7
オホン、と、やけにわざとらしくアルタが咳払いをした。
「あー、なんだな、嬢ちゃん。あいつらが戻ってくる前に、身なりをなんとかした方がいいと思うんだが」
言われて己の姿を見下ろせば、それはもうひどいありさまだった。
厚手の冬服だから引き裂かれはしなかったものの、ボタンがちぎれ飛んで胸元が大きくはだけている。下に着込んだシャツや肌着はまくり上げられ、タイツもほとんど脱がされて、くしゃくしゃになったスカートの下からお尻が半分見えていた。
「――っ!」
先に反応したのはハルト様の方だった。
「い、いや……っ、みみ見ておらぬっ! 何も、なにも……っ」
「ハルト様ー……残念な方ですなあ。そこでそんなにうろたえたんじゃ、見たと白状しているようなものですぞ」
「だっ、だから、見ておらぬとっ」
「ああ、俺もちょっとしか見てないぞ。うん、ちょっとしか見えてない」
あたふたと背中を向けるハルト様と、余裕で視線をそらすアルタ。ここで私はどういうリアクションを取ればいいのだろう。とりあえず立ち上がり、乱れた服を直した。
「まあ、おじさんに見られても別に……」
「ぐはぁっ!」
視線をそらしたままアルタがのけぞった。
「い……今のは、本気でこたえた……」
「意識されても困るが……なにやら、複雑な気分だな」
三十路男がふたりして、ショックを受けているらしい。うるさいオヤジども。言っておくがいちばんいたたまれない思いをしているのは私だぞ。だからこそ、必死に我慢して平気そうなふりをしているんじゃないか。
地面に引き倒され押さえつけられていたせいで、服に土がついてドロドロだった。前をかき合わせても止めるボタンはなくなっているし、見るからに暴行を受けたという格好だ。そう見られることが、何よりも恥ずかしく情けなくて嫌だった。
男たちの荒々しい息づかいと手の感触がよみがえり、ぞっと悪寒が走った。再会の喜びがたちまち恐怖に取って代わられる。吐きそうになった私に、ハルト様が外套を脱いで肩にかけてくれた。
抱き寄せて、優しく背中をなでてくれる。今は男にはさわられたくない。そのはずなのに、ハルト様の手は少しもいやではなかった。この人が私に危害を加えることはない。この手は私を守ってくれるもの。だから大丈夫……怖い記憶は遠くへ飛んでいけ。
今だけと自分に言い訳しつつ、ハルト様にしがみついて気持ちを落ち着けた。抱きしめてくれる腕にほっとなる。ハルト様はここにちゃんといるのだと、あらためてその存在をたしかめることで、また喜びが私を満たしていった。
「それにしても、なぜこんなところにいるのだ。他に誰かいるようすはないし、はぐれたのか?」
私が落ちついたのを見て、ハルト様が尋ねた。こちらこそ聞きたい。深い谷に墜落したはずが、なぜこんなところに現れるのか。無事なのはよかったけれど、あの後どうしていたのかものすごく気になった。
とりあえず先に、こちらの状況をかいつまんで話した。ナハラ砦が燃えたことはハルト様たちも知っていたらしい。それならクルスク城まで退くだろうと予想して、彼らも別ルートで向かっていたそうだ。
「よくここまで来られましたね。いったいどうやって……」
谷から脱出できたって周りには敵軍がうようよいたはずだ。どうやって抜け出し、本隊よりも先行したのだろう。
「いや、我々ははじめから船には乗っていなかったのだ」
「――は?」
ハルト様の言葉に、私は口を開けてしまった。
「空からの攻撃を受けて驚いたところへ、敵の本隊が攻め込んできただろう。わが軍は一時大混乱に陥った。周り中を人と馬が走り回って、思うように進めなくてな。そうこうしていたら敵兵がなだれ込んできて、応戦しながら移動していくうち、情けない話だが友軍とはぐれてしまったのだ」
「…………」
船に、乗っていなかった?
