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驚きは一瞬だけ。
すぐに危険のあるものではないと、理解した。
だって私はこの腕を知っている。振り返って顔を確認しなくてもわかってしまう。何度も助けてくれた強い腕だ。時には私を厳しく叱るためにも動いた。どこかで寝っころがったのか、土と草の匂いがついている。あとは革と鉄と汗のにおいだろうか。いろんなものがごっちゃになった、いい香りではないけれど、私にとっては安心できるなつかしいにおいだ。
私が暴れないことを知ると、イリスはそっと腕を放した。私はだまって彼の顔を見上げる。こうして向かい合うのは何日ぶりだろうか。あの直訴騒動の日以来だ。
イリスは少し困ったような、でも厳しい顔で私をにらんだ。
「またひとりで出てきたのか。最近よく出歩いてるみたいだけど、城から離れる時は誰か供をつけろよ」
「そういう話は後にして、さっきの人を追いかけたいんだけど」
お説教を流して言い返すと、イリスはさらに顔をしかめた。
「話をそらすな」
「そらしてるのはイリスでしょ。なあに? あの人を追いかけちゃいけない理由でもあるの?」
声を出して気付かれないよう、わざわざ口までふさいで引き止めるなんて、そういう意図だとしか思えない。
イリスはぐっと詰まった。
「イリスはあの人を知ってるの? あれは誰?」
「……なんで、そんなことが知りたいんだ」
「さっきのようすが気になったから、かな。単にメイリさんを励ましに来ているだけならいいんだけど、もし何かよくないことなら放置したくないし。これ以上彼女をおかしな事態に巻き込まれたくないわ」
「…………」
イリスは束の間目を閉じて、大きく息を吐き出した。
「あんな目に遇ったってのに、ずいぶんメイリを気にかけてくれるんだな。いったいどうしてそこまで寛大になれるんだ?」
「そんなきれいな感情じゃないわ」
私はさっきの場所に目を戻す。もうあわてても遅い。今から追いかけても、さっきの男は見つけられないだろう。あきらめて、イリスに視線を戻す。
「他人ごととは思えない、すごく身につまされるものがあるだけ」
「……たしかに、正反対でいながら妙に似たところもあるよな」
イリスの言葉に軽く眉を上げる。彼もそう感じていたのか。私とメイリさんは、やはり根底に似たものを持っているんだ。
「でも危ないことに首をつっこむのはやめてくれ。メイリは多少のことがあっても自分で自分を守れるが、君には無理だろう。人並みな体力すらないのに、何かあった時にどう対処する気なんだ」
「何かあるのは事実なわけ? イリスは気がついて調査を始めているの? まかせて大丈夫って保証してくれるなら、安心して手を引かせてもらうけど、今の飛竜隊は彼女のために動いてくれるの?」
矢継ぎ早に質問を繰り出せば、イリスは頭を抱えた。
「つっこむなよー……さっきのは騎馬隊の騎士だ。どういういきさつであの二人が知り合ったのかは知らない。僕もさっき見て知ったばかりだ。何かあるのか、ないのか、そんなのわからないよ」
騎馬隊の騎士、ということはザックスさんの部下か。同じロウシェンの騎士ならば、問題視する必要はない――はずなのだけれど。
「騎馬隊の騎士なら、おかしな人ではないわよね。メイリさんの友達か、もしくは彼女が好きで言い寄ってるかで、心配してようすを見に来ているのだろうと考えるのが普通よね」
「ああ……多分、そんなとこかと」
「それなら『危ないこと』なんて言葉が出てくるはずがないんだけど。別に追いかけても問題はないわよね。なのにどうしてイリスは、あんなこそこそしたやり方で私を止めたの?」
簡単にごまかせると思うなよ。私は容赦なく質問を浴びせる。イリスは天を仰ぎ、顔を覆ってさらには背中を向けてしまった。
「イリス?」
つんつんと背中をつついてやる。
