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鈍色の空の下、遠くに陣を敷いた軍勢が見える。
天幕がたくさん張られていた。細い煙がいくつも上がっているのは、朝食の支度をしているのだろう。動きのないようすを眺めるかぎり、あれが侵略を目的に押し寄せてきた敵軍だとは思えない。平成日本人の目には巨大規模なキャンプにも見える、妙にのどかな風景だった。
城壁の上からエランドの軍を眺め、私はわきあがる疑問に首をかしげる思いだった。問いかけてみたい人は、ここにはいない。参謀室長は今どこにいるのやら。半分死にかけに見えてフットワークが軽く、なかなかつかまらない。
「いつまでそうしているつもりだ。あまり風に当たっていると、具合を悪くするんじゃないのか」
飽きずに敵軍を眺めていると、ぶっきらぼうな声がかけられた。少し離れたところからメイリさんがこちらを見ている。私の護衛として常にそばにつくよう命じられている彼女は、砦の中であってもけして離れない。呆れ顔をした同い年の女騎士に、私は謝った。
「ごめんなさい、寒いのに付き合わせて」
「あたしじゃない」
メイリさんは眉をひそめた。
「竜騎士がこの程度でこたえるものか。お前のことを言ってるんだ」
とがめる目を向けられるが、以前のような暗い憎しみのまなざしではない。今彼女の心情がどんなものなのか、知りようはないけれど、少しは変化が出てきたのではないかと……そう思いたい、単なる私の願望だろうか。
でも、彼女は明らかに私の体調を気にした発言をする。
「すぐ熱を出すくせに、わざわざ冷たい風に当たるんじゃない。さっさと中へ戻れ」
「うん。ありがとう」
「……何がだ」
お礼を言うと、ますます彼女の眉が寄る。
「私が具合を悪くしないように、気をつかってくれるから」
「――そんなんじゃない」
ぷいと横を向いてしまうけれど、怒ったような顔はとまどいを隠すためだと――そう思うのも、やっぱり願望だろうか。
「今この状況で、寝込まれたら迷惑なんだ。お前の看病に手をかけてやる余裕なんかないんだからな。いいから戻るぞ」
口早に言うと、メイリさんは止める暇もなく先に立って階段へ向かう。私も急いでその背中を追いかけた。すれ違う歩哨の騎士たちが、珍獣でも見るかのような目で見送っていた。
ナハラ地方デゴン平原において、ロウシェンとエランドの軍が衝突してからすでに五日が経過している。
最初の日を除いて、本格的な戦闘は行われていなかった。小規模な衝突を繰り返すばかりで、一定の距離を置いてにらみ合うという、膠着状態になっている。
後続の竜騎士団に加え近隣の領主軍も到着し、ロウシェン側は五千を超す軍勢をそろえていた。数では互角。こちらには地の利があることと、竜騎士が総出撃していることで、実質的には優勢だ。
にもかかわらず、一気に勝負をつけられないわけがある。
「なにゆえ撃って出ようとなさらんのです!? やつらは無理な遠征をしてきたうえに、数の優位も既に失っている。一気呵成に攻めて討ち取ればよいだけではありませんか!」
南方の領主ベール卿が、唾吐く勢いでハルト様に訴える。これに答えたのは参謀室長の、淡々とした声だった。
「こちらが出れば、むこうは退く。自明の理ですな。おっしゃる通り、すでに形勢は逆転しておりますゆえ、彼らとて全滅したくなくば、退くよりありません」
「わかっているならば、なぜ」
「退くとして、どこへ退くと思われます?」
「なに?」
