5
日が暮れる。
後退する軍も、追撃する軍も、空から光が失われると動きを止めた。
空に雲は厚く、月も星も見えない。暗闇の中では動きようがなかった。
ナハラ砦を捨てたロウシェン軍は、東へ十五kmほど退いたところで野営した。
兵たちの士気は低かった。優勢とばかり思っていた戦況があっという間に逆転され、砦を失うばかりか王すら行方不明という事態に陥ってしまったのだ。体勢を立て直すために後退しているのだと言っても、これは明らかに敗走だ。誰もが大きな不安を抱えていた。
あちこちで火が焚かれている。私の近くにも焚火があった。暖を取れるようイリスが熾してくれたものだ。彼はそのまま私のもとを離れ、他の騎士たちのようすを見に行ってまだ戻らない。
疲れきりうずくまる姿が多かった。勝ち戦ならば疲労を吹き飛ばす明るさがあるものだが、敗走の身にはすべてが重くのしかかる。私も動く元気が出せず、ぼんやとり火を見つめていた。
地面を踏む音が近づいてきて、焚火の明かりに若い騎士が照らされた。五千の軍勢の中、私以外唯一の女性であるメイリさんだ。
彼女は無言で手にしたものを私に突きつけた。木の椀にお粥のようなものが入っている。私は首を振った。
「いらな……」
「食べろ」
私の言葉をさえぎって、彼女は強い口調で言った。
無理やり持たされたお椀を見つめ、息を吐いた。食べないと身がもたない。わかっている。昼からずっと食べていないのだから、空腹のはずだった。でも何も感じない。かけらも食欲がわいてこなかった。
「無理やりにでも食べろ」
匙も強引に持たされる。私はのろのろとお粥を口に運んだ。
つらい。味がまったくわからない。喉に石がつかえているようで、飲み込むのが苦しい。一口食べただけで息切れしそうになる。
以前具合を悪くした時より、さらにひどかった。ものが食べられなくなるほどつらい気持ちなんて、日本にいた頃は知らなかった。クラスメイトの嫌がらせなんて、この状況にくらべたら全然どうってことない。こんなに苦しくてかなしい気持ちがあることを、あの頃の私は知らなかった。
ハルト様……。
「何かをしたい、役に立ちたいって言ってただろうが。自分の言ったことを忘れたのか。こんなところで自滅してどうする。食べるんだ」
叱りつけてくるメイリさんを見上げる。本当に、なんて情けないのだろう。私にも何かができるはずと思い上がって、のこのこ戦場までついてきてしまった。調子に乗って軍議に口を出して、その結果が今の状況だ。
私のせいで、みんなを苦しめている。私のせいでハルト様が……。
「ここで立ち直れないなら、あたしはやっぱりお前を認められない。ただの甘ったれたわがまま女だと、見下げ果てるだけだ」
メイリさんの言葉は厳しい。でもこんなに一方的に話しかけてくるのは、初めてじゃないだろうか。彼女の方から私に働きかけることなんて、これまでほとんどなかった。突き放すようなことを言うけれど、本当は私を立ち直らせようとしてくれているのだと気付く。
どうして、彼女がそんなことをしてくれるのだろう。
嫌われて、憎まれていた。私へのわだかまりは、まだ消えていないはずだった。私が落ち込んで立ち直れなくたって、彼女にはどうでもいいだろうに。
匙を動かす。どうにか二口目を飲み込み、また息を吐く。苦しい。でも食べないと。
おそろしく時間をかけながら食べる私のそばに、メイリさんは腰を下ろした。そのまましばらく沈黙が続く。
「…………」
メイリさんは何かを言おうとしているようだった。言葉をさがし、困る顔をする。ひどく気まずそうにこちらを向き、私と目が合うとまたそらす。そんなことを何度かくり返してようやく思いきったようすで口を開こうとしたまさにその時、他から声をかけられた。
「そこにいたか。さがしたぞ」
疲れを見せず力強い足取りで来たのは、ザックスさんだった。汗と埃で汚れ、さらには返り血を浴びたままというありさまだが、それでもできる範囲で精一杯身なりを整えていた。乱れた髪も撫でつけ、きりりとした姿を保っている。生真面目な人だとイリスが言っていたし、これまでの印象もそんなところだ。いかにも優等生、エリートという雰囲気の騎士は、敗走の軍の中にあっても常と変わらず紳士然としていた。もっとも激しい戦闘が行われている場所にいると聞いていたので、無事な姿をたしかめられて、ほっとした。
話の邪魔をされた形になったが、メイリさんはだまって譲った。私もザックスさんの方を向く。
「怪我はないとイリスから聞いていたが、大丈夫か? 大分、疲れただろう」
