6
朝になっても空が晴れることはなく、変わらず重い雲が垂れ込めていた。
それでも明るくなった視界に、希望と勇気をわき起こすべきところなのだけれど、兵たちの表情は暗い。朝が来たということは、また戦いが始まるということだ。じきに敵が追ってくる。その不安と恐怖に、誰もが落ちつかない気持ちを抱いていた。
目覚めたからといって洗顔もできなければ、鏡で身だしなみを整えることもできない。適当に手ぐしで髪をなでつけるだけだ。昨日から身なりどころではなかったから、さぞかしひどい姿になっているだろうな。せっかくホーンさんが着替えを預かってきてくれたのに、何ひとつ持ち出せず着の身着のままで逃げてきた。冬になる前に仕立ててもらったばかりの服は、煤や埃でひどく汚れてしまっていた。淡いクリーム色の可愛いワンピースだったのに、一日にして灰色と茶色のまだら模様だ。
無駄な努力と知りつつ、服をはたいてみたりする。少しもきれいにはならなかった。どうせ今日もまた汚れるのだろうから、気にしても始まらないね。
「朝食を取ってきたぞ」
メイが戻ってきて声をかけた。ふりむいて彼女と目が合った瞬間、なんともいえない気恥ずかしさが込み上げてきた。なんだろう、この気持ち。ゆうべの穏やかで幸せな気持ちはどこ行った。いや、以前みたいな気まずい気分ではないのだけれど。やっとお互いの気持ちが近づけて、もう一度最初からやりなおしって、そんな関係になれて、うれしい気持ちでいっぱいなんだけれど。
それがなぜか恥ずかしい。彼女とまともに向き合うのが、照れくさくてしょうがない。
メイの方も似たような気分なのか、もじもじと目をそらしたりしていた。
「……なんだろう、この新婚みたいな空気は。ゆうべ僕の知らないところで何があった」
「あらイリス、おはよう」
「おはよう……僕には普通なんだな」
なぜかたそがれた顔で、イリスはやってきた。トトー君とザックスさんも一緒だった。
「大分顔色がよくなったな。熱は出てないか?」
私の顔を覗き込み、額に手を当てる。
「だいじょうぶ」
「――うん、今のところはもってるな」
ほっとしたようすで息をつく。みんな、いつ私が熱を出すかと心配しているようだ。こんな時に具合を悪くしてますます足手まといになりたくないから、私だってひやひやだ。気が張っている間はもつはずだよね? 必死になっていたら熱が出たって気がつかないかも。
「これから朝食か? じゃあ、食べながらでいいからちょっと話をさせてくれるかな」
三隊長揃い踏みで言われて、私とメイは顔を見合わせた。あ、イリスは隊長じゃないんだった。でもこの面子は、どう考えても竜騎士団のリーダー会議だよね。
ひとまず腰を下ろし、メイが持ってきてくれたものを口にする。朝食といっても調理されたものではなく、保存食がそのまま出てきただけだった。乾パンみたいな固くて甘味のないビスケットと、干した肉に水。それだけ。
ビスケット以上に干し肉が食べにくかった。肉というより分厚い布かゴムを噛んでいるみたいだ。固いものばかりで顎が疲れる。
「敵の空からの攻撃について、対策を立てておこうと思ってな。チトセはあれを知っていたよな? 詳しい情報を提供できるか?」
イリスに聞かれ、私は水で口の中のものを流し込んだ。
「情報と言われても……あれは飛行機というの。攻撃用の飛行機だから、戦闘機ね。馬や竜みたいな生き物じゃなく、作られた機械。人が操縦しているの」
「まあ、あれが生き物には見えなかったけど」
「ヒコーキ……飛行、機械……」
「空を飛ぶ機械など、想像もつかんな。一体どうやって飛んでいるのか……まさかあれ一つひとつが龍の心臓石を積んでいるわけでもないだろうし」
トトー君やザックスさんが首をひねっている。飛行原理なんて私も説明できない。そんな専門知識はない。
「心臓石ではないと思うけど、何かを燃料にして飛んでいるの。私が知ってる飛行機は油を使っていたけど……形がそっくりだから、あれもそうじゃないかとは思うんだけど、本当のところどうかはわからない」