七十に手が届こうかというお歳のベール卿は、しかし血気盛んなおじいさんだ。まだまだ現役と、いさましい戦装束で駆けつけた。なのに初日以降まともな戦闘が行われないので、かなり苛立っている。
「どこといって」
「彼らの背後に広がるのもまた、我らがロウシェンの大地。エランドとの国境線は遥か海の彼方です。目の前のエランド軍が退却を始めれば、その先にあるロウシェンの街がまた被害を被ることになりましょう」
「む……」
感情をうかがわせない平坦な声に事実を突きつけられ、ベール卿がぐっと詰まる。居並ぶ武将たちの間から、苦々しい息がもらされた。
実に、そこが問題なのである。
敵軍のすぐ後ろに国境があるならば、自分たちの国へ追い返してひとまずは終わりとできる。でも後ろもまたロウシェンの国土。上陸と同時に沿岸警備隊を壊滅状態にしてくれたエランド軍ではあるが、住民を一人残らず殺してきたわけではない。いくらなんでもそんなことはしていられない。ひそかに上陸した別動隊は発覚を遅らせるため港周辺の住民を手にかけたが、進軍途中にある街では障害となる軍をつぶしただけで、それ以外はほぼスルーしてきた。だから彼らの背後には、まだたくさんのロウシェンの民がいる。
もしエランド軍が退却するとして、ただまっすぐ引き返し海に出るだろうか。多分そう簡単にはいかない。どこかの町に陣取って、住民を人質に取りつつ援軍を待つ可能性が大きかった。
そんなことをされては困るので、うかつに力一杯戦って追い払ってしまうわけにはいかないのだ。
「やるならば、退却の余地もなく全滅させねばなりませんが、ここにある兵力だけでは厳しいですな」
まるで可能な兵力があるならやりましょうと言わんばかりだ。五千もの人を殺すなんて、私にはとても現実の話とは思えない――思いたくない。
「全滅ね。それがいちばん確実な勝利ではあるが、たしかにきついな。何か方法はあるか?」
アルタがそんなことを言う。ちょっと待って、まさか本気で検討するつもりじゃないでしょうね?
「もっとも手軽な方法は、敵の背後にも回り込み、孤立させた上で持久戦に持ち込むことですな。なればいずれ彼らは糧食を食いつくし、勝手に自滅してくれるでしょう。時間はかかりますが、こちらの損害を最小限に抑えられます」
「そんなことをしている間に、敵の後続がまた上陸してきたらどうする」
ベール卿が口を挟む。オリグさんはうなずいた。
「その可能性もあります。なので、これはあまり良策とは言えません。となると、やはりこちらの兵力を増やすしかありません。背後に回り込んだのち挟み討ちにするのが、最も短時間で決着する方法です」
「問題は、その兵力か」
ハルト様が後を引き継ぎ、息を吐いた。
みんな、敵を全滅させるという話自体には抵抗がないんだな。ここで敵軍を撃ち破らないと国を守れない。千が万になってもためらわず殺そうとするんだろうな。
いまだに抵抗を感じている私の方が、この場においてはおかしいのだとわかっている。遠慮や手加減なんてできる状況じゃない。そんなことができる戦争なんて、きっとない。
だからしかたないのだと、頭では理解できる。でも感情がついていかない。自分でも馬鹿で平和ボケが過ぎるとは思うけれど。
――それにしても、考えれば考えるほど不可解だ。殺し合いに対する抵抗感は置くとしても、私はこの状況に疑問を抱かずにはいられない。
「ひと息入れるか」
ハルト様が言って、軍議はいったん休止となった。今日はまだ敵襲もなく、ナハラ砦は落ちついている。
