10
粘性の低い単種類の油を入れただけという最も簡素な火炎瓶では、炎が勢いよく上がるのは一瞬だ。拡散した油はすぐに燃え尽きて消えてしまう。
でも前だけを見て突進する奇襲部隊の意表を突くには、じゅうぶんだった。
突然足元であがった炎に驚き、馬がいなないて棹立ちになる。続いて投げ込まれた火炎瓶が、そこかしこで炎を立ち上らせた。
「なんだ!?」
「敵襲!? ばかな、後ろからだと!」
「この炎は一体!?」
敵を驚かすはずの奇襲部隊が逆に驚かされて混乱におちいる。そこへ立て続けに火矢が放たれた。乾燥した枯れ草が燃えあがり、煙の中に怒号が交差する。
「くそ、どこからだ!?」
「うろたえるな!」
「あっ、貴様――」
火器を使い果たしたネイスさんたちが剣を抜いて斬り込んでいく。周囲の敵兵には、彼らがロウシェンの騎士だとわかったようだ。煙の中に剣戟の音が響いた。
後ろに私を乗せたまま、メイリさんは混乱する場へと馬を走らせた。振り落とされないよう必死につかまりながら、どうにか状況を確認しようと私は目をこらす。煙の中に戦う姿が見える。敵兵を倒すよりも、混乱させてそのまま味方の陣へと走り抜けるよう言ったけれど、やはりノンストップで進むことはできないようだ。彼らの存在に気付いた敵兵がたちまち襲いかかってくる。
複数の敵兵に狙われている騎士がいた。私はなんとかポケットから火炎瓶を取り出し、火をつける。できるだけ近づけるまでがまんし、今まさに背後から襲いかかろうとしている敵兵の足元へ投げ込んだ。
「うわぁっ!」
馬の嘶きと悲鳴が聞こえる。あの騎士がどうなったのか、たしかめたくても難しい。メイリさんは馬足をゆるめずその場を駆け抜ける。
ひとつきりの武器を失った私は、あとはもうしがみついているしかなかった。馬上でメイリさんが手綱から手を放し、脚だけで器用に走らせながら弓を構えた。矢を引く腕に当たらないよう、私は身を低くする。頭上から鋭い声がした。
「火を!」
矢に布が巻いてある。私はあわてて火種の枝を持ち上げた。揺れてうまく着火できない。縄と枝はもう大分燃えてしまっていて、そろそろ持っているのが辛い。
おもいきり腕を伸ばし、なんとか矢の先端に近づける。かろうじて火が移った瞬間、私は熱さに耐えかねて枝を手放した。
火のついた矢を、あらためてメイリさんはつがえ直す。放たれた矢はまっすぐ地面に向かって飛んで行き、うまく割れずに転がっていた火炎瓶を見事直撃した。
とたんに、勢いよく炎が上がる。周囲の馬が暴れて乗り手を振り落とした。
煙が目と喉に入って辛い。涙が出てきて目を開けていられない。こすっていると、すぐそばで激しい金属音が響いてびっくりした。
いつの間に接近したのか、敵兵が目の前にいる。剣を抜いたメイリさんと斬り結んでいる。どちらも馬上に。でも腕力で男には負けているうえに、私というお荷物を乗せているメイリさんは分が悪い。
敵兵が勢いよく斬りかかってくる。どうしよう、私がいたらメイリさんは思うように戦えない。逃げるにも不利で。
「ぎゃあっ」
いっそ飛び降りるべきかと焦る間に、素早く勝敗がついた。メイリさんの剣が敵の肘から先を斬りとばす。腕ごと剣を失った敵兵はもう戦えない。放置してメイリさんはふたたび馬を走らせようとした。
しかしそこへまた、別の敵兵が襲いかかってきた。周囲は敵に囲まれていて、たやすく突破はできない。またメイリさんは不利な状況のまま戦い続ける。
さすがにロウシェン一の精鋭竜騎士だけあって、メイリさんは強かった。私と同じ十七歳の女の子なのに、大きな身体の兵士を相手に一歩もひかない。一人、またひとりと敵を倒していく。
でも、状況は圧倒的に不利だった。いくら倒してもすぐ次が来る。おまけに後ろには私がいる。メイリさんの顔に焦りが浮かんだ。
敵が馬ごとぶつかってきた。メイリさんは衝撃をこらえたが、私はそうはいかなかった。たまらずはね飛ばされて、落馬してしまった。
「――っ」
地面に落ちた衝撃と痛みに一瞬息が詰まるけど、のんびり苦しんでいる暇はない。ここでぐずぐずしていたら馬に踏みつぶされるか敵の剣に斬られるかだ。はやく逃げないと、と必死に身を起こす。眼前の敵を斬り伏せたメイリさんがこちらへ手を伸ばそうとした。でも後ろにまだ敵がいる!