焼夷弾なんてものを使っていたし、油の線が濃厚だが。
「昨日見たかぎりでは、攻撃手段は爆弾を落とすだけみたいね。爆弾というのは、衝撃で爆発するもの。昨日、見たからわかるわよね?」
「ああ。直撃を受けたら死ぬだろうけど、逃げようと思ったら逃げられるよな」
「一発や二発ならね……まあ、爆発力の小さい焼夷弾なあたりが救いよね。火は厄介だけど」
「あれで威力が小さいのか? そういえば、なんであんなに燃えるんだ?」
「詳しいことは知らないけど、粘性の高い油を使ってるのよ。混ぜ物をして普通の油より高温で燃えるようになってるの。粘っこい油だから周りのものに付着して落ちず、水をかけても消火できない厄介なものなの。爆発的に燃え広がって周囲の酸素を使うから、場所によると窒息することもあるわ」
「君らが使った、火炎瓶というもののように、火をつけてから落としているのか?」
ザックスさんに聞かれ、私は首を振った。
「火炎瓶も同じ系統ですけど、あれはもっと進化したものです。火をつけなくても、衝撃だけで爆発させられます。それで内部に仕込んだ油に火がつくんです。空から落とせば、十分な衝撃でしょう?」
「……聞けば聞くほど、途方もない話に思えるな。いったいどうやって、エランドはそのようなものを作り出したのか……」
それはまったく同感だった。この世界の人が突然飛行機や爆弾を発明するなんて、ちょっとありえない気がする。いろんな段階をすっ飛ばしすぎだ。
まさか、と、ちらりと考えた。エランドに、私のような異世界人がいたりしないだろうか。
一般人ではなく、軍事方面の知識を持った人物がいるのだとしたら……。
「そのバクダンっての……昨日見た感じじゃ、そうたくさん積み込めそうにないよね……わりとすぐに引き上げてったし、あまり長くは戦えないと見ていいかな」
トトー君にうなずく。
「ええ。あれが何機くらいいたかわかる?」
「十は越えてたな。二十……は、なかったか。四体ほど落としたから、あれで全部だとしたら、残っているのは十五足らずってとこだろう」
すかさずイリスが答えてくれる。さすが、あの状況でもちゃんと数を把握していた。
「輸送とか補給とか考えたら、そう大量には投入できないと思うのよね……あんなもの空母でもないと乗せられないから、自力で飛んできたんだろうし。だとすると、相当量の燃料が必要になるし……」
ぶつぶつ言いながら考える私を、みんなが見守る。彼らには何を言っているのかさっぱりわからないだろうな。ザックスさんやメイなんて、明らかにけげんそうな顔をしている。でも口出しして邪魔をすることはなかった。
「……数より、対策よね。こっちに地対空ミサイルなんてないから、空中で直接攻撃するしかない。ゆうべちょっと考えたんだけど、飛竜騎士が二人一組になれば、なんとかできるかも」
「どうするんだ?」
イリスが身を乗り出してきた。
「とっても原始的な方法よ。まず、道具を調達できるかどうかが問題なんだけど……あの飛行機、先端に回転するものがくっついてたでしょ。プロペラって言うんだけど、あれが回転しないと飛べないのよね」
「そこを狙えばいいのか」
「理論上はそう。矢を射かけてもはね返されるだろうけど、何度も当たってるうちに故障するんじゃないかと思う。うまくすれば巻き込んで、回転を止められる。向こうも高速で飛んでるのを狙い続けるのは難しそうだけど」
「まあ、そこはなんとか頑張るとして……でも二人一組とか、道具の調達って?」
飛竜騎士はみんな弓の名手だ。自信があるのだろう。イリスはあっさりうなずきつつ、私の言葉をちゃんと聞き漏らさずに尋ねてきた。
私は昨日から考えていた対策を提案した。準備が大変だし、道具が揃ったとしても実行可能かどうかわからない。でももし可能なら、矢で狙うより簡単確実にあれを落とせる。
機銃もミサイルも搭載していない戦闘機なんて、実はそんなに怖くない。竜と違って人が一から十まで操作しないといけないのだから、ちょっと手を放して別のことを、なんてできないし。パイロットは操縦だけで手一杯のはずだ。
