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雪がまぶしく光をはじく冬の朝、ロウシェン竜騎士団は出陣の準備を整えて宮殿前に集結していた。
――と、いっても、そこにいるのは飛竜隊だけだった。騎馬隊や地竜隊がわざわざここまで登ってきてまた下りるのは二度手間だからだろうかと思ったら、彼らはまだ暗いうちに出発してしまったらしい。空を行く飛竜隊や龍船より移動速度が劣るため、少しでも先に出たのだと、私はすっかり手遅れになってから知ってしまった。
トトー君やザックスさんに、いってらっしゃいも言えなかった。頑張って、気をつけて、どうか無事で――何を伝えればいいのだろうと悩み、結局何ひとつ伝えられないままだった。こんなことなら昨日のうちに会っていれば――なんて、ばかばかしい。仮に昨日彼らのもとへ行ったとしても、私の相手なんかしている暇はなかっただろう。たった一日で準備を終えて旅立たねばならなかったのだ。彼らがどんなに忙しく大変だったか、想像に難くない。
せめてイリスにだけは会っておきたいと、私は見慣れた姿をさがしていた。普段の軽装ではなく、籠手や胸当てといった防具に身を固め、武器を携えた騎士たちのそばを走り抜ける。向こうからも視線を向けられる。ジェイドさんの姿があるのはわかったが、イリスは見つけられなかった。
どこにいるんだろう。アルタたちの所? でも、さっき見た時はいなかったし。
トイレかな。ちょっと集団から離れて、建物の方へも足を向けてみる。あまりひと気のない、物陰になった場所でようやく求める姿を見つけられた。
イリスは一人ではなかった。
「お願いです、隊長! あたしも連れて行ってください!」
彼の足元にひれ伏し、メイリさんが懇願している。泣きそうな声で、彼女は必死に叫んでいた。
「荷運びでも、なんでもいい、どんな端の役目でもいいからあたしにも手伝わせてください!」
「お門違いだ。頼むなら僕じゃなく、ジェイドに言うんだな。今の隊長は彼だ」
答えるイリスの声は冷たかった。彼は厳しい顔でメイリさんの懇願をしりぞける。
「もっとも頼んだところで、聞き入れられるはずもないけどな。お前は連れて行かない。理由なんて言うまでもないだろう」
「お願いします! お願いします! なんでもするから……っ。いっそ、あたしを囮にしたらいい。この命で罪を償いますから!」
聞いている方の胸が痛くなる叫びにも、イリスは表情を動かさなかった。無言でメイリさんの胸倉をつかみあげ、激しく頬を打つ。
メイリさんは地面に転がった。
「いいかげんにしろ。お前のわがままを聞いてやれる状況じゃない。まだ騎士のつもりなら、命令に従って待機していろ」
言い捨てたきり、頬を押さえる彼女を振り返ることなくイリスは立ち去ってしまう。その背中を追いかけようか一瞬迷い、結局私はその場にとどまった。
うずくまって泣いている人を、ほうって行く気にはなれなかった。
おそるおそる、メイリさんに近づく。気配に気付いて顔を上げたメイリさんは、私の姿を認めると濡れた瞳に怒りを浮かべた。
「……なにをしにきた」
しぼり出すような声でうなる。まるで獣みたいだと、思った。傷ついて、必死に威嚇している獣だ。
「笑いに来たのか。あたしのみじめな姿を見て、あざ笑って、満足か」
なおも涙をこぼしながら、彼女は私に憤りとかなしみをぶつけてくる。私は言葉につまった。メイリさんの前に出て、何を言いたかったのだろう。どうしたかったのだろう。この人にとって私の存在なんて、救いどころか追い討ちにしかならないとわかりきっているのに。
ごめんなさいと謝って逃げ出したくなる。でもそれじゃあ、結局何も変えられない。この人を見捨てられないと言いながら、まだ私は何もしていない。傍観しているだけなら、見捨てているのと同じではないだろうか。
勇気を奮い起こして、私はメイリさんの前に膝をついた。
「……あの……イリスはきっと、メイリさんのためを思って……」
私には見せたこともない冷たい顔だった。聞いたことのない冷たい声だった。だからこそ、あれは嘘だとわかる。イリスはそんな冷たい人じゃない。厳しくしなければならないから、あえてそういう態度を取っていただけだ。
