5
窮屈な箱の中で息をひそめて、どのくらいの時間が経っただろうか。
少し前に船が飛び立ったのはわかった。あわただしかった船内も静かになり、もう近くに人の気配を感じない。私は外のようすが気になって、そっとふたを押し上げようと動いた。
「やめろ。見つかる」
極力抑えた小さな声で、メイリさんが止める。
「まわりに、誰かいそうですか?」
気配を読む能力なら私より彼女の方がはるかに上だろう。尋ねてみると、メイリさんは難しい顔でそっぽを向いた。
うーん……。
見つかるのをおそれて縮こまってしまう気持ちはすごくよくわかるんだけど、私の場合それ以上にこの状況がつらい。狭い箱の中で手足を折り曲げてじっとうずくまっていると、腰や膝、それにお尻が痛くなる。
密航って、思っていた以上に大変だ。
私は箱の隅に押しやっていた麻袋を膝の上に乗せた。紐をほどいて開けてみる。中には案の定、水やビスケットといった非常食が入っていた。
密航用に用意された箱に入っていた袋だ。多分そんなところだろうと思った。
お昼が近いのか軽くお腹が空いてきたので、ビスケットを一枚かじってみる。メイリさんにも差し出した。
「とりあえず、腹ごしらえしときませんか」
「……無駄に食べるな。そういうものは、できるだけ取っておくべきだろう」
無視されるかと思ったら、ちゃんと返事がかえってきた。もしかして、実は彼女もおなかが空いてるんじゃないのかな。でなきゃ無視されそうだ。
「食べられる時に食べておいた方がいいと思いますよ。オリグさんのことだから、後のこともちゃんと考えてくれていると思います。まさか密航させるのだけ手伝って、後は放り出したりなんてしないでしょう」
ずっとハルト様たちに気付かれないようひそみ続けるなんて不可能だ。適当なところでごめんなさいと出頭するしかないだろう。これはあくまでも、つなぎのおやつ程度と思っていいはずだ。
「あとのことって、お前は考えてるのか。いったいどうする気なんだ。遊びに行くわけじゃないんだぞ」
もっともなツッコミに、私はうーんとうなった。正直、後先なんてろくに考えていない。いや、考えてためらっていたのに、メイリさんにつられてつい乗り込んでしまった。今頃私がいないって、ユユ姫たちが心配していないかな。オリグさんの部下が、ちゃんと説明してくれるだろうか。
「遊びじゃないのはわかってます。きっと、足手まといになりますよね。だから迷っていたんですけど……でも、私が行くのは絶対だめだっていう状況なら、オリグさんもこんなことしないと思うんですよ。事前に私を同行させたいって話もしていたようですし。私に何ができるんだろうって思いますけど、何か、ほんのちょっとでも手伝えることがあるのなら行きたかった。やっぱり、待っているだけはつらいです」
「…………」
手伝いたいという気持ちはメイリさんも同じだろう。ただ、彼女にはオリグさんのように後押ししてくれる存在がない。それを思ってか、うつむく表情は暗かった。
メイリさんこそどうする気なのかと、聞きたい気持ちもある。でも今それを口にしてしまうのは酷だろうな。彼女だってきっと、明確な考えがあって乗り込んだわけじゃない。置いて行かれることに耐えられなくて、目の前のチャンスに飛びついただけだろう。
私は強引に非常食の袋をメイリさんに押しつけた。
「とにかく、腹ごしらえしましょう。がまんして大事に取っておいたのに、食べるに食べられない状況になったんじゃ意味ないです。落ちついてる今のうちに食べてしまった方がいいと思います」
「……これは、お前のものだろう」
押し戻そうとする力がさっきより弱い。私はもう一枚ビスケットを取って、笑ってみせた。
「私はこれで十分。もともとあまり食べないので、そんなにたくさん必要ないです」
お菓子というより非常食として作られたらしいビスケットは、しっかりした食べ応えで二枚でもそれなりにお腹が満たされる。私ひとりだったら、この袋に入っている分で三日はもつだろう。
こっちの人たちの食事量を思えば、これで一日分といったところか。目的地に到着するまでの所要時間に合わせて用意されたのだろう。
メイリさんは複雑そうな顔で袋を見下ろし、やがてビスケットを一枚取り出してかじった。食べてくれたことに、ちょっとほっとする。