「……なんだろう、この妙にうしろめたい悪事を暴かれているかのような恐怖心は。男の浮気はばれるっていう、アレみたいなものだろうか……」
「単にイリスが隠し事に向いてないだけだと思うけど。で? 何が危ないことなわけ?」
「…………」
後ろを向いたままの肩が、がっくりと落ちた。
「……隠し事ってほどの何かをつかんでるわけじゃないよ。根拠も何もなく、直感的に嫌な感じがするって思っただけだ」
ふむ、イリスもさっきのようすに不安を抱いたのか。
「ベネットは身元の確かな人物だし、心配する必要はないと思うんだけど……万一を考えてだ。さっきも言ったように、君は自分の身を守るすべをいっさい持たないんだから」
「ベネットっていうの、あの人。イリスの知り合い?」
イリスは振り向き、腕を組んで壁にもたれた。
「知り合い、と言えるかな……特に付き合いはないんだけど、お互い顔と名前くらいは知っている、って関係だ。あいつは、僕の同期なんだよ」
「同期?」
「一緒に最終試験を受けた」
短い言葉に込められた意味を、私は理解した。
最終試験というのは、竜騎士を目指す者が受ける最後の試練――相棒となるべき竜の卵を獲りに行くことだ。
卵を守る親竜に殺されることなく、無事手に入れて戻ってくることが合格の条件である。受けられるのは一度かぎり。失敗すれは命を落とすか、竜騎士をあきらめるかだ。
ベネットさんは生きて元気に騎士をしている。ということは、すくなくとも無事に戻ってはこられたんだ。でも竜騎士じゃないということは、卵は得られなかったんだろう。
「騎馬隊には、最終試験でやぶれた連中がたくさんいる。あいつもその一人ってわけだ」
「……その人たちは、竜騎士のことをどう思ってるの」
「さあ」
イリスは肩をすくめた。
「わからない。聞いたこともないしな。人それぞれだろうさ」
「ザックスさんは?」
「彼は元々志願して騎馬隊に入った。生真面目で正義感の強い人物だよ」
「ふうん……」
考える私に、イリスがいやそうな顔を向けた。
「チトセ? 頼むから妙なことは考えてくれるなよ」
「妙なことって? 私は単に飛竜隊のようすを見に来ただけよ。何をそんなに気にするのかがわからないわ」
「自分で言っててしらじらしいと思わないか」
「まあ、ひどい」
私はつんと顔をそむけて、イリスのそばを通り抜けようとした。するとイリスが素早く動いて前に回り込む。思わずあとずさる私を壁際に追い込み、両横に手をついて閉じ込めた。
青の瞳が、間近から私を見据える。
「君は時々予想もつかない思いきった真似をするから怖いんだ。自分の安全を十分に確保した上でならまだしも、そこはいつもおざなりだ。だから怪我をしたり死にかけるんだろう。人のことには懸命になるくせに、自分はどうなってもいいと投げ出してるふしがある。それはけっして美徳じゃないぞ。むしろ欠点だ」
「……別に、自己犠牲の精神なんてないけど」
「だったらもっと自分を大切にしろ。周りはいつも心配して、胸を痛めてるんだ。君が怪我をしても病気になっても気にしないような、冷たい人間はいない」
私を心配し、私のために言ってくれる言葉。以前ならこうして気にかけてもらえるだけで、最高に幸せな気持ちになれていた。でも今は、もっといろんなことを考えてしまう。
心配してくれたって、特別な理由はない。ただ彼は優しいから、それだけだ。
そこに不満を抱いてしまう自分に呆れる。いつからこんなに欲張りになってしまったのだろう。優しくしてくれるだけで、心配してくれるだけで、十分うれしいはずなのに。どうしてもっと、と求めてしまうのだろう。
私が黙り込むと、イリスは身を離して少し声を柔らかくした。
「送ってやるから、もう一の宮へ帰りな。ハルト様が心配なさる」
「……自分で帰るわ」
「だから、供もなく出歩くなって。ここまで自力で歩いてこられるようになったのは偉いけどな。ぜひその調子で身体を鍛えてほしいところだけど、一人歩きはやめてくれ。何があるかわからないんだから。頼むよ」