「うしろ!」
夢中で私は叫んだ。メイリさんがはっと振り返る。いましも叩きつけられそうになっていた剣を打ち返すが、勢いに負けて大きく体勢を崩した。
立て続けに繰り出される攻撃に、体勢を直せないままメイリさんは追い詰められていく。さらに何人もの敵兵が接近してくる。だめ、このまじゃ。
私はそばにある石をつかんだ。そんなものではどうにもならない。でも落ちついて考えている余裕なんてない。ただ夢中で、必死で――でも遠くて――
「うわああぁっ!」
目の前で悲鳴が上がった。
馬から転げ落ちたのは、敵兵だった。羽音と共に大きな身体が空から降りてくる。鋭い爪が敵の兵士を狙った。
「ぎゃあっ」
「くそっ、このっ」
「わあーっ」
飛竜は敵を爪にかけ、牙を剥いて威嚇する。初めて聞く、迫力のある咆哮を響かせた。
束の間見入った私は、あわててメイリさんの姿をさがした。いた――彼女も、飛来した竜を驚いた顔で見上げていた。
助かったんだ。こっちの騒ぎに気付いて飛竜騎士が来てくれたのか。
そう思ったけれど、駆け寄った私の耳に届いたのは、呆然とした声だった。
「リア……」
えっと私は馬上のメイリさんを見上げ、そしてさっきの飛竜をふりかえった。私たちを守るように敵兵の前に立ちはだかる竜の背には、誰も乗っていない。鞍もついていない。
あれって――リアちゃん?
メイリさんの竜なのか?
「連れてきてたんですか?」
私の問いに振り向いたメイリさんは、無言で首を振った。
連れてきていない、なのにここにいるって、どういうこと?
「……自分で、ついてきたの?」
私のつぶやきに、メイリさんの顔が泣き笑いの表情を浮かべた。
連れてくることはできず、エンエンナに残してきたはずのリアちゃん。でも彼女は何かを感じ取ったのか、それとも単にメイリさんと離れたくなかったのか、追いかけてきたんだ。
どこへ行くとも、いつ行くとも、知っていたわけではないだろうに。それなのにこうしてついてきて、私たちを――メイリさんを守っている。
これが、竜と主の絆なんだ。
煙のせいではない涙がこぼれる。メイリさんが声を張り上げた。
「リア!」
敵兵を蹴ってリアちゃんがふりむく。竜の登場に、さすがに周囲の敵は接近をためらうようすだった。
いまのうちに、他の騎士たちも離脱できるだろうか。
そう思う私の視界を、矢が横切った。今のは明らかにリアちゃんを狙っていた。
硬い竜の皮と鱗は、多少の攻撃にはびくともしない。それでもまったく傷つかないわけではない。目や口の中を狙われたら弱い。
メイリさんが馬を進めようとして、あわててこちらへ目を戻す。リアちゃんと私、どちらを取るかで一瞬迷ったようだ。私はむしろ行ってほしかった。私を乗せていたのでは、彼女はあまりに不利すぎる。だからこのまま行ってと言いたかったのに、それより早く周囲に矢が降りそそいだ。ああ、もう何かする暇もなく射倒されるかも。
リアちゃんの咆哮がまた響く。でも矢の雨は降りやまない。リアちゃんは、メイリさんは大丈夫なの? 他のみんなはどうなった?
