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光と影3



 大使館からの呼び出しだと聞いていたのに、間違いだったと言われて苛つきながら歩く。急いで戻らなければならないが、戻る先がティトシェのもとだと思うと足も重くなる。豪壮な城の中、どこにも落ち着ける場所がなくてうんざりだ。

 少しだけ、戻る前に気持ちを静めたくて、人の少ない庭園に踏み込んだ。方向はちゃんと把握している。こちらからでも、迷わず戻れる自信はある。

 冬が間近に迫る今、花は少なかった。それでもさすがに王宮の庭園だけあって、美しく整えられている。色とりどりの花が咲く季節とは違う、静かな美しさがあった。

 落ちついた風景にほっとなった。あたしの心もこんなふうに、いったん休んでまた花を咲かせられるようになるだろうか。

 ティトシェが嫌いなのはどうしようもない。どうしたって好きにはなれない。でも憎むのは行き過ぎだ。せめてもう少し落ちついて彼女を見られるようになれば、もっと心穏やかでいられるのに。

「あら、あなたは……」

 ゆっくり歩いていると、鈴を振るような声がした。植え込みの向こうから、華やかなドレスが現れる。寂しい庭園に、とたんに花が咲いたようだった。

 相手の姿をたしかめるなり、あたしは一歩さがって礼をした。今朝見たばかりの顔だ。名前は知らないが、かなり身分の高い人だということはわかる。あたしと同年代の、とても美しい少女だった。

「ロウシェンの騎士殿ね。お一人? 彼女は一緒ではないのかしら」

「……はい。ティトシェ嬢は部屋にいらっしゃいます」

 さんざん言葉づかいで注意された後だから、できれば貴人とは口を利きたくない。けれど話しかけられれば答えざるをえない。あたしは慎重に答えた。

「あらそう。まあお兄様は執務中ですものね……ああ、失礼、わたくしはミルシアと言います。カーメルお兄様の従妹ですわ」

 リヴェロ王族の姫君か。予想以上の大物だ。内心冷や汗が流れる。

「ロウシェン飛竜隊の、メイリ・コナーと言い……申します」

「そう。お歳はおいくつ?」

「十七歳です」

「まあ、わたくしよりもひとつ下? それで竜騎士とは優秀なのね。他国のことですし、あまり詳しくはありませんけど、とても厳しい選抜があるのでしょう? 若年で、しかも女性の身で叙勲されるなんて並大抵のことではないでしょうね」

「……おそれいります」

 手放しの称賛に、あたしはただ頭を下げた。親しげに話しかけられたからって油断はできない。リヴェロ公はけっこういい人だったけど、従妹もそうだとは限らない。

 こんなふうに誉めるふりをしながら、内心であたしを見下す女はたくさんいる。それにこの姫君は、廊下で出くわした時ティトシェにけっこう厭味なことを言っていた。その後もえらい殺気を漂わせてにらんでいた。見た目どおりの可憐な姫君とは思わないほうがいいだろう。

 あんまりかかわらない方がいいだろうな。そう判断して、失礼しようと思っていたのに、ミルシア姫はさらにあたしに近づいてきた。

「あなたとはぜひお話してみたかったの。気を悪くなさらないでね? 女騎士というだけで珍しがるのは失礼かもしれないけれど、憧れてしまうのですもの。それに……ねえ? あなたとは気が合いそうだと思ったのだけれど」

 あたしに顔を寄せて、甘い声でささやいてくる。何を言いたいのか。あたしは警戒心を強めた。

「隠さないで……わたくしには、わかるの。あなたがどんな気持を抱えているのか。だって同じなんですもの。わたくしも、あの子は嫌い。とてもいやな子よねえ。図々しくて、偉そうで、身の程をわきまえない思い上がったふるまいばかりで。あの子が本当にロウシェン公の娘だというならまだしかたがないと思えるけれど、血のつながりはなくて、正式な養女でもないと聞くわ。なんでも、出自のはっきりしないあやしげな娘だとか。ただ後見を受けているだけだというのに、なぜあそこまで思い上がれるのかしらね」