おなかがすくと気持ちはよけいに落ち込む。腹ごしらえをして、前向きな気持ちになった方がいい。
私はこれからのことを考えた。まず、ハルト様は私の同行を許してくれないだろう。途中で見つかれば問答無用で船から降ろされそうだから、到着まで見つからないようにする。これは絶対。
問題はその後だ。そもそも私に、何ができるんだろうな。
オリグさんと一緒に作戦を考えるとか? でも戦に関する知識も経験もないのに、役に立てるだろうか。シミュレーションゲームはよくやったけど、あんなのが実戦に応用できるとは思えない。
あとは、龍の加護……それが、何かの役に立つだろうか。
そっと横目でメイリさんを盗み見る。戦う能力を持ち、私よりはるかに役立つ人材である彼女。けれどメイリさんもまた、戦場に到着して何ができるだろうかという問題にぶつかっている。
もともと騎士としての活動を禁止されているうえに、命令を無視して勝手についてきてしまった。そんな彼女を、みんなが受け入れてくれるだろうか。追い返されるくらいならまだしも、その場で処罰されてしまわないかと心配になる。
私たちふたりとも、つくづく無謀な行動に出たものだ。なんか、そんなとこまで似ているんだな。
あれこれ考えながらずいぶん長い間我慢していたが、身体のあちこちが悲鳴を上げ、いい加減耐えきれなくなって私はメイリさんの制止を振り切り箱の外に出た。周りに人の気配はないし、荷物が積み込まれるといったら多分船底だろうし、そう神経質にならなくてもと思ったのだ。案の定辺りに人の姿はない。ぎっしり積み込まれた荷物が私たちのいる場所を隠してくれていて、入り口からも死角になっていた。運ばれたタイミングを思えばもっと入り口近くになっているはずで、きっとこれもオリグさんたちの配慮なのだろう。
おもいきり背伸びをする。ようやく手足を伸ばせてほっとする。ただ代わりに、今度は寒さに悩まされた。
季節は真冬で、現在地は空の上。寒くて当たり前だ。
狭い場所でメイリさんとくっついていたから、今までは大丈夫だった。でも外に出たら、たちまち身体が震えた。厚着をしてきたのに冷えが全身にしみ込んでくる。暖房設備のない場所でじっとしていると、いくらコートを着ていても寒くてたまらない。災害で避難所に身を寄せた人たちのつらさを理解した。
積み込まれた荷物に防寒具なんてないだろうかとさがしてみるが、はかばかしい成果は得られなかった。開けられる箱の中にあるのは、武器と食料と医薬品ばかりだ。しっかり紐で括られた包みの中には、もしかして布製品があるんじゃないかと思われたが、ほどくことはできないし。
「あまりばたばた動き回るな。何をさがしてるんだ」
やはり箱から出てきたメイリさんが私をとがめる。
「いえ、毛布とかないかなと思って……このまま到着までここでじっとしていると、凍えて風邪をひきそうで」
「……そんなにひ弱なくせに、なぜついてきた。もういい、お前はさっさと行って見つかってこい。それで船から降ろされろ」
小声に抑えながらも苛立ったようすでメイリさんは言う。私は息をつき、彼女に目を戻した。
「その場合、もれなくメイリさんも見つかりますよ。一緒に乗り込んだことはオリグさんも承知しているはずですから」
「……っ」
いまいましげに彼女は舌打ちをする。さっそくお荷物になって軽くへこんだが、そもそもこの密航に割り込んだのは彼女の方だ。文句を言われる筋合いではないだろうと、自分を励ます。
「寒いなら動けばいいんですよね。ここでできる運動っていったら、スクワットくらいかなあ。私あれ、十回が限度なんですよね。無理に運動したら、それはそれで体調崩しそうだし」
「…………」
「あとは……そうだ、お酒ないかな。アルコールで身体を温めるって手もありますよね。でも私お酒飲むと、おしゃべりになって人にからんだ挙げ句眠り込んでしまうという酔い癖が」
ここで寝込んだら凍死しちゃう? いや、さすがにそこまでは――でも風邪はひきそうだ。
どうしたものかと思いながら食料の箱をあさる。背後でため息が聞こえた。
「……さっきみたいに身を寄せ合っていたら、少しはましだろう」
言葉の意味を理解し、私はえっと驚いて振り返る。一瞬目があったメイリさんは、機嫌が悪そうにそっぽを向いた。
でも、今言ったよね? さっきみたいにくっつこうって、言ったよね?
