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明日天気になったなら  作者: 桃 春花
第七部 出陣
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 いくつもの声が飛び交い、物音と気配がとどまる。身をひそめた闇の中、誰かが小さく舌打ちをした。

 謎の軍勢は目の前を通過するかと思いきや、ここで休憩するらしい。

 ついさっきまで私たちがいた場所に、今は大勢の人間が腰を下ろしていた。困ったな、これじゃあ出て行けない。このまま彼らがいなくなるまで、私たちは隠れ続けるしかないのか。

 目の前の軍勢が友軍なら、隠れる必要はない。所属と目的を明らかにして、一緒に野営させてもらえばいいだけだ。

 でももし敵軍だったら――見つかったらどうなるのか、想像したくもない。

 そばにひそむ騎士たちが、闇の中でそっと動くのを感じた。どうするのかと思ったが、下手に声を出して向こうの軍勢に気付かれてはいけない。彼らの判断にまかせることにして、私はじっと息を押し殺していた。

 どれくらい待ったか、戻ってくる気配がした。

「……やはり、敵軍だ。ロウシェンの軍でもアルギリの軍でもない」

 とても小さな、気をつけないと聞き逃しそうな声が報告した。

「エランドか」

「それしか考えられんな」

「なぜここに……」

 エランドの別動隊が、アルギリ方面から山を越えて現れた。その理由を考え、とてもいやな仮説が浮かび上がる。

「まさか、アルギリはエランドについたのか」

 誰かの言葉が、全員の考えを代弁していた。

 状況を見ると、そう考えるのが自然な流れだ。でも待って。私は懸命に頭を働かせた。

「……いいえ、そうと決めつけるのは早いです。私がクラルス公の立場で、もしエランドにつくと決めたなら、むしろ援軍を出します。友軍と思わせて堂々と近づき、ロウシェンを油断させて攻撃します。こんな少数で奇襲を狙うより、そっちの方がずっと楽だし成功率も高いでしょう」

「…………」

 卑怯きわまる戦法だろうが、それがいちばん効果的だし、昔からしばしば使われた手だ。そもそも寝返る時点で卑怯なのだから、戦法を気にしたってはじまらない。だからアルギリは寝返っていない。私は自分の考えに自信を持った。

「アルギリ方面から現れたのはたしかだし、援軍が出ていないことからも、アルギリがなんらかの事情でエランドの動きを看過しているのは間違いないでしょう。でも完全な敵に回ったわけではないと思います」

 クラルス公は気位の高い人だ。だからこそ、他人と比べられて見劣りする自分に悩み、神経をとがらせていた。そんな人がたやすく敵に与するとは思いにくい。

 それに、カームさんほどの派手な実績がないから凡庸な王みたいに周りも本人も思っているようだけれど、そんなことはない。近年のアルギリの状況を調べれば、きちんと統治がいきわたっているのがわかる。政治や経済、地方におけるいざこざ、外国との関係――あらゆる面で、クラルス公はちゃんと手腕を発揮している。あの人はけっして愚かでもなければ無能でもない。エランドに寝返るのがどんな結果をもたらすか、わからないはずがない。

 なにか、よほどの事情でそうせざるを得ないのだとしても、心中では反撃を狙うはずだ。完全に屈伏したりしないだろう。

「アルギリの状況は気になりますが、今はまず目の前の問題を考えましょう。あれが敵の奇襲部隊なのは、もう間違いないわけですから」

 私の言葉に、みんなしばし黙り込んだ。考えるといっても、どうすればいいのか。言った私も困ってしまう。今私たちにできるのは、見つからないよう隠れ続けることだけだ。推定二百人対、こちらは十二人。うち一名は完全なお荷物。戦うとか考えられる話じゃない。

 でも、このまま敵が通りすぎるのを待って、それで自分は助かっても、砦にいる仲間たちはどうなる?

