7
与えられた部屋に着くと、既にメイリさんが中にいた。
私を見た顔が複雑な色を浮かべ、すぐにそらされる。気後れしてしまう自分を励まして、私はそっと声をかけた。
「あの……同室、させていただきます。よろしく」
メイリさんは部屋にひとつだけある寝台に腰かけていた。片づけられてはいてもどこか生活感を感じさせる空間は、誰かの部屋を急きょ空けられたものだとわかる。その誰かはどこで寝るのかな。ごめんなさいと心中謝りつつ、私は部屋の中へ入った。
「えっと……メイリさん、ご飯はもう食べました?」
無視されることも覚悟で尋ねれば、返事はなかったものの首を振ってくれたので、ほっとした。
「あ、私もまだなんです。こっちに運んでくれるらしいですから、きっとメイリさんの分も一緒に持ってきてくれますよ」
またかすかに首が動く。今度は縦に。いちおう意志の疎通ができて、うれしくなった私は自分も寝台に腰を下ろした。
「またくっついて寝ることになりますね……あの、私寝相は多分悪くないので。いびきや歯ぎしりもないはずです」
「…………」
「だから、あの、ご一緒させてくださいね」
「…………」
メイリさんはずっとだまりこくっている。私を少しも見てくれない。もともと話上手でもない私は、言葉が続けられなくて困ってしまった。
うーん……何を話そう。せっかくふたりでいるんだから、色々話してうちとけたいのに。気持ちだけはあるのに、うまくできなくて気落ちする。私は本当に人となじむのが下手だ。
イリスならこんな時、自然に相手の心を開かせるような話ができるんだろうな。あの明るい笑顔とちょっと無神経なおおらかさで、尻込みすることなく踏み込んでいけるんだろう。
うらやましいと思うだけでなく、見習いたいのに、どうやればいいのかがわからない。ただ真似をしたって、全然うまくはできないだろうし。
うーん……。
「……して」
うーん――ん?
かすかな声が聞こえて、私はうつむいていた顔を上げた。今の、メイリさんだよね。ほかに誰もいないもん。
視線を彼女に戻す。相変わらずメイリさんは視線を部屋の隅へ向けたままだったが、はっきり聞こえる声で言った。
「どうして、あんなことを言ったんだ」
あんなこと?
何を指しているのかがわからずとまどっていると、ようやく緑の瞳がこちらを向いた。強いまなざしが、にらむように私を見据える。
「お前があたしを連れてきたなんて……なんで、そんな嘘をついた」
――ああ、それか。
考えることがたくさんあって忘れかけていた。そういえばそんなことを言ったっけ。
「なんで、と聞かれても……そう言うしかなかったというか」
「お前があたしをかばう必要なんてないだろう。本当のことを言えばよかったじゃないか」
うーん……よかれと思ってしたことだけれど、メイリさんにとってはかえって不愉快だったのかな。
でも、こっちにも言い分があるし。
「必要はなかったですけど……じゃあ、この人は自分で勝手に乗り込みました、私は知りませんって言えばよかったんですか。それで誰が得するんですか」
「……得?」
メイリさんが変な顔をする。私は苦笑した。
「どう転んでもいい顔はされないんです。だったら、わざわざ話がこじれる方へ持っていかなくてもいいじゃないですか。まあ、どれだけ信じてもらえたかわかりませんけどね。ハルト様もアルタも、本当のところは見抜いてるかも。でも堂々としらを切っていればいいですよ。一緒にもぐり込んだのは事実なんだし、それほど大きな違いはないでしょう」
私の言葉に呆気にとられたようすで聞いていたメイリさんは、すぐにまた怒った顔になった。
「お前はいったい、どういうつもりなんだ。あたしの処分保留を願い出たり、そんな嘘をついてかばったり……なぜお前があたしを助けようとする」
あ、陳情のこと知ってたのか。
「情けをかけて、周りに寛大な人間だと思わせたいのか」
うーん、そういう受け取り方もあるか。
というか、すごく納得する。逆の立場だったら、多分私も似たようなことを考えただろうな。