メイリさんの方からそんなことを言ってくれるなんて。
驚いて、そしてうれしかった。しかたなく言ったのだとしても、私が凍えずにすむよう提案してくれるのがうれしい。私はメイリさんのそばへ戻る。彼女は無言で、荷物に背を預けて座り込んだ。
となりに座り、遠慮しつつそっとくっつく。肩と腕がふれ合う。正直これだけじゃ、あまり温かくはないけれど、胸の中が温かかった。
私を嫌い、憎んでいたメイリさん。その理由を今は知っている。嫌われてもしかたがないと思っていた。でも身内を殺したとかそんな取り返しのつかない理由じゃないのだから、いろいろ話してお互いを知れば、違う関係になれないだろうか。
考えてみればこれまで、私はほとんどまともにメイリさんと話したことはなかった。リヴェロにいた頃も、必要最低限のやりとりをしたのみだ。嫌われていると思うとよけいに気後れして、話しかけようという気になれなかった。いつもの悪いくせで、あまり関わらないことでやりすごそうとしていた。うちとけようという努力をしなかった。
もしあの時、私がもっと努力していたら、違う結果になっていたのだろうか。
過ぎてしまったことで仮定しても意味はない。でもこれからのことなら、考える価値はある。出会ったばかりの頃、私はカームさんが大嫌いだった。その後あの人のことをよく知って、いやな人ではないと思うようになり、年齢も立場も越えた友人になった。それ以上の気持ちは返せなかったけれど、友情だけなら今も私の中にある。
メイリさんともそんなふうに、壁を取り崩していけないだろうか。
メイリさんだって、きっといろいろ考えている。あんなに私を憎んでいたのに、私が寒さに凍えるのを、いい気味だと笑って眺めたりしない。ぬくもりを提供してくれる。
この人だって、けっして悪人なんかじゃないのだ。イリスも言っていたじゃないか。いつもは明るくて誰とでもすぐうちとける人だったって。私との出会いにマイナス要素がいくつも重なって嫌われてしまったけれど、違う出会い方をしていたら仲良くできていたかもしれない――そう、信じたい。
私たちはたくさん間違えて、たくさん失敗した。それをただ嘆くんじゃなく、糧としなければいけない。努力をしないと、いつまでも自分も相手も変わらないままだ。
思いきって踏み出してみれば、たくさんのものが手に入ると、これまでみんなから教えられてきたじゃないか。
「あの……」
決心して口を開いたものの、さて何を言おうかと私は口ごもる。今言うべきこと――とりあえず、お礼だよね。
「えっと、ありがとうございます」
「…………」
メイリさんは答えない。視線も向けてくれない。でもここであきらめちゃだめだ。それで前は失敗した。今度はねばらないと。
「こうやってくっついてると、一人じゃなくてよかったなって思います。ひとりだったら、きっとすごく心細かった。メイリさんがいてよかったです」
「…………」
「私、普通の生活してると思ってたんですけど……故郷では特に病弱扱いされることもなかったし、何も問題ないと思ってたんですけど、それって科学の恩恵に助けられていただけなんですね。多分、私だけじゃなく、現代人の多くがそうなんでしょうね。助けがなくなると大変です。遠いところでも自分の足で歩かないといけない。でもそんなに鍛えてないから速く歩けないし、たくさんも歩けない。しんどいです。暑さ寒さも基本そのまま受け入れて、耐えないといけない。具合が悪くなってもなかなか高度な治療は受けられない。頼りは自分の体力のみ――その体力が乏しいから、こっちでは病弱って思われちゃうんですね」
「…………」
「まあ、私はもともとあまり活動的な方じゃなく、故郷でも弱い部類でしたけど……せめてアウトドア派だったら、もうちょっとましだったんでしょうにね」
何を言ってるんだろう。こんな話メイリさんにはわからないだろうし、どうでもいいだろうに。
でも何を話せばいいのかわからない。まさかここでイリスの話題を持ち出すわけにはいかないし。互いに同じ人が好きな片思い仲間とはいえ、どう考えてもそれはタブーだろう。
「これでも頑張ってるつもりなんですけどね……前よりたくさん歩けるようになったんですよ。そうやって鍛えていれば、身体も丈夫になっていくかなって」
「気の長い話だな。今現在、戦場へ向かっているってのに」