砦の見習い騎士たちがお茶を運んできた。部屋の隅っこで人形のようにじっと座る私にも、温かいお茶を差し出してくれる。多分私とそう変わらない年頃の子だろう。男ばかりの騎士団暮らしで女の子なんて見慣れていないせいか、ものすごく態度がぎこちない。同じ年頃の男の子にこんなに遠慮されるなんて初めてで、クラスメイトとの違いを新鮮に感じた。
お礼を言ってお茶をいただく。生活全般質素のひとことに尽きるナハラ砦だが、お茶だけはとても美味しい。近くの農家が栽培していて、そこから仕入れているのだとイリスが言っていた。緑茶にハーブがミックスされたような香りと味わいだ。
武将たちもリラックスした表情になった。
「なあ、嬢ちゃん、ここまで話を聞いてきて、どう思った? 嬢ちゃんの意見を聞かせてもらいたいな」
軽い雑談めいた声も出始める中、アルタが私に声をかけてきた。私が戦に関わることにさんざん難色を示していたくせに、どういうつもりだか。私は答えず視線だけをアルタに向けた。
「アルタ殿、何をふざけておられるか」
私のかわりに領主勢から文句が飛び出す。見たところ三十代、アルタと同年代とおぼしき人は、ケイシー卿だ。
「ふざけてなどおりませんぞ? この子は頭がいいんです。オリグが目をつけるくらいですからな」
引き合いに出されたオリグさんが無言でうなずく。ケイシー卿は苦々しい顔をした。
「陛下のお考えですから黙っておりましたが、正直こんな子供を戦に関わらせるのには反対です。むごい現場を見せるものではないでしょう」
私が目障りというより、教育上よろしくないという配慮なのか。神経質そうな、あまり親しみやすくない雰囲気の人だけれど、ちょっと認識をあらためることにした。実はいい人かもしれない。
「そこはまあ、我々も同感なのですが、もう見ちまったものは仕方ありませんしなあ」
アルタはすっとぼけて返す。陽気でなんでもあけすけなように見えて、実は腹のうちの読めない人だ。どこまでが本音なのやら。
敵の奇襲部隊を攪乱して砦へ戻ってきた私を、ハルト様はあらためて追い返そうとはしなかった。もうそれができる状況ではなかったし、うかつに目を離すと何をしでかすかわからないとも危惧されたらしい。けして一人で行動しないよう厳重に言い含められた上で、砦に滞在することを許可された。
そこへイリスとトトー君、ついでにオリグさんの口添えがあり、こうして軍議を傍聴させてもらっている。なんでも、蚊帳の外に置いて情報を与えなかったら、自力で情報を得ようと動くからかえって危険なのだとか。私はそんなに危なっかしいと思われているのか。自分がいかに非力かを承知しているので、切羽詰まった事情でもないかぎり無茶なんてしないんだけどな。
でもその主張はハルト様を納得させる力を持っていたらしく、砦の中に限ってはどこへ行くにも同行させてくれるようになった。途中経過に異議はあるものの結果は大変ありがたい。
「ああ、それと言い忘れておりましたが、見た目ほど幼くはありませんぞ。これでもトトーと同い年です。な?」
アルタはトトー君に同意を求める。トトー君はちらりとこちらを見た。
「……あんまり見た目を強調すると、報復されるよ」
「お前のその意見がいちばんまずくないか? 見た目に問題があると認めているわけだろう」
「問題だなんて言ってないよ……人の気にしてることを指摘するべきじゃないって言ってるだけだ」
「胸のことなんて言ってないぞ!」
「……つまり二人とも、私の胸を意識してらっしゃるわけですね」
怒りを抑えて微笑んだら、二人はさっと私から目をそらした。ふ……こいつら、後で報復してやる。
言っておくが私は平均的日本人だ。こっちの女性がやたらと巨乳なだけなんだからね!
