9
部屋へ戻るなり待ち構えていた女中さんに着替えさせられ、私はまた寝台へ放り込まれた。
イリスはすでにいない。私を女中さんに託すなり逃げるように出て行った。汚れているからとか何とか言い訳していたけど絶対うそだ。あれは何かを隠している。イリスはすぐ態度に出るからわかりやすい。
本当に何だというのだ。さっきのみんなのようすといい、気持ち悪いったら。
「さあさ、姫様。ゆっくりお休みくださいまし。まだお身体が弱っておいでなんですから、ご無理はいけませんよ」
お母さんみたいな歳の女中さんは、いくら訂正しても私を姫様と呼ぶ。フィオラ夫人からそう呼ぶように言いつけられているのかな。丸っこい気のよさそうな顔でにこにこされると文句も言えず、いたたまれない気分を私はこらえる。
「騎士様はまた来てくださいますよ。戦場からお戻りになったばかりで、きっとお疲れなんですよ。勝ち戦とはいえ、さぞかし大変だったでしょうからねえ」
……そうだろうな。言われて、少し反省した。疲れていて当然だ。今は何より休みたいだろう。
「素敵な方でしたねえ。さすがに都の騎士様は垢抜けててかっこいいです」
薬湯を持ってきた若い女中さんは、イリスの美形っぷりにずっと舞い上がっていた。いやまあ、都でもイリスはかっこいいと認められているけど、垢抜けて……いるかな? そういう表現はカームさんとか、騎士ならザックスさんみたいな人にふさわしいんじゃないかと思うのだが。鏡も見ないで適当に髪を切って、ざんばら頭で平然としている男のことではないだろう。
「あんな素敵な騎士様に抱き上げられたりしたら、あたしだったら幸せすぎて気絶しちゃいますっ。まるで物語みたいですよねえ。いいなあ、あたしもあんな人に尽くされたーい」
……尽くされる?
予想外の言葉に、ちょっと驚いた。はたからはそんなふうに見えるのだろうか。物語みたいって、あれか? 恋愛小説とかその類の。
じっくり考え直すと、たしかに恥ずかしい構図かもしれなかった。こっちの世界へ来てからというもの何かというとすぐ抱き上げられるので、もう感覚が麻痺していたようだ。いかん、常識が薄れている。日本でならありえなかった状況なのに。いわゆるお姫様抱っこなんてされた日には、そりゃ本人も周りも大騒ぎだっての。
……顔が熱くなってきた。いやいやいや、違うって。イリスもアルタも他の人も、みんな私を子供扱いしているんだよ。小さい子だと思っているから簡単に抱っこするんだよ。そんなムードのある構図じゃないってば。
だいたいあのイリスが。鈍感で無神経で大雑把な脳筋男が、そんなこと考えているわけないじゃないか。
「はいはい、気持ちはわかるけど、いつまでも浮かれてないで。暖炉の火が弱くなってるわよ。薪を足してちょうだい」
年配の女中さんが苦笑する。私は照れくささを隠して横になった。働き者の手が優しく布団をかけてくれた。
暖かい部屋で柔らかな布団に包まれながら、いろんなことを考えた。これまでの辛いできごとや、今後の心配も。でもいちばん強く感じたのは、今自分がとても幸せだということだった。
どこも怪我せず生き延びて、ぬくぬくと寝ていられる。おなかが空けばいつでも温かな食事が提供され、具合を悪くすれば手厚く看病してもらえる。
以前は当たり前の日常だった。そのありがたさ、貴重さを、これほど強く実感したことはない。寒い戦場で命を落とした人たちのことを思うと、罪悪感をおぼえるほどだった。私ばっかり幸せでごめんなさいって、そんな気持ちになってしまう。
平和って大切だ。当たり前の話だけれど、日本にいた頃は実感の伴わないただの常識論だった。今本当の大切さを知って、心から願う。早く戦を終わらせたい。敵襲におびえる必要のない、穏やかな日々を取り戻したい。
どうすればいいかな……私に何ができるだろうか……。