動くこともできない私のすぐそばを、風が走り抜けた。
同時にあちこちで悲鳴があがる。今のはなにと見回した私は、矢がもう来ないことに気付いた。
そしてまた、目の前を風が通る。
銀緑色に輝く身体が地面に触れそうなほど低い場所を飛んで行った。その身体と、そして繰り出される長槍を受けて、敵兵がなぎ倒される。
奇襲部隊の頭上を旋回する竜騎士は、何度も竜を地面すれすれにまで降下させて敵を倒した。竜の背で銀の髪がなびく。
「……メイリさん、私を置いて行ってください!」
我に返った私はあわててメイリさんに声をかけた。同じくイリスの援護に見入っていたメイリさんがこちらを向く。
「私を乗せていたら不利すぎます! どこか適当な場所に隠れてますから、メイリさんはそのまま行ってください!」
「ばかを言うな! どこに隠れると!?」
馬首をめぐらせてメイリさんはこちらへ来ようとする。たしかに隠れられるほどの場所は見当たらないけれど、この混乱の中なら私一人くらい気付かれずにすまないかな。
しつこく襲いかかる敵兵と戦うメイリさんを見つつ、私は周囲をうかがった。私がうまく離脱できたなら、彼女は安心して自分とリアちゃんのことだけに専念できる。
でも逃げることは許されない。敵を乗せた馬がこちらへ向かってくる。まっすぐに狙いをさだめているのは、私だ。
女だとか、子供だとか、そんなものこの混戦の中では意識されないのかもしれなかった。敵兵の目には明らかな殺意があった。
逃げることも戦うこともできずにいる私へ、剣を構えた敵兵が突っ込んでくる。こちらへ降りてくるイシュちゃんが見えるけれど、間に合わない――
ここまでか。麻痺しかけた意識で向かいくる敵を見つめる。それが突然に、馬の背から落ちた。
「……えっ?」
乗り手を失った馬は操る者がないまま、私のそばを通りすぎどこかへ駆けて行ってしまう。落ちた敵兵は動かない。その身体に矢が突き立っていた。
地鳴りがする。
無数の馬蹄の轟きが近づいてくる。
街道方面から軍勢が突進してきた。あれはどこの兵? 敵か? 援軍か?
ひるがえる旗はロウシェン竜騎士団の紋章だ。馬と共に走るのは、大きな身体に角と特徴的なひだを持った地竜だ。
来た――!
後続が、到着したんだ!
それだけじゃなかった。軍勢の数はもっと多かった。いくつも、違う種類の旗が見える。援軍も到着したんだ!
全身に喜びが突き上げた次の瞬間、先頭の騎士たちが私の周りを駆け抜けていった。土埃をまきあげてものすごい勢いで次から次へと通りすぎていく。たまらずに私は顔を覆った。
あわわわわ、これ、間違ってはねたり踏みつぶしたりされないだろうか。みんなちゃんと私に気付いてくれている?
心強くもありがたい援軍の到着なのに、命の危険を感じて私はすくみあがる。どうか誰も私を踏みませんように――と祈っていたら、何かがぶつかってきた。うわあ、やっぱりはねられたー!