 堂々と戦えば負ける相手ではない。けれど正面に敵の主力五千を迎え、援軍もまだ来ない状況でどうにか戦っている最中に、背後を突かれたら。

 単純な数の差だけでなく、心理的にも動揺して一気に旗色が悪くなる。そのまま総崩れの可能性もある。

 なんとかして、防がないと。

「……彼らに見つからないようこっそり山を下りて、砦へ報せに走ることはできますか?」

 私の問いには難しげな吐息だけが返り、その後みんなでひそかに脱出路をさがした。ただし私とメイリさんは留守番で。不慣れな私がガサゴソやっていたら目の前の敵軍に気付かれる。不甲斐なさを痛感しながら、メイリさんに守られて騎士たちが戻ってくるのを待つしかなかった。

 やがて戻ってきたネイスさんは、悔しそうにだめだったと伝えた。

「少し下ると崖で行き止まりになっています。登れる高さではありませんし、そんなことをしていたら気付かれます。道に出るしかありませんが、まだ敵のいる場所ですから……無理です」

 闇にまぎれて敵をだしぬき、砦へ報せるのは不可能ということか。

 私は頭を抱える思いだった。どうしよう。どうしたらいい?

 目の前の軍が移動してから、先回りして砦へ行けないかとも考えたが、そんな道はないと首を振られた。道を無視して直線コースで山を下りる、なんていうのも無理らしい。危険すぎるしまず馬を連れていけない。人間だけがどうにかふもとへたどりついたとしても、相当時間がかかる上にその後自分の足で走らなければならない。到底間に合わない。

 八方塞がりだ。

 ハルト様たちに危機が迫っているのに、それを報せることもできないなんて。

 ここが日本なら――無意味な仮定と知りながら、切実に思った。携帯かスマホがあれば、動けなくたって状況を伝え、声すら出すことなく打ち合わせができるのに。

 便利な科学文明のないこの世界で、私はどうやって目の前の状況に対処すればいいのだろう。

 科学に甘え、自力のみで頑張るということをしない現代人の弱さを思い知る。でもここであきらめちゃだめだ。あきらめたら、もう二度とハルト様たちに会えないかもしれない。そんなのはいやだ。絶対になんとかしないと。

 考えろ。考えるんだ、私。

 便利な道具も強靱な肉体も持たない私にできるのは、ただ考えることだけだ。

「……選択肢は、ふたつです」

 どれだけ考えてもこれ以上の答は見つけられず、私は告げた。

「ひとつは、このまま敵がいなくなるのを待ち、安全になってから山を越えるなり下りるなりする。当然、砦へ報せることはできません。ハルト様たちがどうなるか、天に運をまかせるしかない」

「…………」

 怖いほどの沈黙で、みんな私の話を聞く。

「もうひとつは、奇襲部隊をさらに奇襲する――この人数でまともに攻撃はしかけられませんから、単に不意をついて驚かせ、騒ぎを起こすことでハルト様たちが気付いてくれるのを期待するだけですが」

 いちかばちかの賭けに出る――この状況で私たちにできるのは、それだけだ。

「奇襲が成功するか否かは、いかに相手に気付かせず接近するかにかかっているでしょう? だから彼らは、こんな夜間に山を越えてきた。多分昼間は隠れていたんだと思います。アルタが周辺を探索させるって言っていましたから。昼間に移動していたなら、調べに出た飛竜騎士によって発見されているはず。見つからないようひそかに近づいてきた――反対に言うと、自分たちは見つかっていないという油断が多少はあるはずです」

 敵の背後を突く作戦で動いている奇襲部隊が、さらに自分たちの後ろに奇襲を狙う者がいるとはあまり考えないんじゃないだろうか。

 もちろん彼らは、見つからないよう周辺に警戒を怠らないだろう。でもそれと、奇襲を受けるというのとは別の発想だ。多分そういう可能性は考えていない。

「しかし、奇襲をかけるといっても、この人数でどうやって……」

 たった十二名――いや、私を除いて十一名では、あまりに数が足りなさすぎる。これが百、せめて五十いればと思うが、ないものを考えてもしかたない。

「状況が状況なので、正攻法なんて使えません。目茶苦茶な方法になりますけど、そうするしかないんだって頭を切り換えてください」

 私は何の訓練も教育も受けていない素人だ。だからこそ、逆に勝算があるかもしれない。プロの戦闘集団なら、どうしても常識にとらわれてしまうだろう。素人の発想には意表をつかれるかもしれない。