「いえ……私は何もしていないので……」
もちろん疲れている。でもひたすら守られ、足手まといの荷物になり続けていた私に、そんなことを言える資格はない。
ザックスさんは私の前に膝をついた。
「君に、謝っておこうと思って。うちの隊員がとんだ真似をして、申しわけない」
「…………」
突然頭を下げられて、いったい何の話かと思った。そうしてベネットさんのことを思い出す。そうだ、彼はザックスさんの部下だった。だから言っているんだな。
「ベネットのしたことは、筋違いの八つ当たりだ。君まで巻き込んで、本当に申しわけない。こちらの教育が足りなかった」
「いいえ……」
ザックスさんがしたわけじゃないのに。ベネットさんが胸のうちにどんな恨みを抱え、何をたくらんでいたのか、そんなの他の人にはわからなかったことだ。ザックスさんが謝らなくたって。
「本当なら、私もイリスにならい責任をとるべきなのだがな」
そこまで言われてわかった。そうだ、これはあの時と同じ状況なんだ。
思わずメイリさんを見てしまう。彼女は唇を噛んでうつむいた。
「今、この状況で私が抜けるわけにはいかない。事態が落ちつくまで見逃してくれないか。いずれきちんとした形でけじめはつける」
ザックスさんの言葉に私は焦った。まさか、戦が終わったら辞任するつもりなのだろうか。そんなの、とんでもない。
「けじめなんて、そんなの必要ありません。あれは個人的な問題で、ザックスさんが責任を取るような話では」
「部下の不始末は上官の責任だ。竜騎士団の一員としての心得を徹底しきれていなかった。私にも責任はある」
「……そうだとしても、忘れてください」
かなしい気持ちで私は首を振った。
「それでザックスさんが何らかの罰を受けても、私はよけいに辛くなるだけです。もう嫌です……お願いだから、忘れてください」
もしザックスさんが罰を受けるとしたら、イリスだって追求されるだろう。メイリさんにも、またあれこれ言われる。私の周りで知っている人たちが不幸になっていくのを、これ以上見たくなかった。
できればベネットさんにも、正しい心を取り戻してほしかった。彼はずっと辛かっただろう。そこから立ち直り、明るい道を見つけてほしかった。でも、もうかなわない。苦しみを抱えたまま、あの人は死んでしまった。不幸はそれだけでじゅうぶんだ。これ以上はまっぴらだ。
「私なんかより、部下の人たちを気にしてあげてください。この先どうなるんだろうって不安に押しつぶされそうな中、きっとザックスさんを頼りにしているんです。隊長としてザックスさんが考えるべきなのは、過ぎたことに対する責任じゃなくて、今ある状況への責任でしょう」
言いながら、残酷な話だと思った。不安なのはザックスさんだって同じだろうに。みんなに頼られ、期待されて、プレッシャーはどれほど重いだろうか。
トトー君も同じ状況なのだろうか。イリスとジェイドさんも……領主たちも、みんな自身の不安だけでなく、プレッシャーを背負っている。
それが、責任というものなんだな。責任って、よく耳にする言葉だけれど、本当はこんなにも重い。
「……すまない」
ザックスさんはもう一度私に頭を下げた。そしてメイリさんの方へも顔を向けた。
「君にも謝罪する。傷をえぐるような出来事だったろう。申しわけない」
「いえ……どうか、頭を上げてください」
彼女の敬愛するイリスより年齢でも経歴でも上の人から謝られ、メイリさんは恐縮するようすだった。
「ベネットのしたことはけっして許されない過ちだけど、あたしにはあいつの気持ちがわかります。だから、ただ哀れで……同時に、なんでそこから立ち直れなかったっていう腹立ちも感じます。でも多分、それは全部自分自身へ向けた気持ちなんです。ベネットに対しては、もう、安らかにとしか……」
「……ベネットも、君のように己を見つめなおすことができればよかったのにな。こんな若い者にできたことが、あいつにはできなかった。情けなく、残念だ」
ザックスさんは苦い笑いを残し、立ち去って行った。また私とメイリさんのふたりになり、沈黙が落ちる。
まだ半分以上残っているお粥を思い出し、私は努力を再開した。お椀の中身はすっかり冷えてしまい、一口ごとに冷気が体内に侵入するようだ。それでも生きるため、明日も動くために、これを食べてしまわないと。
生きてどうするのだろうとも思う。ハルト様を、みんなをこんな目にあわせておいて、私に生きる権利なんてあるのだろうか。