「情けなんかいらない。あたしはお前を傷つけたんだ。恨んでるだろう。お前を裏切って傷つけた人間を、憎んでいるだろう。はっきりそう言えばいいじゃないか! 善人ぶって情けなんかかけるな! 白々しくて、反吐が出る!」
メイリさんの激しさに圧倒されそうになる。でもこれは、またとないチャンスだ。むしろ喜ぶべき状況だと思った。
ずっと私を拒絶していたメイリさんが、ようやく自分の気持ちをぶつけてくれたのだ。それでいい。いきなり仲良くなんてなれるわけがない。でもまっすぐ向き合って互いの気持ちをぶつけ合えば、きっと何かを変えられるはず。
「……傷ついたのは、私じゃないでしょう」
「なに……?」
私は座り直し、身体全体でメイリさんに向き直った。
「私は傷ついてなんかいませんよ。身体は傷を負ったけど、心はなんともありませんでした。こんなこと言うと不愉快にさせそうだけど、正直、裏切られたとか、それほどショックじゃなかったです」
「…………」
きついことは言うべきじゃないだろうか。でも気をつかって婉曲なことばかり言っていたんじゃ、メイリさんの心には届けられない気がする。
もっと怒らせることになるかもしれない。もっと嫌われるかも。それでも、私の気持ちをちゃんと知ってもらいたい。理解し合えないまますれ違い続けるのを、もう止めたい。
「故郷ではずっと嫌われ者だったので、今さらその程度に傷つくほど繊細な神経してないです。それにどっちかっていうと、カーメル公のやり方に腹が立って、そっちのショックの方が強かったですね。友達だと思っていただけに、あんな形で利用されたのが許せなくて、つい感情的になったら向こうもキレちゃって、かなりまずい形で喧嘩別れしちゃいました」
「けんか……? 結婚するんじゃないのか? 求婚されたって……」
「それも知ってるんだ」
苦笑してしまう。どれだけ噂になったんだろう。あの一件については、思い出すとまだ胸が痛いので、あまり噂されたくないのに。
「断りました。あの人のことは好きだけど、そういう相手としては見られないし……あのやり方も許せなかったから」
「…………」
「ロットル侯もミルシア姫も悪いけど、カーメル公も負けずに悪いですよね。無関係な人間を巻き込んで利用するんだから。おまけに本人は、悪いことと知りながら、国のために必要だからしかたないって開き直ってるし。本当の意味での罪悪感なんて持ってなかったんですよ。謝るのは口先だけ。それを本人もわかっていなくて、自分はちゃんと誠意を尽くしてるって思い込んでるんだもん、ふざけんなって言いたくなります。あなたは傲慢で身勝手だって、はっきり言ってやりましたよ」
「……公王相手に、そんなことを」
メイリさんがおどろく。身分社会の中で育ってきた人には信じがたい話なのだろうな。身分というものを頭では知りつつも、自分を縛る常識としてはとらえていない私だから、言えたことだろう。
「王様にそんなこと言えないって誰もが口を閉ざしていたから、あんな結果になったんでしょう。それなら、言うしかないじゃないですか。言っても聞かないような馬鹿が相手なら、私も最初から努力しませんけどね。カーメル公は基本的に優しいし、とても賢い人です。言えば理解してくれると思っていました」
「…………」
「それに、そのくらいは言わせてもらわないと。こっちは大きなものを失ったんだから」
イリスとメイリさんは、とばっちりで身分を失った。身から出た錆だとしても、引き金を引いたのはカームさんだ。彼が私たちを巻き込まなければ、少なくとも問題が表面化することはなかった。もっといい形で改善できたかもしれないのに。
「傷ついたのは、私じゃない。あの時いちばん傷ついていたのは、メイリさんでしょう」
「……っ」
メイリさんが痛みをこらえるような顔をする。私への怒りよりなにより、いちばん彼女を責めたてているのは、彼女自身なんじゃないだろうか。
私が、そうであったように。
