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二の宮の廊下を大急ぎで進む。本当は全速力で走りたいところだけれど、私には一の宮から二の宮まで走り続けられる持久力はない。息を切らしながら、それでも精一杯の早足で目的の場所を目指していた。
辛い身体に鞭を打ち、胸が痛くなるほど急いでようやくたどり着いたそこには、すでに多くの人が集まっていた。
大広間や謁見室がある二の宮の中心、白天宮。その、下から来た場合の入り口、こちらから見ると出口になる広い階段の前に、騎士たちが集結している。それを中へ入れまいと制止しているのもまた騎士たちだ。大騒ぎでもめている集団を、宮に勤める役人たちが野次馬と化して遠巻きに眺めていた。
「団長を出せ!」
「陛下と宰相閣下にお取り次ぎ願う!」
「やめんか馬鹿どもが! 竜騎士が城に狼藉を働くとは言語道断だぞ!」
「うるせえ、どきやがれ! てめえにゃ用はねえ!」
「貴様ら、全員反逆罪で逮捕されたいのか!?」
「やれるもんならやってみろ!」
人垣をすり抜けてどうにか一番前まで出た私は、飛び交う罵声と殺気立った空気に立ちすくんだ。たくましい騎士たちが怒鳴り合っているようすは、離れて見ていても怖い。とうていそばまで近寄ることはできなかった。
一触即発の光景だった。押しかけた竜騎士たちと、宮殿を警備する近衛騎士たちは、今にも腰の剣に手をかけそうな雰囲気である。同じロウシェンの騎士同士で刃傷沙汰なんてとんでもない。なんとかして止めたいけれど、私なんかじゃ割り込むこともできない。はらはらして見ていると、ひときわ大きな声が辺りに響いた。
「騒々しい! 神聖なる公王陛下の宮殿で、なにごとか」
おなかに響く低音の、迫力ある声はアルタだ。竜騎士団長の登場に、もみあっていた騎士たちがいっせいに注目した。
野次馬があわてて身を引いて場所を譲る。自然にできた道を大股に歩き、アルタは堂々たる巨体を騎士たちの前に現した。
「団長!」
竜騎士が必死の形相で彼に詰め寄ろうとし、また近衛騎士に止められる。
「処分の撤回をお願いします!」
「隊長が降格なんて納得できません!」
「厳しすぎるぜ! 何も降格までしなくてもいいだろうが!」
「竜騎士だからって、無駄に厳しくすんじゃねーよ! 他の団ならもっと軽い処分で済むところだろうがっ」
「不祥事を起こした当事者でもねえっつうのに、なんでここまで厳しくされなきゃなんねーんだよっ」
押しかけてきているのは、全員が飛竜騎士だった。それは見ただけでもわかっていた。飛竜騎士は総じて細身で、あまり大柄な人はいない。重すぎると飛竜に負担がかかるからだ。アルタのような人は飛竜隊には適さないと、事前審査で落とされる。
中には見覚えのある顔もあった。最前列に立つ赤っぽい金髪の騎士はジェイドさんだ。つい先日まではイリスの副官だった。そして今回、隊長に昇格という辞令が出たばかりだが――
「今回の決定には飛竜隊全員で抗議する! 我々はイリス・ファーレン・フェルナリス以外の隊長は認めない!」
険しい顔で彼は宣言した。
宮殿前に集まった騎士の数は、ざっと百人くらい。言葉どおり飛竜隊総出で詰めかけたらしい。
アルタは苦い顔で息を吐いた。
「ったく、馬鹿どもが。撤回なんぞできるか。処分は正式に決定されたんだ。見苦しくガタガタ騒ぐんじゃない」
「認めないって言ってんだよ!」
ジェイドさんは階段に足を踏み出した。止めようとした近衛騎士を、アルタが腕を振ってさがらせる。途中まで昇ってきた彼とにらみ合った。
「お前たちが認めようが認めまいが、決定は変わらん。いやしくも国に仕える騎士ならば、上の決定に逆らうような真似をするんじゃない」