考えながらとろとろと眠りに落ちていく。これまでの疲労やストレス、寒さなどですっかり弱っていた身体は、まだまだ休息を求めていた。時折目を覚ましては、また眠り込むということをくりかえす。その間ハルト様をはじめ、いろんな人がようすを見に来てくれたらしい。間の悪いことに私が眠っている時ばかりで、翌日しっかり目を覚ますまで、私は女中さん以外の人を見ることはなかった。
案の定というか翌日は朝から熱を出していて、ずっと寝床を離れられなかった。まあ、想定内だ。それほど高熱でもないから私にしては上出来な方である。みんなもいい加減慣れて、もう心配もしていないだろう。
寝てばかりで背中が痛いので、私はベッドに半身を起こして本を読んでいた。祖王セトに関する書物があれば貸してほしいと、女中さんに頼んで持ってきてもらったものだ。できるだけ詳しい大人向けの本がよかったのだけれど、残念ながらそういう本はないと言われ、子ども向けの絵本を渡された。偉人伝に冒険談がミックスされたような内容だ。
以前私がハルト様からもらったものと大差なかった。まだこの島に国がなく、小さな部族同士が争いをくりかえしていた時代に、セトは突然現れた。龍の加護を持ち、すべての竜を従えることのできたセトは、その不思議な能力とすぐれた統率力でもって、彼に従う人間を増やしていった。やがて部族同士をひとつにまとめ、国というものを生み出す。セトの指導のもと、人々は平和で発展した社会を作っていった。
初代の王となったセトは長く人々を導いたが、ある時王位を血縁のない人物に譲り、家族とごく親しい人々だけを連れてこの島を去っていった。その後の消息はわからない。没年も墓所も一切不明だ。
絵本の後半はその後の冒険談で、見るからに後世の創作っぽいので割愛する。結局、目新しい情報は得られなかった。
本を閉じてクッションにもたれる。エンエンナの宮殿には、これより詳しい書物があるだろうか。こんなことなら、もっとセトに興味を持って調べておくのだった。
でも祖王については何ひとつはっきりしたことがわからないって、以前ハルト様やカームさんが言っていたっけ。日本人の感覚ではたかだか七百年前かそこらの話でなんで記録が残っていないんだってなるけど、ロウシェンという国が生まれる前の話だからしかたがない。その頃は文書にして記録を残すという習慣はなかったらしく、情報はすべて口伝で残された。だから伝説めいた、あいまいな話になってしまっている。
セトが初代の王となり得たのは、彼自身の持つ資質によるところが大きいのだろうけれど……そこに龍の加護が、どれだけの助けになったのだろうな。彼の不思議な能力って、どこまでのものだったのだろう。
少し疲れて目を閉じていると、またうとうとしてしまった。人が入ってきた物音に気付かなかった。
「……寝てるの?」
すぐ近くから声をかけられ、半分眠っていた意識が引き戻される。目を開けると、ほとんど同じ目線の高さに知らない顔があった。
子供だ。十歳にもなっていないだろう。ずいぶんと身なりのいい男の子で、くせのある栗色の髪がセミル卿とそっくりだ。顔だちはフィオラ夫人の方に似ているだろうか。健康そうな可愛い子だった。
「おはようございます」
まだ昼にはなっていないので、そう挨拶した。すると生意気な返事がかえってきた。
「今起きるなんて寝坊助だな。早起きしないやつはだらしないって父上がいつも言ってるよ」
「そうですね」
子供相手に言い返す気もないので、適当に流す。私の反応が悪いせいか、男の子は不満そうな顔になった。
「……お前、姫様?」
姫と思いながらお前呼ばわりとはいい度胸だな。まあ姫ではないけれど。
「ちがいます」
短く否定すると、男の子はますます顔をしかめた。
「ちがうの? だって母上やエルナが姫様って呼んでた」
エルナというのは、私の世話をしてくれている年配の女中さんだ。彼女から聞いたなら、わざわざ確認しなくてもいいだろうに。よっぽど疑問だったのかな。
「姫とは王族の女性に与えられる称号でしょう。私は平民ですから、姫にはなりません」
あくびをしながら答える。これだけ寝てばかりいるのにまだ眠いとは、たしかに寝坊助だ。熱のせいだけどね。