ザックスさんが咳払いをして口を挟んだ。
「二人とも、女性に対して失礼がすぎるのでは?」
その横でジェイドさんが肩をすくめる。
「女のうちに数えるにゃあ、ちょいと色々足りませんがね」
――報復対象、一人追加。
くそう、趣味に走ってロリータ系で服を仕立ててもらうんじゃなかった。元の世界じゃ到底着られそうにない服がこっちでは普通だから、ここぞとリボンとフリルに埋もれたが、こんなことならエロ可愛系でいけばよかった。
「あ、ああー、その、さきほどの話を――ええと」
ケイシー卿がわざとらしく話をさえぎった。怒りの電波を傍受したようだ。どうも、ストレスに弱い人らしい。
「おお、そうだった。嬢ちゃん、意見を頼むよ」
なんら気にするようすもなくアルタがまた聞いてくる。私はつんと顔をそむけてやった。
「専門家がそろってらっしゃるんですから、私などが口を出すものではないでしょう」
「そんな冷たいこと言うなよ。なんでもいいから、思ったことを言ってくれ」
「おっさんウザイ」
「そういうことは言わないで!」
私たちのやりとりに、苦笑いをする人や呆れた顔をする人、反応はさまざまだ。いくらハルト様の許可があるとはいえ、騎士でもない小娘が周りをうろつくことに当然いい顔はされない。武将たちにはなかば無視されていた。私は別に彼らに認めてもらいたいわけではないので、こういう場で積極的に発言する気はない。何か言いたいことや聞きたいことがあれば、後でハルト様やオリグさんにこっそり言えばいいだけの話だ。
オリグさんのようすをうかがう。私が抱く疑問なんて、彼はすでに考えているだろう。むしろ向こうに意見を求めてもらいたい。
「嬢ちゃーん……ああ、その冷たさもイイ……」
アルタはまだからんでくる。うっとうしいなあ、もう。しつこいったら。
しょうがない。
「オリグさんに質問ですけど、敵の背後にいる民衆を避難させることは可能ですか?」
私はアルタを無視して、オリグさんに話しかけた。優雅にお茶を楽しむゾンビもどきが、質問の裏を読み取って聞き返す。
「敵軍を退却させることをお考えですか」
「それがいちばん被害が少なく済むんじゃありませんか? 殲滅作戦なんて、こっちだってそれなりの被害を覚悟しないといけませんし、いくら敵といえど一人残らず殺し尽くせなんて命じられれば、兵士たちも内心嫌気がさすでしょう。大局的に見て、いい方法だとは思えませんが」
「わざわざ敵を逃がしてやるというのか? ここまで攻め込まれて、さんざん被害を受けながら、ろくに報復もせず逃がすなど言語道断だ!」
ベール卿が眉を釣り上げてほとんど怒鳴りつけてきた。
「それではこちらは、ただ痛手を被っただけで終わるではないか! 大した反撃もできぬ弱腰と敵にあなどられるわ! 戦のことなど何もわかっておらぬ子供が、知った口を利くでない!」
やれやれ、元気なじいさまだ。元から怒りっぽい人なのか、年をとったせいで短気になっているのか。横に座る人がなだめようと声をかけるが、ベール卿はおさまらない怒りをアルタにも向ける。
「そもそもお主がくだらぬことを言うからだ! このような小娘に意見を言わせて、どうしようというのだ。相も変わらずふざけてばかりで、少しは真面目にやらんかい!」
「心外ですなあ。これでも大真面目なんですが……どうして誰にも理解してもらえないんだろう。寂しいなあ」
叱られたアルタはわざとらしくいじけてみせる。そういうことをするから余計に怒らせるんだろうに、これわかっててやってるよね。
「カルナ港へ通じる道沿いには、大きな規模の町がいくつもあります。これらの住民すべてをすみやかに避難させるとなると――不可能とは申しませんが、たやすいことでもありませんな」
目の前の騒ぎをまるっと無視して、オリグさんは平然と話を続けた。ので、私も応じる。
「可能ならば難しくてもするべきでしょう。長期間にわたる話じゃないんです。とりあえず数日、町を離れるだけでいい。ちゃんと説明すれば住民たちも頑張って避難してくれると思いますよ。なんといっても自分たちの生命と安全に関わるんですから」