「こちらに不手際があったことは認める。だが責任は隊長ではなく、俺にある。問題の隊員を直接指導していたのはこの俺だ。処分は俺に下されるべきだろう。隊長が降格で俺が昇格とは、あべこべだ。断固抗議する!」
「ああそうかい、ならば貴様にも処罰をくれてやる。それで他の者に隊長職が移るだけだ。それで満足か」
「イリス隊長以外は認めねえって言ってんだよ!」
「他の誰も引き受けねーぞ! 馬鹿にすんな!」
アルタの言葉に、たちまち後ろの集団から野次が飛ぶ。アルタは舌打ちして彼らを見回した。
「お前らなぁ……」
「理不尽な命令には従えん! 正式決定なんぞ、くそくらえだ!」
ジェイドさんがきっぱりと言い切る。そこまで言っちゃっていいのかな。組織の一員として、これはまずすぎるんじゃないだろうか。そう思った直後に、アルタが案の定なことを言った。
「命令に従えないというのなら、団を抜けるんだな。そんな言い分が通らないことは百も承知だろう。あくまでも決定に逆らうなら、竜騎士の身分を捨てる覚悟をしてもらおうか」
冷徹な声にひやりとする。これ以上はだめだ――そう思うのに、ジェイドさんは強気に言い返す。
「いいとも、捨ててやる! こんな形で隊長職を押しつけられるくらいなら、今すぐ辞職してやるぜ!」
「隊長と副長だけにさせるかよ。俺たちも抜けるぜ」
「飛竜隊百二十一名、そっくり全員退団してやる!」
「もとよりその覚悟で来てらあ! 舐めんじゃねえ!」
「よぉおしわかった、貴様ら全員クビだ! 望み通りクビにしてやる! 今すぐ出ていけ!」
額に青筋立ててアルタが怒鳴り返す。もう完全に、売り言葉に買い言葉だ。私はくらくらする頭を抱えた。
どっちも頭に血が上っている。このまま続けても、いずれ殴り合いに発展するだけだろう。どうしたものか。
強行手段で止めるしかない。あまりやりたくない方法だけれど、竜を呼んで邪魔させようか――そう思った時、鞭のような鋭い声が割って入った。
「何をしている! 全員さがれ!」
イリスだった。一瞬その場の全員を黙らせる迫力で放たれた声とともに現れ、アルタの前に立った。
「隊長……っ」
「集団でごねて無理な言い分を通そうとするなど、騎士にあるまじきふるまいだろう。あげく全員で抜けるなどと脅しがましいことを言って、恥をさらしているだけなのがわからないか。飛竜隊は無法者の集団だと言われたいのか!? 竜騎士の誇りを忘れていないならば、これ以上の醜態をさらすんじゃない! 全員さがれ! 剣を置いて膝をつけ!」
アルタに負けない気迫と大声で命じた彼に、騎士たちが後退る。ジェイドさんも押されるように後ろ向きに階段を下りた。めいめい腰から鞘ごと剣を抜き取り、傍らに置いていっせいに片膝をつく。それを見届け、イリスもまた後ろへ向き直ってその場に膝をついた。
「お騒がせをして、まことに申しわけありません」
胸に手を当て、深く頭を下げる。アルタは腰に手を置いて大きく息をついた。
「イリスを慕うそなたたちの気持ちは、よくわかった」
静まり返った場に、穏やかな声が響いた。騎士たちがはっと顔を上げる。ハルト様が宰相を従えて立っていた。多分イリスと一緒に来ていたのだろう。イリスは驚くようすもなく、頭を下げたままだった。
「飛竜隊の結束の固さ、頼もしく思う。だが規律の大切さを、今一度思い起こしてもらいたい。騎士団の一員として、こうした行動が正しいのか否か――今さら言われるまでもなく、全員承知のことであろう。承服しがたい気持ちは理解できるが、騒いだところでそなたたちの、そしてイリスの評価を下げるだけだ。こたびの処分については、そうする必要があると判断して決定した。私やアルタの判断を、そなたたちは信じられぬか? その剣と忠誠を捧げるに値しないと見限ったか?」