「……龍の加護を持つ私が狙われると困るから?」
「またそういうことを言うのか」
イリスの声がちょっと怒る。私は唇をかんだ。
いっそそう言われた方が気楽だ。優しくされると、どうしても未練がましい気持ちがわき上がる。絶対無理なんだって、望みはないんだって思い知らせてくれる方がよっぽどありがたいのに。そうしたらきっと、きっぱりあきらめて忘れられそうなのに。
イリスは優しい。いつも私を大切にしてくれる。勘違いしてしまいそうなほどに。特別に思われているんじゃないかって、そんな期待を抱きそうなほどに。
いっそ告白してしまおうか。そうしてはっきり引導を渡されれば、気持ちもすっきりするだろうか。
でもきっと、イリスのことだから拒絶なんてしない。私に特別な気持ちを持っていなくても、告白されたら付き合ってくれるんだろう。これまでの彼女たちと同じように、形だけの恋人になってくれるだろう。そうしたら私はもっとかなしくなって、苦しむに違いない。
これって、ばちが当たったのかな。せっかく私を好きだと言ってくれた人を拒絶して受け入れなかったから、だから私の想いもかなえられないんだろうか。
……胸が痛い。
「なにか、あったのか?」
私のようすがおかしいと感じたのか、イリスが身をかがめて覗き込んできた。私は首を振る。
「なにもない」
「じゃあ、具合が悪いのか? 疲れたか?」
続く問いにも首を振る。だからそんな、心配そうな声を出さないで。泣きたくなってしまう。
「…………」
イリスは息をつき、銀の髪をかきまわした。
私の前に膝をつき、下から見上げてくる。いやでも目が合い、困りきったようすなのを知ってしまった。
「僕の言ったことが気に障ったか? 知ってのとおり、僕は無神経なところがあるからな。気付かずに君を傷つけてしまったのかもしれない。そうならはっきり言ってくれ。君にそんな顔されると……どうしていいのか、困るよ」
「……どんな顔」
見上げる姿勢のまま、イリスは軽く首をかしげる。
「泣きそうに見える」
「…………」
私は顔をそむけ、目を閉じた。イリスのため息が聞こえる。
「トトーにも言われた……心配するなら、もっとよく君を見てやれって。どういう意味なのか、ずっと考えてるんだけどわからないんだ。自分がうかつで無神経だって自覚はあるから、君を傷つけないように気をつけてはいるつもりなんだけど……やっぱり、だめなのかな。ごめんな……僕はただ、君に元気でいてほしいだけなんだ。君が辛い思いをしないように、怪我や病気をしないように、それだけを願ってる。他のことは考えてないよ」
優しい、やさしい言葉。うれしくて、そして切ない。
私はこらえきれない涙を隠すため、イリスの首に抱きついた。彼の肩に顔をうずめて泣いていることをごまかす。
あたたかい手が背中に回される。軽いリズムで叩く、いつものしぐさ。まるきり子供扱いだけれど、とても心地よい。
この手がずっと私のものだといいのに。
「あのね……」
「うん?」
顔を上げないまま私は言う。イリスもそのままで聞いてくれる。私はできるだけ普通の口調になるよう努力して、なにげないふりを装って伝えた。
「イリスのこと、好きよ。何も傷ついてなんかいない。大好きよ」
「…………」
抱きしめる力が一瞬強くなる。少しして、イリスは「うん」とうなずいた。
「いつも、ありがとう。心配してくれて、優しくしてくれて、ありがとう。こちらこそ、心配かけてごめんなさい」
「うん……」
伝わらないように、伝える想い。これが私の精一杯。これでいい。この人を困らせたくない。優しい関係を壊したくない。
カームさんもこんな気持ちだったのかな。私もあの人に、辛い思いをさせていたのだろうか。
だったらいつか、私もきちんとあきらめてみせる。あの人に恥じないように、潔く引き下がってみせる。
