初陣
ようやく泣き止んだ千歳をメイリが連れて行く。見送ったトーヴィルはイリスに問いかけた。
「……で、なんでティトがここにいるの」
ものすごく今さらな質問だ。しかし今までそれどころではなかった。やっと、そういう話ができる程度には落ち着いたのだ。
イリスは頭をかいた。
「僕もなんでって聞きたいよ。到着してみたら、当たり前の顔して龍船から降りてくるんだもんな」
ふたりそろってため息をつく。千歳の無茶には慣れたつもりでも、さすがに今回はまいった。オリグの手引きがあったとはいえ、密航してまでついてくるとは。
足音が彼らに近付いてきた。見慣れた年長の同僚に、ふたりは表情を緩める。
「やあザックス、外のようすは?」
「落ち着いた。領主軍も訓練はちゃんといきわたっているようだな」
戦場にあっても紳士然とした騎士は、常と変わりない顔で答えた。
戦闘の後一度ハルトたちに報告をして、彼はすぐに部下たちのもとへ戻っていた。何千もの援軍をすべて収容できるほど砦に余裕はない。急遽砦の周囲に野営の陣が張られている。場所割りに少々手間取ったくらいで、あとの支度はそれぞれ手際よく進められた。
「敵軍も動くようすはない。さすがに今夜はおとなしくしているだろう」
オリグによる火攻めで、敵は実際の損害以上に精神的な打撃を受けているはずだ。夜襲をかけてくる可能性は低く、それもあってロウシェン軍には緊張から解放された安堵感がただよっていた。初めて見る戦場の悲惨さに千歳は衝撃を受けていたが、騎士たちにしてみればほんの序の口だ。このくらい深刻になる状況ではない。むしろ今日の結果にかぎっては、勝ち戦と言っていい。砦内の雰囲気は明るかった。
ナハラ騎士団の若い者が、彼らを見つけて駆け寄ってきた。
「湯殿の用意ができております。どうぞお使いください」
トーヴィルと変わらない歳の少年が、まだあどけない顔を紅潮させて言う。竜騎士団の三隊長はロウシェン中の少年たちの憧れだ。うち一人は最近交代したばかりなのだが、変わらない好意を向けてくれていた。
「そうだな、さっぱりしてくるか」
風呂が使えると聞いてザックスが喜ぶ。汗と土埃と返り血にまみれたままだった男たちは、少年に案内されて湯殿へ向かった。
一度に五十人は入れる広めに作られた湯殿は、蒸し風呂と流し場があるだけの造りだった。たっぷりと湯を張る浴槽など、エナ=オラーナとその周辺くらいにしかない。たいていの土地では、こうした蒸し風呂が主流だ。
「これはこれで気持ちいいんだよな」
以前にもナハラへ来たことのあるイリスが言う。三人は一糸まとわぬ姿になって中へ入り、細長い木の腰かけに並んで座った。熱気と湯気にあたっていると、身体の芯から温まってくる。真冬の戦場を駆けてきた身にはありがたい。
「ティトシェがここへ来ていると聞いたのだが、本当なのか」
「本当だよ。龍船に密航してね」
「おまけに、戦場に出てた……姿を見た時は、目を疑ったよ」
「……やはり、いるのか」
ザックスはため息まじりにうなる。
イリスは首や肩にはり付く髪を、うっとうしげに払った。
「戦闘が始まらないうちに帰そうと、ハルト様が手配なさったんだけどな。一度はそれで出発したんだよ。でも戻ってきた。なんでもエンエンナじゃなくアルギリへ向かおうとして、その途中で敵の奇襲部隊を発見したらしい。おかげでこっちは助かったけど……素直に喜べないよ」
本人の無茶な性格だけでなく、運や偶然など、あらゆる点で千歳は人を驚かせる。あれほど波瀾に満ちた人生を送る人間もそうはいないだろう。不幸なのか、なんだかんだ言って毎回ちゃんと生き延びているから幸運なのか、判断が難しいところだ。
「そういえば、ティトもお風呂に入った方がいいんじゃないのかな……」
思い出したようにトーヴィルが言った。