「その説明の部分が問題です。離れた町に連絡を行き渡らせるのには時間がかかります」
「飛竜騎士がいるでしょう。緊急の連絡係としてこれ以上の存在はないと思いますが。各地に飛ばして、そのまま避難誘導や指揮をしてもらえばいいでしょう」
「村くらいならばともかく、町となると住民の数も多い。全住民に通達を理解させるのは大仕事ですぞ」
「それぞれの町に連絡網とかないんですか? 災害時の避難マニュアルとか、何か作ってないんですか? 進軍の際にどんな被害を受けたのか知りませんけど、役所の人とか、まとめ役がいるでしょう。そういう人たちは残ってないんですか?」
「各地の詳しい状況はまだ不明です。統率できるかどうか、この場ではお答えできませんな」
「多少の混乱はしかたがないでしょう。何の準備もしていないところへまともに敵軍を迎えるよりはましです。ご近所ネットワークも駆使すれば伝えられないことはないと思います。すでに一度敵軍と遭遇しているうえ竜騎士から言われたなら、民も信じて指示に従ってくれるでしょう」
私との問答という形を取ってはいるが、オリグさんにとってはとうに考えていた話だろう。他の人に理解させるために、あえて私に問題点を投げかけ答えさせている。承知の上で私も乗った。殲滅作戦なんて、できる限り避けてほしい。そのためならダシにでも何にでもなってやる。
「どのみち、被害状況だって調べなきゃいけないんですし」
各地でどれだけの被害が出ているのか、正確な情報はまだ入っていない。もう上陸から十日近く経っているというのにだ。いくら目の前の敵軍をくい止めるのが最優先とはいえ、あまりに片手落ちに思えてしかたがなかった。現代日本のような通信手段がないから無理もないのだけれど……放置されている人たちは、一日でも早く支援の手を差し伸べてもらいたいところだろう。
「そんなものは、すべてが片づいてからだ! 今先に調べねばならんことか!? とうに被害が出ているものを、今さらあわてて駆けつけたところでなんになる!? それよりもまず、目の前の敵軍を叩くことが先決だ!」
またベール卿がかみついてくる。私は頭を動かし、はじめてまっすぐにベール卿を見据えた。
「……なんだ、その目は」
不快そうにベール卿がにらみ返してくる。私の視線を受けたぐらいそよ風ほどにも思わないだろうが、かなり腹が立ったので見ずにはいられなかった。
そんなに敵を殺したいか、このジジイ。
おまけに民衆の被害状況についてを「そんなもの」のひと言で終わらせてくれた。どんな被害が出ていようと今は放置でいい、全部片づいて暇になってからでいいという考えか。
こっちの世界では普通のことなのかもしれない。敵襲を受けている状況で、救助活動にまで手を回す余裕はなく、しかたがないのかも。
でも助けたくても助けられない、今は無理という断腸の思いなんてかけらも感じさせない言葉だったよね。はなから、民衆のことなんて後回しでいいという口調だった。
……まあ、そういう考え方の人間もいるよね。別に驚くほどではない。ただ、ハルト様が頼みにする臣下がこれっていうのは、非常に残念だな。
ちらりと目を向けると、なぜかハルト様がびくついた。どうしたんですか、お父様。
「嬢ちゃん、怖い、目がコワイ」
アルタがこそっと言った。私の何が怖いと? ハルト様はもちろん、ベール卿のことだってにらみつけたつもりはありませんが。
「……なぜ敵軍がここまで攻めてきたのか、不気味に思われないんですか」
このじいさんに真っ向から反論したところで聞く耳持たないだろう。私は別方向から攻めることにした。
「は? なにがだ」
私の言葉にベール卿は尊大に鼻を鳴らす。子供の相手なんてわずらわしい、時間の無駄だと言いたげだ。こっちにしてみりゃ、子供に指摘されるなよと言いたい。
「不意打ちの襲撃は、たしかにロウシェンに打撃を与えました。少なくない被害が出ましたが、それはあくまでも最初だけです。敵が侵攻してきたとなれば、迎撃の軍が出されるのは当然でしょう。長期的に見れば彼らは敵地に乗り込み孤立するという、きわめて不利な状況に陥ります。さっきの話にも出たように、退路を断って兵糧攻めにするなり全滅させるなり、こちらは対処法を立てられる。そんなことくらい、エランド側にもわかっていたはずです」