そして機械は、便利な反面故障したらどうにもならない。馬や竜みたいに無理して頑張ってくれるなんてことはない。
私の説明を真剣に聞いていた騎士たちは、準備ができるかどうかを話し始めた。私は残りのビスケットを口に放り込む。戦う方法を――つまり敵を殺す方法を考えている自分に、驚き抵抗する気持ちもどこかに残っているが、ひどく冷たく計算する意識の方が大きかった。
敗走の身で、そしてハルト様のことを思うと、エランド軍に対して遠慮しようなんて気持ちはわいてこなかった。あれだけ抵抗を感じていた殲滅作戦も、今なら受け入れられそうな気がする。それが可能なら、敵を一人残らず殺してもいい。みんなを守れるなら――ハルト様が戻ってくるなら。
こんな考え方は間違っているかな。敵意に敵意で返すばかりでは、よけいにうらみと憎しみを増やすばかりだ。地球の歴史を思い出せば、戦争が愚かな行為でしかないことは明らかだ。でも――止められない。
ロウシェンから戦を起こしたわけじゃない。エランドが一方的に攻め込んできたのだ。戦わないと守れない。無抵抗で国や命を差し出すわけにはいかないじゃないか。
顔も見たことのない皇帝が憎かった。こんな戦を起こし、敵味方大勢の命を奪った元凶が憎い。戦うすべのない民間人まで犠牲にされて、うらまずにいられるだろうか。
もともとの戦いは、彼らの暮らしを守るためだったのだろう。デュペック侯から聞いた話は忘れていない。でもシーリースにまで攻め込んで来る理由にはならない。ロウシェンがエランドに手出ししたことはないのに。エランドがキサルスに攻め込んでくるまでは、友好関係を築こうと努力していたのに。差別が根強く残っているからといって、戦まで起こすのはけっして認められない。
煙を上げながら落ちていった船が、脳裏にこびりついている。乗っていた人たちは、どれほどの恐怖だったろうか。そして、どうなったのだろう。ハルト様は、無事でいてくれるだろうか……。
「もうひとつ、君に頼みたいことがあるんだけど」
短いミーティングを終えて、イリスがまた私に言いかけた時だった。敵襲を知らせる声が、陣に響きわたった。
たちまち空気が変わる。兵の間に緊張が走り、イリスたちは舌打ちして立ち上がった。
「ここで戦っても不利なだけだ。とにかくクルスク城まで退くのが最優先だ。トトー、飛竜隊と地竜隊でしんがりをつとめるぞ。いいな?」
「言われずとも」
「ザックス、領主軍を誘導してくれ」
「お前たちだけでいい役を取るつもりか?」
「悪いな。せっかくの見せ場だからな」
こんな時なのに――こんな時だからこそだろうか、男たちは冗談をとばして不敵な笑みを交わす。
「領主軍はそれぞれが勝手に動いて、連係が取れていない。これじゃあ、数がいたって意味がない。かえって互いの足を引っ張ってる。お前がまとめてくれ」
「簡単に言ってくれるな。領主たちが素直に従ってくれると思うのか。ベール卿なんか、若造がしゃしゃり出るなって怒鳴るぞ絶対」
「そこをなんとか説得してくれって頼んでるんだよ。こんなの、僕やトトーじゃ無理だ。若造どころか小僧扱いだよ。ザックスでぎりぎり許容範囲じゃないかな」
「さりげなく年寄り扱いしているわけだな。後で覚えてろよ」
拳でイリスのおなかを殴るふりして、ザックスさんは足早に立ち去った。年寄りどころか、まだ三十一歳なんだけどね。
ハルト様もアルタもいない。烏合の衆になりそうな軍を、なんとかまとめないと。若くてもザックスさんに頑張ってもらうしかない。それに騎馬隊は昨日いちばん激しく戦って、被害も大きい。多分イリスはこれ以上無理をさせたくもなかったのだろう。
トトー君も部下たちの元へ戻っていく。イリスは私とメイに口早に言いつけた。
「二人は先行してクルスク城へ向かえ。メイリ、チトセを頼んだぞ」
「はい」
「待って。ただでさえ数が減ってるんだから、飛竜騎士が抜けるべきじゃないでしょう。私は荷駄隊にでも同行させてもらうから……」