イリスやアルタのような迫力も大きさもない、静かな声でハルト様は騎士たちに問いかける。威圧するような雰囲気もない。ただ静かな威厳だけがあった。けっして荒らげられることのない声が、落ち着きを取り戻した人々の耳にしみ込んでいく。
それぞれ内心は複雑だっただろう。でも公王に面と向かって信じられないかと聞かれて、その通りとは言えない。まだ若干の不満とともに、沈黙が広がる。ハルト様は言葉を続けた。
「過ぎたことに対して、言い訳や抗議を重ねてもなかったことにはできない。不服や後悔があるならば、今後の働きによって克服してみせよ。人の心を動かすのは、真摯な努力のみだ」
騎士たちから反論は出なかった。どうやらこの場はおさまりそうだ。私はひとまず安堵して、そっと人垣に身をまぎれ込ませた。ここにいることに気付かれたら叱られる。イリスやハルト様に見つからないよう、柱の陰に身を寄せた。
「……やれやれ、騎士とは言っても無頼者と変わりませんな」
近くの役人らしいおじさんが、そばの人にささやいた。
「これだから竜騎士は。自分たちは特別だとの思い上がりがあるのですよ」
相手も同じようにささやき返す。どうも彼らは竜騎士に対して、あまりいい感情を持っていないようだ。
「じっさい、まあ、特別には違いありませんからな。竜騎士にこぞって離反されたのでは、わが国の軍事力に大きく影響します。それを見越しての馬鹿騒ぎでしょうが……」
「卑怯な真似としか言えませんな。今回不祥事を起こした騎士にしても、根底にそうした思い上がりがあってのことでしょう。正直陛下のご裁量は甘すぎる気がします。一度厳しく罰して、連中に己の立場を思い知らせる必要があるでしょうに」
騎士たちが解散させられ、ハルト様も戻っていく。集まった野次馬たちが散り始め、ささやきは普通の声での会話になってそこかしこで交わされていた。私の姿に気付いて、こちらを見ながら何か言っている人たちもいる。事件に私が関わっていたことも、すでに知られているのだろう。好奇の視線をあちこちから向けられたが、あまり気にしている余裕はなかった。
戻らないと、とは思うけれど、動くのが辛くてその場にしゃがみ込む。冷たい石の柱に額を当てると気持ちよかった。ちょっと休んで落ちついたら戻ろうか――と思っていたら、だれかがそばにやってきた。
めんどくさいな。ほっといてくれるのがありがたいんだけど。
「……立てない?」
聞き覚えのある声がした。閉じていた目を開けると、赤い髪が視界に飛び込んでくる。榛色の瞳がすぐそばから私を覗き込んでいた。
「無理して飛び出してくるからだよ」
トトー君は淡々と言って腕を伸ばした。私に抵抗する暇を与えず抱いて立ち上がる。
「……かなり熱いね」
「だいじょうぶ……」
私の返事を無視して、そのままトトー君は歩き出す。ハルト様が戻って行ったのと同じ方向だ。多分、政務区域である黒天宮へ向かっている。ハルト様のもとへ連行されるのかな。
「……あっちの方が近いか……」
出てきたことがハルト様に知られればどれだけ叱られるか、容易に想像がつく。でも抵抗する気力もない。私は話すのも億劫で、もういいやとなげやりな気分で目を閉じた。
突然のリヴェロ公王訪問から二日後に、イリスの降格処分が公表された。
花形職であり、当人も人目を引く派手な存在だったため、このニュースは人々にかなりの衝撃を与えたようだ。今、城の内外を問わず、その噂でもちきりらしい。
私はというと、そのイリスの予言が的中し、熱を出して寝込んでいた。寒い中で汗をかいては冷やしをくり返したからね。そりゃ熱くらい出すよね。自業自得と言われれば返す言葉もない。
