。
「そろそろ行こうか。このまま話していたら夜が明けちゃう」
「まだ日が変わってもいませんよ、先輩」
笑って再び歩き出す二人。そのスピードは、少しだけゆっくりになっていた。