「だめだ。また戦闘機ってのが来たら、荷駄隊は真っ先に標的にされる。先行して行く手に問題がないかを調べるんだ。何かあったらザックスに知らせろ。城に着いたら城主のセミル卿にさっきの戦闘機対策を伝えて、準備をしてもらってくれ」
私の反論に耳を貸さず、イリスは行ってしまった。あわただしく行き交う兵たちの中へ、銀の髪があっという間にまぎれて見えなくなる。ため息をつく私の後ろで、メイがリアちゃんを呼んでいた。
すぐにやってきた飛竜は、間に合わせの手綱をつけていた。鞍はない。リアちゃんは自主的に後を追ってきたから、装備が間に合わなかった。でも二人乗りするにはかえって都合がいい。
「この時期に飛ぶとかなり冷えるからな。手を布でしっかりくるんどけ。口許も覆うといい」
言いながらメイは、荷駄隊から調達してきたらしい布を私に放ってよこした。助言に従って私は顔と頭を覆い、両手もぐるぐる巻きで保護――したら、指が使えないからしっかりつかまれないよね。困っていたら、メイが呆れた息をついて巻きなおしてくれた。
怪我人かミイラかって姿になって、メイの後ろに乗り込む。すぐにリアちゃんは空へ羽ばたいた。
視界が高くなると、軍の全体が見渡せた。後方に敵軍が迫っている。今のところ戦闘機の影はない。追ってきているのが普通の兵だけなら、退却しつつも戦える。後方へ向かう竜の群れが目に入った。
イリスとトトー君は、いちばん戦闘の激しい場所に身を置くんだ。彼らに守られて、ただ逃げるしかできない自分が情けない。
メイも心残りなようすで数回リアちゃんを旋回させていたが、やがて向きを変えて東へ向かった。
クルスク城まで約三十km。車ならあっという間の距離だけど、騎兵と歩兵が隊列を乱さないよう移動するのに、どれだけ時間がかかるだろうか。
私たちはすぐに軍の先頭へ抜け、さらに先へと進んだ。街道を目印に飛ぶ。真冬の空は寒いどころじゃなかった。タイツだけの脚が冷たい風にさらされて、痛くてたまらない。
保護していても風は繊維の隙間を通って肌を刺した。だんだん手がかじかんで力を失っていく。メイにしっかりつかまっていないと落ちてしまいそうなのに、こわばった身体は思うように動いてくれない。
「一旦降りるぞ」
十分ほど飛んだ頃、メイがリアちゃんを降下させた。街道から少し森に入ったところで着地する。ほっとした瞬間、まだ伏せてもいなかったリアちゃんの背から転げ落ちてしまった。
「大丈夫か」
メイが飛び降りてくる。寒いせいかぶつけたせいかわからない痛みをこらえて、私は身を起こした。メイが支えてくれ、どうにか地面に座り込む。
寒い――気が遠くなりそうなほどに寒い。震えが止まらない。メイが抱きしめてくれても全然足りない。ストーブが欲しい。それかお湯につかりたい。
ああ……エンエンナの温泉が、とてもなつかしい。早くあそこへ帰りたい。ユユ姫の待つ宮殿へ。平和で幸せな毎日に帰りたい。
何もかも解決して、みんなで一緒に帰れるのはいつだろうか。ハルト様も一緒に帰れるだろうか。アルタやオリグさんも、出かけた時と変わりなく元気な顔をそろえて帰りたい……。
「クルスク城まで、今で大体半分くらいだ。問題もなさそうだし、ここで少し休もう」
「……いそがないと」
私は首を振った。
「城主の……セミル卿だっけ? その人にお願いして、準備してもらわなきゃいけないもの。いくら城まで撤退したって、また空襲を受けたらすぐ城が燃え落ちるわ。のんびり休んでる暇はない」
「この調子だと、お前は城までもたないぞ。着く前に空から落ちておしまいだ」
まだ身体に力が戻らない。あと半分、もちこたえられるだろうか。時間にしたらほんのわずかだ。でもろくな防寒着もない状態での飛行は辛すぎて、あっという間に身体が悲鳴を上げてしまった。残りの距離を耐えきれる自信がない。
なんでメイは平気な顔をしているんだろう。彼女だってそれほど厳重な防寒対策をしているように見えないのに。これが竜騎士と一般人の違いか。それとも単に私がひ弱なだけなのか。
「……この布をほどいて、紐状にして、メイの身体と結びつけるってのは? ほら、赤ちゃんをおんぶするみたいに」