あの時、ハルト様は地上にいたのか。
「敵兵に囲まれたり追われたり、とにかく脱出するので精一杯でな。どんどん友軍から離れていってしまったが、どうにもできなかった。砦が落ちた以上皆もクルスク城をめざすだろうから、どこかで合流できればと思ったのだが……」
ため息をついたハルト様の後を、アルタが引き継いだ。
「しつっこい連中がいてな。こっちに大物がいると勘づいたのか、ずっと追いかけてきたんだよ。それで森に逃げ込んだんだが……さっきの連中は多分追手の一部だな」
騎士たちが戻ってくる。彼らの服にはそこかしこに返り血がついていた。
今ついたものだけではないだろう。ここに至るまでの戦闘の激しさをうかがわせる。
「そんなわけで、あまりのんびりしていられんのだ。いつ新手が出てくるかわからんからな。この際、街道へ出ますかね?」
「うむ……本隊もこちらへ向かっているならば、遠からず合流できるな」
アルタとハルト様は今後のルートを検討し始める。私はあわてて尋ねた。
「あの……っ、ハルト様が船に乗っていなかったのなら、誰が? だれが船を飛ばしたんですか」
ふたりは私に目を戻し、気まずげに口を閉ざした。
誰かは乗っていたはずだ。でなければ船は飛ばない。
もちろん船長さんや、船員たちが操船して――でも、彼らだけなら勝手に船を離陸させないはず。
私は周りを見回した。ハルト様につき従うのは、二十名足らずの騎士ばかりだった。それ以外の姿はない。ここにはいない人がいる。
「まさか……」
「……オリグだ」
私の予想を、ハルト様が肯定した。
「船のようすを見に行くと言っていた。そちらに戻っていないのならば、間違いない。オリグがしたのであろう」
「…………」
めまいに似た感覚が私を襲う。一瞬のうちに駆け抜ける情報と思考。パズルを完成させるように、当時の状況が見えた。
戦闘機による攻撃を見たオリグさんは、ハルト様の所在を敵に知られてはいけないと考えたんだ。上空から見ればどこが特別かすぐにわかり、狙われる。最初に戦闘機が砦を攻撃したのも、ハルト様がいる可能性を考えてだろう。だから船を飛ばし、囮になった。
船が飛べばそこに公王がいるとみんな考える。私たちもそう思っていた。そして狙いどおり、敵の戦闘機は船に攻撃を集中させた。
撃墜されるところまで計算していたのかも――いや、していたのだろう。それでハルト様が死んだと敵に思わせるため、わざと攻撃を浴びて、墜ちて行った。
友軍にはすぐにハルト様の無事はわかるはずと踏んだのだろう。ハルト様がはぐれてしまったことだけが、想定外だったのだ。
計算していたのなら、船に乗っていた人たちは無事だろうか。自分ひとりが犠牲になるだけならオリグさんはあっさり死にそうだけれど、船員たちまで道連れになるのだから、なんとか助かる方法を考えそうな気がする。
でも、あの状況でどうやって助かる……?
「まだ、詳しいことは何もわからぬ。今はとにかく、本隊と合流することを考えよう」
ハルト様が私をはげます。自身にも言い聞かせるようだった。
最高責任者として、ハルト様もまた不覚を痛感しているのだろう。自分の身代わりになった臣下のことを、この人が気にしていないはずがない。いちばん辛いのは、きっとハルト様だ。
「そうそ、戦はまだ続いてるんだからな。のんびり落ち込んでる余裕なんてないぞ。無事に本隊と合流し、軍を立て直して敵をしっかりくい止めないと、これまでの戦いで犠牲になった連中が犬死にになっちまう。俺たちは、負けるわけにはいかないんだ。背後に守るべき家族がいるんだからな。仲間の誰が死のうと、今は嘆く暇なんかない。動けるかぎり最善を尽くす、それだけだ」
軽く言っているようで、アルタの声には力強さがあった。私に、ハルト様に、そして騎士たちに、しっかりしろと喝を入れてくる。辛いけれど、悲しんでいる余裕はない。動揺なんてしていられない。まだ何も終わっていないのだから。
私は不安や悲しみにふたをして、今は見ないことにした。今何よりも考えなければいけないのは、どうやってこの状況を切り抜け、攻勢に転じるかだ。