最後は雪が降る中を何時間もうろつき、動けなくなったところを人に発見されて一の宮に担ぎ込まれてしまった。ハルト様はこのうえなく苦い顔をしていたけれど、高熱にうかされる私にお説教をしてもしかたがないと、とりあえず後回しにしてくれた。カームさんのことについても、まだ何も話し合っていない。
二日ではまだ熱は下がらず、自室で寝たきり状態になっていた私には、当然世間の状況なんてわからない。あれからどうなったのか気になって、ちょうど世話をしに来てくれた女官に聞いてみた。
「はい、イリス様への処分については、今朝発表されました。下はすごい騒ぎですよ。イリス様って人気ありますからねえ。その分妬む人も多いですし、当分この噂でもちきりでしょうね」
噂好きなミセナさんは、隠すことなく教えてくれた。隠すどころかこの話がしたくてたまらなかったのだろう。そういう人だとわかっているから彼女に聞いたのだ。他の女官なら、ごまかしてちゃんと教えてはくれなかっただろうから。
「みんなの反応はどんな感じですか?」
「そうですねえ、ただ驚いたっていうだけの人が多いですけど……賛否両論といったところですか。イリス様を隊長から外して、それでうまくやっていけるのかって心配する人もいます。反対に、処分が甘すぎるなんて言う人もいて――まあそういうのは、元からイリス様に、というより竜騎士に対して反感を抱いてる人たちですからね。なんでも口実があれば批判したいだけだと思いますけど」
目立てば叩かれることも多くなる。どこの世界でも同じだな。そういう相手につけ入る隙を与えないように、先手を打ったのが今回の処分だ。あれこれ言ったところで、もう処分が下されてしまっているのではどうしようもない。
アルタもハルト様もイリスを手放したくはない。だから騎士として、実質的には変わりなく働けるよう降格処分にとどめた。それを厳しいととるか甘いととるかは、見る側の印象次第だ。
客観的にとらえるなら、多分妥当というところなのだろう。
私自身は、とても残念だけれど……。
「ああ、飛竜隊の方々はひどく反発しているようですね。ノルが教えてくれたんですけど、陛下に直訴しようって相談をなさっていたとか」
「――え?」
思わず聞き返した私の反応を取り違えて、ミセナさんは説明してくれた。
「ほら、毎朝牛乳を届けてくれる男の子――って言ってもわかりませんかしら? 栗色の髪に、そばかす顔の」
「いえ、その子のことなら知ってますけど。私と同じくらいの年の子ですよね」
「ええ、そのノルですわ。彼、飛竜隊の隊舎にも出入りしているんです。なんでも騎士たちが、とても真剣な顔で相談していたらしいですよ。全員で抗議に出向けば陛下も無視はできないはずだ、とか」
「……それ、いつの話ですか」
「今朝ですよ。ノルは夜明け頃に飛竜隊の方へ行って、その後こちらへ上がってくるんです。さっきこんな話を聞いたって、興奮したようすで教えてくれました。人の多い昼頃に決行すると言っていたらしいですから、ちょうど今頃押しかけてるんじゃないでしょうかねえ」
ことの重大性がわかっていないのか、ミセナさんはのんきに言う。でも直訴って、そんなことをして大丈夫なのだろうか。さらに状況を悪くすることにはならないだろうか。
私はいてもたってもいられなくなり、まずは一の宮を脱走することにした。まだ話し足りないようすのミセナさんを、疲れたから寝ると言ってさがらせ、ひとりになるや大急ぎで身支度を整えた。クッションで布団を盛り上がらせるという古典的な偽装工作をほどこし、人目につかないよう窓から抜け出した。