「冷えているはずだから、身体をしっかり温めないと」
「そうだな。でもここを使わせるのは、ちょっと無理かな」
湯殿は常に満員状態だ。次々順番に入ってくる。ナハラ騎士団だけでも二千の男たちがいる。どれだけ急いで使っても、おそらく一晩中火が落とされることはないだろう。
千歳とメイリは部屋に湯を運び、身体を拭くだけにとどまるだろう。メイリは心配ない。女とはいえ竜騎士だ、過酷な環境でも耐えられる。問題は千歳で、このままでは十中八九熱を出す。
「一旦他の連中は待たせて、ティトシェに先に使わせてはどうだ」
ザックスの提案にイリスは首を振った。
「勝手についてきて、帰れと言われたのに逆らって、そのうえそんな迷惑をかけられない。自業自得だ。チトセには我慢させる」
「しかし、彼女の体力では」
「いっそ熱を出した方がいいかもな。そうすりゃ動き回ることもできず、おとなしくしてるだろう」
「それもありかな……でも風邪くらいで済めばいいけど……」
「いくらチトセでも、砦の中で凍死はしないだろう」
「お前、それは健康な人間を基準にしていないか? 虚弱な彼女には通用しないぞ」
両方からつっこまれてイリスは眉を下げる。息を吐き、湿気を吸って重くなった髪をかき上げた。
「でもなあ……チトセ自身いやがると思うんだよな。この男臭さと汗臭さに満ちた風呂を、あの子が使いたがるとは思えない」
戦ったあとの男たちが、何十人何百人と交代で使っているのだ。千歳がここへ入れば、臭いだけで気分を悪くするだろう。
意識していなかったことを指摘され、トーヴィルとザックスはなんともいえない顔で黙った。
砦の見習いたちが忙しく動き回っている。まだ戦えない彼らは、こうした場面で大忙しだ。火を焚くのも湯を継ぎ足すのも彼らの役目だ。一人が冷たい水を三人に持ってきてくれた。
「焚口のそばで湯を使わせるか。それなら冷えずに身を清められるだろう」
汗だくで働いている見習いたちを眺めながら、ザックスが言った。
「そうだね……部屋まで湯を運ぶのも大変だし」
「ああ、まあそんなところか」
風呂を出たら呼びに行ってやろうと、イリスたちもうなずいた。その頃には千歳も落ち着いているだろう。
話している間にずいぶんと温まった。冷たい水が喉に心地よい。
三人と同じように仲間同士で入り、思い思いに雑談している周りを眺める。ここにいるのはほとんどがナハラ騎士だが、ちらほら見知った顔も混じっていた。どちらの騎士にも共通しているのは、初戦のあとの興奮が冷めやらないようすだ。
「ティトシェだけでなく、お前たちも戦場は初めてだっただろう? ずいぶん落ち着いているが、どんな気分だ」
ザックスは若い友人たちに尋ねた。もう長い間、シーリースでは国家間の戦は起きていない。騎士といっても戦を知らない者がほとんどだ。地方の騎士団は暴動や領地間の紛争などに駆り出されるので、まだ経験があると言える。最近ではこのナハラ騎士団がキサルスに派遣されたりもした。しかし首都防衛に働く竜騎士団は、その戦闘力と知名度に反して経験が浅い。今回大きく懸念されている要素だった。
「ザックスは経験あるんだっけか」
「まあ、戦というほどのものではなかったがな。同じロウシェン人同士での争いと他国との戦は、やはり違うと実感した」
ザックスにしても押し寄せてくる軍勢との戦いは初めてだ。すでに戦闘が始まっている場に後から到着したので、そのまま勢いにまかせて飛び込んでいけたが、これが最初からいて開戦の時を待っていたならどうだったか。自身の緊張を隠して部下たちを落ち着かせるのは大変だっただろう。
どさくさで初戦を乗り切れたのは、騎馬隊と地竜隊にとっては幸いだった。聞いた限りでは、飛竜隊も問題なく働いていたようだが。
「んー、どんなって言われてもな……勝ててよかった?」