「カーメル公だけでなく、私も間違いを犯していました。メイリさんに嫌われていると知って、でもそれにちゃんと向き合おうとしていなかった。すぐにあきらめて、投げ出すくせがあるんです。なんでそんなに嫌うんだって、聞けばよかったんですよね。過ぎたことにもしもをくり返しても無意味だって知りつつ、何度も考えずにいられませんでした。もしあの時、私がさっさと投げ出してしまわずに、メイリさんとしっかり向き合っていれば、ちがう結果になっていたんじゃないかって」
「…………」
「メイリさんの今は、メイリさん自身が選んで行動した結果です。そのすべてを私の責任だなんて言う気はありません。でも、私もするべきことをしなかった。お互いに間違いを重ねて、最悪な結果を招いてしまった。そう思っています。だから今度はちゃんと努力したいんです」
メイリさんはもう口を開かない。何か言いたげな顔ではあるけれど、言葉が見つからないのか、それともためらいがあるのか、結局また顔をそむけてしまう。もうそっとしておくべきだろうか。でも言葉足らずだったんじゃないかという気がして、私はもう少し続けることにした。
「今は、どうして嫌われたのか、知っています。ごめんなさい、竜と主人の絆を、よく理解していませんでした。気軽に割り込んで不愉快な思いをさせましたよね。口には出さなくても、同じように私の存在を快く思っていない人は他にもいるって、ジェイドさんから聞きました。そういうことに気付かず、無神経に竜と接して、人の神経逆撫でしていたんですね。本当にごめんなさい」
イリスのことには触れず、竜の話だけにしておく。嫉妬心を指摘したって、それこそ神経を逆撫でするだけだろう。言うべきこともあれば、言うべきでないこともある。
「今度の戦に龍の加護が役立つなら、なんでも協力するつもりです。でも騎士から竜を横取りするつもりはありません。必要な時に、必要なことをするだけ……それ以外では竜に干渉しないと約束します」
竜は愛玩動物じゃない。少なくとも主の騎士にとって、竜との関係は神聖なものだ。そこに無遠慮に割り込んではいけないのだと学んだ。主の許可がないかぎり、勝手に竜に手出ししてはいけない。
メイリさんの表情は変わらない。ひどく思い詰めた、暗い顔をしている。この人を苦しめているのは竜の問題だけではないのだろうとわかっている。自分でも持て余す気持ちをどう整理して乗り越えるか、それはとても難しい。
ハルト様やイリスのように、明るい場所へ引き戻す力があればいいのに。もともとメイリさんとの間に信頼関係もなく、悪い形で出会った私が、それを望むのは無理なのだろうか。彼女を立ち直らせたいと願うなんて、それこそ傲慢な思い上がりでしかないのだろうか。
……だけど、悪い状況のまま放っておいても何もいいことはないじゃないか。たとえ偽善と言われても、いい方向へ向かうきっかけになれたらいいんじゃないかと思いたい。
それ以上はお互いに言葉もなく、やがて運ばれた夕食を食べると、私は早々に布団に入った。少しでも身体を休めておかないと。ここで熱なんて出したら目も当てられない。いるだけで足手まといなのに、よけいな面倒を増やしたくない。
メイリさんは椅子に座ったまま、こちらへ来る気配はなかった。
「お先に休ませてもらいますね。メイリさんも、疲れたら遠慮なく入ってきてくださいね。あとのために体力温存しておきましょう」
声をかけて横になる。反応がないことはあきらめる。願わくば、彼女が意地を張って床で寝たりしませんように。
過酷な環境でも耐えられるべき騎士団だからか、寝台は硬く、上掛けも薄くてあまり温かくなかった。普段なら眠れない状況だが、寝不足と疲労が手助けとなって、じきに眠りに引き込まれた。寒さに身を縮めながら浅い眠りにとろとろと沈み行く。深い場所にはまる寸前、前触れもなく開いた扉の音で意識が釣り上げられた。
誰かが入ってくる。寝ぼけた頭で足音をとらえる。メイリさんが椅子を鳴らして立ち上がったのがわかった。
「隊長……」
驚いた声で彼女はつぶやいた。メイリさんが隊長と呼ぶのは、きっとジェイドさんじゃない。イリスが来たのか。
意識がはっきり覚醒しても、私は動かずに寝たふりをしていた。私が起きていると知れば、ふたりとも気にしてしまうだろう。今は私抜きでちゃんと話し合ってほしい。