「…………」

 身を固くしてミルシア姫の言葉を聞く。たしかにその通りだ。あたしもまったく同じことを思っている。でもここで、うかつにうなずくわけにはいかない。

「周りがロウシェン公に遠慮して厳しく言わないのがいけないと思うの。それを自分に対する敬意と勘違いしてしまったのね、きっと」

「…………」

「あなたのような立派な騎士が、あんな素性のしれない娘に従わされるなんてお気の毒なこと。ロウシェン公も少々ひいきがすぎるわよね。お兄様もロウシェンへの配慮があるから無下にはできないし。それをいいことに、ますますあの子はつけあがって、この宮殿でも我が物顔よ。本当に、どうしようもない子」

 ティトシェがリヴェロ公と仲良くしているのが気に入らないんだろうな。たしかに、あれは度が過ぎていると思う。ジャスリー大使にも叱られていた。なんでも式典会場では、まるで愛人のようにふるまっていたそうだ。ロウシェンの恥だ。まったく。

「あの子には自分の立場を思い出させる必要があるとは思わない? 借り物の威光を笠に着て大きな顔をするのは間違いだと、一度きっちり思い知らせて反省させるのが、あの子のためでもあると思うの」

 やはり悪口を言うだけで済ませる気はないようだ。ミルシア姫は声をひそめて言う。あたしを仲間に引き込もうという腹か。

「ああ、そんな顔をしないで。何もおそろしいことなど考えていないわ。当たり前でしょう? いくら嫌いだからって、危害を加えたりするものですか」

「……はい」

「思い上がった子に、ちょっとお灸を据えるだけよ。あのね、この宮殿の一角に、昔囚人の牢獄として使われていた塔があるの。その地下はとても暗くて不気味で、一人では怖くて入れないような場所よ。そこにちょっとだけ閉じ込めて、怖い思いをしてもらうわ。もちろんすぐ出してあげるわよ? あの子がちゃんと反省したらね」

 いかにも女らしい発想だな。内心少し笑ってしまった。暗い場所に閉じ込めて、怖がらせておしまいか。その程度で気が済むんだから、可愛いものだ。男の場合、気に入らない奴がいたらとりあえず殴る。喧嘩が集団化して大騒ぎになって、たまたま近くにいたからって鎮圧に駆り出されたこともあったっけ。あの光景を思えば女同士の喧嘩は平和だな。陰湿だけど。

「わたくしが誘ったって、きっと乗ってはこないわ。だからね、お兄様のお誘いだとでも言って、彼女を連れ出してくれない?」

「……そういうわけには」

 いくらたわいのない嫌がらせとはいえ、簡単にうなずくわけにはいかなかった。あたしの立場でそんなことに手を貸すのは許されない。

「あなただって、彼女には腹にすえかねているのではなくて? 好き勝手なふるまいを続けられては、ロウシェン公が笑い物になってしまわれるわよ。すでに式典の夜のことは、貴族や役人たちの間で語り種になっているもの」

 ……そんなにひどいありさまだったのか。大使もはしたない浮かれ女のような真似だと言っていたが……特使の立場にありながら外国で恥をまき散らすだなんて。またティトシェに対する怒りが熱を持ち始める。

「彼女をもう少しおとなしくさせたいとは思わない? 誰にもとがめられることはないと勘違いしている馬鹿な子に、きちんと現実を思い知らせて反省させるの。そうしたら、これ以上ロウシェンが恥をかくこともないわ」

「…………」

 たしかに、ティトシェの恥知らずなふるまいは止めたい。けれど嘘をついて連れ出して怖がらせるなんてことをしたら、当然あいつは大使に言いつけるだろうし、公王様や隊長の耳にも入るだろう。

 隊長はきっとティトシェの味方をする。あいつが弱々しく泣きつけば、一生懸命かばってなぐさめて、そしてあたしを責めるだろう。

「だいじょうぶよ、あなたの立場はわかっているわ。あなたが協力したと知られれば、厳しくとがめられるでしょうね。だから、あなたは何も知らない。お兄様からの伝言だと聞いて、彼女を誘い出すの。塔まではわたくしの侍女が案内するわ。そしてあなたは、外で待っていればいい。中で何があったのか、知らなかったって言えばいいのよ」

 ミルシア姫の後ろに女官の姿をした女が現れる。仮面をかぶったような、冷たい無表情をしている。

「あなたにとがめが行くようなことにはしないわ。外で待てと言われたから待った、中にはわたくしとその随従がいるのだから心配はないと思った――そう言えばいいのよ。それであなたはちゃんと職務を果たしたことになるでしょう? あとは、わたくしのしたこと」