考えてみれば、メイリさんが無理やりついて行ったところで周りの人は受け入れてくれないだろう。けっして信頼されず、どんな小さな仕事も与えてくれないだろう。償いをと彼女は言うけれど、そんな機会は与えられず、どれほど懸命になっても認めてもらえない。
前回の罪に加え、待機命令も無視したのでは当然だ。
だから突き放したんだ。イリスはきっとメイリさんを見捨てていない。私にメイリさんのことを語る時、そういう冷たさは感じさせなかった。口には出さなくても、メイリさんを復帰させてやりたいって思っているはずだ。
そのために、今は置いて行くことを選択した。あれはイリスの優しさなんだ。
「つらいのはわかりますけど、待っていないといけな――」
「お前になにがわかる!?」
私の言葉をさえぎって、メイリさんが吠えた。跳ね起きた身体がそのまま私にぶつかってくる。一瞬で押し倒され、メイリさんの下に組み伏せられた。
私の顔に、かなしい雫が降ってくる。
「お前に……お前なんかに、なにがわかる! いつも守られて、大事にされているだけのお前に、あたしの気持ちなんてわかるもんか!」
おそれは、感じなかった。メイリさんの声も涙も、あまりに痛々しいもので、私を傷つけるために叫んでいるわけじゃないことは明らかだったから。彼女はただ、身の内の苦しさやかなしさ、悔しさをどうにもできず、もがいているだけだ。
「なんのために……っ。ずっと、ずっと鍛えて、騎士になってっ……今、この時に役に立てなくて、いったいなんのために存在してるんだ! 命なんて惜しくない、せいぜい役に立てて死んでみせる! どうせ生きていたって、あたしの罪は生涯消せないんだ。ずっと後ろ指さされて役立たずのまま生きるより、ほんのわずかでも役に立って死んでいきたい!」
……ああ。
そうか、こういうところも。
イリスに言われたことを、やっと理解した気分だった。私が自分のことは投げ出していると、彼は責めた。今のメイリさんは、それと同じだ。自分はどうなってもいい、死んだってかまわないと思っている。いや、むしろ死にたいと思っているのか。役に立って、そして死んでいきたいと。
そんなところまで、私たちは似ているんだな。
「お前になんか……お前になんか、わかるもんか……っ」
「……わ、たし、だって」
声がつまる。なんで私まで泣きそうな気持ちになっているんだろう。でもこらえなくていいや。泣きながらでも、伝えたい。
「私も、苦しいです。つらくて、かなしくて、くやしい――役に立てない自分が、たまらなく悔しいです」
メイリさんの激情に、ほんの少し戸惑いが混じる。私たちは互いに泣きながら、至近距離でにらみ合った。
「一緒に戦える力があればいいのにって、思います。みんなを心配しながら待つしかできないなんて、悔しくてたまらない。どうして私には何もできないのって、自分がなさけなくて……本当はみんなと一緒に行きたい。行って、私にも何かできればいいのにって、心から思います」
「…………」
メイリさんの瞳から、激しさが徐々に失われていく。彼女は放心したように私を見つめていたが、その間も涙はこぼれ続けた。やがて彼女は震える声を上げ始めた。力をなくした身体に、私は手を伸ばした。なんだか無性にこの人を抱きしめたかった。
鍛えられていても女性らしく柔らかい身体が、抵抗せず私の腕の中に入ってくる。金褐色の髪に頬を寄せ、嗚咽に震える背中をなでる。泣かないで、もう一人の私。どうかそんなに、つらそうにしないで。
ほんの少しの間、そうして私の腕の中で泣いていたメイリさんだったが、不意に私を突き放して起き上がった。そのままものも言わずに立ち上がり、駆け去っていく。私はのろのろと身体を起こし、彼女が去った方向をぼんやりと眺めた。
……わかって、くれただろうか。イリスが彼女のために厳しくしたのだと。その意を汲んで耐えてほしいと、わかってくれただろうか。
多分メイリさんも、本当のところはわかっているのだと思う。でも待つだけの立場でいるのがつらくてたまらない。私と同じに――私以上に、強く思っているだろう。だって彼女には戦える力がある。無力で何の役にも立たない私より、彼女の方がずっと役に立てる。それなのに待っているしかできないなんて、どれほどの苦痛だろうか。