しばらくふたりは沈黙していた。どんなようすなのか覗き見したいのをこらえ、私は息を殺す。やがてイリスの声がした。
「ハルト様から、お前に帯剣を許すとのお言葉だ」
「え……!?」
ああ、もう連絡が行ったんだな。ハルト様、ちゃんと手配してくれたんだ。ありがとうございます。
「勘違いするな。隊に復帰させるというわけじゃない。作戦行動には加わらせない。お前は、チトセの護衛につけ」
「…………」
続くイリスの声は厳しい。喜びと、直後の落胆に、きっと今メイリさんの心は激しく揺れているだろう。もしかすると、また私を恨んでしまうかも。
「これがハルト様とアルタの、最大限の譲歩だ。本当ならお前はまだ許される身ではない。あまつさえ命令に背き、ここまでやってきた。罰されるべきところを、チトセが交渉して譲歩を引き出したんだ。今なら常識を超えた判断を下しても押し通せると言ってな」
「…………」
えー、私の関与については内緒にしてほしかった……って、無駄か。どうせ、いずれ知れることだろうな。
「お前を騎士に戻す機会だと、チトセは主張する。理屈上は正しい。だが、お前の気持ちしだいで話は変わる。どうする? この剣を受け取り、チトセを守るか。それとも、そんな役目はごめんだと拒否するか。お前がチトセに反発していることはわかってる。彼女からの情けなどお前にとっては屈辱でしかないかもな。その上チトセの護衛だなんて、耐えがたいかもしれん。それならそれでかまわない。どうするかはお前が好きに選べ」
突き放すような厳しい物言いだ。私がこんなことを言われたら、嫌われて見放されたと落ち込むしかないだろう。
でも、メイリさんを騎士と認めているからかもしれない。私には、叱る時でもこんな言い方はしない。私は共に戦う同士ではなく、庇護の対象だから。厳しいのはそれだけ、メイリさんを認めている証だと受け取れないか。
メイリさんもそこに気付いてくれるだろうか。
「ハルト様の了承も得ている。お前が自由に選んでいい。強制はない」
「…………」
メイリさんは迷っているのだろう。ずいぶん長く沈黙が続いた。せっかく帯剣を許されても戦いには参加させてもらえず、憎い私の護衛だなんて、むしろ嫌がらせのように感じるかも。イリスの言うとおり、理屈だけで片づけられるものではないな。結局最後は、人の気持ちが決めるのだ。
今が機会と意気込んだけれど、そんなの私ひとりの考えだ。やはり無理があったかと布団の中であきらめかけた時、ようやくメイリさんが答えた。
「……了解、しました。その任務、拝命します」
大きくはない、でもしっかりとした返事だった。
引き受けてくれた――喜びが胸にわきあがる。思わず布団をはねのけて飛び起きそうになるのを、寸でのところでこらえた。
「そうか。なら、受け取れ」
足音と物音がする。イリスから剣を受け取っているのだろう。
これで決まりと喜ぶ私に、続くイリスの言葉が水を浴びせた。
「受け取った以上は、私情を排してチトセを守れ。お前の命と引き換えにしてもだ。それが騎士の責任だ。今度は、裏切るな。もし彼女を放り出したり、また傷つけるようなことがあれば、絶対に許さない。その時は僕がお前を斬る」
「…………」
冷徹な声に私の心までが凍りつく。イリスは本気だ。そうとしか思えない声だった。
「お前の良心を信じたみんなの期待を、二度と裏切るな」
「……承知しました」
張りつめた空気が伝わってくる。怖いと思う反面、嫉妬めいたものを私は感じていた。
命でやりとりする、騎士同士の信頼。私には到底割り込めないものだ。そんな関係を持てるメイリさんがうらやましい。どんなに頑張ったところで、私はみんなの足手まといで、イリスは私を守ることしか考えない。こんなふうに、なにかを託されることはない。
いいな……メイリさんは、私よりずっと、イリスの近くにいるんだ。
「――じゃあ、さっさと休んでおけ。体力の温存は基本中の基本だろう」
がらりと変わった軽い声で、イリスは言った。次いで、何かがばさりと私の上にのしかかってくる。重い、ということはないけれど、それなりの質量を持った大きな――毛布?