「平民? お前平民なの?」
「ええ」
「……平民がなんでそんなにえらそうにしてるんだ。なんで姫様って呼ばれてるんだよ」
知るか――と言いたいところを、さすがに我慢する。相手は小さい子だ。気をつかってやらないと。ああでも、めんどくさいな。
「王族という意味の姫じゃないんでしょう。他にも意味があるんですよ」
「どういう意味?」
「それはお母様に聞いてください」
「…………」
男の子はむっつりと黙り込む。ううむ、ちょっと冷たすぎたかな。でも小さい子の疑問に付き合っていたらきりがないし。もともと子供は苦手なうえに今は具合が悪いから、あまり親切に相手をしてやる気になれない。
「……それ、ぼくの本だ」
男の子が私の手元を指さした。なるほど、この絵本は若様の部屋から借りてきたものだったか。
「ぼくの本、返せ」
「はい」
絵本を差し出すと、男の子は私の手からひったくった。泥棒を見るみたいににらんでくる。これが絵本じゃなくセミの脱け殻とかだったら、もっと大騒ぎしているんだろうな。弟も昔大事にしていたっけ。
「……お前、ニセモノだろう」
小さな指を突きつけられて、私は思わずじっくり見返してしまった。ニセモノって、何の偽物だ?
「平民なんだから姫様じゃない。お前、父上や母上をだましてるな」
……ああ、そういう話か。
「みなさん知ってらっしゃいますよ」
「うそだ! 姫様のふりして、泥棒に入ったんだろう」
ほーほー、斬新な推理だな。泥棒目当てなら、あちこち入り込んでも不審に思われない使用人になりすました方がいいと思うんだが。そもそも本物の王が連れてきたというところを忘れていないか。私がニセモノならハルト様もニセモノか?
やっぱり眠いな。寝ちゃおうかな。起きているのがしんどくなってきた。
「寝るなよ! 泥棒のくせにっ」
無視していればこの子もすぐにあきらめて出ていくだろう。
「寝るなってば! もう、せいばいしてやるっ」
しつこく私を揺さぶっていた手が離れていく。成敗って、何かする気か? いい加減うざいから一発はたいてやろうかな。体罰と児童虐待の境目はどのへんだろう。
なんて剣呑なことを考え始めた私だったが、実行に移す必要はなかった。第三者の声が割って入り、私に「成敗」しようとしていた男の子を引き離した。
「こらこら、女の子に乱暴しちゃだめだよ」
その声に私は目を開ける。イリスが男の子の後ろに立っていた。
「イリス殿!」
男の子もぱっと顔を輝かせた。くるりと向きを変えて彼の腰にしがみつく。
「こいつ、泥棒だよ! ぼくの本を盗んだんだ!」
「借りてただけだよ。持ってきたのはエルナだ」
「ちがうよ! 泥棒なんだ! 姫様のふりして城にもぐり込んだんだ。きっと盗賊団の女首領なんだ」
「……そいつはすごいな」
イリスは笑いをこらえている。盗賊団ねえ。そういう物語でも読んだのかな。
「なにもしてない人に向かって泥棒呼ばわりするんじゃない。そういう意地悪言ってると、誰からも相手にされなくなるぞ」
「……だって……」
ふくれっ面になる男の子の頭に手を置いて、イリスは私にも苦笑を向けてきた。
「チトセも、もうちょっと優しくしてやれよ。この子は君にかまってほしいんだよ。知らない女の子がいて、気になってしょうがなかったんだよ」
「それならもっとましな口説き方をするべきだったって、いい勉強になったじゃない。今経験しておけば、将来本番で役に立つでしょうよ」
「子供が相手でも男には容赦ないな……」
寝たままつんと答えてやれば、イリスの苦笑が引きつった。何を言うか。子供だからこそだ。
「子供のうちからきちんと躾けておかないと、ろくな大人にならないでしょう。馬鹿のまま放置していたら、たまたま行き合った女をちょうどいいからって襲うようなケダモノに育ってしまうのよ」
「いや、それは極論だから。基本的にシーリースの男は女を大事にするよ。戦場でのできごとが日常にもありふれてるとは思わないでくれ」