言いながらすごく情けない気分になったが、なりふり構っていられない。提案すると、メイは難しい顔で考え込んだ。
「どうにかなるかな……けど、無理やりクルスク城まで飛んだって、その後話をする余裕が残ってると思うか? 肝心の、城主に連絡するって部分が抜けてるぞ」
「もし私がしゃべることもできない状態なら、かわりにメイが――って、そうか、メイだけ先に行ってもらえばいいんだわ」
寒さでうまく回らなかった頭が、ようやくそこに気がついた。
「私を連れていなければ、もっと速く飛べるでしょう。メイが行って知らせて。それでまたここに戻ってきてくれればいいんだわ」
「その間お前は一人になるじゃないか。そんなこと、できない」
メイは首を振る。でもこの状況で、あれもこれもとは望めないだろう。私は彼女を説得した。
「少しの間じゃない。往復しても三十分とかからない。話をする時間を加えたって、きっと一時間も待たされないわ」
「でも……」
「ずいぶん先に進んだから、ここはまだしばらく戦場にはならないでしょう。軍勢が追いついてきたとしても、こうやって森の中に隠れていれば大丈夫よ。誰も気付かずに前を素通りするわ」
「…………」
「約束する。絶対ここから動かない。だから行って。飛竜騎士の伝令なら、すぐに聞いてもらえるわよね? 竜が何よりの身分証明だわ。イリスたちに言ったことを城主に伝えて。大急ぎで準備してもらって。おねがい」
時間はない。私はメイから身を離し、リアちゃんを指さした。
「行って! ぐずぐずしてる暇はない。こうしてる間にも戦闘機が飛んでくるかもしれない。時間との戦いなの、急いで!」
「…………」
顔をしかめ、唇を噛んでいたメイは、一度目を伏せ、立ち上がった。
「できるだけ早く戻ってくる。絶対に動くなよ。上空からも見えないように、木の陰に身を寄せていろ」
「ええ」
言われたとおり、私は近くの大きな木に寄り添った。見届けてからメイは素早くリアちゃんにまたがる。
梢を揺らして飛翔する竜を見送り、私は身を縮めた。
そばから人がいなくなり、ますます寒さに身が震える。今日はそれほど風が強くもないのに、ほんの少し吹いただけですくみ上がった。
寒い……いつになったら暖かくなるのだろう。
もう日は高いはずなのに、いつまでたっても気温が上がらない。せめてあの雲が切れてくれたなら。空が晴れて太陽が姿を現せば、少しはましになるのに。
雪でも降るのかな。この地方にも積もるだろうか。積もったら、戦はどうなる? エランド軍にとっては雪なんて何の障害にもならないだろうか。
なにもかもがロウシェンを追い詰めているように思えて、不安に押しつぶされそうだった。だめだ。悪い方にばかり考えて落ち込んでいたって問題の解決にはならない。どうやっていい方へ向かわせるかを考えないと。
私の提案をうまく実行に移せたなら、戦闘機による攻撃もそれほど脅威ではなくなる。向こうもそう大量の戦闘機は保有していないと思いたい。そんな軍事力があるなら、最初から戦闘機で攻めてくるだろう。きっとあれは敵の切り札だ。基本的には、ロウシェンと同じ人馬で構成された軍のはず。
それでも、このままロウシェンだけで対抗するのは厳しい。他にどんな隠し玉を持っているかと不安もある。リヴェロとアルギリにも軍を出してもらい、圧倒的な戦力をそろえないと。
すでに両国に、この状況は知らされているだろう。カームさんはどう考えているかな。そしてクラルス公は……。
寒さに身を縮めつつ、思考にふける私の耳に物音が届いた。風が立てたにしては不自然な音だと、ふと気付いて顔を上げる。なにげなく周囲を見回した私は、そこで凍りついた。
「やっぱり女だ。なんでこんなとこに」
「浮浪者か? にしても、こんな人里離れた森の中にいるとは妙な話だな」
木々の間から何人もの男が姿を現し、こちらへ向かってきた。その姿は、戦場で見慣れた兵士のものだ。鎧や籠手をまとい、腰には剣を提げている。
ロウシェンの兵士だろうか。それとも敵兵? どうしてこんなところにいるの?