「お前に聞いた私が馬鹿だった」
イリスの返事は冷たく流される。
「お前に緊張など無縁の話だったな」
「そんなことないよ!」
「トーヴィルはどうだ」
抗議を無視してザックスは最年少の隊長を見る。トーヴィルは首をかしげた。
「……土埃がすごかった」
「……ほかには」
「範囲が広いから、全体の状況を把握するのが難しかったね……伝達のやり方を、もう少し改善する必要があると思う」
「頼もしい仲間たちでなによりだ」
こちらもおよそ緊張や興奮の色がない。心配するだけ無駄だったと、ザックスは苦笑した。
「状況把握は飛竜隊の役目だな。陛下たちと話し合おう。こういう時はお前よりジェイドの方が適任でありがたいな」
「僕だって会議内容を忘れたりしないよ!」
「お前は隊員たちが浮足立たないよう、抑える方に回れ。誰もがお前のように能天気なわけではないからな。飛竜隊と地竜隊は全員が初陣だ。上がしっかりまとめておかないと、思わぬことで崩れかねんぞ」
「地竜隊は経験者もいるよ……ラガン隊長の頃に、暴動鎮圧に派遣されたからね」
トーヴィルの反論に、そういえばと思い出す。その頃はまだアルタも地竜隊に所属していた。
「たしか、はじめは押されて危なかったのだったか」
「うん……アルタはできるだけ犠牲者を出さないようにしていたからね……強攻策を取らないで、説得でなんとかしようとしてたんだけど、そのせいでこっちの被害が大きかった……だから今回は、ためらわずにいくと思うよ」
三人はそれぞれに、今から六年前のできごとを思い出す。アルタが地竜隊を抜けて団長に就任するきっかけともなった、鉱山を抱える領地での暴動だった。
ロウシェンの主要な産業である鉱物資源は、国家が管理することになっている。鉱山を持つ領主には分配金として十分な収入が保証されている。しかし自領にあるものを自由にすることができず国に取り上げられるのだから、領主としては面白くない。それでよく不正が行われる。六年前にも、採掘量を少なく報告し、ひそかに外国へ売って収益を得ていた領主がいた。
普通は発覚して罪に問われれば、観念して罰則に従うものだが、その領主はちがった。出頭命令を無視して領地から動かず、逮捕に来た役人を逆に捕らえるという暴挙に出た。もはや反逆と言っていい態度である。当然さらに兵が差し向けられたが、これに領民たちが襲いかかったのだった。
領主軍との衝突は覚悟していた国側も、領内に入ったとたん民から攻撃を受けることは予想していなかった。反撃しようにも相手は農機具や採掘道具を武器にしているような一般人である。まともにやり合うなど、ためらわずにはいられなかった。
それが領主の策であり、民は踊らされているだけだとはっきりしていたので、できるだけ穏便に済ませたいというのがハルトの考えだった。そのため地竜隊の半数を率いてアルタが出動していった。竜騎士が出てくれば暴徒もたちまちひるむだろうという思惑だったのだが、残念ながらこの予想は外れた。領民たちは中央が思う以上に強い不信感と反抗心を抱いていた。領主が逆らったのは自分たちを守るためだと信じていた。
国側を悪者にし、罰を受けるのではなく譲歩を引き出そうとするのが領主の狙いだ。民を守るという名目で堂々と領主軍が公王軍に歯向かい、争いは激化した。
そこでアルタは一計を案じた。参謀官たちを使って民の間に噂をばらまき、領主への疑念を抱かせた。自分たちは守られているのではなく、利用されているだけなのだと気付けば、公王への反抗心は消える。やがて暴動はおさまり、孤立した領主は捕らえられた。
期間にしてひと月に満たないほどだ。不正と悪質な追及逃れには山ほど証拠が並べられ、領主の処刑に異議を唱える者はいなかった。結果だけを見れば犠牲者の数も少なく短期間で解決したので、人々の記憶にはあまり残っていない。地方でのちょっとした揉め事という程度の認識だ。当時騒動の現場にいた者だけが、苦い思い出にしている。