――に、しては、衝撃が小さいような。
身体が宙に浮き、次の瞬間にはどすんと落下する。激しく躍動するものの上で強い腕が私を抱き寄せた。
「しっかりつかまって」
耳元に冷静な声が言う。
榛色の瞳が私を見下ろし、すぐに前へと戻された。腕はしっかりと私を抱いたままだ。走る地竜の背から一瞬で私を引き上げたトトー君は、なにごともなかったかのような顔で前を見据えていた。
こっちは、驚きすぎでそろそろ心臓止まりそうなんですけど。
安心していいのか、怖がるべきなのか、もうわからない。助かったというより、トトー君が来てくれたということの方がうれしくて、でも呑気に喜んでいられる状況ではなくて。とにかく、全力で走る地竜の背中は、馬に負けずよく揺れることだけ理解した。
カル君の動きに合わせられず苦労しながら、私はどうにか体勢を整えてトトー君の身体にしがみついた。でもこれ、ものすごく邪魔だよね。どうしよう、どこかで降りられないかな。
「目を閉じて」
緊張しつつも冷静な声でトトー君が言った。次の瞬間、彼は私を抱くのとは反対側の腕を大きく振った。耳障りな剣戟の音が響く。思わず身をすくめる私のそばで悲鳴があがった。
落馬する敵兵の姿が見える。あっという間に遠ざかっていく。
馬を懸命に走らせて、すぐ後を追ってくるメイリさんの姿も見えた。気付いた瞬間、彼女と目が合った。
よかった、無事だったんだ。リアちゃんは? それからイリスとイシュちゃんはどうしたのだろう。
空を見上げれば、本陣の方へ戻っていくイシュちゃんが見えた。こっちはもう大丈夫と判断したのだろう。イリスはあっという間に、もっと激しく大きな戦闘が行われている場所へ飛んで行く。この機動力こそが飛竜騎士の強みだ。
「このまま前進! 前方右手へ向かえ!」
普段ののんびりした声が嘘のように、トトー君が鋭く叫んだ。了解の声が返り、地竜騎士たちはいっせいに押され気味らしい場所へ向かっていく。
「ト……っ」
私を降ろしてと言おうとして、舌をかんでしまった。いったー……。
「ちょっと待って」
トトー君はわかってるというように、落ちついて返事する。声だけ聞いていれば何も起きていないみたいだが、その間にも敵兵と斬り結んでは何人も倒していくのだ。この状況でなんでこんなに冷静でいられるんだろう。すごすぎる。
砦に近くなったところでトトー君は一旦カル君を止めて、追いかけてきたメイリさんを振り返った。特に言葉を交わすこともなく、両者は私が乗り移れるように馬と竜を寄せる。助けを借りながら、私はどうにかメイリさんの後ろに戻った。
「ティトを頼むよ」
それだけ言い置いて、トトー君は部下たちを追って駆け去った。
羽音がして、リアちゃんが近くに降りてくる。
「メイリさん、怪我は……?」
「お前こそ……」
私もメイリさんも、それ以上言葉が続かない。でもお互い、無事なことはわかった。あの状況で怪我ひとつしていないって、私もたいがい運が強いな。せいぜい舌をかんだのと指先の火傷くらいだ。あとお尻が痛いかな。
もちろん、メイリさんやみんなが守ってくれたおかげだ。
メイリさんの肩が大きく上下していた。この冬のさなかに汗をかいている。私はポケットをさぐってハンカチをさがし、そういえば火炎瓶に使ったのだったと思い出して、袖で彼女のこめかみを拭った。ぎょっとした顔でメイリさんは私を振り返り、「いらん」と邪険に振り払う。でも不愉快というより単に困惑しているだけと感じるのは、私の願望だろうか。
後にしてきた場所には、もう戦いはなかった。まだ煙のあがる場所に、倒れた兵士と乗り手を失った馬がいるだけだ。みんなは、ネイスさんたちは、どうなったのだろう。たしかめたくても、もうあそこへは戻れない。メイリさんはリアちゃんに声をかけて、馬を砦へ向かい歩かせる。
砦から数騎がこちらへ駆けてきた。ロウシェン兵だとわかっているので、私もメイリさんもあわてない。彼らは私たちの姿を確認すると、砦へ向かうよううながし、そのまま護衛についてくれた。
砦にはオリグさんが残っていた。迎えの騎士に案内されて、城壁の上に設置された見晴台へ上がる。リアちゃんは自主的に飛び上がってきた。
「お疲れさまです」