呆れた声が上がった。反応を得られたのはうれしいけれど、言われた内容はごもっともとへこむしかないものだ。
「そうですね……役に立つというより、せめて足手まといにならないようにしたいです」
「戦えない女なんて、足手まとい以外のなにものでもない。わかっていて乗り込んだんじゃないのか」
メイリさんの言葉は容赦ない。でもこれが大勢を代表する意見だろう。私に気付いたみんなは、きっと困るに違いない。
「……なんで参謀室長が、お前を連れて行こうとしたんだ」
困惑と疑問にあふれた問いには、首をひねるしかなかった。
「さあ。私もそれを知りたいところです。私に何か使える力があるとしたら、龍の加護でしょうかね。でも竜は主の騎士が動かすし、私がいても意味ないんじゃないかと思うんですけど」
「むしろ、敵にとって好都合だろうな。お前の号令ひとつで竜騎士団を混乱に陥れることができる」
刺を含んだ言葉がひんやりと胸にしみこむ。でももう、私はいじけない。その問題についてはさんざん悩んだし、ハルト様やイリスともけんかして乗り越えた。
「逆を言えば、混乱した時に立て直すことができるって考えられるでしょうか。あ、それに、主人の騎士が命令を下せない状況だったら、代わりに私が竜を移動させるとかできるかも……」
言ってからちょっと焦る。まさにそのとおりのことをして、メイリさんの怒りを買ったのではないか。
でもメイリさんは、今度は怒らなかった。寂しそうな顔になってうつむいてしまった。
――リアちゃんは、どうしてるんだろう。連れてきているようすはないから、きっと留守番だよね。唯一無二の相棒も連れず単身乗り込んで、もしかしてメイリさんはとても心細かったりしないだろうか。
「……どのみち、私が戦えるわけじゃないんだから、後方支援ですよね。いらないかもしれないけど、あったら便利かもな程度のお助けグッズかな」
「なるほど、そういう使い方もありますな」
答えた別の声にメイリさんがぎょっと顔を上げる。私も少しは驚いたが、もうこの人のテンポには慣れている。あわてることなく、声の方を見た。
積み込まれた荷物の間をすり抜けて――さすが、縦にも横にも薄い身体だ――オリグさんが現れた。手に毛布を持っていた。
「他の使い方を考えていたんですか?」
「普通に参謀として同行していただいたつもりでしたが」
私たちのそばまでたどり着き、オリグさんは毛布を差し出した。
「遅くなりまして申しわけありません。陛下たちと話をしておりましたので」
私はありがたく毛布を受け取った。加えて、何か小さな包みも渡される。
「なんですか――あ、あったかい」
「懐炉です。これでどうにかしのげますかな」
包みはふたつ。私はひとつをメイリさんに渡す。
「いったい……いつ入ってきた……全然、気がつかなかった」
メイリさんは信じがたい顔でオリグさんを見ていた。どうやら気配に気付けなかったことで、騎士としての誇りに傷がついたらしい。こんなことで落ち込まれても困るので、私は急いで言った。
「オリグさんは気配を消す名人なんです。イリスにすら気付かせないんですよ」
「…………」
疑わしそうな目を向けられるが、事実だ。オリグさん相手に常識を主張しても無駄だと、周りの人は悟っている。
私は毛布を広げ、自分とメイリさんにかけた。メイリさんが驚いた顔をオリグさんから私へと向け、そしてぎゅっと眉をひそめる。
「いらん。お前ひとりで使ってろ」
「こうやってくっついて、一緒にくるまったらあったかいじゃないですか。私ひとりで使ってたんじゃ、あまり効果は得られません」
「…………」
強引に毛布をかけてついでにさっきより大胆に身体をくっつけてみる。メイリさんはいやそうな顔をしながらも、私を振り払おうとはしなかった。
私は、手近な箱に腰かけたオリグさんに尋ねた。
「参謀としてって、どういうことですか。それはオリグさんの役目でしょう? 私みたいな素人を連れて行ってもしかたないんじゃ」
「ふむ。素人と言えば素人ですな。しかしあなたの発想や判断は、なかなか刮目に値する。デュペック候相手に堂々と渡り合い、相手の策を利用して逆に罠をしかけるなどしたたかな面も持っている。磨けば光る素材ではないかと、期待しております」
「……って、あの時はオリグさんもいたじゃないですか。私一人で考えたんじゃなく、一緒に決めた作戦でしょう」