まだ熱は全然下がっていない。寝ていても辛い状態だから、歩き回るなんて無理なのだけれど、この時は焦る気持ちの方が強くて力を出せた。途中、すれ違う人々の声が耳に入り、騎士たちがすでに二の宮の入り口に詰めかけていることがわかった。
行って私に何ができるわけもないのに、とにかく急がなければとの思いで必死に足を動かし、どうにかたどり着いて。
――けれど結局、ただなりゆきを眺めただけだった。
場をおさめたのはイリスとハルト様だ。私は周りに集まる野次馬と何も変わりなかった。
危惧した状況は回避されてよかったけど……私、何をしているんだろうな……。
事件の中心にいる当事者なのに、状況に振り回されるばかりで何もできていない。イリスのことも、カームさんのことも、メイリさんのことも……。
自分の身一つままならず、寝込むばかりで。
熱で辛い身体以上に、落ち込む気持ちの方が重たかった。
トトー君が私を連れて行ったのは、ハルト様の執務室ではなく、以前にも来た参謀室だった。
「休ませてもらうよ。そこの椅子、片づけて」
室内にいた参謀官たちに言って長椅子を空けさせる。物置と化していた椅子が元の姿を取り戻すと、トトー君は私を横たえた。
「オリグ、薬を出して」
「薬など、症状に合わせて選ぶものです。すでに医者の処方したものを飲んでおられるでしょうし、勝手な判断で違う薬を飲むのはよろしくありませんな」
私よりよほど死にそうな顔色のオリグさんは、今日も飄々と仕事についていた。トトー君に言い返しながらも席を立ち、戸棚に向かう。眼鏡のお兄さんがどこからか毛布を引っ張り出してきて、私にかけてくれた。
「うわー、すごい熱。こんな身体でよく出てこられたねえ」
「ホーン、声が大きいよ。病人のそばでさわがないで」
「え、そんなに大きかった? 団長ほどじゃないと思うんだけどなあ」
眼鏡のお兄さんはホーンさんというのか。多分三十歳前後の、いつも陽気な感じの人だ。
他の人がしぼった布を持ってきて額に乗せてくれた。この人はたしか、私の服装にやけに興味を持っていた人じゃなかったっけ。今はうるさく話しかけることもせず、私の具合を心配そうに見ている。
「とりあえず、これでも飲んでいなさい」
オリグさんがカップを持ってきた。半身を起こして受け取ると、何やら複雑な匂いがする。
「なに、それ」
トトー君も不思議そうに覗き込む。
「薬というほどのものでもありません。身体を温めるものです。ひと眠りして汗をかけば、少しはましになるでしょう」
生姜湯みたいなものかな。くせのある匂いをがまんして口をつける。味もなんというか……苦いような、辛いような、お世辞にも美味しいとは言えないものだったが、薬だと思って頑張って飲み干した。カップを返し、ぐったりと倒れ込む。今この瞬間に限っては、逆にとどめを刺された気分だった。
「姫君はなんでこんな状態で出てきちゃったの? 竜騎士たちの直訴を見に来たのかな?」
一応気をつかっているらしく、さっきよりも抑えた声でホーンさんが尋ねた。額に布を当てなおし、私は力なくはいと答える。
「ありゃりゃ。先に知らせておいた方がよかったんじゃない?」
今度声をかけたのは私にではなく、トトー君に対してだ。トトー君はひとつ息をついて、長椅子の肘掛けに腰を下ろした。
「何も知らずに聞いたから、あわてちゃったんでしょ」
「だからって、出てくるとは思わなかったよ……普段は閉じこもってるくせに、こういう時だけ行動的なんだから」
「……どういうこと」
頭がうまく回らない。先に知らせておくべきだったって……彼らは知っていたということ? 竜騎士たちが騒ぎを起こすと、事前に把握していたのだろうか。
「……あの騒ぎを起こさせたのは、オリグだよ」
……は?