「古今東西、戦で敵を驚かせるのにもっとも効果的な手段は、火と決まってるでしょう? 彼らが突撃を開始したその瞬間に、火を打ち込むんです。後ろからそんな攻撃を受ければ、当然背後に軍勢がいるんだと思いますよね。自分たちがそういう軍勢なんだから、同じように攻撃されたんだと思い込むでしょう。その混乱に乗じ、さらに火を打ち込みつつ奇襲部隊の中を突っ切ります。そのまま砦まで走り抜けるのがベストですが、もちろんそううまくいくとはかぎりません。途中で敵の攻撃を受けるかもしれない――むしろその可能性が高い。つまり、討ち死に覚悟の特攻をしかけるわけですが」

 死にに行けと言っているようなものだ。自分が他人に対してそんな話をしているのが信じられない。言っている意味をわかっていないわけじゃない。重大性がわかっていないわけじゃない。でも今この状況で、ほかにどんな方法がある?

「目的は、あくまでも奇襲部隊を混乱させ、騒ぎを起こして砦の友軍に気付かせること。だから生還は二の次になってしまいますが……」

 言いながら辛くなりすぎて、途中で言葉が出てこなくなる。そんな私に誰かが――多分ネイスさんが、優しく肩を叩いた。

「そんなことは、はなから承知です。騎士になった時から、いざという時には命を捨てる覚悟をみな持っております。このまま何も手を打たず、仲間が奇襲されるのを傍観していることなどできない。もしもそんな真似をすれば、もう二度と剣など取れないし、家族や友人の前にも顔を出せません。たとえ砦が陥ちずに済んだとしても、仲間の元へは戻れない。己を騎士と認めることも許すこともできなくなります。我々は、戦います。逃げません」

 周囲から同意の気配が伝わってくる。誰にも迷いはなさそうだった。

「ただ、どうやって火を用意するかが問題です。奇襲をするなら油なども必要になる……手持ちには、それほどのものはありません」

「ここにはなくても、あそこにはたくさんあると思いますよ」

 私の答えに、今度はぎょっとした反応がかえってきた。

「あそこ……ですか」

「ええ」

 奇襲部隊だから大きな荷物はない。最低限の食料と武器だけを持って来たのだろう。でも彼らもまた、同じように火を使うことを考慮して、油くらいは用意しているはずだ。

「二百人はいる集団です。互いに全員の顔や声をしっかり覚えているわけじゃないでしょう。いい具合にそろそろ姉月(ジェナス)妹月(ユリナス)が沈みます。弟月(ダイナス)の明かりだけでは、同じように武装した相手が部外者だなんて気付かないんじゃないでしょうか」

「敵軍に紛れ込む、と……?」

 発見されることを警戒して、彼らは火も焚いていない。さも当然の態度で仲間のふりをして紛れ込んでも、わからないんじゃないかと思うのだ。

「まあ、それなりに演技力が必要になりますが。あと、あまりに不審な行動をしないよう、さりげなく動くことが大事です。怪しまれそうなら無理をせず引き下がる。どうです?」

 みんな少しためらうようすだったが、それしか手段はないのだ。思いきれば、騎士たちは勇敢で大胆だった。私の言うとおり、ひそかに闇から滑り出て敵軍の中にもぐり込んだ。

 もしもばれて騒ぎが起きたら、すぐさまここから逃げろと言われたけれど、私は自分だけ助かるつもりなんてなかった。彼らに死にに行けと言っておきながら、後ろで見物なんてしていられるものか。