「ですから、今回もそのように。私の補佐という形で入っていただけばよろしい」
どこまで本気なんだろう。たかだか一度、一緒に罠をしかけたくらいで私をそこまで見込んだとは思えない。見込んでいたならそれはそれで問題だ。あの時と今回とでは、状況も何もかもが違うのに。
「……ハルト様がそれを認めてくださるでしょうか。まだしも、いざという時のお助けグッズだと言った方が、説得力があると思いますけど」
「ではそれも、説得の材料にしましょう。陛下をどうすれば丸め込めるか、あなたなら考えられるでしょう」
丸め込むって、主君のことを言いたい放題だな。
「ハルト様は頑固ですよ。普段おっとりして優しげで、周りに気遣いを忘れない人だから押しが弱いように思われがちですけど、こうと決めた考えはなかなか変えてくださいません。ユユ姫とのことだって、それでさんざん苦労したんですから」
「それを、どうすれば説得できると思いますかな」
「…………」
質問を出す教師みたいだ。私は息をつき、考えた。
「……いくら私に利用価値があると言ってみせたところで、無駄だと思います。とにかく、あの人は私を危険な目に遇わせないよう、安全を最優先するはずです。説得なんて無理でしょうね……それでもなんとか居座ろうと思ったら、私は動けない状態だと言うしかないかな。具合を悪くして移動できないとか、あるいは別れて帰るのは危険だから一緒にいた方がいいとか」
オリグさんはうなずきだけで返す。
「具合が悪いって言っても、すぐにばれますよね。熱も出ないでぴんぴんしてるんだから。本当に具合を悪くしちゃったら働けなくて困るし。やっぱり、別れるのは危険だって方向で押し切るしかないかな」
「もう一声、ほしいですな」
もうひと声って。値段交渉じゃあるまいし。
「他には……ちょっと、思いつけないですね……あー、カルナ港はアルギリに近いんでしたっけ。アルギリからの援軍って来るんですか? 私が前にクラルス公からもらった指輪、今持ってますけど、何か役に立てられるでしょうか」
胸元にそっとふれる。その下にある紋章入りの指輪は、望めば彼の元まで会いに行ける通行証だ。とても大事なものだし、いつどんなことがあるかわからないので、鎖に通してペンダントにしていた。会うだけしかできず、その先は交渉力と相手の判断次第になるが、少なくとも門前払いは免れる。
オリグさんはさっきよりも深くうなずいた。
「そこが気にかかっております。実はアルギリは援軍を出しておりません。要請はかけておりますが、今現在了承の返事を得られておりません」
「そんな!」
声を上げたのはメイリさんだった。思わず口を挟んでしまったらしく、ちょっとばつの悪い顔になる。それでもだまっていられないようで、すぐに続けた。
「シーリース三国間での協定があるじゃないですか。それに、ロウシェンだけが戦ってすむ話じゃない。エランドが他の二国を無視するわけがない」
「さよう。それは向こうもわかっていることです。大使も説得しておりますが、あちらにはあちらの事情があるようで」
「いったいどんな事情があれば、この状況を傍観するって結論になるんですか。アルギリにとっても対岸の火事ではすまされないのに」
「……エランドが、アルギリやリヴェロを度外視しているはずがない。ロウシェンに攻め込むなら、当然そちらへの対策も立ててますよね。今回リヴェロからは少し離れているし、今カーメル公はロットル侯の問題が片づいていないから、軍を大きく動かすわけにはいかない。それを知られているとしたら、エランドはまずアルギリに働きかけるでしょうね。脅迫か、それとも誘惑か……」
誘惑の線はあまりないかな。言いながら考えた。クラルス公はけっして馬鹿な人ではなかった。むしろ自分をとても客観的にとらえることができて、それゆえコンプレックスに苛まれていた。変に思い上がって根拠のない自信を持ったりしないから、甘い言葉に乗せられるとは思えない。多分、もっと慎重な判断をするはずだ。
脅迫されているとしたら、どういう状況だろう。もしかして、エランドは同時にアルギリにも攻め込んでいるのだろうか。いや、それならこちらにも情報が入るはず――表立った攻撃は受けていないけれど、いつでも攻撃できるぞと脅されているのかな?