意味がすぐには飲み込めない。だめだ、熱で頭がいかれている。私は説明を求めてオリグさんを見、トトー君に目を戻した。
「騎士たちをそそのかして直訴に踏み切らせた……だよね?」
最後のところでトトー君は室内にいる人たちを見回す。笑ってごまかす人、そっぽを向く人、それぞれの反応だ。オリグさんの表情は変わらなかった。この人の無表情ぶりはトトー君の上を行く。何を考えているのかさっぱり読めない。
「どうして……」
私の問いにはトトー君が答えてくれた。
「イリスを隊長に戻すためだよ」
「え……と、でも、あれで要求が聞き入れられるとは思えないんだけど……アルタはすごく怒ってたし、ハルト様も……」
反論しかけて、ふと何か引っかかった。鈍った頭をなんとか回転させて答えを見つけようとしていたら、トトー君が手を伸ばして私のおでこに置く。目まで覆われて、動きかけた思考が停止した。
「無理して考えない。熱が上がるよ……アルタとハルト様も承知のことだよ。つまり、あれは仕組まれた芝居だったってわけ」
「…………」
――芝居。あの騒動が、全部狂言だと?
「もっとも、当の騎士たちはそうと気付いてないだろうけどね……自分たちで考えたつもりで、うまいこと踊らされたんだ……団長が憎まれ役を引き受けてくれているとも知らず、本気で腹を立ててただろうね」
協力……アルタが、本当はわかっていて調子を合わせていただけだというのか。
とてもそんなふうには見えなかった。アルタも本気で怒っているように感じた。あれがお芝居だったというなら、とんでもない大狸だ。
「アルタはそういうこと、上手だよ……今頃は盛大に愚痴って、イリスに当たってるだろうね」
イリス、と名前を聞いて反応してしまう。
「……イリスも、知っていたの」
トトー君は首を振った。
「いや……イリスは逆に、そういう芝居は下手だから……それに知れば、やめさせようとするだろうしね」
「隊長に戻すって……」
それまでだまっていたオリグさんが口を開く。
「さきほどの騒ぎをご覧になったならば、おわかりでしょう。現在の飛竜隊は、彼を中心によくまとまっている。これを崩すのは望ましくありません。他の者に指揮能力がないわけではありませんが、騎士たちの士気に大きく関わる問題です。できることならば、イリス殿を隊長のままにしておきたかったというのは、陛下もアルタ殿もついでに宰相閣下も共通の見解です」
「でも、それはできないって……」
「さよう。状況を鑑みれば、処分を下さないわけにはいきません。いくら人望があるとはいえ、失態を犯したのは事実です。規律と実情との板挟みになって、陛下も悩まれたのです」
私たちの乱入をきっかけに、参謀室は休憩時間になったらしい。手際よくお茶の用意がされお菓子も出てきた。この雑然とした部屋のどこにそんな設備があるのか、衛生面に問題はないのか、深くは考えまい。散らかっているだけで異臭がただよっているわけではないから、多分大丈夫なのだろう。それぞれの手にお茶が行き渡り、トトー君にもふるまわれた。私は遠慮しておいた。衛生面が気になったからではなく、さっきの薬湯(?)でおなかいっぱいなのだ。
「明らかな贔屓をすれば、新たな問題を生じさせる。イリス殿にとってもよい結果にはならない。どうあっても彼を処分するよりありません。なので一旦は隊長職から外し、しかしいずれまた戻す――いわゆる大人の事情というものですな」
細長いクッキーをぽりぽりかじりながら、オリグさんはしれっと言った。
「彼の存在がいかに必要であるかを衆目に知らしめておき、いざという時にやはり隊長は彼でなければ、とやります。幸いに、と言うのは不謹慎かもしれませんが、その機会は遠くない。エランドとこのままでは済まないでしょうからな。いずれ竜騎士が出動する時が来れば、戦時のどさくさにまぎれて多少無理な人事もまかりとおります。功績を十分に立てておけば批判も封じられる。今回の一件は、そのための布石です」
「…………」
私は目を閉じ、深々と息を吐いた。
なんだよ、もう……すごく心配したのに。そんな裏があったなんて。やっぱり大人はずるいな。安心した。