「そこの狸娘も、残したもの全部食っとけ。体力だけが頼りの場所なんだぞ、好き嫌いできる余裕があると思うな」
頭が軽くはたかれる。ばれてーら……。
きびきびした足音が遠ざかり、扉の音がする。室内が静かになり、私はもそもそと起き上がった。
メイリさんと目が合い、とてもばつの悪い気分になる。
「……目が、覚めちゃって……すみません」
「…………」
メイリさんは何も言わず、顔をそむける。かと思うとテーブルに歩み寄り、置いてあった盆を取り上げてこちらへ来た。
目の前に突きつけられた盆の上で、食べきれなかった煮込みがすっかり冷えている。煮込みに入っていた肉は、全部残していた。
「貴重な食料をあたしらのために分けてくれているんだ。お前に感謝の心があるなら、ひとかけらも残すな」
「……はい」
返す言葉もなく、私は盆を受け取った。
必死に詰め込んで苦しいおなかをさすりながら、ふたたび横になる。一緒に寝ようと声をかけると、渋々ながらメイリさんも入ってきた。狭い寝台の中、寄り添う体温とイリスがくれた毛布のおかげで、今度は寒さに震えず済んだ。ちょっと、胸焼けで苦しかったけど。
まだまだ問題は山積している。ロウシェンの本隊とエランド軍はまだ遭遇もしていない。すべては明日以降になる。
でも、ひとつ問題を乗り越えた。
その思いが私の心を軽くした。個人的な小さな問題にすぎず、これからもっと大きな問題と向き合わなくてはいけないけれど、希望の明かりを感じられる。
その夜は希望を信じて、穏やかな気持ちで眠ることができた。
翌朝、朝食を終えてひと息ついた頃にハルト様から呼び出しを受けた。メイリさんも一緒にと言い添えられて、何があるのだろうとふたり顔を見合せながら出向く。アルタやジェイドさん、モンドさんにオリグさん、その他隊長格らしい騎士たちが居並ぶ中、ハルト様は私に命じた。
「護衛の騎士を十名ほどつける。今のうちに帰りなさい」
「…………」
衝撃に言葉をなくし、呆然と立ち尽くす私に、ハルト様はさらに言った。
「エランド軍がここまで来るのに、最短であと一日はかかる。戦闘状態に入るのは早くても明日以降だ。今出発すれは、巻き込まれることなく脱出できる。龍船で帰すのがいちばん安全なのだが、今船を動かすわけにはいかん。冬の陸路はそなたにとって厳しかろうが、クルスクの街まで行けば領主館がある。そこでもっと十分な支度をしてもらえるだろう。領主に宛てた手紙を用意したから、それを持ってクルスクへ向かい、そこからエンエンナに帰りなさい」
「……ハルト様……」
ああ――そういうことか……。
聞きながら、私は理解していた。そうか、そうだったんだ。メイリさんの帯剣を許可してくれた裏側には、こういう思惑があったんだ。
私に護衛をつけて帰らせる――最初から、ハルト様はそのつもりだったんだ。
私も何かしたい、役立ちたいという願いは届いていなかった。ハルト様はどうあっても、私を戦場から遠ざけたいのだ。
どう言えば、これを説得できるんだろう。片隅に控えたオリグさんを一瞬見る。きっと彼も口添えしてくれただろうに、それでもハルト様は考えを変えなかった。いったい、どう言えばいい?