冬の荒れた海を越えて攻め込んできたエランド軍。どれだけの力を保持しているのだろう。シーリース三国が団結しても、竜騎士団が総出で迎え撃っても、厳しい戦いになるのだろうか。
「……アルギリの状況が知りたいですね。クラルス公だって、本音のところではエランド軍を追い払いたいはずです。もしそれができない状況なら、その原因を取り除いてしまえばいい……って、そんなの私にできると思えませんけど」
いったい何をどうすればいいのか。ただの元女子高生では手に負えない事態に、私は途方に暮れる。
「あなたひとりに背負わせるつもりなどありません」
オリグさんは静かに言った。
「その際は、我々全員で知恵を出し合えばいい。ですが、あなたはクラルス公の心を動かした数少ない人物です。いささか博打になりますが、あなたの言葉ならばかの公王の心に届くのではないかと、期待をしています」
「そんな……」
心を動かしたって、大げさだ。ただ、コンプレックスのせいで周りを信じられなくなっている気持ちに、とても共感できただけの話だ。
クラルス公は私そのものではない。同じような悩みを持っていても、そこから先は違う生き方をしている。私の言葉で、あの人を動かすことなんてできるだろうか。いったいどんな言葉をかければいい?
「――まあ、それはのちほど考えるとして、まずは陛下をいかに説得するかですな。最低限目的地に到着するまでは、ここで我慢していてもらわねばなりません。途中で見つかれば、間違いなく降ろされますからな」
オリグさんの言葉に、私は異論なくうなずいた。そうだな、まず戦場に到着できなければ何もはじまらない。
その後もう少し話をしてから、オリグさんは戻っていった。私とメイリさんは船底で潜伏を続ける。言葉少なに寄り添ってぬくもりに包まれていると、猛烈な眠気が襲ってきた。ゆうべほとんど眠れなかったから、今頃眠くてたまらない。
何度も頭がかくんと落ちかけては、あわてて起き直した。けれどそのうち身体が言うことを聞かなくなってきた。力をなくした身体がメイリさんによりかかる。電車の中で隣の人によりかかって居眠りする迷惑な人みたいだ。ごめんなさいと声に出すこともできず、うすれゆく意識の中で彼女に謝った。
どれだけ眠ったのかはわからない。けっこうな時間が経過しただろう。私はメイリさんの声に起こされた。
「いつまで寝ているんだ。いい加減起きろ」
声をかけながら、枕にしている肩を揺すられる。私はぼんやりと目を開け、身体を起こした。
「はい……ごめんなさい……」
なんだかすっきりしたいい気分だ。大分長い間眠っていたらしい。ああ、よだれ出ていないかな。そっと口許をぬぐう。
「寝ぼけている場合じゃないぞ。さっさと目を覚ませ」
呆れた声が私を叱る。あくび混じりにはいと返事をして、ふと周囲のようすが眠る前と変わっていることに気付いた。
私たちを取り囲んでいた荷物が取り除かれ、目の前が開けている。代わりに眼前に立つのは、人の足だ。
何人もの人が、私たちの前に立っている。軍靴でしっかりガードされた足元は、オリグさんや参謀官たちのものではない。
……あー……。
頭から眠気が吹き飛び、私は現状を正しく理解した。ゆっくりと視線を上げて、前に立つ人の顔を見上げる。
このうえなく厳しい、怒った顔がふたつ。その背後に、困惑を浮かべた顔がいくつもあった。ついでに言うと共犯者の顔は見当たらない。ここは自力で頑張れということか。
私は一度、深呼吸した。
――さあ、どうやって説得しようかな。