でも、もし私がこのまま自滅して死んでしまえば、懸命に守ってくれたイリスや食べ物を持ってきてくれたメイリさんの気持ちを無駄にしてしまう。同じ死ぬにしても、その前になにかひとつでも役に立たなければ。
どうにか最後の一口を食べ終えて、私はぐったりとお椀を下ろした。
起きているのが辛い。横になろうか。眠れる気はしないけれど。
「寝るなら、ちょっと待て。なにか布団代わりになりそうなものをさがしてくるから」
メイリさんが立とうとするので、私は呼び止めた。どうしてこんなに面倒みてくれるのだろうと不思議だった。
「メイリさんも疲れてるでしょう。私のことなんていいから、休んでください」
「休むさ。お前を休ませたらな」
「……どうしてそんなによくしてくれるんですか。私を守れって命じられたから? でももう、メイリさんは信頼して大丈夫だって、みんなわかったはずです。明日からも戦いは続くんだし、自分の身体を最優先してください」
メイリさんは前を向いたまま、しばらく黙っていた。
「……お前は今、自分を責めているだろう。この状況は自分のせいだって」
「…………」
「お前を見ていて気付いたことがある。なにかが起きた時、お前はいつも原因を自分のせいにするんだ。そういうふりをして周りのなぐさめや同情を求めているのかとも思ったが、そうじゃない……そんな、無理やりなこじつけじゃなく、そのまま受け取ればいいんだ。単にお前は卑屈な人間だって」
「…………」
ずばりときついことを言われて絶句する。卑屈か……そうかもしれないな。
「もっと、うまく立ち回ってると思ってた。じっさいお前は頭がいいし、機転も利く。だけど、自分のことには呆れるほど馬鹿で不器用だった」
メイリさんは容赦ない。さらに私をののしる。
でもその声は静かだ。
「ずっと、お前を妬み、軽蔑していた。幸運を足掛かりにして、うまく人の助けや好意を得て、のし上がって行った計算高い女だと……お前と付き合ったこともないのに、勝手にそう思い込んでいた」
焚火の明かりに照らされた横顔は、静かに落ちついていた。苦しげでもなけば腹立たしげでもない。こんな時なのに、彼女はとても静かで穏やかな顔をしていた。
「リヴェロへ行った時も、思い込みにばかりとらわれて、お前をちゃんと見ようとしていなかった。お前の言うことすること、全部悪意に受け取って、勝手に腹を立て、勝手にひがんでいた……今はわかる。お前への誤解だけじゃない。あたし自身が以前から抱いていた劣等感も一緒になって、お前を悪者にすることで全部ぶつけていたんだ。ベネットと一緒だ。自分の足りなさを認められず、なにかのせいにすることでごまかしていた」
メイリさんはゆっくりとこちらを振り向く。もう一度身をかがめて地面に膝をつき、私とすぐそばから目を合わせた。
「ごめんなさい」
深く下げられる、頭。焚火の明かりをはじいて金色に光る髪を、私は言葉もなく見つめた。
「あんなことをしたのに、お前に一度も謝っていなかった。隊のみんなやイリス様に迷惑をかけたと、それは素直に反省できたのに、お前にだけはずっと謝れなかった。お前を憎むことで自分を守ろうとしていた。何も守れるはずないのに、馬鹿だった……ごめんなさい」
泣きすぎて、もう渇ききったかと思った涙がまたこぼれた。私、どうして泣いているんだろう。悲しいわけじゃないのに。
「どうしてって、こっちが聞きたい。お前は一度もあたしを責めず、自分が悪いみたいに謝ってきた。いくら卑屈だからって、なんでそこまで自分だけを責めるのかがわからない。誰が見てもお前は被害者だったのに。加害者のあたしに謝って、かばって、ずっと気づかって……なんでそうまでしてくれる」
上げられた目がまた私を見る。もう一人の私だと思っていた。とてもよく似た存在だと。でも本当にそうかな? 私はこんなに、強くまっすぐに人を見られるだろうか。
「あたしへの罰を軽くしたり、復職できるよう上にかけあったり……飛竜隊にもよくようすを見に来ていたよな。あたしに嫌がらせしたやつのことを、いちいち調べていただろう」
――知っていたのか。
「なんで……」
「気付かれてないと思ってたのか? 素人の女相手に後れを取るような竜騎士なんていないぞ。みんな知ってたよ。お前があたしを気にかけてるもんだから、だんだん嫌がらせもされなくなった」
そ、そうだったのか。イリスだけじゃなく、飛竜隊のみんなに知られていたのか。メイリさん本人にも……。
探偵気分でコソコソしていたのが恥ずかしい。あれをみんな、知らないふりしてスルーしてくれていたのか。