「どうだか。男なんてしょせん下半身の生き物よ」
「否定はしきれないけど……」
ため息をついて頭をかくイリスに代わって、男の子がかみついてきた。
「お前! イリス殿に向かって無礼だぞ! 平民のくせになまいきだ!」
「そうですか」
「そっ……それから、起きろよ! 人が来てるのになんで寝てるんだ、無礼者!」
「すみません」
「……っ」
「チトセ……だからそう、冷たくしてやるなってば」
私はため息をついて起き上がった。
「私は保母さんじゃないのよ。病人の枕元でわめくクソガキに、愛想ふりまいてやる寛大さは持ち合わせてないの。まして男にまとわりつかれるのは、たとえ子供でもまっぴら」
「チトセ……」
イリスががっくりと肩を落とす。意味が理解できたのか、男の子は涙目になって震え出した。
「お……お前なんか……お前なんか、ここから追い出してやる! 父上に言って追い出してやるんだからっ! 平民のくせにえらそうにした罰だ!」
「まあ、坊っちゃま! なんてことおっしゃるんですか」
大きな声を出しながら入ってきたのはエルナさんだった。さわぎが聞こえてようすを見に来たらしい。
「姫様に向かって、ひどいことを」
「姫様なんかじゃない! こいつは平民だぞ! 平民なんか、追い出してしまえばいいんだ!」
癇癪を起こす坊っちゃまを、エルナさんは腰に手を当ててにらんだ。
「おやまあ、あたしも平民ですよ。じゃあ、あたしも追い出されなきゃいけないんですか」
「エ、エルナは、うちの使用人だから……」
「この町で、旦那様と奥様と坊っちゃま以外は、みんな平民ですよ。平民がそんなに嫌いなら、出て行くのは坊っちゃまの方ですよ」
味方のはずの人から厳しいことを言われて、坊っちゃまはガーンと効果音がつきそうな顔になった。これはかなりこたえたらしい。
イリスがエルナさんをひっぱって、こそこそと事情を耳打ちした。苦笑しながらうなずいて、エルナさんは坊っちゃまをうながす。
「姫様は具合がお悪いんです。朝からお熱が出てらっしゃるんですから、あんまり騒いじゃいけませんよ。さあ、行きましょう」
半泣きの坊っちゃまは彼女に連れられて、とぼとぼと出て行った。最初からそういうしおらしい態度でいれば、少しは優しくしてやったのに。
「あとで仲直りしろよ。子供相手に大人げないぞ」
「あら、私を大人と認めてくれるわけ? てっきりあの子と同じ扱いされてると思ったわ」
小言を言ってくるイリスから顔をそむけ、私はまた寝なおした。
「ずいぶんなつかれてるみたいだったじゃない。さすが『お兄ちゃん』は子供の相手がお上手ね」
「……なんか、めちゃくちゃご機嫌斜めだな。そんなに具合が悪いのか?」
ふん。どの口が言うか。覗き込んでくるイリスに背を向ける。
「ご機嫌斜めはそっちでしょう。人がせっかく迎えに出たのに、ろくに目も合わせてくれなかったのは誰? 部屋に送り届けたら逃げるように出ていって、よっぽど私と顔を合わせていたくなかったのね」
「えっ……いや、あれは……」
時間が経過したからって、忘れてなんかいないぞ。今日もいまごろになってやっと来るなんて、遅すぎる。
いろいろ話したいことがあったのに。手当てしてくれたお礼も言いたかったし、なにより無事に帰って来た彼と一緒にいたかった。それなのに。
どうせね! 彼女でもなんでもないし! 忙しいのに私ひとりにかまっていられないのもわかっている。それこそわがままになるから、来てくれなくてもがまんする。でも露骨に目をそらした、あれだけは許せない。
どれだけショックだったと思ってるんだ。
「……ごめん。どういう顔をすればいいのか、わからなくて……」
イリスが枕のそばに腰をおろしてきた。振り向かないまま、私は言い返す。
「なによ、それ。どんな顔したかったってのよ」
「いや……だってさ、あんなこと言われて……みんなもからかうし……」
「あんなこと?」
話が見えない。誰に何を言われたのだろう。
「私とあまり親しげにするなとか、誰かに言われたの?」
