犬は忘れない
早朝の光は清々しい匂いがします。
たとえ馬小屋の埃っぽい空気の中でも晴れ晴れとした心持ちになっていくから面白いものです。朝ご飯はまだでしょうか。
あ、そうだ。昨晩残したままのお肉を食べましょう。
表面がちょっぴり乾いてるけど、噛むと肉の汁が出てきて美味しいです。
――昨晩、もたらされた情報に混乱した私は、あれ以上の事を聞いては精神に異常をきたしそうだったから、急いで口を開きました。物理的に。
犬らしくワンワンと吠えたてた声は、馬小屋どころか真夜中の町の辺り一帯に響き渡り、昼の大狼で警戒していた人々がすぐに来ない訳がありませんでした。
しかし、男の判断は素早く、あたふたとしながらも速やかに場を離れたのでした。
おかげで私は、駆けつけた大勢の人々から馬鹿犬の称号を得たかもしれないけどやむなし。
あの男は言葉を通じ合えた初めての相手ですが、あの男が真実を話しているかどうかは別の問題です。真剣な表情をしてはいましたが、真剣に嘘を吐いてた可能性だって無くはありません。
全部が本当だとしたら、むしろ頭が痛い。
見た目が人間の男が求婚、犬の私に……いや、狼の私に?
あの化け物じみた巨大な狼が求婚したと考えれば……やっぱりおかしい。
片方だけでも信じがたいのに、実際には両方を兼ねているらしいから恐ろしい。
加えて、私も男と同種であるなら、全く問題の無い話になってしまうのだから、もはや悪夢じみている。
忘れた方が健康には良さそうですが、男が詐欺師にしても、正直者だとしても、次に向かい合ったときの為に、しっかりと考えをまとめておかねばなりません。
気を落ち着けなくては。深呼吸、深呼吸。
藁や埃の混じった空気をたっぷり吸い込んで少し気持ちが悪くなってきました。
馬小屋は深呼吸に向いてない……。
◆◆◆◆
天気は晴れで、そよ風が吹いていて気持ちが良いです。しかし、昨日と打って変わって人通りは少なく、たまに見かける人の顔はこわばっています。
あの狼はやはり、営業妨害で訴えるしかあるまい。
仕事は出来そうにないですが、稽古まではさぼれません。馬小屋の影に丁度良い広さの場所があり、本日はここでご主人様と芸の練習をしています。
こんな時くらいはさぼっても然るべきだと思いますが、ご主人様は宿屋に留まれない訳がありました。
座長さんと“太刀遣い”さんはお酒好きだから、今日みたいな何もできないときはカードゲームをしながら安い酒をちびちびと飲み明かして時間を潰します。
一座で下っ端のご主人様は誘われたら断れませんが、下戸な上に賭け事にはからきし弱いのです。
だから座長たちに捕まる前に抜け出して、朝も早くから私と顔を合わせているのでしょう。
とは言え、ちょっと休んだだけでも感覚は鈍ってしまいますし、お互いの息も段々と合わなくなってしまいますから、日々の鍛錬の積み重ねは重要ということで。
今、やってる練習は樽回し。からっぽの小さめの樽を前足でコロコロ回しながら歩くというバランス感覚が問われる芸で、失敗すると間抜け極まりないことになります。
しっかり集中しなくてはなりません。
集中したいんです。
私たちが練習をしている様子をいつの間にか、遠巻きに眺める人間が一人。
あの男です。
視界の端にちらちら引っかかって、気が気じゃないんです。
可能な限り目にしないようにしていますけど、私の精神力は鋼ではありません。
むしろ注意を払って気にしておくべきなのか。
しかし、そうなると注意力散漫になって、練習に支障が出てしまいます。
目も耳も二つあるのだから、片耳片目に分けて練習と男両方へ集中できないものか。
ご主人様がすぐ隣についていて、男が後ろの方向にいて。
ご主人様がすぐ隣についていて、男が右の方向で……。
一分足らずでバランスを崩し、私の試みはすぐに失敗に終わりました。
しかも勢いよくこけたので、樽だけが前方へコロコロと転がっていってしまいました。
よくよく考えなくても無茶と分かることを何故、私はしようとしてしまったのでしょう。すごく恥ずかしいし、情けない。
当然、ご主人様の叱責も飛んできます。
ぼーっとしてて、ごめんなさい、ご主人様。
私が起き上がると、ご主人様は樽が転がった方を向いて何やら話しかけていました。
視線の先にはあの男、手には樽。
なんでわざわざ、男がいる方向に転がしたのだ、私は!
私にとっては胡散臭い男でも、初対面のご主人様にとっては親切な男です。
ついでに愛想よく笑って近づいてくるものだから、ご主人様もつられて破顔して何やら話を続けています。
どうしましょう。
これは動物の特権、「何か危険を察知して特定の人間に敵意を示す、または怯える」を実践して、警戒を促すべきなのでしょうか。
うーん、でも樽を拾ってくれた恩を仇では返せません。
昨晩の不意打ち同然の別れ方にも負い目はあります。下手に怒りを買うのは得策ではありません。もう買ってる可能性も十二分にありますが。
しかし、私に会話が分からない以上、ご主人様に妙なことを吹き込み放題です。
いや、出会って数秒の相手に吹き込まれたことを信じる人間もそうそういないし、ご主人様もそうでしょうし……。
延々と悩んでいたら、男が膝を折って私へと手を伸ばしてきます。
避けようか迷う暇もなく、頭の後ろを撫でつけられ、男の言葉が伝わってきました。
『今晩もう一度、話す機会をくれ』
昨晩と使った部位が違うので若干手間取りましたが、なんとか返事を返します。
『はい、もちろんです』
『無理強いをするつもりはないから
次は吠えてくれるなよ』
私が返答をする前に、男は立ち上がり、ご主人様と数度言葉を交わして去っていきました。
すっと伸びた背筋と堂々とした歩みのせいか、ご主人様と並んでみると背丈はやや低かったのに、離れていくばかりの後ろ姿もあまり小さく感じません。
姿が見えなくなるまで眺めていたいように思えましたが、ご主人様の呼びかけがあったので、振り返り応じます。
上を見やれば、太陽は空の真ん中にほど近くありました。そろそろでお昼ご飯にありつけるでしょうから、もうひと頑張りです。