「…………」
「一撃を加えた後、すみやかに退いて海へ出るというならわかります。でもこうも奥深くまで攻め入ってくるには、五千という数は少なすぎます。ロウシェン一国だけでも対抗できるし、リヴェロやアルギリが参戦すれば話にならない。エランドの攻め方は無茶がすぎます――表面だけを見れば」
表面、とだれかがつぶやいた。そうだ。かならず隠されたものがあるはずだ。でなければエランドの行動に説明がつかない。
「普通に考えて、彼らは援軍を待っているのでしょう。小競り合い程度でお茶を濁して時間をかせぐのは、援軍の到着を待っているからにほかならないのでは」
「……だからこそ、一気呵成に討って出るべしと言っているのだ」
私の意見を笑い飛ばすことはなかったが、受け入れたくもないようで、ベール卿は言い返す。
「敵の後続が乗り込んでくる前に決着を」
「つけられればいいですね」
礼儀や遠慮はしばらくお預けにして、冷たくベール卿の言葉をさえぎってやった。こういう問題にはあらゆる事態を想定して当たるべきだろう。都合のいい状況だけを前提に考えるなんて馬鹿げている。
だいたい一気に決着をつけると言ったって、今の兵力では総攻撃をかけても簡単に殲滅なんてできないのに。
ハルト様をはじめとして、みんな兵力不足に悩んでいる。現状、優勢と言えるだけで圧倒的絶対的な差ではないのだから。
ロウシェン全土で考えれば、まだまだ兵力に余裕はある。もっとたくさんの土地から援軍を呼ぶこともできた。でもあまりあちこちの軍を動かすのは危険だ。留守になった場所に攻撃を受けたらどうする。その可能性を考慮して、ナハラにはこれだけを向かわせる、と決められたのだ。
「敵はどこから出てくるかわかりませんよ。初日の一件ですでにみなさんご承知でしょう」
私たちが遭遇した敵の奇襲部隊は、チャムスク山を越えてアルギリ方面からやってきた。他にもまだいるかもしれない。いや、いると見たほうがいい。
こうして考えてみると、正面から攻め込んできた五千の軍は、こちらの注意を引きつけるための囮の役も負っているのではないかと思えてくる。
「あまり時間をかけると危険です。目の前の軍と頑張って戦っているうちに、エナ=オラーナに攻め込まれたりしなければいいですけど」
「な……っ、そ、そのような馬鹿げたことを」
「可能性は皆無だと、自信を持って断言していただけるなら私も安心ですね」
「…………」
ベール卿がぐっと詰まる。ふん、少しは周りにも目を向けろ。
エランド軍は、少なくともアルギリの領内を移動することができた。ならリヴェロは? あのカームさんが簡単に敵の侵入を許すとは思えないけれど、可能性としては考えておくべきだ。リヴェロもアルギリも、海に面した場所はロウシェンより多い。
最悪、ロウシェン軍は挟み討ちされるかもしれない。目の前の軍だけが相手だなんて思っていたらとんでもないことになりそうだ。ゲームでも最強の切り札は慎重に隠して、ここぞという場面で出して状況をひっくり返すのだから。
「一気に撃って出るという意見には賛成です。ただし目的は敵軍を退却させること。できるだけ早く海へ追い出し、同時進行で別動隊を探します。目下存在する可能性が高いのはアルギリ方面ですが、リヴェロ側にも用心は怠らないように。飛竜騎士を各地に飛ばし、調査に力を入れるべきと進言します」
「――と、いったことを踏まえて、行動計画を立ててみました。ご確認を願います」
ハルト様に向かって言った私に続き、オリグさんが書類を差し出す。全部最初から考えて用意もしていたわけですね。で、自分で討論するのをサボって私にやらせたと。このゾンビは。
「実に優秀な補佐官ですな。見習い改め、正式な参謀官として登録しましょう」
「けっこうです。私まだ勉強中なので」
「基礎はすでに習得済みでしょう。後は勤めながら学んでいけばよろしい」
「あの参謀室をきれいに片づけて完璧にお掃除してくださってからなら、考えてもいいですけど」