「は? 違うよ。そんなこと、誰も言わない。そうじゃなくて……」
イリスはもごもごと口ごもる。はっきりしない態度に苛ついてきた。
「言いたくないならいいわよ。そんなうっとうしい態度取られる方が気分悪いわ。どうぞ、お帰りになって。忙しいのにわざわざありがとうございました」
「……そういう言い方はないだろう。さっきからちょっとひどすぎるぞ」
背を向けたまま突き放す私に、イリスもむっとしたようだ。声がとがってきた。
「君を避けてしまったのは悪かったけど、そこまで怒らなくてもいいだろう。単に、気まずかったというか、照れくさかったというか……だから、まともに顔を見られる気分じゃなかったんだよ!」
「さっきから全然話が見えないんだけど。いったい誰に何を言われてそんな気分になったのかを聞いているんじゃない。そこの説明しないで逆ギレしないでよ」
「逆ギレは君だろう。人をこんな気持ちにさせといて……って、いや待て……まさか、覚えてないのか?」
イリスの声音が変わる。気になって、私は肩ごしに振り返った。
「何を?」
「……君らに少し遅れて、僕が城に着いた時のことは覚えているか?」
イリスが着いた時?
記憶をたどって思い出そうとしてみる。でも自分が到着した時の記憶も曖昧で、ほとんど何も思い出せなかった。
イリスがいたような気はするんだけど……それがいつの記憶なのか、本当にあったことなのかも、わからない。夢だったと言われれば、それで納得してしまいそうなあやふやな記憶だった。
「ハルト様と再会して、敵に襲われて、なんとか切り抜けて……それから本隊と合流できたところまでは、はっきり思い出せるんだけど」
「そのあとは?」
「……町に着いたことは、なんとなく……」
あー、と気の抜けた声を上げて、イリスは天井を仰いだ。
え? じゃあ、イリスに何か言ったのは私なの? 私の言葉に彼は気まずくなったというのだろうか。いったい何を言った? すごく気になる。必死で記憶をかき回してもさっぱり思い出せない。
私は起き上がり、イリスに向き直った。かなり距離が近くなり、イリスが少しにじって離れていく。それを見てまた胸が痛くなる。
「……そんなに、ひどいこと言った?」
避けられるような何を私は言ったのだろう。低体温症による錯乱状態だったで済ませられないかな。
本当に錯乱状態になるほど症状が進行していたなら、きっと助かっていなかっただろうけれど。
「ひどくなんかないよ。悪いことじゃない……っていうか、多分大したことじゃないんだ。うん」
イリスの答えははっきりしない。気になって私は身を乗り出した。
「はっきり言って。私が悪かったなら謝るから」
「ちがうって。何も悪いことなんかしてないよ。むしろ可愛かった……いや! なんでもない!」
またイリスが挙動不審になる。私にはもう何がなんだか。
はあ、と大きく息をついて、気を取り直すようにイリスは笑った。
「ごめん。変なこと言って混乱させたな。そんな、特別なことじゃなかったんだよ。ただちょっと……君が、いつになく素直に甘えてきたからさ。周りにうらやましがられて、冷やかされて、それがちょっと気恥ずかしくて……ごめんな」
「…………」
甘えたとか、それも思い出せない。なんだろう、みんなが冷やかすほどベタベタに甘えたのか? それはたしかに恥ずかしい。私が。
「……いつになく素直って、私そんなにひねくれ者だと思われてるの」
照れ隠しにすねてみせれば、何を言うかとわざとらしい反応された。
「思うも何も、ひねくれてるだろうが。それに甘え下手だろう。ハルト様にすら、あまり甘えないじゃないか。遠慮してるのか信用しきれないのか知らないけど、ハルト様はけっこう寂しがってるぞ。いつまでたってもお父様と呼んでくれないって時々愚痴を聞かされる」
「…………」
いや、だって。お父様って、日常で使うのは恥ずかしい呼び名だよ。それにやっぱり、気後れするし。あんまりベタベタしているとユユ姫に悪いし。