味方かもしれないと期待する気にはなれなかった。男たちの顔には、いやな表情が浮かんでいた。
「まだガキだ。捨てられたんじゃないか?」
「捨て子にゃあ、薹が立ってるぜ。まあ、なんでもいい。こんな遠くの島まで遠征して、そろそろうんざりしてたんだ。こいつは思いがけないご褒美だぜ」
立ち上がろうとして、足がもつれた。尻餅をついたまま、あとずさる。どうしよう。走ったって逃げられない。男たちの数は多い。十人か、それ以上か。鍛えられた兵士たちを前に、私には抵抗のすべもなかった。
「――っやあぁっ!」
襲いかかってきた男たちに、地面に引き倒される。手足を押さえられ、いくつものごつい手が身体をまさぐった。
「いや――いやあぁっ! やだ、イリス! メイ! やだ……やあぁっ!」
私の悲鳴すらも楽しんで、男たちは笑いながら服に手をかける。スカートがまくり上げられ、下着ごとタイツが引っ張られる。いや、嫌だ。怖い。おぞましい。耐えられない!
こんなことをされるくらいなら、まだ剣で刺し貫かれた方がましだ。怖い。嫌だ。誰か助けて。
いやだ……!
「離れろ下郎が!」
怒声が響き、私の上にのしかかっていた男が吹っ飛んだ。何が起きたのか、とっさにはわからなかった。私に群がっていた男たちが、驚き血相を変えて剣に手をかける。けれど抜く暇もなく一人、二人と斬り倒された。
「この野郎! ロウシェンの騎士か!」
「ぶっ殺せ!」
いきり立った男たちが私を放り出し、飛び込んできた人物に襲いかかった。まともに向かい合えば一対多数、勝負にならない。取り囲まれそうになった人を、さらに飛び込んできた別の人物がかばった。
「お一人で飛び出さんでくださいよ!」
大きな身体のその人は、剣の一振りで数人まとめて吹っ飛ばす。金の髪を奔放に広げて戦う姿は、たくましい野生の獅子を思わせた。
「チトセ!」
呆然とする私を、抱き起こす腕。目の前にあるこの顔は、幻ではないの? 私はちゃんと現実を見ているのだろうか。あまりの事態に頭がどうかして、幻覚を見ているのではないかと思った。
「…………」
声が出せない。震える手を上げ、頬にふれる。あたたかく柔らかいこの感覚は、本物だろうか。
「……あ……」
言葉のかわりに嗚咽がこみ上げてくる。涙があふれ、乾いた肌を流れ落ちた。
「あ、あ……あああ……!」
私はその人の首にしがみついた。あたたかい腕がしっかりと抱きしめてくれる。この腕を、このぬくもりを、どれだけ求めただろうか。
「ハルト様……っ」
「大丈夫だ。もうだいじょうぶだ」
優しい声と背中をなでる手が、これは夢ではないと教えてくれる。ハルト様はたしかに、ここに存在していた。
「ハルト様ぁ……っ!」
生きていた――生きていた!
帰って来てくれた!
ああ、神様!
「陛下! 団長!」
「この、侵略者どもが!」
ふたりを追って騎士たちが駆けつけてきた。劣勢を察してエランド兵たちが逃げ出す。アルタが冷たい声で部下たちに指示した。
「逃がすな。仲間を呼ばれると厄介だ、始末しろ」
「はっ」
騎士たちが追いかける。離れた場所で悲鳴が上がった。ハルト様が私の頭を胸に押しつけ、そちらが見えないようにした。
「まったく、敵兵の群れにお一人で飛び込まれるなど、人の心臓を止めるおつもりですか」
アルタがこちらへ来て文句を言った。
「ひとりなどとは思わなかったな。よもや、ついてこぬつもりだったか?」
ハルト様がからかうように言い返す。アルタは口をへの字に曲げた。
「こちらにまかせてくださればよかったんですよ。止める暇もなく飛び出してって、少しはお立場を考えていただきたい」
「わが子の危機に飛び出さぬ親などおらぬ」
きっぱりと言い切り、ハルト様は私を見下ろす。穏やかなグレーの瞳が優しく微笑む。どこも怪我などなく、無事な姿に心の底から安堵した。
ああ……よかった……。
どうしてここにいるのか、今までどうしていたのか。いろいろ疑問はあるけれど、今はもういい。ハルト様が無事に帰って来てくれただけで、それだけでじゅうぶんだった。
寒く、苦しい、敗走の中、ようやく差し込んだ希望の光に、私の奥からまた涙があふれた。