「……この状況で、わざわざ私の護衛に人員を割く余裕はないでしょう。援軍が到着するまで、ここの兵力だけで戦わないといけないんです。いくら竜騎士団が出てきているからって、数は向こうが圧倒的に多いのに」
「だがそなたとコナーの二人だけで帰すなどできん。街道には戦以外の危険もある。人里離れた場所では、賊が出没することもある。女の二人連れなど恰好の獲物だ」
「護衛を命じられる騎士だって気の毒ですよ。今この時に、砦を離れて私を送るだけの役目なんて、誰もやりたがらないでしょう」
「そうだ、そなたの行動に、それだけ周りが迷惑しているのだ。わかっているなら、これ以上わがままを言わず大人しく帰りなさい」
「私を守ることばかり考えるから、そうなるんでしょう。言ったじゃないですか、龍の加護は使いようによっては役に立つって。私を使ってください。危険でもかまいません。戦えないくせに戦場に出向くとどうなるか、そのくらい考えた上で来ているんです」
「そなたはわかっていない。命のやりとりをする戦場など、見たこともないくせに」
互いに、だんだん語気が強くなってくる。頑としてはねつけるハルト様に、私は懸命に言い募る。
「でも死にかけた経験なら何度もありますよ。襲われて、追われて、殺されそうになったこともある。目の前で人が戦うところも見ました。何も知らないわけじゃありません」
「そんなものとは比較にならん」
「正直、死んだってかまわないくらいの気持ちで来ています。そりゃ痛いのも苦しいのもいやだけど、いざその時になったら意外と冷静に受け止められるって、過去の経験でわかってます。もともと死んだはずの人間が、奇跡に助けられてこの場にいるんです。すくわれた命を有効に使って、それで死んでいくなら十分……」
「誰がそのような考え方をしろと教えたか! 己の命を軽々しく扱うのではない!」
「そういうつもりじゃありません。でも、みんな命をかけて戦うんでしょう。同じじゃないですか。私だって自分にできる精一杯を……」
「聞かぬ!」
激しく、強く、ハルト様が言い切る。気押されて黙る私に、彼は厳格に命じた。
「帰るのだ」
いっさい聞かない、譲歩しないとハルト様のすべてが語っている。父親ではなく王として、絶対の命令を突きつける。……私に抗うすべはなかった。
ナハラ騎士団から十名が随行に選ばれて、私と一緒に砦を出発する。メイリさんは何を思っているのか、ひとことも口を挟まず、黙々と旅支度を手伝っていた。
砦を出る直前、イリスに呼び止められた。みんなから少し離れ、ふたりで話をする。
落ち込む私の頭を、イリスは温かい手でなでた。
「ハルト様をうらむなよ。君を疎んじて遠ざけるんじゃない、大事だからこそ危ない場所から遠ざけたいんだ。そこは間違えるなよ」
「…………」
わかっている。でも、私にも守りたい気持ちがあることを、結局理解してもらえなかった。
それがかなしい……。
「僕も一緒だよ」
イリスは私を抱き寄せ、涙のにじむ目元に口づけた。
「君を邪険にするわけじゃない。でも君には、絶対に傷つかないでほしい。元気でいてほしい。間違っても死ぬなんて言わないでほしい。そんな未来は想像したくない」
私だって、同じなのに。イリスやハルト様たちが傷つくのはいやだし、死ぬのはもっといやだ。そうならないように、ただ祈るだけでなく何か少しでも役に立ちたいのに。
「君は大丈夫だって、安心がほしいんだよ。心配しなくてもいい、安全な場所にいるって、安心させてほしいんだ。頼むよ……どうか、聞き分けてくれ。すべてが終わった時、君が笑顔で出迎えてくれるって、信じさせてくれ。かならず君のもとへ帰るから……」
私には、何も託してくれない。託せる相手だと認めてもらえない。メイリさんのようにはなれない。私は守られて、待つしかできない無力な存在なのだ。
イリスの言葉にろくに答えることもできず、私はうなだれて砦をあとにした。ひとりでは馬に乗れないから、メイリさんの後ろに乗せてもらった。そんなことでも、また自分の力なさを痛感する。私ひとりでは、ただ帰るということすらできないのだと。
ここが日本なら、電車もバスもあるし、遠ければ飛行機を使えばいい。いくらでもひとりで動けるのに。
この地で私は無力だ。ひとりでは何もできない、弱い存在だ。だから認めてもらえない。イリスもハルト様も、私を守ることしか考えない。
冷たい風に吹かれながら、黙々と街道を進んだ。このまま行けばどこかで地竜隊や騎馬隊と行き合うだろう。太陽は高くなっていたが、道の先にまだ軍勢の影はない。彼らの到着はいつになるのだろう。エランド軍より早く着けるのだろうか。
私は後方を振り返った。少し高いところにいるので、遠くなったルルパ河とナハラ砦が見える。その向こうにも、まだ軍勢は来ていない。
戦が始まる前の、束の間の静けさがある。
「止まってください」
私は先導する騎士に声をかけた。とまどいながら、みんな私の言葉に従って馬を止めてくれた。
――落ち込んで、ただ帰るだけでは何の意味もない。人に迷惑をかけただけで終わってしまう。たとえ戦に参加できなくても、何かひとつでも意味のあることをしたい。戦えない私が、危険な場所に立たなくてもできること。それは――
ハルト様、ごめんなさい。命令に逆らいます。
私は心を決め、遠くなった人に謝った。