あの時に、アルタはふたつ大切なものを失った。ひとつは相棒の力強い脚。彼の竜は障害の残る傷を受け、引退を余儀なくされた。
そしてもうひとつ、恋人が、騒動に巻き込まれて命を落とした。
犠牲者の中に領主の娘が含まれていたことはよく知られている。しかしその娘が竜騎士と想いを交わし、父の罪を止めるためひそかに情報を流していたことは、ほとんど知られていない。
功績を評価されるのとは裏腹に、アルタが深い悔恨を抱き続けていることを、トーヴィルは知っている。彼はこの戦いにおいて消極的な策は退けるだろう。今回はためらう理由もない。いくらでも冷酷になるはずだ。
頼りにする腹心がそうならば、ハルトもまた同様に考えるだろう。明日からさらに激しい戦いになるかもしれない。今夜はできるだけ早く休もうと、三人は洗い場に移動した。手早く汗と汚れを洗い流して湯殿を出る。
「あー、生き返った」
冷たい夜風が今だけは心地よい。濡れた髪もそのままに、イリスが火照りを冷まそうと外へ出る。そこかしこにいた騎士たちが、彼に注目したかと思うと一様に妙な顔になり、そっと目をそらした。
「……なんか変か?」
不思議そうなイリスに、ザックスが後ろからシャツを放り投げる。
「そんな格好のままで出るな。ちゃんと上を着ろ」
「男ばかりなのに、気を使う必要もないだろう」
下を穿いただけで上半身裸のイリスは、シャツであおいで涼を取る。トーヴィルが見習いの手にある鋏を見た。
「ついでにその髪、切ったら?」
「え、なに急に」
「視界の暴力だから」
きれいな女顔に濡れた長い髪はなまめかしい。男所帯で女っ気に飢えている騎士たちにとって、男とわかっていても一瞬釘付けにならずにはいられない。しかしときめいた次の瞬間、鍛えられた肉体が目に入りげんなりとする。まさに視界の暴力だ。この男を放置していると砦の士気に関わると、割と真剣にザックスは思った。
「ティトシェを呼びに行くんだろう。早く行こう」
無理やりイリスを引っ張って建物の中へ戻る。三人の竜騎士を見送ったナハラの男たちは、この戦いが終わったら絶対に恋人を作るんだと、切なく月に加護を願った。
当然ながら一番に湯殿を使ったのは公王で、そのおこぼれにあずかりアルタも済ませている。戦場なので酒は慎み、ふたりは冷ました茶でひと息ついた。
「お疲れさまでした」
くつろぐ主君をねぎらえば、思いの外力ない吐息が返された。
「どうにか初日は乗り切ったな……後続と援軍が間に合ってくれてよかった」
「そうですな」
臣下たちの前では威厳を保っていたハルトが、ひどく疲れた顔になっている。やはりこの人物に戦場は厳しいかと、アルタは苦笑を隠した。
「私はうまくやれていたか? このような頼りない人間が総大将で、兵たちに不安を与えてはおらぬだろうか」
「十分にご立派でしたよ。向かってくる敵を前にしてもあわてることなく、ちゃんと落ち着いておられたのですから問題ありません」
「うむ……」
浮かない顔のまま、ハルトは自らの具足に目をやった。さほど汚れることもないままに外され、従者がていねいに清めて手入れを済ませている。戦の道具でありながらきらびやかな、王の威厳を表す造りだ。
「……覚えていたよりも、重かったな」
剣の訓練は続けていたものの、こんなものを身につけたのは作らせた時以来だ。これほど重かっただろうかと内心驚いた。
「それは、責任の重さも感じられていたからではありませんかな?」
「……そうだな」
「大変けっこう。総大将が戦を軽んじているようでは困りますからな。それでいいんですよ」
