四足歩行も悪くない
前世は人間でしたが、今生では犬です。
輪廻転生って本当にあるんだと感動はしましたが、前と同じく人間として生まれたかったです……。
不満はあれど、四足歩行の低い目線とバッフバフの外せない毛皮をずーっと身に着けてるのにも慣れてきました。
全身毛皮なんて、前世では考えられない位に豪華なことにも思えましたし、装いをあれこれ気にしなくても良い、という点も楽で素敵。
衣替えも身一つで自動的に可能ってすごい。便利です。
でも、体を洗う機会が少なければ、ブラッシングも殆どやってもらえないので心なしかベタベタしてます。
白いはずの毛皮は常に薄汚れています。
ダニも湧いてるらしく時折痒い。
私を飼ってくださってるご主人様も似たようなものでした。お風呂どころか水浴びもあまりしないし、服も擦り切れてしみだらけのを着ています。ご主人様以外の人たちも大体がそんな恰好で、私が以前生きていた場所と比べると大変不潔です。
しかし不思議なことに犬の敏感な嗅覚を持ってしても、彼らや彼らの住む生活空間の臭いが気になったことは少ないのです。
初めて私が犬として物心がついただろう日、一番幼い記憶の中でご主人様の垢じみた服の中に突っ込まれて目覚めた時も息苦しくさえ不快感は起きませんでした。それどころか、父母兄弟の記憶もない捨て犬だった所為か、肌のぬくもりに安堵感さえも抱いていてしまっていたのです。
そして、ご主人様は私に食べ物と水を与える代わりに芸を仕込みました。ご主人様は根無し草の旅芸人一座に所属していて、私を相棒として育てたのです。
安宿にある馬小屋につながれて眠り、笑われることの代わりお金を手にし、次々と違う景色へと渡り歩いていく――
人間と犬という違いの為か、それとも何の経験のない新しい体に収まった為か。
私の記憶とは別に前世で17年という歳月をかけて培ってきた感覚というものは、まるきりリセットされていたかのように、私はこの生活環境にすんなりと馴染んでいったのでした。
また、私には人間の言葉が分りません。音は分かっても、単語のつながりや法則がまるで理解できないのです。
仔犬の時分は、私に余計な記憶があるために修得で遅れているのだと考えていました。あるいは聞く機会はあっても話す機会が無いから時間がかかるのだと。公用語が前世で住んでいた地域の言葉に似てたら楽だったのに、と暢気に捉えていました。
しかし一向に分かるときは来ませんでした。彼らの会話を聞いていても、きまりなく数字や記号が並んでいく様にしか思えないのです。
幸い、ずっと一緒にいるご主人様の指示や言葉は、音と声の調子や長さで意味内容を大方は判断できるようにはなりました。あまり時間がかからなかったのも救いです。他の人々の言葉も似たような具合で大意は想像できます。
人間の言葉を理解できないと悟った絶望感といったら、筆舌しがたいものでした。
そもそも今の私には筆を持つことも、言葉を語ることも不可能なのが情けなさに拍車をかけます。せいぜい吠えるか唸るだけです。サ~マ行とラ行は殆ど使いません。
そのうちアイウエオさえ忘れてしまいそうな恐怖のあまりに頭の中でイロハニホヘトを反芻する虚しさと言ったらさもありなん。
流石に虚しさが過ぎたので、前世で見聞きした歌や詩、物語へと変更するも歯抜けの虫食いだらけ。何が何を示しているの不明瞭な言葉も多く、碌に使えたものではありません。
何しろ、私が生きているこの場所と前世とは、服装や食物・住居や生活様式・人々の顔の造りから髪色に瞳……何から何までてんで違うのです。
同じ世界であったかどうかすら危うく思え、大体同じように見えた葉っぱの色ですら何処となく違う気がするのです。元より心許ない記憶は一層薄まるばかりでした。
でも、午後の太陽の気持ちよさは一緒だから有り難いものです。頭上で輝くあれの名前は知らないけれど、太陽と本当に良く似ています。空のずっと高いところにあるし、夜は沈み朝には昇り、一年中休みなく動き続けます。
昼寝に精を出していると、頭をボフボフと掌で軽く叩かれました。顔を上げたら想像通り、ご主人様がいました。
ゴツゴツした手と引締まった身体。とっても逞しい。普段はヘの形の唇を動かして、低くて優しい声を出しました。音にして二音は私が一番耳にする単語です。水色の小さい瞳は日に透けて穏やかな色をしています。