土埃と煤で汚れた私たちに、オリグさんはいつもと変わりない調子で声をかけた。
「お怪我はありませんかな」
「大丈夫です……あの……」
何から言えばいいのか、頭がうまく働かず私は口ごもる。オリグさんは少し首をかしげたあと、何を納得したのかひとつうなずいた。
「チャムスク山を越えてアルギリへ向かおうとされましたか。その途中、敵の奇襲部隊と行き合った?」
「……なんでわかるんですか」
ずばり言い当てられて疑ってしまう。まさか、どこかで覗いていたとか言わないよね。
そんなわけないのはわかりきっているが、この人のことだから何やっても不思議はないなんて思ってしまう。
「状況から推測したまでです。あなたのことですから、素直に帰らずアルギリへ向かう可能性はあると思っておりました」
「はあ……」
というか、そもそもオリグさんからアルギリの動向を聞かされて気になっていたのだ。なんだかいいように誘導された気がしてならない。
「さすがに奇襲部隊のことまでは予測外でしたが、結果的に幸いでしたな」
「……気楽なことを。こっちは死ぬ覚悟だったってのに」
私の後ろで、メイリさんが小声で毒づいた。本当に、今生きてここに立っているのが妙な気分だ。死ぬって、もう精一杯の覚悟を決めていたのに。
「あの人数でよく対処できましたな」
「……攪乱しただけです。リアちゃんとイリスの助けが入らなければ多分やられてたし、後続が間に合ってくれたおかげで助かりました」
オリグさんはうなずき、砦の外へと目を戻す。まだ戦闘の続く場所を、私も見る。
ロウシェンとエランド、両軍が入り乱れて戦うようすは、上から見ると巨大な運動会のようでもあった。
そんな感想を抱いたのは、私が戦場なんて見たことのない、平和な平成日本人だからだろう。それに私が戦場と聞いて思い浮かべるのは、銃弾が飛び交い爆弾が炸裂する、そんな光景だ。目の前に広がる光景とはまるで違う。
でも、あれも殺し合いだ。あそこで戦う人々は、陣地やハチマキを争っているのではない。相手の命を狙い、生身同士でぶつかり合っている。
きっと近くで見れば、流れる血や悲鳴がおそろしかっただろう。ついさっきまで自分の周りにあったものを思い出し、今さらに身震いする。ぶつけられる殺気と突進してくる人馬が、振り下ろされる剣が、本当に怖かった。
戦場の上空を飛竜騎士が飛び回っていた。さっきのイリスのように敵に攻撃をしかけているが、何騎かが敵軍の奥まで飛んでいった。攻撃をするでもなく、敵の頭上を横切っていく。――いや、矢を射かけている?
目をこらした瞬間、赤いものが立ち上がった。火だ。
火はみるみる燃え広がり、地面を走るように伸びていく。敵軍が分断され、一部は炎の壁とロウシェン兵に挟まれてこちら側に取り残された。
火攻めだ。
炎と煙に巻かれて混乱する敵兵のようすが、ここからだとよくわかった。方向を失い、右往左往している。枯れ草が乾いているからというだけでは説明のつかない、激しい勢いで火は燃え広がっていく。
「……事前に油を撒いていたんですか?」
目は戦場に釘付けになったまま、私は無意識に尋ねていた。
「いかにも。敵軍が到着する前に仕掛けをほどこしておきました」
淡々とした答えがかえってくる。
「後続も援軍も間に合うかわかりませんでしたからな。数の不利を考えれば、この程度の仕掛けくらいせねば戦えません」
オリグさんは平然と言う。地獄絵図を前にして、それを仕掛けた当人はおそれも興奮も見せない。
敵陣の奥から、銅鑼の音が響いた。退却の合図だとわかった。まだ無事な兵たちは、体勢を立て直して本陣へ戻っていく。でも退くに退けない場所にいる兵たちは、うろたえるばかりだ。そのまま戦い続けては倒され、あるいは火にまかれ、数を減らしていく。
身体が震えた。寒さのせいではなかった。勝つための、味方を守るための作戦だとわかっている。私だって似たようなことを考えた。でも……。
じっさいに人が目の前で焼け死んでいく光景は、あまりにむごたらしくて、最後まで見続けることができなかった。
砦に戻ってきたハルト様は、私を見ても驚かなかった。イリスが先に報せていたらしい。さぞ怒られるかと思いきや、そんな元気はないのか、複雑な顔をするばかりだった。