クルスク城に向かったメイは、多分もう着いているだろう。セミル卿は手勢を出してくれるのかな。クルスク城にそれだけの兵力があるのだろうか。
「セミル卿の配下はほとんどが農兵だ。町の守備が精一杯だろう。騎士団と領主軍が撤退してくると聞いて、受け入れ準備にてんやわんやってとこじゃないかね」
「ここで迎えを待つわけにはいかんな。さきほどの連中の仲間が、おそらく近くにいる。見つかる前に移動した方がよい」
ふたりの言葉にうなずきつつ、私はメイとの約束が気になっていた。
「ここで待つとメイに約束したんです。彼女が戻った時、私がいなくなっていたらきっと探し回ります」
「メイってのはメイリ・コナーのことか?」
アルタに聞かれ、あわててうなずく。ほほう?とアルタはからかう笑みを浮かべた。
「いつの間にか仲良しになったんだな。なにがあったのか、お兄さんに教えてほしいな」
「……無駄口叩く暇はないんでしょう。そういうのは後にしてください」
冷たく言い返してやると、大人げなく口をとがらせる。
「可愛くないなまったく……ここでメイリを待つってのはなしだぞ。その選択はできん。嬢ちゃんも我々と一緒にクルスク城へ向かうんだ。飛竜が飛んでくれば、すぐにわかる。合図をすればいい」
「でも、もし行き違ったら? 空を飛ぶんだもの、地上の移動と違ってかならずしも道なりに進む必要はないでしょう。きっと最短距離で戻ってくると思うんです。お互いに気付かないかもしれない。せめて何かメッセージでも残せたらいいんだけど……」
私は何も持っていない。紙も、ペンも。ハルト様たちとクルスク城に向かうと、メイに伝える手段がない。
戦場を離脱してきたハルト様たちだって、その身ひとつだろう。どうしよう、と私は周囲を見回した。
地面に書く? でも公園みたいな整地された場所じゃない。下草や木の根がはびこる森の中だ。メッセージを記せるようなやわらかい土だけの場所なんてない。
考える私のそばで、アルタが腰から短剣を引き抜いた。さっき私が身を寄せていた大木へ向かい、その幹に傷をつけていく。
――文字には見えなかった。何かの記号だ。何を意味するものなのか、私にはまったくわからない。これまで一度も見たことのないものだった。
「それは?」
「騎士同士の合図に使う暗号です。合流、東へ向かえ、と書いてあります」
首をかしげる私に近くの騎士が教えてくれる。アルタが続けた。
「これでメイリにゃ伝わるさ。竜騎士か近衛騎士がいなきゃ、これを残せるはずがない。嬢ちゃんを見つけて連れて行ったと悟るだろう。もしこいつを教えてないなんぞとぬかしたら、イリスのやつをしばき倒してやる」
――まあ、それは大丈夫だろう。いくらイリスがいい加減だからって、こういうことを教えないはずはない。訓練に関しては鬼だと飛竜騎士たちも言っている。
傷は真新しく大きい。これなら気付かずに見落とすということはないだろう。アルタがこうも自信たっぷりに言うのだから大丈夫と信用することにして、私は彼らとともに森を出ることにした。
騎士たちが馬を引いてくる。森の中では騎乗して進みにくいので、人馬が並んで歩く。人間も疲れているが、馬も元気がなかった。人を乗せて走り続けた上に、ご飯だってちゃんと食べられてはいないだろう。可哀相にと思い、それはハルト様たちも同じなのだと気付いた。
飲まず食わずで駆け抜けてきたのだろうか……だとしたら、飢えと渇きは相当なはずだ。冬でよかった。これが夏なら熱中症でやられている。
騎士たちは疲労を口にすることもなく、馬を気遣い励ましながら進んだ。ハルト様も私の手を引き、こちらのことばかり心配してくれる。みんなの精神力に感嘆するばかりだ。私も、寒いとかしんどいなんて言っていられない。
闘う相手が疲労と空腹だけなら、こうやって頑張るだけでよかった。でもあと少しで森が終わる、もうその先が見えるというところまで来た時、背後で声があがった。
「いたぞ!」
「こっちだ!」
追手だ。気配と足音が集まってくる。身を固くする私の周囲で、騎士たちが剣に手をかける。ハルト様が私をつかまえ、問答無用で馬の背に放り上げた。