いたたまれず視線を下げた私に、メイリさんは息を吐いた。呆れだけじゃなく、ほんの少し笑いも混じっていたかもしれない。
「最初は、あたしのみじめな姿を見てほくそ笑んでるのかと思ってたけどな。そうあってほしいっていう願望だったのかもしれない。お前が性悪な女なら、あたしは何はばかることなく憎める。自分の非を認めなくていい。そういう逃げ道を求め続けて、でもお前を見るたびにそうじゃないって思い知らされて、ますます辛くなって……ベネットを見ていて、自分がどれほど愚かで哀れだったかを悟ったよ。あんなふうに見苦しかったんだな。素直に自分の非を認める方が、よっぽどましだった。それを知るのにこんなに時間がかかってしまった……本当に、ごめんなさい」
三度目の謝罪だ。私は首を振った。
「メイリさんだけが悪いんじゃない、私も悪かったんです。竜と主人の絆を理解してなかった。怒らせて当然でした」
「……余興に使われた時は、たしかに腹が立った。あの時こっちはまた事件が起きたのかとすごく焦ったんだ。竜に置いてかれたから、夜の山道を自力で走るしかなかったし」
「ごめんなさい……」
「馬鹿野郎って、怒鳴って終わればいい話だったのにな。なんなら一発殴るくらいは、周りも許してくれただろう。その程度のことだったんだ……なのに、もっとひどいことをされたような気になっていた」
浮かんだ苦笑は、多分自分に向けられたもの。過去の自分を客観的に振り返れるようになったのは、それだけ苦しさから解放されているのだと思っていいだろうか。
「お前に対する妬みがよけいにそうさせたんだな。イリス様に大事にされて、周りの人たちから可愛がられて、守られて。そういう女を、人に媚びて取り入るしかできないやつだって馬鹿にしながら、本当はずっとどこかで妬んでいた。劣等感でいっぱいだったんだ。女らしいきれいな女たちを妬んでいた。お前を、その象徴みたいに見ていた」
メイリさんが劣等感を抱いて他人を妬むって、私には理解しがたい話だった。どうしてそんなふうに考える必要があるのだろう。
「どうして妬むの……? 私はずっと、メイリさんがうらやましかった。強くて、その若さと女性の身で竜騎士になれるほどの実力があって。私よりずっと役に立てる。いろんなことができる。うらやましくてしかたなかったです」
「でも女じゃないだろう。髪は短くぼさぼさ、肌は日焼けして真っ黒。訓練で毎日傷だらけだし、筋肉のついた身体はみっともないし」
「どこが? プロポーション抜群じゃないですか! 立派な胸も持ってるし」
「……普通だ」
「私から見ればじゅうぶん巨乳です!」
「それはお前が小さすぎるからで……いや」
私のうらめしい視線を受けて、メイリさんは言葉をにごした。やっぱり小さいって思っていたんだな。くそう。
「顔だちだって美人じゃないですか。私なんて、頑張ってきれいにしてても十人並みですよ。劣等感なんて言われても厭味にしか聞こえません」
「馬鹿言え、お前の方がよっぽどきれいだ。色白で、肌は絹みたいで、どこもかしこも繊細で」
「そういう女になりたかったなら、今からでもなれますよ。騎士をやめて美容に全力つぎ込めばいいんです。きれいな肌も髪もそれで手に入ります。筋肉なんて鍛えなければどんどん落ちるし。もともと女性は筋肉のつきにくい体質なんだから。でも、それが望みなんですか? そんなふうに生きたかったんですか?」
「……いいや」
私の追求に、メイリさんは目をそらす。そして淡く苦笑した。
「そうだな……望んで、こうなった」
私はうなずいた。
「メイリさんは素敵ですよ。一般的な女らしさとは違うとしても、じゅうぶん魅力的です。人とすぐうちとけられて、誰とでも話ができるってイリスから聞きました。それは、私が何よりうらやむものです。おしゃれみたいに簡単にできることじゃない。私にはとても難しいことです。メイリさんは自然にそれができていて、自分のめざした道を進んでいて、きっととても輝いていたと思います。そういう人の方がね、おしゃれより何より、周りの目や心を引きつけるんですよ」
メイリさんが不思議そうな顔をする。自分の魅力を少しも理解していない、可愛い人。そんなふうに思った。
「美容が気になるなら、騎士をしながらでもできることはありますよ。日焼けや怪我は防げないけど、その他はちょっとした努力だけで、ずいぶん変われます。強くてかっこよくて、おまけにきれいになったら、もう完璧ですね。きっと女の子からも憧れられる、お姉様騎士になりますよ。イリスなんか目じゃないくらいもてそう」