「でも、それでは……」

「うふふ、わたくしが叱られると思ってる? だいじょうぶよ。誰もわたくしを叱ったりしないわ。だってわたくしはいずれリヴェロ公妃になるのですから。内々のこととはいえ、お兄様と婚約しているのよ」

 ……そうだったのか。それは、ティトシェのことが許せないはずだよな。目の前で婚約者にベタベタされたら、怒って当然だ。

 リヴェロ公も婚約者のいる身で他の女にコナかけるのはどうなのか。まあ身分の高い男ってのは、浮気性が多いらしいよな。公王ともなると、妾妃とか言って堂々と愛人囲えるらしいし。

 どいつもこいつも、くさってるな。楽しそうにいじめの相談をもちかけるこの姫君も、相当いい性格だ。ティトシェと五十歩百歩なんじゃないのか。

 ……しかし、この計画自体には心が揺れた。あたしの立場ではやっちゃいけないことだけれど……でもこのままティトシェを放っておいたら、ロウシェンが笑い物になってしまう。大使も叱る割に罰を与えるわけではないし、行動を制限もしないし。やっぱり公王様が後ろにいるからってことで、腰が引けるんだろう。そうやって甘やかされるから、ティトシェがどんどんつけ上がるんだ。

 怖がらせるだけなら……それだけなら……。

 ティトシェに少し痛い目を見せてやる。それは、とても強い誘惑だった。彼女の行き過ぎたふるまいを止めるというのが半分くらい口実なのは自覚していた。もともと嫌い、憎んでいた相手だ。たまにはひどい目に遇ってしまえという気持が根底にあった。

 それは、いけないことだけれど……。

 でも、怖がらせるだけ……暴力をふるうわけではない……。

 ティトシェが一度ひどい目に遇えば、少しは溜飲も下がってあたしは憎しみから解放されるかもしれない。あいつが泣いて、自分の思い上がりを自覚すれば……そうしたら、あたしはもっと心穏やかになれる。あいつを前にしても憎悪を抱えずにすむだろう。ちょっとくらいは、優しくしてやれるかも。

 ――この時誘惑に負けてしまったことを、あたしは後々まで深く後悔することになる。だがずっとひとりで憎悪の闇をさまよい続け、あたしは救いを求めていたんだ。ミルシア姫の誘いは、そこから抜け出せる道に思えたのだ。

 結果を言えば、あたしは溜飲を下げるどころかますます深い憎しみにはまり込むことになった。ミルシア姫の計画は、最初から見抜かれていた。あたしが誘われ、乗ったことも承知で、やつらは罠を張っていたのだ。ティトシェが塔の中へ入った直後にリヴェロ公配下の騎士たちが現れて、あたしを拘束した。予定どおりだとそいつらが言っているのを聞き、あたしは自分が嵌められたことを知った。

 ぜんぶ、最初から仕組まれたことだった。

 ティトシェはひどい目に遇うどころか、被害者としてますます周囲の同情を買った。それもぜんぶ予定どおりか。あたしは、あいつをお姫様にするために利用された道化だったのか。

 くやしい。許せない。にくい……!

 自分が騎士として間違ったことをしたのはわかっている。文句なんて言える立場ではないと頭ではわかっているのに、心はどんどん憎しみ一色に染まっていく。なにもかもすべてがティトシェのせいだと、そんな気持になって殺してやりたいほどの憎悪にとらわれる。

 それでも、あたしは悪いことをしたんだ。それは事実なんだ。

 隊長に言われ、自分に言い聞かせ、なんとかこらえようとしていたのに。

 あいつが、リアに。あたしのリアに近づき、触れようとした瞬間、理性は吹き飛んだ。もう我慢できなかった。どれほど叱責されようと、もう聞けなかった。

 リア、リア、リア!

 あたしの()。あたしだけの、大事な子。

 あたしを呼んでリアが鳴いている。駆け寄って抱きしめてやりたいのに、なでてやりたいのに、それができない。そんなあたしの前であいつがリアに触れるだなんて――許せない!