アルタはおおらかに笑った。齢三十六での初陣だ。少年のように、ただ興奮するだけでいられては困る。浮足立たれるよりも、責任を負担に思ってくれるくらいでいい。
ただし、必要以上に悩まれても困る。あまり思い詰めないよう励ますことも忘れなかった。
「軍議は皆で意見を出し合いますし、戦うのは俺たちの仕事です。ハルト様の役目は皆をまとめ、本陣でどんと構えておられることです。実を言いますと、それほどやっていただくことは多くないんですな。作戦を考えるのは専門の人間にまかせた方がいいですし、戦闘は言うにおよばずです。こういう言い方は失礼ですが、総大将というのは置物のようなもので、あそこにあるぞと皆が確認できればいいんですよ。ハルト様が落ち着いておられることで、どれだけ戦闘が激しくなろうと兵達は安心していられます」
「うむ……」
腹心の言葉にうなずきながらも、ハルトはまだうかない顔だ。
「しかし、皆を命懸けで戦わせて、私がただ置物でいるというのもな……己も命を懸けるくらいの覚悟はせぬと」
「チトセと似たようなことをおっしゃいますな。血はつながらぬのに、親子ですなあ」
笑われて、ハルトは顔を上げた。
「そうか? チトセのあれは、違うだろう」
自分にも何かできることがあるはずだと、強引に戦場へ乗り込んできた。子供らしい向こう見ずな暴挙だ。責任を感じるのとは別だろう。
そう言うハルトに、アルタは首を振った。
「いや、そこではなく。奇襲部隊を発見したあと、十人ばかりの護衛騎士たちで攪乱する策を立て、突撃させたでしょう。それを追いかけてきた理由が、周りにだけ命を懸けさせるわけにはいかないというものでして。他人に死ねと言ったならば己も死なねば釣り合わぬと言ったそうですよ」
「……誰からそれを?」
「メイリ・コナーに報告させました。なぜ戦場へ連れて出たのかと問い質すと、そのように答えまして。まあ、騎士としては共感できる考えだったでしょうな。わからんではないので、叱るにもやりにくくてね」
「そこで甘くされては困る。断じて許すべき行動ではなかろう」
「ええ。コナーも処罰覚悟でいたようです。あの事件の直後に比べると、ずいぶん雰囲気が変わりましたな。なにかこう、芯がしっかりしたというか、冷静に観察する目を持ち始めたようです」
「…………」
「むろん、あの場で望まれるままチトセを戦場へ連れ出したのは間違いです。策を立てるところまではいい。しかしチトセの役目はそこまでで、騎士たちを死なせても黙って見ているべきだった。感情に流されるあたりが、やはりまだ未熟ですな、ふたりとも」
「……ああ」
だから、と明るくアルタは付け足した。
「ハルト様もです。兵たちが死ぬのを我慢して見届けるのが役目であって、ご自身が命を懸けられてはなりません。そのようなお考えは捨ててください」
「む……うむ……」
自身に矛先を向けられて、ハルトは複雑な表情になった。
「極端な言い方をすれば、兵は死ぬのが仕事、王は生きるのが仕事です。くれぐれも、ご自身の役割をお間違えのないように」
「…………」
ハルトは深く息を吐き出し、椅子の背にもたれた。窓の外に浮かぶ月へ目を向ける。
「まことに、戦とは因果なものだな。このようなこと、一日も早く終わらせねば」
「そうですな。明日からも頑張りましょう。なに、兵の数は対等になりましたし、こちらには竜騎士がいる分実質優勢です。かならず侵略者どもを撃退してみせますよ。お案じなく」
「心強い。頼りにしているぞ」
ようやく笑顔を見せた主君に就寝の挨拶をし、アルタはハルトの元を辞した。自分に用意された部屋へ向かう前に、ふと外の風に当たりたくなって最上階へ上がる。砦の全体が見渡せる屋上から、夜景を眺めた。
砦の周りにはたくさんの篝火が焚かれ、野営する兵たちの姿を照らしている。どこにも問題は起きていなさそうなのを確認し、遠くに見える敵軍の明かりにも目をやった。