イリスとメイリさん、どちらの気持ちもわかり、どちらにも同情してしまう。私の気持ちはふたつ存在していた。
いつまでもへたり込んでいてもしかたないので、私は立ち上がり、服についた汚れを払い落とした。濡れた顔もぬぐってひととおり身なりを落ちつかせ、踵を返す。出発の時間が迫っている。ハルト様のもとへ行かないと。
龍船はまもなく出航準備を終えるところだった。ふたつの滝から水が注がれる人工の池に、優美な姿を浮かべている。白く巨大な柱が並ぶ、神殿のように厳かな場所に、竜たちとものものしい騎士の集団が勢ぞろいしている。私はそこで先に戻ったイリスと顔を合わせた。
「やあ、見送りに来てくれたのかい」
さっきのできごとなんて感じさせない明るい顔でイリスは笑った。いい加減で能天気で無神経、大雑把なやつだと呆れてばかりいたけれど、そんなおおらかさの中にたくさんのものを隠しているのだと気付く。私を悩ませまいと、彼はいつも笑う。
「今日はちゃんと温かい格好してるな、いい子だ。いいか、好き嫌いせずにしっかり食べてろよ。別に君が食欲をなくさなきゃいけないほど深刻な状況じゃないんだから、きっちり三食たべて睡眠とって、元気にしていろよ。帰ってきた時また痩せてたら承知しないからな」
頭に温かい手が乗せられる。いつものようになでようとして、ふとイリスは表情を変えた。
「あれ、そっちのリボン、ほどけかけてるぞ」
「え……」
私は示された方の頭に手をやる。両耳の横に結んだリボンが片方、たしかにほどけかけていた。さっきメイリさんともみ合ったせいでゆるんだんだな。
結び直そうとしたら、先にイリスがリボンをつまんで私の髪から引き抜いた。結びなおしてくれるのかと思って待っていたのに、彼は手の中のリボンを見つめたまま動かない。
「イリス?」
「……あ、ごめん」
私の声に顔を上げ、照れたように笑う。
「あのさ、悪いんだけど……これ、くれないか?」
「え?」
「いや、借りるだけでいい。戻ったら返すから」
あわてて言いなおす彼に首をかしげる。なんでリボンなんかほしがるんだろう。
「別にかまわないけど、イリスの髪を結ぶのなら、もっと長いしっかりした紐が必要じゃない?」
「いや、それはちゃんと持ってる。そうじゃなくて……」
イリスはいつものくせで髪をかきまわす。頬がわずかに赤いような気がする。やっぱり照れているのかな。
「女々しいって笑われそうだけど……対のものの片割れを持っていたら、かならずもう一方の元に戻れるっていう言い伝えが……まあようするに、験かつぎのお守りなわけで」
「…………」
そうか、そういう意味か。
納得し、私はリボンをふたつ結んできてよかったと心底思った。昨日までは頭の後ろで結んでいたのを、今日はなんとなく変えたい気分になったのだ。よかった、本当によかった。
「うん、それなら貸してあげる。でもお気に入りだから、かならず返してね」
あげるとは言わない。返すために帰ってきてねと、言葉にはせず願う。
イリスは笑ってうなずいた。
「ありがとう。汚さないように気をつけるよ」
手にしたリボンを持ち上げ、軽く口づける。そんなしぐさにこっちの頬が熱くなる。イリスは身をかがめ、間近から私の顔を覗き込んだ。
「いろいろ話したいことがあったんだ。なんか、機会がなくて……っていうか、気がひけてつい後回しにしていたら、こんなことになっちまって。戻ったら時間をくれるかな。君に伝えたいことが、あるんだ」
「だめ」
即答した私にイリスは目を丸くした。
「え……だめ?」
「そういう台詞は死亡フラグよ。言いたいことがあるなら今この場で言って」
「フラグ? なんだそれ」
端正な顔だちが間抜けに崩れる。
「今言えっていわれてもな……もう時間がないし」
困った顔でまた頭をかく。
「目の前のことを片づけてから、落ちついて話したい。戻るまで待っててくれよ。かならず戻ってくるから。これを返しにな」
リボンを私に見せて、彼は笑う。しかたなく私はうなずいた。まあ、漫画やアニメじゃないんだし、大丈夫だよね? イリスは強いし、普通の兵では対抗できない飛竜騎士なんだし、心配ないよね?