 ……ひとり、閉じ込められた部屋の中で、絶望にうちひしがれた。あたしはもう竜騎士ではいられないだろう。国に戻れば罰を受けて、二度と隊長にもリアにも会えない……。

 なんでこんなことになったんだ。なんであたしは、こんな……。




 営倉に入れられて、何日が過ぎただろうか。もう取り調べもなくなり、ただ孤独と絶望だけに囲まれていたあたしのもとへ、副長がやってきた。

「自分がどれだけ馬鹿だったか、少しは理解できたのか」

「…………」

 副長はあたしを怒鳴りつけたりはしなかった。そんな気にもなれないという顔だった。あたしを見る目には怒りと軽蔑が浮かんでいる。あたしは何も答えることはできなかった。

 いや、答える気がなかったという方が正しいだろう。口を開く気力などわいてこなかった。

「ただの意地悪、ほんのささいないたずらだった――まだそんなことを考えているなら、教えてやる。お前のしたことが、どんな影響を及ぼしたのか」

 副長はあたしを叱りに来たんじゃない。あたしに思い知らせに来たんだ。どれだけの罪を犯したかと。

「あいつが――隊長が、辞任した」

「……え?」

 ぼんやりと聞き流していたあたしは、耳に入った言葉を理解した瞬間思わず声を上げていた。辞任? 隊長が、隊長じゃ、なくなった……?

「なん……で……」

「なんでもくそもねえ。責任を取ったんだ。お前をちゃんと指導していなかったからって……それなら、俺の方がよっぽど責任があるってのに」

 副長が鉄格子を叩く。怒りに拳が震えていた。

「お前の指導は班長である俺の役目だ。なのに、自分が責任者だからと、さっさと辞表を出しちまいやがって。そりゃあお前を派遣すると決めたのは隊長だ。それはたしかに失敗だったが……いちばんの責任者は俺だってのに、その俺が次の隊長だと!? ふざけんなよ!」

 あたしは無意識に立ち上がり、ふらふらと扉へ近づいた。副長はふたたびあたしに視線を戻し、皮肉に笑いかけて失敗する。

「よろこべよ。お前は処分保留で無期限の謹慎だとよ。今すぐ除名されて刑罰を受けるのが相当だってのに、たいした温情だぜ」

「なんで……だって隊長が……」

「ああそうだよ。あいつが辞任してなんでお前がその程度で済むのか、さっぱりわからねえ。龍の姫さんと参謀室長が口利きしてくれたらしいが、それなら隊長の方をなんとかしてほしかったぜ!」

「……っ」

 ティトシェが――また、あいつが――

 あたしを許してやってくれとでも、公王様に頼んだのか? さも慈悲深いふりをして、偽善でいい気になっているのか?

 なんで……なんで、あいつはどこまでも……!

 憎しみを捨てようと、自分が馬鹿だっただけだと己に言い聞かせても、すぐそばからまたあいつが邪魔をする!

 あたしは許されたいわけじゃない。隊長が罰を受けるなら、あたしなんていっそ死刑にでもしてほしいくらいだ。いったいどの面さげて隊長の前に出ろというんだ。温情なんていらない。罰の方がいい!

 ティトシェの温情なんかに助けられるくらいなら、せめて抗議の意志を――

「自害とか考えるなよ。お前にそんな権利はねえ」

 あたしの考えを読み取って、副長が言った。

「お前は罪を犯した。そのせいであいつが隊長を辞任した。この事実を、しっかり抱えて生きろ。誰もお前を許したわけじゃねえ。復帰なんぞ認めねえ。隊に戻っても受け入れてもらえるとは思うな。その現実から逃げず、せいぜい生き恥をさらすがいい。それがお前への罰だ」

「……っ」

 言い捨てて副長が背を向ける。遠ざかる足音を聞きながら、あたしは格子にすがって泣いた。足から力が抜け、その場にうずくまって泣き続けた。

 あたしの、罰……生きて、恥をさらすのが、あたしへの罰なのか……。

 それで隊長が隊長に戻れるのなら、いくらでも罰を受ける。国中から非難されたっていい、隊長を許してもらえるならなんでもする。

 ――けれど、そんなことがかなわないのはわかっていた。あたしへの罰と隊長の辞任は別の話だ。

 あの輝かしい人が、名誉を失ってしまった。あたしの、せいで。あたしのせいで!