 メイリさんと一緒に隠した馬をそっと外へ出す。気付いた騎士が私に戻れと合図してきた。するとおかしなようすを察して敵の兵士が、「どうした」と聞いてきた。

「いや、馬がはぐれかけてて」

 騎士はあわててとりつくろい、私たちが出した馬を引き寄せた。

「しっかりつないどけよ。こんなところで足を失ったら話にならん」

「ああ、すまん」

 どうにかごまかせたようだ。私はほっと胸をなでおろし、素早く木立から走り出て岩陰に身を寄せた。騎士は困ったようすだったが、これ以上目立つ真似はできない。私が人目につかないよう、身を楯にして隠してくれた。

「なあ、油どこにやった? 今のうちにできる準備をしておきたいんだが」

「そっちの壺の中だ。暗いからって、こぼすなよ。余裕はないんだからな」

「わかってるよ」

 敵兵とやりとりするネイスさんの声が聞こえてくる。なかなかの演技派だな。きっと本人、心臓バクバクだろうけれど、はたで聞いている分には堂々としている。

「くっそ、寒いな。酒こっちにも回してくれよ」

「どこが寒いんだ? あたたかいじゃないか」

「エランド育ちのお前らと一緒にしないでくれ。凍死するとは言わんが、温めないとやってられん」

「ろくな防寒具も持たずに冬の山越えをさせられるとはな。もうちょい報酬ふっかけとくんだったぜ」

「作戦の前だ、飲みすぎるなよ」

「こう寒いんじゃ、いくら飲んでも酔えねえよ」

 敵兵同士の会話も聞こえてくる。どうやら兵士はすべてがエランド人というわけではないようだ。配下に組み込んだ国の兵士や、もしかすると傭兵なんかも混ざっているのかも。

 身体を温めるため、兵士たちの間を酒瓶が回される。空になった瓶は邪魔な荷物だから、その辺に投げ捨てられる。それを私たちはせっせと回収した。仲間がこっそりせしめてきた油を、岩陰に隠れて私は瓶に移していく。さっきのエランド兵じゃないけれど、こぼさないよう細心の注意を払った。あやしまれずに油を手に入れるにも限度がある。あまりたくさんは集められないのだ。一滴たりとも無駄にはできない。

 油を入れたら布で口をふさぐ。ハンカチやら手ぬぐいやら救急用の包帯やら、手持ちの布をありったけ出して手頃な大きさに裂き、瓶の口に詰めていく。こんなもの、作るのは当然じかに見るのも初めてだ。多分これでいいんだよね。あ、ちゃんと火がつくように、詰めた布は少し外にはみ出させておかないと。

 そのかたわら、騎士たちは矢尻に布を巻いて、油をしみこませていた。火矢の用意は敵兵もしているから、この作業があやしまれることはなかった。

 鞄の中身を全部出して、代わりに作ったばかりの火炎瓶を仕込む。中で倒れて油がこぼれてしまわないよう、入れ方に工夫して隙間にものを詰めて――いざやってみると、いろいろ手間がかかる。

 暗がりの中で四苦八苦していると、敵の指揮官が出発を命じた。兵士たちがいっせいに立ち上がり、騎乗する。私たちもあわてて荷物をまとめ、馬に乗った。

「このまま離れてください」

 ネイスさんが馬を寄せ、小声で言ってくる。さすがに私達はまぎれ込めない。暗いし最後尾にいるから今のところ気付かれてはいないけれど、明るくなればすぐにばれるだろう。

「行けるところまで行きます。明るくなる前には離れますから」

 私は言って、ネイスさんに戻るよううながした。ごちゃごちゃやっていたらあやしまれる。もう知らん顔で敵兵についていくしかないと、心配する仲間たちを無理やり先に行かせた。

 昼に登ってきた道を、また下る。集団がふもとにたどりついたのは、空が白み始める頃だった。

 敵兵たちは、完全に山を出ないで身をひそめ、突撃のタイミングを待つ体勢になった。ネイスさんたちもその中に混じっている。私は少し前に集団から離れて、さらに後方の物陰からようすをうかがっていた。