あんな散らかりまくった職場は嫌だ。片づけるだけでも一日では終わらないし、うかつに物をのけるとなにか生えていそうで怖い。そしてなにより、あの汚部屋を作り出した男どもが存在し続けるかぎり、汚染は今後も続くのだ。
補佐官とか言って、体のいい掃除婦やらされるんじゃないのか。ぜったい嫌だ。お断り。
「掃除したら姫が来てくれるのか……どうしよう、頑張っちゃう?」
オリグさんの背後でホーンさんが何か悩んでいる。考えると言っただけで行きますとは言ってませんからね? こういう場合のお約束でしょう。
「チトセは仕事なぞしなくてよい。嫁ぐまでは私の元に置く」
ハルト様が微妙に方向のずれたことを言った。いやお父様、嫁ぐまでって、そんなこと言ってたら一生ニートですよ。
「よし、じゃあ嬢ちゃん、俺のとこへ嫁に来い!」
「せめて十歳若返ってから言ってください」
「また差別するぅーっ」
「うちの息子はいかがですかな。長男が十五歳です」
「……オリグさんの息子さんって、ものすごく興味はわきますけど、あいにく年下は対象外なので」
「へえ、姫は年上好みか。じゃあ俺と結婚する? 団長よりは若いよ」
「それでも三十代だろうが! くそう、だったらトトーを推してやる! 同い年だ、文句はあるまい!」
「あるよ……当人無視して何勝手なこと言ってんのさ」
「お前が自分で言わんからだろうが。黙って見てるだけじゃ想いは届かんぞ」
「……アルタ、ちょっと外に出ようか」
「待てよ、あんたら。姫さんはうちの――」
「ばか、黙れジェイド! そういうことを他人の口から言うものじゃない!」
「いやだってザックス様、あのひょうろく玉、ほっといたんじゃいつまでたっても……」
参謀組と騎士組が好き勝手に騒ぎだして、軍議の席がいきなりふざけた雰囲気になってしまった。まったく、しょうのない連中だ。領主のみなさんが呆れているじゃないか。またベール卿に怒られるぞ。
私は無言で立ち上がり、彼らのつくテーブルへ歩み寄った。視線が集中する。ここでさわいだら、よけいに収拾がつかなくなる。極力冷静に、穏やかに。自分に言い聞かせつつ、笑顔も浮かべてお願いした。
「うるさい。だまれ男ども」
「……ハイ」
「……スミマセン」
全員が口をつぐみ、ようやく静かになる。ハルト様が計画書を置いた。
「オリグとチトセの意見を容れよう。まずはカルナ港方面だ。被害状況の確認ならびに民の避難を最優先とする。可能なかぎり早く、正面の敵を海へ押し返す」
今後の方針が決まり、軍議がひとまずお開きになる。反応はまちまちだったが異論は出ず、武将たちは席を立った。
去り際、ベール卿はわざわざ私のそばで足を止めてじろりとにらみつけてきた。
……ふん。いつもなら無視して済ませるところだけれど、その喧嘩買ってやろうじゃないか。
私はまっすぐ彼に向き直り、だまって薄青い目を見返した。
「…………」
どうした、コラ。言いたいことがあるなら言ってみろ。主君や他の武将たちの目の前で、孫くらいの歳の小娘相手に、大人げなくむきになってわめき散らすがいい。
やればやるほど自分がみっともなくなるだけだ。何を言われてもこっちは平気だ。効果的と判断すれば空涙のひとつも流してみせよう。全力であんたを三流悪役に仕立ててやる。
さっさと始めろと思いながらだまって待つ。互いに沈黙して、たっぷり一分間はにらみ合っただろうか。ふん、と大きな鼻息をついて、ベール卿が口を開いた。
「どこまでも可愛げのない娘ですな。なるほど、これならば戦場に置いても問題はありますまい」
言い捨てたきり、くるりと背を向けて部屋を出て行く。なんだ今のは。拍子抜けして私はただ見送った。
誰かが吹き出した。
「あのベール卿に認めさせるとは、さすがだ嬢ちゃん」
アルタの言葉に振り向けば、笑う騎士たちと満足そうな参謀たち、そしてなぜかこわばった顔でこちらを見ている領主たちがいた。
……認められたの? 今ので?
とてもそうは思えずハルト様を見上げれば、お父様は苦笑して頭をなでてくれた。
周りの態度にさほど変化はなかったが、これ以降、私が出入りすることにも意見を述べることにも、誰も文句を言わなくなった。