 ……その事実が、何よりもいちばんの罰だった。




 やがてあたしは営倉から出され、刑罰を受けることもなく隊へ戻された。

 けれど副長が言ったとおり、もう騎士としての仕事は一切与えられなかった。あたしに与えられたのは、掃除や水汲みといった雑用ばかりだ。扱いは見習いよりも下だった。訓練になど参加させてもらえない。剣も取り上げられたままだし、リアにも最低限の世話しかさせてもらえなかった。それも、監視つきで。

 あたしがリアを連れて逃走することを警戒しているのだろう。

 厭味や罵倒を投げつけられるならましな方で、ほとんどの隊員はあたしをいないもののように無視した。以前のように、言い合いをしながらも一緒に働く仲間として認められることはなくなっていた。あたしを取り巻く空気はどこまでも冷たい。けっして許されたわけではない、受け入れられていないのだと、副長の言ったことをいやというほど思い知らされた。

 これが、あたしへの罰だ。あれほど望み、そして叶え、希望に満ちて働いていた場所で、何もかもを失い生き恥をさらし続けるのがあたしへの罰だ……。

 辛くないと言えば嘘になる。でもそれが罰なんだと自分に言い聞かせ、そしてリアの存在だけを支えに、あたしは毎日黙々と働いた。リアと離れることなんてできない。あの子にもあたしが必要だ。それだけが、今の心のよりどころだった。

 竜たちの排泄物を集め、汚れた場所を洗う。ようやく一段落つくかと思った時、汚物の入った桶がひっくり返された。

「邪魔だ! こんなところでモタモタするな!」

 桶を蹴った奴があたしに怒鳴りつけ、立ち去っていく。脚に汚物をひっかけられ、せっかくきれいにした場所を汚されて、あたしは唇をかんだ。こんな嫌がらせをされても、文句のひとつも言えない。誰もあたしの味方なんかしない。

 くやしさとをなんとか飲み込み、作業に戻るのがここしばらくの日常だった。転がった桶を拾おうと身をかがめ、手を伸ばした時、桶の向こうに人が立った。

「……!」

 誰なのか知って声を上げそうになる。長い銀髪と青の瞳――ずっと会いたくて、でも合わせる顔がなくて、思い浮かべるたびに心が張り裂けそうになっていた人が、そこにいる。

 隊長、と呼びかけて、あたしは言葉を失った。隊長はあたしを心配して見に来てくれたわけじゃない。それはすぐにわかった。こちらを見るまなざしは厳しい。あの太陽のような笑顔は、もうどこにもなかった。

「…………」

 何も言えず、立ち去ることもできず、あたしはうなだれて立ち尽くす。

 長い沈黙の後、隊長が言った。

「失った信頼を取り戻すには、十倍百倍の努力と誠意が必要だ。そしてそれをしても、過去が消せるわけじゃない。生涯向き合う覚悟があるなら、死ぬ気でもう一度這い上がってみせろ。できないなら、今すぐここを去れ。誰も止めない」

 それ以上の言葉はなく、あたしに手を出すこともなく、そのまま背を向ける。立ち去っていく彼を呼び止めることもできず、あたしは歯をくいしばって涙をこらえた。

 もう一度……もう一度、あたしが這い上がれば、隊長はまた笑ってくれるのだろうか。過去は消せないと言った。どんなに努力しても、あたしの罪が消えることはない。それでも、いつか笑ってくれる日がくるだろうか。

「ひどいよなあ」

 だれかが言った。ぼんやりと、意識が戻ってくる。あたしはのろのろと顔を上げた。知らない男がそばに立っていた。

「こんな扱いを受けて、かわいそうに」

 そいつは転がった桶を拾い、あたしに同情のまなざしを向けてきた。

「さっさと洗ってこい。ここは片づけておいてやるから」

「……だれ」

 こんなやつは知らない。騎士のなりはしているが、飛竜隊の人間じゃない。

「騎馬隊のべネットっていうんだ。たまたま用事で来たんだがな、あんまりひどいんで見かねたよ」

 騎馬隊か。それなら知らなくて当然だな。普段はそんなに顔を合わせないし、向こうはうちの五倍以上隊員がいる。知ってる奴なんてかぞえるほどしかいない。

 うちの、と考えたことに笑いたくなった。もうあたしにそんな口を利ける権利なんてないのにな。人に聞かれたらどれだけ罵られるだろうか。それとも嘲られるか?