「……えらそうなことを言ってるが、俺も本格的な戦は初めてなんだよなあ」
さまざまな経験をしてきたが、他国との戦いに出るのはこれが初めてだった。ロウシェンの――いや、シーリースのほとんどの人間がそういう状態だ。当代の公王たちはいずれも賢明で慎重な人物ばかりなので、いい状態で友好関係が保たれている。三国間での戦は遠い過去の歴史だ。援軍としてやってきた領主の中には戦を覚えている者もいたが、それにしたところで少年の頃の話だ。長い時間シーリースには平和が続いてきた。それは素晴らしいことで誇りにできるが、反面経験の足りなさが大きな不安となっている。戦を続けてきたエランドに、引けを取ることなく戦えるだろうか。ナハラの戦いは単純に敵の侵攻を食い止めるだけでなく、今後を占うものでもあった。
ロウシェン軍の総司令官として、ハルト以上にアルタの負担は大きい。それにつぶされるほど弱くはないつもりだが、少しだけ祈りたい気分もあった。
アルタは服の上から胸を押さえた。大きな傷跡がその下に隠されている。昔、この傷を手当てしてくれた娘の面影を思い出す。
「ユフィ――見守ってくれ」
常にはない小さな声は、夜風にまぎれてひそやかに消えていった。
千歳が眠ったのを見届けて、メイリは部屋を出た。時刻は大分遅い。砦の中もずいぶん静かになった。人気のなくなった石の廊下を歩けば、やけに足音が響いた。
飛竜隊に割り当てられた一角に自分の竜も入れさせてもらえたので、ようすを見に行こうと出てきたのだ。昨夜寝入り端にたたき起こされ、そのまま戦いに身を投じることになったため、疲労が重くのしかかっている。眠くてたまらなかったが、リアを放置したままでは気になって寝られない。身体は立派に育ってもまだ子供だ。多分不安がって自分を待っているだろう。
それに、今無条件に自分の味方でいてくれるのはリアだけだ。メイリ自身、リアの存在に頼る気持ちがあった。
ふと、ある男の顔が脳裏をよぎる。お前の味方だと言っていた。同情心を見せ、何度となくなぐさめに来てくれたが――正直、信用できない。
飛竜隊の仲間たちにすら見放され、誰にも頼れない状況で、彼の言葉にすがりたくなってもおかしくないのに、不思議とそういう気持ちはわいてこなかった。
今、必要なのはなぐさめではない。それを求めてはいないとわかる。では何が必要なのか……自分でもよくわからない。
なにか、きっかけのようなものを求めている気がした。迷い、揺れる心を立て直すために。この悩みを吹き飛ばすものを。
この戦の中で、見つけられるだろうか。近くにはある気がするのだ。場所さえはっきりすれば掴み取れそうな――
回廊に出た時、前方に立つ人影に気付いてぎくりと足を止めた。ひそかな月明かりの中、ほとんど気配も感じさせずに周囲の陰影と同化している。一瞬幽霊かと思った。迷った魂が出てきてもおかしくない状況なので、もし出くわしたら祈りを捧げてやろうと思っていた。しかし目の前の人影は、兵士の姿をしていなかった。
「まだ寝ていなかったのですか」
すきま風のような声がただよってくる。メイリはそっと深呼吸をし、まぎらわしい男へ近付いた。
「参謀室長殿こそ、何をしてらっしゃるんです?」
「天候を確認しておりました」
自分のような下っ端の騎士にもオリグはていねいに話す。感情の掴めない不気味な人物だが、不快感は受けなかった。
「竜のようすを見に?」
問われて一瞬驚くも、竜たちがいる場所はここからすぐ近くだ。わかって当然かとうなずいた。
「確認だけしてすぐに戻ります。部屋には鍵がかかりますので、不埒者が侵入するおそれもないかと」
オリグは黙ってうなずいた。特に咎める雰囲気はない。自分のことになど興味はないのかと思ったが、そうでもなかったいきさつを思い出し、今が絶好の機会だと気がついた。