だから今だけ、今だけは。
このぬくもりは、私のもの。
それぞれに複雑な想いを抱えつつ、日々は平穏に過ぎていくと思われた。けれど道から雪が消えなくなり、馬車の代わりに橇が行き交うようになった頃、新年まであとひと月足らずという時に、エンエンナにとんでもない報せが飛び込んできた。
「……それ、本当なんですか」
私は信じがたい気持ちで思わず聞き返してしまった。顔色を悪くしたミセナさんは、ふるえながらうなずいた。
「間違いないようです……二の宮は、今大騒ぎです」
「そんな、まさか……」
スーリヤ先生がうわごとのようにつぶやく。授業の真っ最中に突然飛び込んできた女官に、彼女もなにごとかと驚き、そして伝えられた内容に愕然としていた。
「今は真冬ですよ。こんなに雪が積もって……海だって相当荒れているでしょうに、どうやって越えて来たと」
「わ、わかりません。詳しいことまでは知りませんけれど、カルナ港はすでにエランド軍によって占拠されたと! 港をエランドの軍艦が埋めつくしているそうです!」
悲鳴じみた声にスーリヤ先生は口許を押さえてふらつく。私は急いで地図を引っ張り出した。
カルナ港――たしか、北西の方だ。ロウシェンでいちばん大きな港で、海上交通の重要な拠点となっているところ。アルギリに近く、ここからアルギリに向かう商隊もいると習った。
地図の上を指でなぞり、目当ての場所をたしかめる。そこからさらに、海へとたどる。エランド軍はどういうルートで来たのだろう。本国からは遠く離れている。支配地を中継して来たのか。
まさか、キサルスがまた攻め込まれて、こちらに報せる暇もなく陥ちた?
シーリースの目と鼻の先のキサルスからなら、冬の海を越えてでも攻め込めるだろう。でもそれなら、キサルスにはどうやって攻め込んだのだろう。近くに足場になりそうな支配地はないのだけれど。
海が穏やかな季節ならともかく、この時期にどうやってという疑問が晴れない。でも問題はそこじゃないな。すでにシーリースに上陸してしまったなら、それをどうやって撃退するかを考えないと。
「ミセナさん、上陸してきたエランド軍は、どのくらいの規模なんですか」
「わ、わかりません。一万とも、十万とも、情報が入り乱れて、誰も正確なことなんてわかってないようです」
万単位ってことはないんじゃないかな。元の世界とは人口が違うし輸送能力も低い。こっちで一万の軍をそろえるのは並大抵のことではない。陸路で進軍するならまだしも、船でやってくるならそこまでの数にはならないと思う。
まさか今攻め込んでくるとは思わなかった、その油断をつかれてみんなパニックに陥っているんだな。だから情報が大げさになる。あまり低く見積もるのは危険だが、過大に見積もることもないだろう。
ここでミセナさん相手に質問していても正確な情報はわからないから、二の宮へ行こうと立ち上がった。ちょうどそこへ、女官長がやってきた。
彼女はミセナさんを厳しい目で一瞥した後、私に向かって言った。
「すでにお聞きのようですが、エランド軍がわが国の領内に侵攻してまいりました。これに対処すべく、陛下と主立った方々で緊急の会議をしておられるところです。気になるのはわたくしどもも同様ですが、今むやみと行動しても邪魔になるだけです。どうか、ティトシェ様はこちらで陛下のお戻りをお待ちくださいませ」
少しも取り乱すことなく、いつもと変わりない冷静さで彼女は言う。正論に私は返す言葉がなかった。我を取り戻したスーリヤ先生もうなずき、私の肩に両手を置く。軽く押されて、私は椅子に腰を戻した。
「このような時ですから、なおさらあわてず落ちついた行動を心がけましょう。万一にも曲者が入り込んでいた場合、混乱に乗じて悪事を働く可能性もございます。ティトシェ様はくれぐれも、お一人になられませぬように。警備の騎士たちをこちらへ来させます。お部屋へは入れませんが、扉の外で警護いたします」