これから旅立つ人に暗い顔は見せられない。私はどうしてもぬぐえない不安を隠し、できるだけ自然に見えるよう頑張って微笑んだ。
「いってらっしゃい。怪我しないように気をつけてね」
「ああ」
私の頭に手をかけて、彼は軽く額に口づける。家族へのキスで思い出したけれど、イリスには三人も弟がいるんだっけ。そしてご両親や、もしかしたら祖父母も健在かも。叔父さん叔母さん、従兄弟に近所の幼なじみ。たくさん、彼を愛する人がいるだろう。その人たちだって、きっと無事を祈ってる。
「みんな待ってるの。イリスが無事に帰ってくることを待ってるんだから、本当に帰ってこなきゃだめよ。私みたいに、家族を悲しませないでね」
イリスはくすりと息をもらした。優しい顔でああ、とうなずく。
「肝に銘じるよ。ありがとう」
私を抱き寄せ、背中をぽんと叩く。そうしてすぐに身を離し、じゃあと挨拶して背を向けた。
迷いのない足取りで隊列へ戻っていく。隊長として騎士たちを率いているのはジェイドさんなのに、彼を含めてみんながイリスを待っていた。形はどうあれ、リーダーはイリスなんだと全員が無言で表していた。
彼らの姿をしばらく眺めたあと、離れがたい思いをこらえて私は移動した。ハルト様とアルタ、そして同行するオリグさんにも挨拶したい。
「よお、嬢ちゃん、どこにいたんだ? 見送ってもくれないのかとさみしかったぞ」
いつもとちっとも変わらないひょうきんさでアルタが両腕を広げる。私に飛び込んでこいというジェスチャーだろうか。立ち止まって冷たい目で見つめてやったら、でかい図体をいじけさせてぶちぶちとこぼした。
「こんな時くらい優しくしてくれても……三十路もなかばだってのに、恋人の見送りもないんだぞ。ちょっとはなぐさめてくれよー」
アルタに恋人ができないのは、百パーセント自分のせいだろう。これだけかっこいい美男子で騎士団長なのに、もてないはずがない。彼に熱い視線を送る女性を何人も見てきた。でも本気で言い寄られるとたちまちアルタは逃げ腰になる。なにがそうさせているのやら、実はとんでもないヘタレ男だ。
「帰ってきてからなら優しくしてあげます。ご褒美は仕事の後って決まってるでしょう」
「ううーむ、ごもっとも。ようし! 嬢ちゃんのために武勲を立てて凱旋するぞ! その時は熱い抱擁と口づけで迎えてくれな!」
……すぐ調子に乗るんだからな、このライオンは。
「そんな嫌そうな顔するなよー。ほら、そばであんなの見せつけられたら、独り身の切なさ倍増だぞ。可哀相だと思うだろう?」
あんなの、というのは彼の主君とその婚約者のことだ。
それほど離れてもいない場所で、ハルト様とユユ姫が話していた。
「どうかお気をつけくださいましね。ご無事のお戻りを、朝晩祈ってお待ちしております」
「何度同じことを言うのだ。だいじょうぶだと言ったであろう」
すがりつきそうな風情のユユ姫を、ハルト様は苦笑まじりになだめる。その姿はいつもとはまったく違っていた。
動きやすい服に、具足と外套。騎士たちと同じような格好だ。王の威厳を表す装飾がほどこされた武装は、とても凛々しく神々しくもあったが、かっこいいと胸をときめかせることはなかった。朝、一の宮を出る前にその姿を見た瞬間、私の胸にわき上がったのは恐れだった。
戦なのだと――戦い、殺し合うために征くのだと、いやでも思い知らされる。腰に佩いた剣がよけいにそれを強調する。イリスやアルタの武装はまだ冷静に見られた。でもハルト様が――普段、荒事とは無縁な姿しか見たことのない人がこんないでたちで現れたら、動揺せずにはいられなかった。
きっとユユ姫も同じ思いだろう。美しい顔に不安と心配を浮かべて、ひたすらにハルト様を見上げている。
「留守を頼むぞ。リュシーとそなたとで、城を守ってくれ。よもやここに敵軍が現れることはあるまいが、竜騎士団が不在となるのはいささか懸念ではある。シャールの領主軍を頼みにさせてもらうぞ」
「はい」
平時首都防衛に働く竜騎士団がそろって出陣するのだ。そのままだとエナ=オラーナと宮殿はがら空きになってしまう。そのため、近隣の領主軍が差し向けられることになっていた。その先頭に立つのがシャールの、ユユ姫配下の領主軍だ。
たった千ばかりで首都防衛を果たす竜騎士団は、それだけ戦闘力の高い精鋭集団である。彼らの代わりを任された領主軍の責任は大きい。ユユ姫は私のように、ただ心配するだけではいられないのだ。