「全員騎乗! 駆けるぞ!」
アルタの号令でみんな馬に飛び乗る。私の後ろにハルト様が乗ってきた。
「すまんな、もうちょっと頑張ってくれよ」
アルタは馬の首を叩きながら優しい声をかけた。答えるように馬がふんと大きく鼻を鳴らした。
一気に森を抜けて街道へ出、さらに馬を走らせる。振り落とされないようしがみつくのに必死で、周囲を見回す余裕なんてない。追われていることだけはわかった。後ろの方から殺気立った声が聞こえてくる。
「野郎にもててもちっともうれしくないんだがなあ。どうせなら美女に追いかけられたいぜ」
「追われたところで逃げるくせに。やつらからは逃げきれると思うか?」
「さて、本隊とうまく行き合えればよいのですが、どうもまだ影すら見えませんな」
アルタとハルト様の言葉から、私たちは西へ向かっていることがわかった。来た道を戻る形になるけれど、クルスク城へ向かうよりは早く味方と合流できるだろう。
「我々がくい止めます。その間にお行きください!」
騎士たちが叫んで手綱を引いた。馬を止め、追手を迎え撃とうとするのをハルト様が止める。
「ならん、数の差がありすぎる! このまま走り抜けろ!」
「しかし……っ」
言っている間にも、追手は近づいてくる。その数はこちらの倍よりさらにありそうだ。戦っても勝ち目はない。でもこのまま逃げるにしても、疲れた馬がどこまで走れるか。
どうしよう――どうする?
何をすれば、この窮地を切り抜けられるだろうか。
何も持っていない。敵を驚かせることもできない。だけど、何かしないとみんな死んでしまう。
助けが必要だ。敵を追い払えるような、大きな力を持った助けが。
私は周囲を見回した。エンエンナは遠い。もう竜の棲息圏からは外れているだろうか。呼び声は届かない? 間に合わない?
「お願い、誰か来て! 助けて!」
「チトセ?」
突然声を張り上げた私に、ハルト様が驚く。説明している暇はない。私は竜を呼び続けた。
「聞こえたら来て! 私たちを助けて!」
「どうした嬢ちゃん、こんなとこに誰もいないぞ」
「来て――!」
喉が痛くなるほどに声をふりしぼる。どうか、届いて。この声に応えて。
もう敵がすぐ近くまで迫っている。アルタが舌打ちして剣を抜いた。
「しょうがない、やれるとこまでやるか。ハルト様、どうかお逃げください……って、言っても聞いてくださらんでしょうなあ」
「逃げられるわけがない。そもそも、逃げきれる状況でもなかろう」
ハルト様も剣を抜いた。騎士たちが盾のように広がり、主君をかばう。
ぶつかり合う殺気に、目を開けていられなかった。怒号と剣戟の音に身がすくむ。怖い。いやだ、お願い誰も殺さないで。
助けて――!
竜でなくても。誰でも、なんでもいい、この戦いを止めて!
もう呼びかけというより、ただの悲鳴だ。声にもできない、心の絶叫がはたして届いたのか。
風が、吹いた。
そう思ったのは勘違いだった。森が立てたざわめきの音を風だと思ったけれど、私たちに吹きつける冷たさはなかった。
やってきたのは風ではなく、風を切って飛ぶ翼。
無数の鳥がすさまじい勢いで飛び込んできた。
「うわっ」
「なっ……なんだ!?」
敵も、味方も、驚いて戦うことを忘れる。彼らの間を何百という鳥が突っ切っていく。
ほとんどは小鳥だ。でも時々、大きな鳥の姿を見つけた。獲物をねらうように旋回する姿に、きっと猛禽類だと直感する。
「敵を追い払って!」
私は夢中で叫んでいた。直後、鳥にはどっちが敵か味方かもわからないと気付き、味方の騎士たちにも叫ぶ。
「さがって!」
困惑とおそらく恐怖を顔に浮かべて、騎士たちは私と鳥と、そして敵兵とを忙しく見回す。敵はがむしゃらに剣を振り回して鳥たちを追い払おうとしていた。強引に突っ切ってなおもこちらへ斬りかかってこようとする者もいた。けれどその馬に、別な影が飛びかかった。
「わああぁっ」
棹立ちになった馬から敵兵が振り落とされた。地面に転がった兵士に集団で襲いかかるのは――犬? いや、違う、犬よりずっと大きい。もしかして、狼?