「でもそれ、よっぽどうまくやらないと、逆に足をすくわれかねませんね」
「いかにも。芝居であると見抜かれてはだいなしです。なので騎士たちには、真相は知らせておりません。彼らには本気で直訴してもらわねばなりませんでした。本気の覚悟と気迫あってこそ、人々の印象に残りますから」
ジェイドさんたちもかわいそうに。まんまと乗せられていることにも気付かないで、今も悩んだり憤ったりしているんだろうな。彼らの願いをかなえるためなのに、そうと教えてあげられないのが不憫だ。
種明かしをされて安心したからか、眠気が襲ってきた。さっきの薬湯も効いたのかも。まぶたが重い。周囲の話し声を聞きながら私はとろとろと眠りに落ちかけた。でも突然に扉が勢いよく開かれた音で、また目が覚めてしまった。
「うわ! イリス様、もっと静かに開けてくださいっていつも言ってるじゃないですか!」
扉近くに積まれた書類の山が雪崩を起こしていた。それを無造作に踏み越えてイリスは中に入ってきた。
「こんなに積み上げてるからだろう。いい加減ちょっとは片づけろよ」
抗議をはねつけてまっすぐにこちらへ向かってくる。私は寝返りを打って彼に背を向けた。
「お静かに。病人の前です」
「その病人がなんでこんなところにいるのか聞きにきたんだよ」
オリグさんに言い返す声は怒っているようだ。私は寝たふりで無視を決め込む。
「聞くまでもないだろう……あの騒ぎは一の宮にまで伝わったってことだよ」
「一の宮も大騒ぎだよ。ミセナが半泣きで駆け込んできた。どうせ教えたのは彼女だろうけど」
「少し落ちついてきたところだから……無理に動かすより、このまま休ませておいた方がいいよ」
「こんなとこじゃ、落ちついて休めないだろう。静かな部屋の寝台で、ちゃんと手足を伸ばしてゆっくり寝た方がいい」
「だから、もうちょっとしてから……」
「チトセ、いつまでそうしてるつもりだ。みんな心配してるんだぞ。人の忠告を聞かずまんまと熱を出したくせに、今度はおとなしく寝ていることもできないのか。小さい子供じゃあるまいし、馬鹿な行動もたいがいにしろ」
イリスの声が怖い。でも振り向くことはできなかった。
失恋決定なのは最初からわかっていたけれど、それをよりはっきり思い知らされた三日前のできごとからまだ完全に立ち直れていない。今は彼の顔を見たくない。また泣きそうになるから。
こうして声を聞いているだけでも胸が痛くなる。イリスがそばにいる。私を気にかけてくれている。とてもうれしいのに……けして特別な気持ちからではないのが、寂しくて、かなしくて、たまらない。
舌打ちが聞こえた。さらに踏み出す足音がする。
「いい加減に――」
強引に起こされるのだろうか。私は身をすくめた。でもなかなか触れてこない。なにやらあわただしい物音が聞こえるのに、どうしたのだろう。
そう思っていたら、ドンと鈍い音が響いた。思わず振り向いて音のした方を見れば、イリスの胸ぐらをつかみ上げたトトー君が、彼を壁に押し付けていた。
「そんなに……」
驚くイリスに、トトー君が低く声を出す。滅多に感情を見せない彼が、怒りをはっきりと表していた。
「そんなに心配するんだったら、横からちょっかい出させてるんじゃない。肝心な時に動かないで、こんな時ばかり騒ぐな」
「なに、を……」
呆気にとられるイリスを乱暴に突き放し、そのままトトー君はふいと出て行ってしまう。残された私たちの間に沈黙が広がる。イリスが困惑した顔でこちらを見て来、私と目が合った。
お互いに、何も言えなくて。
気まずくなったのも、一緒だろう。
結局イリスはそれ以上私を叱ることなく、オリグさんに頼むと、トトー君の後を追って出て行った。
……なんだったんだろう、今のは。
トトー君は何を伝えたかったのだろう。イリスだけじゃなく、私にもよくわからなかった。
熱にうかされた頭では思考をまとめることもできず、そのまま私は眠り込んでしまった。眠っている間に運ばれて、目が覚めた時には一の宮の寝台の中だった。オリグさんの薬湯が効いたのか少し楽になっていたけれど、イリスに対する気まずさは消えないままだった。