夜目遠目笠の内
もうすぐ定時だという頃に、ざぁっと大きな音をたてて雨粒が落ちた。
周囲の同僚達が「やだ、洗濯物ほしてきたのに」「傘もってきてないのに」と各自の感想を漏らす中で、私はぼぉっと窓の外を見て思った。
ああ、今夜の夢に雨は降るだろうか。
◆
夢の中に雨が降る。
そりゃぁ夢なのだから、嵐がこようが、竜巻がこようが、槍が降ろうが、それは夢なのだからなんでもありである。
むしろ雨が降るなんて普通じゃないのか。
でもそれがまばらとはいえ、何度も続けば気になってしまう。
もともと夢なんて起きたら忘れる性質だったのに、その夢はさめても私につきまとうのだ。
あの夢をみると、体中に湿気が満ちて、どこからか水のにおいがする。
気のせいかもしれない。ずっとそう思っていた。
でも半年も続けば、それは当たり前になる。気のせいだろうが事実だろうが、どちらでもよくなった。
ただ、雨と見れば思い出す。そんな程度だ。
現実に雨が降ったからといって、夢でも必ず降るわけじゃない。
でもその日の夢は雨が降った。
いつも通り、私は広い空間に立ち尽くしている。
足下のコンクリートに雨粒が無数に飛び跳ねる。
雨の強さを物語る霧で、周囲はかすんでなにも見えない。
ただただ灰色の世界。
私はワンピースだ。そして少しかかとの高い靴。
黒のエナメル生地に雨がぶつかってははねる。
スカートからのびた膝下がぬれている。ふしぎと寒くはないし
、蒸し暑くもない。
私はただそこに立っている。
どこへ行くでもなく、周囲を見回すこともしない。私はいつでも、私のまっすぐな視線の先にそれが現れることをしっている。
そして、それはやはり来た。
灰色のもやの向こう、薄紫色の影。
それはゆっくりとした動きで、私のほうへまっすぐまっすぐ、歩いてくる。
そう、歩いている。
それは傘を差した男の影。
そして一定の距離でぴたりととまる。
男は私と向かい合う。
互いにきっと顔は見えていない。なのに私は、男の視線が私をみていることを確信している。
男はじっと動かない。
私も身じろぎしない。
雨だけがばしゃばしゃと音を立てて流れ落ちる中で、私はふぅっと自分の息の音を聞いた。
そしてそこで目が覚めた。
窓の外からは湿った土のにおいがする。
雨はやんでいるのに、そこには夢の余韻がまだのこっている。
足の先が冷たい。広いベッドでごろりと寝返りをうつと、そこもまた冷たい。
息を吸い込めば雨のにおいが鼻につく。
まだ薄暗い灰色の寝室で、私はぎゅっと体を丸めた。
◆
「先輩、傘かわいいですね」
そう声をかけられたのは会社の帰り道だった。
相手はまだ入って間もない営業の男の子で、色素の薄いひょろりとした子だった。
入社当初にいろいろ世話を焼いたせいか、彼は私を先輩とよぶのだ。
「そうかな、ありがとう」
適当に返事をして、私は自分の傘を確認した。
明るい青地に、いろんな形のレースが、淡い七色で散りばめられている。
確かになかなかないデザインだ。それが気に入ったのだ。
「先輩、いつもモノトーンの服だから、めずらしいですね」
「そうかな」
言われてみて気づく。
確かに白いシャツに黒いフレアスカート。アクセサリーもパールの白だし、靴は夢の中のような黒いエナメル。
まるで夢の続きのようだ。
傘だけが、夢からの出入り口のように明るい。
「先輩、もっと明るい服をきたらいいのに」
きっと似合いますよ、と後輩は自分で言っておいて赤くなった。
その白い頬に、すっと染まった朱を見て、私はここが現実なのだと認識する。
「ダメ、似合わないもの」
私はばしゃりとしぶきをあげて、水たまりを駆けた。
後ろで後輩がなにか言ったけれどきこえないふりをして、私は灰色の世界に飛び込んだ。
雨の中を走ったりしたものだから、帰り着いた頃には全身がしっとりとしていた。
つま先がじゅくじゅくと水を含んでいる。
髪がほほに張り付く。
黒いパンプスが音を立てて、白いスニーカーにぶつかる。
ぱったりと玄関にそのまま寝そべってみると、ひんやりとしたフローリングの感触に体がふるえた。
しかししばらくすると、自分の体温がじわじわと暖かく、つま先から滴が垂れるのが感じられた。
すっと目を閉じる。
このまま眠ったら、夢の中に雨が降るだろうか。
あの男は、やってくるだろうか。
そんなことを考えながら、しばらくまどろんだ。
雨は降らず、当然男にも会えなかった。
◆
そんな馬鹿なことをしていたら、当然のように風邪を引いた。
熱に潤んだ瞳があつい。汗でぬれた体が蒸す。ふぅふぅと小刻みにはき出る息さえも、砂漠をとおりすぎる風みたいだ。
会社には休むと連絡をした。
熱に浮かされながら携帯をみると、昼休みの時間に後輩からのメールがきていた。
『お加減大丈夫ですか?』