「なんだそれは。女にもててもうれしくないぞ」
思わずといったようにメイリさんが笑った。初めて私に向けられた笑顔。胸の奥にあたたかなものが宿る。戦のことやハルト様のことで死にそうに重くなったいた心が、メイリさんのおかげでずいぶんと楽になっていた。
この、辛くかなしい夜に、この人がいてくれてよかった。彼女が私の救いとなってくれた。メイリさんとの会話がなければ、私はただ落ち込んで自滅していっただけだろう。
一度上げた腰を下ろし、メイリさんは元通り私のそばに座り直した。ふたりで静かに焚火をみつめる。こんなに温かかったんだと、ようやく気付いた。ずっとそばで燃えていたのに、さっきまで何も感じていなかった。
「……この戦、お前ひとりが責任を感じる必要なんてない」
炎を見つめながらメイリさんが言った。
「隊長や団長や領主の方々……そして陛下も一緒に考えて、下した決断だ。お前の言葉がきっかけになったとしても、それがすべてじゃない。お前一人のせいにするのは思い上がりでもある。軍のすべてがお前ひとりに頼っていたとでも言うのか? そんなわけはない」
この人になぐさめられるとは、思いもしなかった。優しい言葉がしみこんでくる。
「敵の方が一枚上手だっただけだ。してやられたと反省し、反撃の方法を考えればいい。まだ軍は崩れていない。勢いでは負けたが、大きな損害は出ていないんだ。陛下のことだって、まだ何もわかっていない。ご無事でいらっしゃると、信じよう」
「…………」
「飛竜騎士が捜索に出ている。竜は人よりは夜目が利くからな。グレン峡谷まで飛ぶくらいできる。あの――鉄の鳥、とでも呼ぼうか。敵の兵器は、夜にも飛べるのか?」
聞かれて、私は首を振った。
「多分、無理……あの型の飛行機なら、レーダーなんてないと思います。誘導灯もなしに飛ぶのは危険だし」
レーダー?とメイリさんは首をかしげたが、自分の知らない技術について詳しく聞こうとはしなかった。彼女にとって、それはいちばん重要なことではないのだろう。
「それなら、邪魔が入る恐れもない。本格的な捜索は朝になってからだが、きっと手がかりを見つけてくれる。まかせよう」
「……はい」
谷へ下りることができるなら、なにかは見つけてくれるだろう。それが朗報なのか、希望を打ち砕くものなのかは、わからないけれど。
今、私にできることは何もない。ただ祈るしかない。どんなに辛くてもただ待って、そしてできることを考えるしかない。
「……メイリさんは、ちゃんとご飯食べたんですか」
「それ」
「え?」
「ずっと思ってたんだけど、なんでそんなに馬鹿丁寧な話し方なんだ? イリス様にはタメ口なのに」
「え……いえ、それは……」
突然指摘されて、面食らった。イリスにはタメ口って、たしかにそうだ。元々彼にも丁寧に話していたのだけれど、普通にしてくれって言われてタメ口になったのだった。今となっては年上とか気にすることもなくなったし。
「同い年だし、あたしは騎士としても下っ端だ。そんな口を利く必要ないだろう」
「はあ……」
「地竜隊長にだってタメ口利いてるじゃないか。あだ名で呼んでるし」
「トトー君は、最初からトトー君で……その、あだ名だって知ったのは後になってからで、なんかもうトトー君でいいかなって思って。本人もいやがってないし」
むしろ本名で呼ばれる方が苦手みたいだ。なぜかは知らないけれど。
「それどころか、団長まで呼び捨てだ」
「あれは、アルタがそう呼んでくれと言ったんです」
口を開けば口説きまがいのふざけたことばかり言う。そうやって、こちらに気をつかわせずおおらかに接してくれる、アルタの優しさなのだとは知っている。
「だったら、あたしのことも普通に呼べばいい。普通に話せ」
普通って、敬語なしのタメ口で? 友達みたいに呼んでいいのだろうか。同い年の女の子同士として、気兼ねなく呼び合っていいのだろうか。
「……本当に、いいの?」
「そう言ってる。馬鹿丁寧な話し方される方が落ちつかない。普通にしてくれ」
「……あの、じゃあ……」
期待と不安と。胸がどきどきする。ものすごく勇気を出して、私は言った。
「メ、メイちゃん」
――とたんに、メイリさんがずっこけた。
いやそうな目でこちらを見る。や、やっぱりなれなれしかったか。しゅんとなる私に、彼女はため息をついた。
「ちゃんはよせ……メイにしろ」
ぱっと顔を上げて彼女を見る。そらされた視線は私を見ていない。むっつりしているようだけれど、もしかしてこれは、照れている?