全体の姿は犬に似ていた。でも獅子のようなたてがみがある。狼でもない。あの黒い獣は、一体なんと言う生き物なのだろう。
「やっやめろっ! ひぃっ!」
襲われた兵士が悲鳴を上げて暴れる。仲間が助けに入ろうとして、そこへも新たな集団が襲いかかる。別の場所では鳥の爪にえぐられて悲鳴を上げる姿もあった。
鳥と獣に襲われる敵兵を、ロウシェン側の騎士たちは呆然と眺めていた。彼らがこれ以上戦う必要はなかった。襲撃がやみ、人間たちが我に返って周りを見回せば、無数の目に取り囲まれていた。
いつでも飛びかかれる体勢の獣たち。枝という枝に止まる鳥たち。その数は、何百と。
「……ひっ、退け!」
指揮官の号令で、敵兵は馬首をめぐらせた。落馬していた兵士もあわてて自分の馬に乗ろうとし、先に逃げた馬に置いてけぼりをくらう。彼は転げそうになりながら、自分の足で走って逃げた。
後には、沈黙だけが残った。
森の生きものたちはまだそこにいた。こちらを見つめてくる獣と目が合った。私は敵がもう見えないほど遠くなったことを確認し、生きものたちに声をかけた。
「ありがとう……無茶なお願いしてごめんなさい」
その言葉がわかったのかどうか。
もう助けは必要ないと、それだけは確実に伝わったらしい。鳥たちがいっせいに羽ばたき、また風のような音を立てた。
黒い獣も素早く身をひるがえす。挨拶みたいなことなど何もせず、彼らはあっという間に木々の間に紛れ込み、気配を消した。
なにごともなかったかのような静けさが戻る。ただ街道のそこかしこに散らばる鳥の羽が、さきほどの異常な出来事が夢ではないと証明していた。
助かったと安堵するかたわら、私は別なことも考えていた。
龍は、本当に神様なのかもしれない。
眷属の竜だけでなく、鳥や獣までも従えることができるだなんて。
一般的に人々が信仰しているのは創造神だけれど、それは世界そのものという概念でもある。生命を生み出した大自然に対する畏怖と尊敬が、信仰となって形作られたものだ。だから創造神とは別の神話もたくさん存在する。龍も神の座に連なる存在なのかもしれなかった。
もっともそれが船にぶつかった挙げ句当て逃げしたことを考えると、やっぱり違うような気もするが。
なんにせよ、考えていた以上の影響力を持つ存在であることには違いない。そしてその力の一端が私にも宿っているのだと悟り、わきあがったのは喜びでも誇りでもなく恐怖だった。
そんな力は一人の人間には余るものだ。持っていていいものだろうかと怖くなる。
ふと周りを見れば、全員から注目されていた。騎士たちの顔に浮かぶのは、おそれだ。
誰もがおそろしいものを見る目で、私を見ていた。
……そうだろうな。やった私が怖いと感じるんだから、他人はもっと恐ろしいだろう。動物をあやつって人を襲わせるだなんて、まるで物語に出てくる悪い魔法使いだ。
彼らは、魔女か悪魔でも見ている気分だろうか。
自然と視線が落ちる。人におそれられるのは辛い。でもそれも当然と思う気持ちもあって、激しい感情はわいてこなかった。ぼんやりとした悲しさと、そしてひどい疲労感に脱力する。
ハルト様が動いた。手綱から手を離し、私の身体を抱きしめる。額から頭へと、大きな手が優しくなでた。
「よくやってくれた。ありがとう」
……やさしい、ひと。
きっとハルト様だっておそれを感じているだろうに。私が落ち込まないよう、気づかってくれるのがうれしい。
でもよくやってくれたのは動物たちで、私はただお願いしただけだ。お礼を言われても、なんだか申しわけなかった。