「飛竜隊の連中は、ずいぶんと薄情だな。ちょっと失敗しただけで仲間を除け者扱いするなんて。まして君みたいな若い女に、こんな嫌がらせをして」

「……だまれ」

 聞きたくなかった。べネットの言葉は今のあたしには優しすぎて、すがりたくなってしまう。だめだ。そんなことを考えてはだめだ。あたしは罰を受けて、精一杯誠意を示して、いつか元の場所に戻らないといけないのだから。

 甘やかす言葉なんか、耳に入れちゃいけない。

「警戒するなよ。話は知っている。君は利用されただけだ、気の毒に。リヴェロ公はまんまと政敵を排除してご満悦だ。でもって龍の姫を嫁にくれと乗り込んできた」

「…………」

 そんなことがあったとは知らなかった。あれ以降、あたしと口を利く者はほとんどいない。何か話すことがあっても、それは用を言いつけるかさっきの奴みたいに罵倒していくだけだ。

 ミルシア姫はどうなったんだろう。あんなことがあったから婚約は取り消されたのか? 自分は叱られないと言っていたのに、もっと大変なことになってるじゃないか。

 彼女のことなんてもうどうでもよかったが、ティトシェとリヴェロ公が結婚するかもしれないという話はあたしの意識にひっかかった。

 行き倒れが公王に拾われて大事にされて、他国の公王に見初められついにはお妃様か。笑っちゃうな。おとぎ話みたいな大出世じゃないか。

「龍の姫も、さぞかしいい気分だろうな。リヴェロ公と結託してうまくやって、今頃笑いが止まらないだろう」

「…………」

 やめろ。ティトシェのことは思い出させるな。もうあいつの話は聞きたくない。

 リヴェロ公とでも誰とでも、勝手に結婚すればいい。ロウシェンからいなくなってくれるなら万々歳だ。

「自分がのし上がるために利用した相手が、今こんな目に遇っているってことを知ってるのかな。知っていても気にしないんだろうな。おとなしそうな顔をして、おそろしい女だ」

 やめろ――もうこれ以上、あたしに憎しみを抱かせるな。

 あたしはべネットから桶を奪い取り、背を向けた。ここを片づけるにしても、まず自分の脚をきれいにしてこないと。歩くたびに周りを汚してしまう。

「なあ、どうにも耐えきれないと思ったらいつでも頼ってくれよ。誰もかれもが君を罵ってるわけじゃない。事情を知ってるやつは、むしろ同情しているよ。君はただ利用されただけなんだからな」

 利用……あたしが罪を犯したのも、そう仕向けられたことで。

 すべては、ティトシェとリヴェロ公の計画で。

「騎馬隊第七分隊のべネット、そう覚えておいてくれ。いつでも力になってやる」

 聞くな――そう叫ぶ心の声とは裏腹に、あたしは足を止めて振り向いてしまった。

 ありふれた茶色の髪と瞳の男。歳の頃は二十代のなかばか。隊長と同年代だ。適度に整った顔だちは逆に特徴をなくし、印象を薄くしている。右耳の下に傷跡があるのが唯一の特徴か。長めにした髪で隠されているが、あれは多分刃物による傷じゃない。何かにひっかかれた傷だ。あれだけの傷跡になるのだから、そうとう深く傷つけられたのだろう。

 騎馬隊の人間……深いひっかき傷を持つ、竜を得ていない男……。

 リアの鳴き声が聞こえて我に返った。いけない、早くここを片づけないと。

 だまって背を向けるあたしに、べネットの声がもう一度追いかけてきた。

「あきらめるなよ。恨みを晴らしたいなら協力してやる」

 恨み……誰に?

 目眩がする。耳鳴りがひどい。頭が痛い。

 背筋に悪寒が走った。同時に、腹の底にたぎる熱を感じた。

 にくい――うらめしい。その思いが渦巻いている。

 どんなに忘れたくて、忘れようと努力しても、あたしはティトシェへの憎しみを捨てられない。あいつが得意満面で嫁いで行くのかと思うと、ますます憎悪は激しくなるばかりだ。

 まだ、闇は深い。

 あたしは出口を見つけられない。

 ここから出られるのはいつなのだろうか。

 いつか……出られるのだろうか。

 希望の見えない闇の中、導いてくれる銀の光を求めて、あたしはいまだもがき続ける――




                    ***** 終 *****

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