顔が赤らんで見えるのは、焚火のせいだけではないのかも。
無性にうれしくなって、私はこくこくとうなずいた。
「メイ――メイ」
「ああ」
「あ、あの、私のことも、ティトって……」
「チトセだろう」
あっさり言い返されて、また絶句してしまった。ぽかんと口を開けた私に、どこか照れくさそうな顔が返される。
「イリス様が目の前でさんざん練習していたから、いやでも覚えた。先にあたしの方が言えるようになって、なんでだって文句まで言われたよ」
「……イリス、そんなことしてたの」
「ああ。感謝しろよ。あの人はいい加減そうに見えて、大事なことはちゃんと考えてる。お前が名前にこだわってることを、察してたんだ」
……ああ、そうだね。イリスはそういう人だ。またひとつ、胸に温かいものが宿り、力が戻ってくる。明日も立てる。歩ける。そう思うことができる。
「まあ、チトセって、たしかに呼びにくいけどな。変わった名前だ。故郷ではなんて呼ばれてたんだ? チトセって、そのままか?」
「家族や親戚からは、ちいちゃんって呼ばれてた。弟はちい姉。その親友くらいかな、他人でちいちゃんって呼んでたのは……他はみんな、佐野さんって、家の名前で呼ばれてた」
「ツィー……チィ、か……チトセよりは言いやすいな」
「そうなの?」
「ああ。チィ、でいいか?」
遠慮がちにメイが聞く。私はすぐにはうなずけなかった。
どうしよう、うれしすぎて、恥ずかしいような、めちゃくちゃな気分だ。
こんなの初めてだ。クラスメイトは全員が「佐野さん」だった。下の名前で呼び合う友達なんて一人もいなくて、悪意のあだ名で呼ばれることはあっても、親しみを込めたニックネームなんてつけられたことはなかった。
お互いにニックネームで呼び合えるなんて、友達みたいだ。そう思っていいの? 私、メイと友達になれるのだろうか。
「だめか?」
メイの顔が曇る。私はあわてて首を振った。
「あっ……ありがとう」
「は? なにが」
ああ、本当にどうしよう。こんなことで泣くなんて、呆れられるかも。でもうれしすぎて、止められない。
「そんなふうに呼ばれたの初めて……友達、いなかったから……うれしい……」
「…………」
メイは何も言わず、ただ乱暴に私の頭をなでた。ぶっきらぼうな、でも優しい手。私はメイの肩に頭をあずけた。
あたたかい。寄り添う身体から互いの熱が伝わり合う。何度もこうやってメイとぬくもりを分け合ってきた。今夜は格別に温かい気がする。
「友達がいないなんて言ったら、傷つく人たちがいるんじゃないのか。ティトだって、立派な愛称だろう。お前は気に入らないかもしれないけど」
……ああ、そうだよね。ユユ姫やトトー君に怒られる。私はもうひとりぼっちじゃないんだから。
辛くはない涙をぬぐい、うなずく。そうしてますますメイにくっつくのを、彼女は許してくれた。
束の間、雲が切れて星が見えた。私はハルト様たちの無事をひたすら願い、祈りながら、いつしか眠りに落ちていった。メイはずっと、私のそばにいてくれた。