だから今くらい、恋人のことだけ考えていてもいいと思う。ハルト様がユユ姫を抱き寄せて口づけるところで、私は礼儀正しく視線をそらした。欧米では日常の風景でも、日本人には気恥ずかしい。そしてそれは、こちらの人にとっても似たような感覚らしい。周りのみんなも視線をはずしていた。この世界では口づけはとても神聖なものだ。みだりに交わされることはない。
……あれ? でもイリスはよく私にキスするよね。
さっきも額にキスされたし……あれって、もしかして傍目には、今のハルト様たちと同じに見えたんじゃないの。
あのイリスに他意はないとわかっていても、意識するとちょっと頬が熱くなる。彼が話したいことって何だろう。メイリさんのことかな。それともカームさんのこと? 他に何が思い当たるだろう。
「うらやましい光景ですな」
まったく存在感を感じさせずに近づいてきた人が、少しもうらやましくなさそうな平坦な声で言った。もう驚くこともなく、私はいつの間にかそばに立つオリグさんを見上げる。
「奥様とは?」
「家を出る時、妻は笑ってこう言いました。『あなたはどこにいても死にそうな人だから、だいじょうぶね。いってらっしゃい』と」
「…………」
それって、大丈夫なのか。だいじょうぶと言ってしまっていいのか。
さすがオリグさんの奥さんだ。いったいどんな人なのか、ぜひ一度会ってみたい。
「……戦についてお聞きしたいんですけど、正直なところ状況はどうなんでしょう。勝算は?」
「正確な情報が揃ったわけではありませんので断定はできませんが、まあ五割から六割といったところでしょうか」
五割って、ずいぶんと低い。半々の勝率じゃないか。
「我らには竜騎士団があります。キサルスの時とは話が違います。竜騎士団総出で迎え撃つのを、地の利にも劣るエランド軍が撃破できるとは思えませんな」
「それなのに五割ですか?」
「さよう、それなのに、です」
オリグさんはいつもと変わらない顔で淡々とうなずいた。ハルト様のものより色の濃いグレーの瞳が、静かに私を見下ろす。
「不利は向こうも承知のはず。なのになぜ、仕掛けてきたのか。それもこの季節に――なにかある気がしてなりません」
ずしりと胸が重くなる。一気に増した不安に声が出せなくなる。
「こらオリグ、無駄に嬢ちゃんを怖がらせるんじゃない」
アルタがとがめた。
「そんなことを言ったら、よけいに不安がるだろうが」
「事実を述べたまでです。ついでに申し上げれば、私は彼女を同行させたいとお願いしましたが」
「馬鹿を言うな。連れて行けるわけないだろうが。どんな後方にいたって、危険がまったくないとは言いきれないんだぞ」
「それも不安をあおる言葉ではありませんかな?」
「揚げ足取るなよ。我々軍人と嬢ちゃんじゃ根本から違うだろうが。非戦闘員を前線に置くわけにはいかんと言ってるんだ」
「それなら私も留守番をさせていただきましょうか。戦闘員ではありませんし、見てのとおりいつ死んでもおかしくない儚い身です」
「そう言いながら四十年以上元気に生きとるだろうがっ。もう俺はだまされんぞ。たとえお前が血を吐いたって死ぬとは思わん!」
「血だけですめばよいですな」
「気持ち悪いこと言うなあぁっ! 本気で内臓吐きそうだから嫌なんだよ!」
アルタと漫才を繰り広げながら、オリグさんがひそかに私に合図をする。そよそよと風になびくような手の動きに注意すると、船に積み込まれる荷物の方を示しているとわかった。
……どうしろって言うんだろう。まさか、あの中にまぎれて密航しろとでも? いや、無理だろう。ぜったい見つかって阻止されるよ。
そう思いつつも、私はそっと彼らから離れて荷物の方へ近づいた。兵糧や武器など、積めるだけの荷を船に運び込もうと人が忙しく行き来している。地上に残っている荷物はもうわずかばかりだった。
……この辺の箱に入ったりできないかな。
なんて、半分も本気で思ってなんかいなかった。どうせ中身がぎっしり詰まっていて、人の入れる余地なんてあるわけがない。なんか不自然に残されている気もするけど、まさか密航者のために用意された箱ってわけじゃないだろうに。
紐もかけられていない木箱のふたを、なにげなく持ち上げる。そうして私は呆気に取られた。中は、ほとんどからっぽだった。申し訳程度の小さな袋が、隅に転がっているだけだ。
……えええ?