「……どうせなら、中へ入ってもらった方がいいんじゃないですか? 廊下は寒いし」
私が提案すると、女官長は軽く眉を上げた。
「男がおそばに張り付いてもかまわぬと? 気疲れなさるのではありませんか」
「それは、まあ……でも寒いの可哀相ですし」
そこでようやく、彼女は顔をほころばせた。
「お気遣いには及びません。彼らは慣れておりますし、外で警備するのに比べればずっと暖かいのです。問題はありません」
私が了承すると、女官長はミセナさんを連れて出ていった。多分叱られるんだろうな。でも彼女のおかげで新鮮な情報が手に入る。案外ありがたい人だ。
「先生、おうちのことが気になるんじゃありませんか? もう今日は授業って気分になれませんし、お戻りになってはいかがです」
さきほどからちらちら窓を気にするスーリヤ先生に言う。混乱しているのは宮殿だけじゃない。屋敷に残してきた子供や使用人がおびえていないか、気になるはずだ。
「ええ……そうですが……」
先生は私を気にして遠慮してくれる。でも正直、ここに先生がいたところでどうにかなるものではないし、帰宅して家族を安心させてもらった方がいい。そのうち旦那様も帰ってくるだろうし。財務卿なら戦関連の会議には出ないよね?
やってきた近衛騎士の一人に頼んで先生を送ってもらう。私は一旦ハルト様の部屋へ行き、本棚から勝手にあれこれ見つくろって持ち帰った。荷物持ちをさせられた騎士は、こんなことをしていいのかと気にしていた。うん大丈夫、多分叱られたりはしないから。
ハルト様はなかなか帰ってこなかった。ひとりの晩ご飯を済ませ、お風呂にも入って、それでもまだ戻らないハルト様を待ちながら、私は資料に目を通し続けた。
「……まだ起きていたのか」
ハルト様が私の部屋を覗きに来たのは、もう真夜中になっていた。
「おかえりなさい。お疲れさまです」
ランプの明かりで資料を読んでいた私は、急いで立ち上がる。
「ああ……早く寝なさい。風呂上がりのままずっと起きていたのか? 湯冷めしてまた熱を出すぞ」
どんな時でもお説教を忘れないお父様だ。
暗いところで見るせいだろうか。ひどく疲れたようすに見える。じっさい疲れているに決まってる。肉体的にも精神的にもくたくただろう。
「いっぱい着込んでますし、暖炉もガンガンですから大丈夫。ハルト様こそ、早くお風呂で温まってやすんでください。どうせ明日も忙しくなるんでしょう?」
「うむ」
帰ってきたらあれこれ聞こうと思っていたけれど、この顔を見たらとても無理は頼めなかった。最低限言いたいことだけを口早に伝える。
「ごめんなさい、勝手にお部屋の本を借りてきました。あとでちゃんと戻しておきますので」
「ああ、かまわぬ」
「あと明日、私も二の宮へ連れていってください。邪魔をしないで大人しくしていると約束します。単に正確な情報が知りたいだけです。できれば参謀室あたりに居候させてもらえるとありがたいんですけど」
「ああ……ん?」
やはり相当疲れているようだ。ぼんやりとうなずきかけたハルト様は、ようやく意味が飲み込めたようで驚いた顔になった。
「何を言っている。そなたが戦のことなど気にせずともよい」
「無理です。気にしたくなくても気になります」
「そ、それはそうだろうが……オリグも今は忙しい。そなたの相手をしている暇はない」
「近くにいるだけです。話しかけたり邪魔をしたりしませんから」
ハルト様は大きくため息をついた。
「そなたの知りたいことは、なんだ」
今教えてくれるということだろうか。でも話し始めたら長くなる。多分寝る時間がなくなるだろう。
「現状と今後の動向についてです。今ハルト様をわずらわせて睡眠時間を削るつもりはありません。自分で勝手に情報収集しますから」
「……大人しくここで待っているという選択はないのか」