「あの……っ」
「なんですかな?」
空を見上げていた目が戻される。メイリはごくりと唾を飲み込んだ。
「……あたしの処分を軽くするよう、口添えしてくれ……くださったと聞いています。ありがとうございました」
「ふむ」
反応は薄い。軽いうなずきが返るだけだ。
「で、でも、なんで口添えしてくれたんですか? 会ったこともなかったのに、なんで……」
「あなたが竜騎士だからです」
オリグは簡潔に答えた。そこにやはり感情は見いだせない。事務的な口調で彼は語る。
「貴重な戦力を、簡単に手放すのは得策ではないと考えました。ほかと違って補充もたやすくありませんからな」
「……そうですか」
非常にわかりやすい、納得できる答だ。そのくらいしか理由はなかろうと自分でも思っていたのに、どこか落胆していることに自嘲の笑いがこみ上げた。
何を期待していたのか。誰に期待されると思っていたのか。
そんなメイリのようすをオリグは黙って見つめ、間を置いて言葉を続けた。
「私にできるのは、そこまでです。今後どうなるかは、あなた次第。まずひとつ、選択をされましたな。新たに下された命令に従うと決められた。そこでひとつ、道が変わった。あなたの意志で状況を変えたのです」
はっと顔を上げる。求めていた何かが、一瞬見えた気がした。
「陛下やアルタ殿が聞き入れてくださったのは、可能性に期待してのことです。願わくば、その期待が裏切られませぬことを」
「期待……?」
それは、自分に向けられたものだろうか。自分にまだ期待してくれる人たちがいるのか。
死ぬ気で這い上がってみせろと言ったイリスを思い出す。それも見方を変えれば期待と言えるだろうか。まだ完全に見捨てられてはいないと、そう信じていいのだろうか。
自分の意志で選んだことが、状況を変えた。今後も選択を重ねることで、どう変わっていけるのだろう。
考え込むメイリに軽く首をかしげ、オリグは言った。
「しかし、初陣のあとで気にするところがそれですか。初めての戦場に感じるところはありませんでしたかな」
言われて今さらに気付く。そういえば初陣だった。騎士としてまともに戦ったのすら初めてだ。導いてくれる指揮官もない状況で、よく生き延びたものだ。
「はあ……そうですね……なんか、それどころじゃなくて。戦いは、たしかにすごかったですけど、もう夢中で考えている余裕もなくて」
とにかく戦わなければならなかった。振り下ろされる剣を払い、打ち返し、敵を倒さなければ命がなかった。必死になっているうちに気付けば危機を脱し、戦況も変わっていた。我ながらよくやったし、何より運がよかった。
「さすが竜騎士ですな」
そう言ったオリグの顔がかすかに微笑んだように見えたのは、月明かりのまやかしだろうか。たしかめる間も与えず、彼は背を向けた。
「その力が失われずに済んだことを、幸いに思います」
最後の言葉は単純に今日の結果に対してだろうか。それともこれまでのことをふまえてか。今後を予測してか。
謎めいた雰囲気のまま痩身の参謀官は立ち去った。残されたメイリは苦笑する。妙な人物だ。無表情で物言いも淡々としているのに、不思議と冷たさを感じさせない。いつかまた、話せる機会があるだろうか。
竜の鳴き声が短く響いた。リアだ。甘えた声で呼んでいる。話し声が聞こえたか。
メイリは庭へ踏み出した。あれこれ考えるのはまた明日からだ。今夜はリアを落ち着かせてやったあと、自分も早く寝よう。
ピィピィ言いながらせわしなく足踏みするリアに、周りの竜が迷惑そうにしている。眠り始めた砦を騒がせないよう、メイリはそっとリアに声をかけた。
それぞれが初めての戦いを終えた夜、月が空を渡っていく。束の間の平穏を取り戻した地上を、ただ遠くから見守り、静かに照らしていた。