西と東は同時に向けない
日が落ちて、夜になってから大分時間が経ちました。外を人が歩くような時間帯はすでに過ぎ、辺りは 静けさに包まれています。
昼間は暖かでしたが今はほんの少し肌寒く、雨が降りそうな匂いがします。
午後の練習もすでに終わり、馬小屋につながれているので濡れる心配はありませんが、雨の日は匂いや音の具合が変わるので少し苦手です。
男は「無理強いはしない」なんて言ってたけど、それをまともに信じる程に私は世間知らずではありません。そもそも向こうに話し合う気があるかどうかだって怪しい。こちらが油断した隙に縛り上げて連れ去る……なんて目論んでいるかもしれません。
首輪をつけられ繋がれるのは飼い犬として当然のマナーですから、一向に構いはしません。けれど、手足の身動きが取れなくなるのは御免です。
そんな事態に陥らないためには相手の一挙一動を見逃さず、隙を見せないようにしなくてはなりません。
思考をいくらか巡らせていると、とうとう雨が降り出してきました。ポツリ、ポッポッと屋根や地面や木々に雨粒が落ちる音が次第に増えてゆきます。
それらに紛れ込むようにして、密やかな足音が段々と近づいてきました。
入口へと目をやると、昼間に会ったのと同じ高さと形をした人影が現れました。
月も星も隠れた夜更けなのに明かりを持っていません。気に留めてはいませんでしたが、昨晩も明かりの類は持っていなかったような覚えがあります。
男は外套のフードの部分だけ下すと、頭を動かし右から左へと小屋の内部をぐるりと見渡しました。
そして私と目が合うなり、やや早足に歩み寄ってきます。
暗いのに足元や周囲を探るような素振りは無く、危なげない足取りです。
やはり、夜目が利くのでしょうか。
お座りの状態の私に目線を合わせるようにして床に膝をつくと、男は私の右前脚の手の甲へとそっと自分の指先を乗せました。
暖かいような、そうでもないような。
血が通ってるのは確かか。いや、通ってないはずないか。
短い黒髪も指先も乾いていましたが、外套は雨を受けてうっすらと濡れているようでした。男は私の目をじいっと見ながら、音にも文字にもならない言葉を発します。
『夜分遅くにすまない』
『夜遅くないと人に見られますよ』
『それもそうか』
男が行きずりの犬と対面で黙りこくったまま延々と見つめ合ってる……今の私たちのような人と犬の様子を見たことは一度もありません。そもそもこんな奇妙な“会話”をしたのだって、私は昨日が初めてでした。
きっと端から見たら目の前の男は良くてて変人、悪くて病人としか思えないでしょう。この話し合いにおいては誰にも気取られないような時間帯にならざるを得ません。
『お前はいつから、旅一座で狼として働いているんだ?』
『赤子のときに拾われて育てられて、芸を覚えてからずっとです』
『親や兄弟はいないのか』
『親の事はまるで覚えて無いし、兄弟はいたかどうかも知りません』
男は何とも言えぬ顔で、そうか、とだけ返事をしました。
おもむろに男は空いている方の手で私をつないでいる縄を軽くつまみましたが、すぐに指から放します。
『俺も似たようなものだった』
似たような、と申されてもいまいちピンときません。
目の前の人間の男と犬の私を同列に語られることに違和感がありました。男の出生や持っている性質が本当の話だとしても、私が男と同種の獣とも人間ともつかない生物だとは未だに信じがたく思えます。
『あの、私は人間になった事は一度もありません。
私はあなたの言うような狼族じゃなくて、ただの犬なんじゃないでしょうか』
『人間になるには狼族としての自覚が不可欠なんだ。
自分が犬だと信じ込んでいたなら仕方ない。
それにな、ただの犬や狼なら俺の言葉を理解し会話をするなんて到底出来やしない。
お前は確かに狼族だ』
昨日見たのと同じ目をして男は私に語りかけます。こんなにも目を逸らしも揺らぎもさせないのは、おそらく経験豊富な山師かよっぽどの正直者しかいまい。けれど、犬の私に真面目に話しかける人はいなかったので目の前の男がどちらかまでは判断しきれませんでした。
考えてみても、他人事のように降る雨のざあざあという音が邪魔して頭がぼやけていくばかりです。
『今でこそ、お前は並みの犬より大きい程度……いや狼に勝る程度の大きさだ。
しかし数年経てば俺くらいに成長する。
牛や馬ほどの身の丈を持つ狼を人間共が放っとくはずがない。
狼のままに生活を続けていては、遅かれ早かれ碌でもないことになる。
だから――』
私は思わず男の手を跳ね除け、後じさりました。
最後まで聞いては抵抗がより難しくなる予感がありました。
なる訳ないのに。碌でも無いことなんて。
ご主人様や皆のもとにいれば。
絶対に。
歯を剥き出しにして唸ると、男は怒る訳でもなく困ったような顔をして私へと口を動かして声をかけます。犬の私には何を言ってるのかさっぱり理解できません。
でも、一個だけ知っている音の組み合わせがありました。
それは私がご主人様から一番なげかけられたことのある音の組み合わせでした。
この男からだけは決して聞きたくはありませんでした。
唸るだけでは耳を塞ぐに事足りないような気がして、気付いたら私は力一杯に吠えていました。
わおん、わおん、わおん。
馬が驚き嘶き、空気がぐわんぐわんと揺れる心地がします。
瞬間、私は地面に引き倒されました。
強い衝撃を全身に受けつつも私は犬。そのまま地面とキスをし続けるようなやわな造りはしていない。
飛び起き、再び近づいてきた腕に噛みついてやりました。
上手く狙えなかったようで、腕の横にかぶりつくはずが、指先から手首の少し下辺りまでがズボッと口の中に入ってしまいました。
まあ、いいか。
『何と言おうと私は犬だ。あなたとは違う。
これ以上、関わるつもりならこの手を噛み千切ってやる』
男の返答はありません。
ただ私を見つめていました。目に怯えの光は無く、顔を痛みに僅かに歪めるのみでうめき声の一つも漏らしません。
向こうから払いのけてくれないと、歯を離そうにも離せません。
顎の力を少し強めようとすると、ぐっと噛んでいる方の男の手が押し込まれて何か柔らかいものが喉を通る感触がしました。いったい何!?
吐き出すべく口を開けようとすると、男に抱え込まれるようにして押さえられました。
もがいている内にだんだんと手足が痺れてきて、景色が不鮮明になってゆきます。
さっきの私の吠声やら馬の異変に気付いた誰かの足音が聞こえましたが、きっと、間に合いはしないでしょう。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌。
ご主人様、ご主人様、ご主人様――――