 いつ始まるのか。不安と闘いながら、じりじりとその時を待つ。

 やがて――

 遠くから、低いけれどよく響く音が聞こえてきた。なんだろう、太鼓? いや、銅鑼かな。

 それが開戦の合図だったのだろう。大気を震わす鬨の声と地響きが伝わってきた。

 始まった――

 身体に震えが走る。一瞬メイリさんが私を振り返った。隠れていた奇襲部隊が動き出す。ネイスさんたちも行く。

 とうとう――とうとう、始まってしまった。

「……行きます」

 私は言った。それは、自分も出るという意味だったのだけれど、伝わらなかったのかメイリさんは馬を動かさなかった。

「メイリさん、私たちも……」

「行って、どうする?」

 急かそうとすると、冷やかな声が返ってきた。

「え……」

「お前が出て、何の役に立つ?」

 緑の瞳が振り返る。静かな表情の下にあるのは、どんな感情なのだろうか。

「それは……でも……」

「死にに行くだけだ。お前が出ることに、なんの意味がある」

「…………」

 突きつけられる現実に、私は返す言葉がなかった。

 そうだ。わかりきっていたことだ。私は戦えない。あの集団を追ったところで、何ができるだろうか。ただついていくだけ……そして混乱に巻き込まれて、命を落とすかもしれない。

 騎士たちは、仲間を助けるために命を投げ打って出て行った。でも私には離れていろと言った。このまま戦闘が落ちつくのを待てば、私は離脱することも、あるいはハルト様たちと合流することもできるだろう。そう願って、私を置いていったのだ。

 誰も、私に戦うことなんて求めていない。求められるとも思っていない。私は守られて、安全な場所に避難すべき存在だと――

 たしかに私は戦えない。なんの力もない、役立たずだけれど。

「……みんなに死ねと言ったも同然で、なのに私は危険から逃げるんですか?」

 泣きたい気分で私は言い返した。

「意味がなくても、行きたい、です。私にできるのは、せめて一緒に死ぬことくらいじゃないですか」

 なんの役にも立てなくても。人を死地に追いやりながら、後ろで逃げ隠れしているなんてできやしない。

 騎士たちに死ねと言ったなら、自分も死なないと。そのくらいでないと、とうてい釣り合わない。

「それで誰が喜ぶ? ただの自己満足だろう。あいつらは、お前が無事であることを信じていればこそ、飛び出して行けたんだ。そうでなければ主命を投げ出せるか」

「…………」

 どこまでも冷やかなメイリさんの言葉が、胸に突き刺さる。

「あたしはお前を守れと命じられた。死ぬ手伝いをしろなんて命じられていない」

「…………」

 言い返せない。メイリさんの方が正論だ。わかりきっている。私の願いはただのわがまま、彼女の言うとおり自己満足だ。

 でも――それでも――

「そもそも、ついて行きたいと言いながら、自分では動けずあたしに頼むのか。あたしが一緒に死ぬのも、当然と考えているのか」

「……っ」

 私は息を呑んだ。ああ――なんてことだ。本当に、なぜそこに気付かなかったのか。私は自分の願いのために、平然と彼女を巻き添えにしようとしていた。メイリさんを、ともに死地に飛び込ませようとしていた。なんで、そんなことがわからなかったのだろう。