「……怪我はないか」
「はい」
問いにうなずくと、深いため息が吐かれる。
「無茶な真似を……」
それだけ言うのがやっとだったのか、あとは無言で抱きしめられた。
命令に逆らったことは大きな罪だけれど、私たちの行動によって奇襲を受けるという危機を免れたのだ。そのため、ハルト様もアルタもモンドさんも、護衛騎士たちをとがめることはできないようだった。
そんなことをしている場合でもなかったし。
戦闘はひとまず中断されても、砦は大騒ぎだった。続々と負傷者が運び込まれ、怪我の程度の軽い者は庭で、重い者は建物の中で手当てを受ける。広い部屋に所狭しと並べられた怪我人たちが、そこかしこでうめき声を上げていた。何か手伝えないかと足を向けた私だったが、一歩部屋に入ったところで立ちすくんでしまった。
血と汗の臭いが充満している。手当てといっても私から見れば簡単で原始的な処置だけだ。鎮痛剤なんてものもなく、みんな悶え苦しんでいる。
それでも、声を上げられる者はまだましなのだと知った。血を失いすぎて、または傷が深すぎて、そのまま二度と目を開けなくなる人もいた。
身体が冷えていく。めまいがした。吐きそうになり、ふらついた身体を、だれかが後ろから支えてくれた。
「ティトには無理だよ……おいで」
トトー君は私の手を引いて、庭へ連れ出した。
そこにも怪我人がごろごろしている。でもこっちは程度の軽い人たちだから、ほとんどは寝ずに座り込んでいる。こっちなら手伝えるだろうか――まだふらつく頭で、それでも何かしなければと考える。見回していると、騎士たちの中に知った顔を見つけた。
「ネイスさん!」
私は夢中で駆け寄った。
「ティトシェ様」
驚いた顔で彼は振り返る。元気そうだ。よかった、無事だったんだ。
「追ってこられたと聞いて驚きました。お怪我はありませんでしたか」
「大丈夫です。ネイスさんも無事でよかった」
周りにいるのも私の護衛をしてくれていた騎士たちだ。みんな無事だ、よかったと再会を喜んだ私は、しかし彼らのようすが妙なのに気付いた。
私の無事に安堵する顔。でも手放しの喜びではない。痛みをこらえる、苦しさの混じった表情は。
私は彼らの足元を見下ろした。そこに、一人の騎士が横たわっていた。
まだ若い、ようやく二十歳になったかどうかという騎士だ。そばかすの残る顔を知っている。私に対するメイリさんの態度が無礼だと、とがめた人だ。護衛騎士の中でいちばん若く、私をお姫様だと思い込んで、ずっとうやうやしく接してくれていた。
困ってしまうほど純粋な熱意を向けてくれていた目は固く閉ざされ、敏捷によく動いた身体はぴくりともしない。
私はふらふらと彼のそばまで歩み寄り、力を失ってへたり込んだ。
おそるおそる伸ばした手で頬に触れ、すでにぬくもりを失っていることを知る。
「……っ」
言葉のかわりに嗚咽があふれた。
「……ご、め……っ」
私が。私が行き先を変えるなんて言ったから。
捨て身で奇襲部隊を攻撃するなんて提案したから。
「ごめ……なさ……っ」
「謝らないでください」
泣き崩れる私にネイスさんが言った。
「こいつは騎士として、精一杯に戦うことができた。味方の危機を救え、満足して逝けましたよ。だから謝るのではなく、誉めてやってください。よくやったと」
そう言われても涙は止まらない。すでに多くの死を目にしていたが、知人の死に直面して、もう自分をどうにもできなかった。
やがてネイスさんたちは遺体を運んでいった。庭の一角に、動かなくなった人たちが集められていた。祭壇も何もない、仮初めの安置所なのだとわかった。かわるがわる騎士たちがやってきては祈りを捧げている。
地面にへたり込んだまま、私はただそれを眺めるしかできなかった。
トトー君も、いつ来たのかイリスとメイリさんも私のそばに立ち、眠る人々を見つめていた。
「ハルト様は、君にこれを見せたくなかったんだよ」
いつまでも泣き続ける私にイリスが言う。
勝っても負けても、戦には多くの死がともなう。わかっていたはずのことを、私は深く思い知った。
この夜、祈りと送り火は絶やされることがなく、そして次の日、戦士たちは荼毘に付された。
***** 第七部・終 *****