「ハルト様が命令されるのでしたら。その場合、私はとても不安で落ちつかなくて、きっとまたご飯が食べられなくなるでしょうけれど」
「…………」
ハルト様はなんとも言えない顔で目を閉じて、うなりながら息を吐いた。
「心配せずとも、今すぐエランド軍が首都まで攻め上ってくるわけではない。すでに伝令が走り、各地の騎士団に出動命令が伝えられている。私も竜騎士団を率いて出る。けっしてルルパより先へは進ませぬから、そなたたちは普通にしていればよい」
ルルパというのは西部と中央部を区切る河だ。そこから先へは進ませないということは、そこまでは攻め込まれる可能性があるということだな。
電話もメールもない世界だから、カルナ港が占拠されたという報せがエンエンナに届くまでにも一日から数日かかっているのだろう。そして各地の騎士団が到着するまでにも時間がかかる。その間にルルパ付近まで進んでくることは覚悟しているのか。
そこまでの街や人々は大丈夫なのかな。無駄な殺戮に時間や労力を割いても損をするだけだから、エランドも進軍を優先するだろう。でもその途中必要に応じて略奪や殺人が起きるのではないかと心配になる。
そしてもうひとつ、聞き逃せないものがあった。
「ハルト様も、出陣されるんですか」
心臓がいやな音を立てて暴れ出す。身体が急に冷えていく気がした。
ハルト様は私を安心させようと微笑む。
「先手を打たれて皆動揺している。私が出ることで落ち着きを取り戻せるだろう。なに、私みずから剣を取って戦うわけではない。旗頭として目印になるだけだ」
そりゃあそうだろう。王様みずから戦う羽目になったら、もう負けだ。大将はいちばん後方に控えて、指揮を取るのが役目だ。
でも、戦場に出ることには変わりない。敵は当然大将の首を狙うだろうし、もしも……万一のことが起きたら――
「みな、命をかけて戦うのだ。国を守るために、家族や友人を守るために、覚悟をもって出陣していく。私も同じだ。みなと共に戦い、かならず勝利してこよう」
……そうだ。みんな命懸けで出陣するんだ。竜騎士団が出ていくなら、アルタやトトー君も……イリスも、戦いに行く。
みんな無事に戻ってきてほしい。でも戦争に犠牲者がひとりも出ないなんてことはありえない。勝っても負けても、かならず帰らない人がいる。
私は何も言えず、ただハルト様に抱きついた。ハルト様は何度も私の背中をなでて、大丈夫だとくり返してくれた。
大丈夫。きっとだいじょうぶだと信じたいのに、不安がやまない。
怖くてたまらない。二十一世紀の日本では、戦争なんて歴史か遠い国の話だった。身近なだれかが戦いに行くことなんて、考えもできない社会だった。
こちらへ来て、何度もきなくさい話を耳にしながら、まだどこか遠いことと受け取っていた。今はじめて、すぐそばの身近な話として実感する。
行ってほしくない。でも行かないと、敵の侵攻を止められない。
……せめて私にも、一緒に戦う力があればいいのに。
その夜、私はほとんど眠れなかった。寝台の中で不安と無力感に苛まれ、何度も寝返りを打っていた。辛い夜は早く明けてほしい。でも明日になったら、大切な人たちが戦場へ旅立ってしまう。
みんなこんな思いで家族を、友人を、恋人を見送るのだろうか。彼らの帰りをどんな思いで待ち続けるのだろう。私はちゃんと待っていられるだろうか。不安で不安で、すべてが終わるまでちゃんと自分を保っていられるかわからない。
どうして、こんな思いをしないといけないの。
エランドは、皇帝は、どうして戦をしかけるのだろう。自分たちの暮らしを守るための戦いなら、ここまで範囲を広げる必要はないだろうに。
それとも、そうしなければならない事情があるのだろうか。
私のちっぽけな頭でいくら考えても答なんて見つからない。ただみんなの無事を祈ることしかできなくて、何ひとつ役に立てない自分がどうしようもなく情けなかった。