「正直死を覚悟していたんだが、なかなか人生は驚きに満ちているな。こういう逆転劇は予想もしなかったぞ」
アルタが言う。余裕を失わない明るい声に、ようやく他の騎士たちも窮地を切り抜けた喜びを見せ始めた。
その中の誰かがつぶやいた声が、私の耳に残った。
「セト……」
誰が言ったのだろう。セトというのは、祖王の名前だ。シーリースがまだ国家を形成していなかった時代に現れ、人々を統率して最初の国を作り上げた。子供向けの絵本にもなっている伝説の英雄だ。
やはり龍の加護を得ていたというセトも、竜だけでなく他の生きものたちを操れたのだろうか。
私を祖王の再来だなどと言う人もいるらしい。龍の加護が他に例のない稀少なものだから、そういう意見が出てくるのだろう。他に何の共通点もないのに同一視されても困るというのが本音だが、今の場合は恐れが畏れに変わったことをありがたく思っておこうか。
こわばった空気がどうにかなごみ始めた時、アルタが道の先、遠い向こうへ目を向けた。
「ようやくお出ましだ。もうちょっと早く来てくれてりゃなあ」
精悍な顔に太い笑みが浮かぶ。かっこいいなとぼんやり眺め、次いで言葉の意味に気づいて私も道のかなたに目をこらす。こちらへ向かい来る影が見えた。
騎士たちが歓声を上げた。本隊が、やっとここまでたどりついたのだ。
向こうもこちらの姿に気付いた。一団が速度を早めて先に近づいてくる。先頭を走る人の顔がわかった時、向こうもまた喜びを爆発させた。
「陛下! 団長!」
さらに馬腹を蹴り、ザックスさんは全速力でこちらへ駆けてきた。
「よくぞ、ご無事で!」
「ザックスか。そなたも無事でなによりだ」
互いに馬上から手を伸ばし、ハルト様とザックスさんは再会を喜び合う。
「すまなかったな。私がはぐれたばかりに、皆に大変な思いをさせた」
「いいえ、いいえ! ご無事でいらしたなら、もう何も……!」
「陛下! 陛下だ! ああ、本当に陛下が!」
「よかった……! ご無事だった! 神よ、感謝します!」
「団長ーっ! 今まで何やってたんすかぁっ」
「でかいくせに見つからないからどこに隠れたのかとっ」
駆けつけた騎士たちがいっせいに声を上げる。ハルト様はストレートに無事を喜ばれているのに、アルタはのっけから文句を言われて苦笑した。
「はいはい、すまんな。こっちもいろいろあったんだよ。あとで説明するからそうわめくな」
「ほんと、大変だったんすから!」
「無事ならさっさと仕事してくださいよ。もう後は全部まかせますからねっ」
「お前らなあ……」
騒動はザックスさんたちだけでは終わらなかった。追いついてきた本隊もこちらの正体に気づき、喜びの声が拡がっていく。猛然と駆けてくるのはベール卿だ。
「陛下ぁっ!」
「うわ、うるさいおっさんが来た」
アルタが冗談混じりに身をすくめた。
「きっとこっぴどく叱られますぞ。覚悟しましょうハルト様」
「いたしかたない。甘んじて受けよう」
答えるハルト様も周りのみんなも笑顔だ。そこに敗走の苦しさはどこにもなかった。
ハルト様の無事、その一事だけで士気が大きく上昇する。
きっと今なら敵と全面対決しても負けないと、そう信じられるほどに人々の顔は明るく生気に満ちていた。
私はその光景を、ただぼんやりと眺めていた。
助かった喜び、みんなと合流できた安堵。その気持ちはあるのに、どこか遠い。
極度の緊張から解放された反動だろうか。鈍った感覚の中、いまだ見えない人の姿をさがしていた。
敵の追撃をくい止めるため、最後尾で戦う竜騎士たち。
イリスとトトー君は、まだ来ない。