大丈夫じゃない、と心の中で返事をして、そのまま携帯を放りだした。
大丈夫じゃない。
大丈夫じゃないよ。
広いはずのベッドは、どこまでいっても自分の体温であつい。
ふぅふぅふぅ、と吐き出す息に、窓が曇っている。
ふとみれば、外は薄紫色で何も見えない。
ざぁっと冷たそうな音がした。
傘をささなきゃ
ふとそう思う。
ブーブーと床が振動する。
携帯が生き物みたいに床を這い回る。
重たい手足をそっと動かして携帯をつかむ。
『薬とかありますか。良ければ病院まで送ります。いつでも言ってください』
赤くなった頬が脳裏をよぎる。
世話焼きな後輩だ。初めてあった頃は、漢字もよめずにおろおろとしていたくせに。
そういえばあの日も雨が降っていた。
通りかかった廊下で、難しい顔をしながら、なんだかソワソワしていた。
「どうしたの?」
と声をかけると、なぜだか赤くなってモゴモゴと口を動かした後で、意を決したように私に尋ねた。
「すいません、本当にお恥ずかしいのですが、これってなんて読むんですか?」
彼の白い指先には『販促』という文字がある。
少し驚いたが、彼の首筋にたらりと流れる汗を見て、いたって平然と「はんそく」と読み仮名を教えた。
「販売促進の略だよ」
彼は何度も小さく頭を下げた。
「すいません、たぶん常識なんですよね……でも、恥ずかしくて聞けなくて、調べようにも携帯忘れてきてしまって」
「そんなことないよ。私はたまたま国語教師と知り合いだから漢字に強いだけ」
え、と彼は素直に驚いた顔した。
大きなまん丸の目がおかしかった。
「恥ずかしいって言う人もいるけど、そんなことないよ。その国語教師の人なんかは、知らないってことを恥ずかしがるより、どんどん聞いてくれなくちゃ自分の仕事がなくなっちゃうっていうし」
聞いてもいないのに、難しい言葉を教えてくるの。
四字熟語とか。
ことわざとか。
「今まで教えてもらった言葉で、一番はなんですか?」
緊張のほぐれた、笑顔の可愛い後輩は確かそう聞いたのだ。
夜目遠目笠の内
「夜目遠目笠の内とは、夜の暗がりで見るとき、遠くから見るとき、笠の下からちらりと見えるとき、女性は一番美しく見えるものだ。という意味だよ」
後輩とは別の、男の声だ。
振り返る。外は相変わらず視界をさえぎるほどの薄紫。
あれは誰。
傘を持ってたたずむ人。みえない顔。灰色の薄暗い世界。遠くからの視線。
『それってよく見えなければ美人だと思えるってことじゃない』
そう返事をした。
そんな気がする。
ここは夢? いつのまに眠った? いや、手の中の携帯は夢の中にはなかった。
画面を見る。
後輩からのメッセージが変わらずそこにある。
『もっと明るい服を着たらいいのに』
彼はそう言った。
彼……彼もそう言った。
私はいつから、明るい、あの傘のような服を、着ていない?
雨は振り続けてる。
私は立ち上がる。いつの間にか、手には傘がある。
傘の隙間から、人影がのぞく。
「だめよ、見ないで」
見られなければ、綺麗にうつるはず。あなたの前では綺麗でいたい。こんな姿は見せられない。
そう思うほどに、雨は強くなる。霧が濃くなる。男の影が濃くなる灰色に飲まれていく。
「だってみせられないの」
私は傘に隠れてしゃがみこむ。
夜目遠目笠の内
あなたが教えてくれた言葉。
ああ、だめだ。
わかってしまう。思い出して、しまう。ますますひどい顔になってしまう。
「おねがい、みないで」
そうつぶやいたとき、傘の下に、見慣れた白いスニーカー。
「大丈夫、きれいだよ」
ああ
雨が、あがってしまう
傘が、風で、とんでいく
人の足りない広いベッド
履く人のいなくなったスニーカー
選んでくれた七色の傘
雨の中でその言葉を教えてくれた。
あなたが居なくなって、明るい服が着れなくなった。
雨の夢を、みるようになった。
会いたいのに、会えなくなったから、会えない理由が欲しかった。
泣いてばかりのひどい顔をみられたくなかった。
「大丈夫。大丈夫だよ」
傘の向こうにはっきりとした笑顔。
「きれいだよ」
ああ、もう、ばか。
ばか。
◆
目が覚めたとき、雨はやんでいた。
目尻とほほがつっぱって痛い。耳に涙がおちてつめたい。
手に握り締めていた携帯が七色に光った。
私は返事をうつ。
『今ひどい顔してるけど、それでもいいの?』
返事は驚く程早くきた。
『すぐ行きます!』
思わず笑ってしまう。
広いベッドの片側は、陽の光であたたかい。
きっともう、雨の夢をみることはないのだろう。
とてもさみしいけれど、それでもいいのだ。
クローゼットをあけて、明るい色の服を着よう。
雨の中にも傘の中にも隠れることはできない。
なら泣き顔ではなく、明るい顔でいなければ。
『きれいだよ』
夜目遠目笠の内。
へだてるものなく、私をきれいだと言ってくれた貴方のために。