「君を見てると、子猫を拾った気分になるんだよな。甘えたいけど甘えていいのかわからないってようすで、こっちの反応をうかがいながら距離を取ってる。警戒心が強くて、臆病で、でもすごくこっちのことを気にしていて……当たってるだろ?」
意地悪な笑顔で覗き込んでくるので、私は顔をそむける。だってそれが自然にできるなら苦労はしない。そんな人間だったなら、いじめられっ子にはなっていなかった。
「そうやってすみっこでうずくまってた子猫がさ、ある日すり寄ってきたらびっくりするだろ? やっと気を許してくれたって、うれしくなるだろ? 周りがうらやましがるのもわかるだろ? そんな状態だったんだよ」
「…………」
結局何を言ったのかは不明だが、どうも詳しく聞かない方がよさそうだ。今の時点ですでに恥ずかしくてたまらないので、私はこれ追求しないことにした。つっこめば、きっと墓穴を掘る。
顔があついのは、熱のせいだけではないかもしれない。今度は私が目を合わせられなくて、視線をさまよわせた。イリスは吐息を漏らして笑い、私に手を伸ばしてきた。
「だから、悪いことじゃない。誤解させたならすまなかった。君に腹を立てていたわけでも、嫌がっていたわけでもない。ちょっと照れくさかっただけだよ」
私を抱き寄せて、頭をなでる。いつものしぐさ、いつものぬくもりだ。うれしいけれど、いつも以上に胸が高鳴って落ちつかない。
甘えたことを嫌がらずよろこんでくれたというなら、私も喜んでいいのだろうか。恋愛感情にはいたらない、猫を相手にするような気持ちでしかなくても。
イリスが優しいのなんか、前から知っている。こんなことで喜んだって、いまさらって話だ。でも動悸がおさまらない。なんでこんなにどきどきするのか、自分に呆れる。猫扱いされているだけだっていう話なのに。
「女の子の扱い方については、僕もえらそうなことは言えないな。今までさんざん失敗してきたし……君を傷つけるようなことはしたくないから、どうしようって悩むんだ。いい加減だ無神経だって言われるけどさ、これでもいろいろ考えてるんだよ」
うん、それも知っている。イリスは本当に大切なことはちゃんと考えてくれているって、メイも言っていた。だから悪口を言いつつも、みんな信頼してついていくんだよね。
私は思いきって、自分からイリスに腕を回した。たくましい身体は細身に見えても抱ききれない。猫っていうより、電柱に留まるセミみたいかも。
「傷つくことなんかない。イリスのこと、好きよ。信頼してるし、頼りにもしてる。こうしてそばにいてくれるのが、うれしい」
瞬間、イリスの腕に力がこもる。ちょっと痛いくらいに強く抱きしめられた後、彼は息を吐き出して力を抜いた。
「そういうこと言うから……」
「え?」
いや、と彼は笑う。ほんの少し苦笑の混じった顔で、私を見る。
「僕も君が好きだよ。でも、もうちょっと大人になってほしいかな。いや、僕も精進しなきゃいけないんだけどさ」
「何かいけなかった?」
うーん、と彼は笑いながらうなる。
「いけなくないし、いけないとも言える。まあ、僕がもっといい男になれた頃には、君も大人になってるだろう。お互い、いい勝負だよな」
どういう意味なのか、さっぱりわからなかった。大人になれって、甘えるなってこと? さっきは甘えてうれしいって言ったくせに。
「イリスは今でもじゅうぶんいい男だと思うけど」
ひねくれ者と言われたので正直な気持ちを伝えてみれば、イリスは「お手上げだ」と背中からベッドに倒れ込んだ。
覗けば顔を隠してしまう。なのでイリスの上に私も倒れ込んでやった。主にみぞおちを狙って。そうしたらイリスの腕が私をつかまえて、ぎゅうぎゅうと締め上げてきた。
「その軽い身体で乗られてもこたえないよ」
くそう、この筋肉男め。
もがく私をイリスは笑いながら抱きしめる。しばらくベッドの上で馬鹿みたいなふざけ合いをして、結果私は熱が上がってしまったのだった。
イリスは医者とハルト様に叱られていた。