箱のふたを持ったままオリグさんの方を振り返る。彼はまだアルタと言い合いをしていて、人々の注目を集めていた。こちらに注目している人は、いない。
気付いて周辺を見回せば、さりげなく荷運び隊に混じっているのは参謀室の人たちだ。その動きは、周囲の視線から私を隠そうとしているようにも見える。
……マジ?
入っていいんだろうか。このまま密航して、戦場までついて行っちゃっていいんだろうか。
叱られることよりも、足手まといになることの方が怖かった。私なんて役に立てるわけがない。それだけではすまず、きっと厄介なお荷物になる。それなのに行ける? 待っているってイリスにも約束したのに、身勝手ではた迷惑な行動ができる?
行きたい。でも行けない。
その場で固まって悩む私に、誰かが駆け寄ってきた。私はあわてて箱のふたを下ろす。振り向こうとした瞬間、
「お前……っ、それ……!」
抑えた声はまだ若い女性のもの。驚きと疑問を顔中に浮かべたのは、ついさっき会ったばかりの人だった。
「…………」
そばまでやってきたメイリさんの視線が、せわしなく私と箱とを行き来した。
「……どけ」
私を箱の前から押し退けようと、手を伸ばす。
「どうする気ですか。まさか、行く気なんじゃ」
「お前もそのつもりだったんじゃないのか」
「それは……」
否定も肯定もできない。どうすればいいんだろう。
「さ、参謀室長が、手引きしてくれたみたいで……でも、私なんかが行っていいのか……」
「迷っているくらいなら行くな! そんな半端な気持ちで何ができるもんか。そこをどけ」
言いながら強引に私を押しやろうとするメイリさんに抵抗する。
「で、でも、メイリさんだって行っちゃだめです。今命令に逆らってしまったら、もう絶対に許してもらえない。イリスがなんのためにあなたに厳しくしたのか、意味がなくなってしまう」
「許しなんかいらない!」
緑の瞳が激しく燃えて私を見据えた。
「あたしはもう、そんなの求めない。いいんだ、騎士に戻れなくたって。罪人のままでいい。誰にも許してもらえなくても――隊長にも許されなくても、それでもいい。自分が許されるために何もしないで待っていることなんてできない。許されないままでも、何かを成して死んでいきたい!」
「…………」
メイリさんの言葉を、正しいと認めることはできなかった。それじゃあ、イリスの気持ちはどうなるの。そんなの、ただの自己満足でしかないんじゃないの。
そう思うのに、私はもうメイリさんを止めることができなかった。これほどの思いを止める気にはなれない。そう思ってしまう私も間違っていると知りつつ、メイリさんが箱に滑り込むのをだまって眺め――そしてすぐ後に続いて、私も箱に入った。
「おいっ」
ふたりで入るにはいささかきつい。ぎゅうぎゅう詰めになってメイリさんが文句を言う。
「お前が行ってどうするって言うんだ。さっさと出ろ!」
「……出ません。も、もともとこれは、私のために用意された箱だし」
「嘘を言うな。そんなわけないだろう」
「私もそう思いましたけど、でもたしかに……」
不意に箱がぐらりと揺れた。私たちはあわてて口をつぐんだ。持ち上げられる感覚がする。誰かが箱を運んでいるんだ。
「あっれー、予想してたより重いなー。荷物増えちゃったかなー。まあそれはいいんだけど、うるさい荷物は困るよね。荷物は荷物らしく、静かにしててくれないとねー」
「お前もたいがいうるさいぞ」
「あはは、いやー室長があんまり思いきったことするもんだからさー。あとでどんな叱責を受けるかと思うと、もう笑うしかなくて」
陽気な声と低い声のやりとりに、私たちは思わず顔を見合わせた。この声は、参謀官のホーンさんとダインさんだ。やっぱりこれって、全部オリグさんの仕組んだことなんだ。
どうなってるんだろう。
忍び込んでおいて今さらだが、こんなことしていいのかと心中盛大につっこんでしまう。
でも、もう後戻りはできない。
私たちはともに許しを得ない身で、勝手に戦場へと旅立ってしまった。