「ごめんなさい」

 涙がこぼれる。あまりに情けなくて、あまりに申しわけなくて。私は頭を下げ、馬から下りようとした。

「一人で行きます……ごめんなさい」

「自分の足で走るつもりか? お前がたどりつく頃には、すべてが終わってるだろうな」

 メイリさんが私の腕をつかみ、引き止める。

「じゃ、じゃあ、メイリさんが下りてください。悪いけど、歩いて戻ってください」

「ひとりで馬に乗れないくせに」

「もう乗ってますから。おなかを蹴れば、走ってくれるんですよね」

「どこへ向かって走らせる? 素人が思いのままに馬を操れるなんて思っているのか。そもそも、馬が本気で走り出して、振り落とされずにいられる自信があるか?」

「……っ」

 私の言葉は次々と打ち砕かれていく。まったく勝負にならない。己の無力さに私は嘆くことしかできない。

 悔しくて、もどかしくて、震えながら涙を流す私に、メイリさんは息を吐いた。

「なぜ、そうまで行きたがる。お前がここで見届けに徹したって、誰も責めやしないのに」

「……責めます」

 私は泣きながら首を振った。

「誰が責めなくても、私は、私を許せない……自分自身が、一生責め続けます」

「…………」

「わかってるんです。自己満足だって。ここで戦が終わるのを待つ方が正しいんだって、わかっています。でもできない……それをしたら、きっと私は一生苦しみ続けることになる。私が死んだからって誰も喜ばないし何の役にも立たない。誰かのためじゃない。私は、私のために行きたいんです」

 なんて、愚かで無意味な主張だろうか。私がここで飛び出して死んだら、たくさんの人を困らせる。ハルト様を悲しませる。間違いだって、はっきりわかっている。してはいけないことだ。それなのに、私はこの気持ちを止めることができない。間違った行動を願わずにいられない。

 ――でも、それをする力が、私にはない。

 馬を下りて、死に物狂いで走るか。メイリさんの言うように、到着する頃には終わっているかもしれないけれど。

「……馬鹿だな」

 また息を吐きながらメイリさんが言った。

「お前はずいぶん知恵が回ると思ったのに、とんだ見込み違いだ。大馬鹿じゃないか」

「はい……」

「それは騎士の考え方だ。仲間を見捨てて自分だけ助かることをよしとしない、騎士の覚悟だ。何の力もないくせに、気持ちだけはあたしらと同じなんだな」

「え……」

 顔を上げると何かが押しつけられた。布で口をした小さな瓶――火炎瓶だ。持っていたのか。

 前に向き直ったメイリさんは何やらごそごそして、手元で石を打ち合わせる音がした。すぐに、火のついた縄をこちらへ渡してくる。

「落とすなよ。投げるのは、ぎりぎりまで目標に近づいてからだ。どうせお前の力じゃ、大して遠くへは投げられないだろうからな」

「メイリさん?」

「大分遅れた。遠慮なくとばすからな。振り落とされないようしっかりつかまってろよ。落ちても回収はしてやらないぞ」

 手綱を取って馬を歩かせる。街道へ出るべく、最後の坂を下り始める。

「ひとつだけ言っておく」

 馬を走らせる前に、メイリさんは言った。

「死ぬことを目的にするな。最初からそんな気持ちでいたんじゃ、何も成功させられない。死を恐れず飛び込む覚悟は必要だが、それだけで満足するな。あたしたちは敵を攪乱し、味方のもとまで走り抜けるんだ」

「……はいっ」

 心に力が戻ってくる。死ぬかもしれないというのに、なんだろう、この喜びは。

 私はポケットに瓶を突っ込み、メイリさんの身体に両腕を回した。そうしたら手にした火種が彼女に当たりそうで、持っている私も危なくて困った。少し考え、通りすがりの木の枝を折り取る。それに縄をぐるぐると巻き付けて端を持てば、馬やメイリさんから少し離せた。

「き、消えないといいんだけど」

「油を染みこませてある。大丈夫だろう。むしろ燃え尽きることを心配するんだな」

 なるほど、それでやたらと元気に燃えているのか。これ、もって五分だな。

「いくぞ!」

 メイリさんが声をかけ、同時に勢いよく馬腹を蹴った。馬はたちまち走り出した。

 私はメイリさんにしがみつくのと、手にした火種を落とさないのとで必死だった。寒さなんて感じている余裕はなかった。昨日ハルト様が走らせた時よりも、もっとずっと早く馬は走る。躍動する身体に揺すられて、お尻が馬の背から飛び上がる。下手な絶叫マシンより怖い。安全ベルトも何もなく、自分の力だけでつかまっていないといけない。

 腕と脚に力を込めて、なんとか落ちないようしがみついていると、馬蹄の轟きと突撃の掛け声が近づいてきた。顔を上げてどうにか前方を見れば、敵の奇襲部隊の背中が見える。

 その足元に、炎の華が広がった。

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