光と影2
毎日仕事と訓練で必死になっていると、時間なんてあっという間に流れ去る。いつしか暑さは遠のき、山が色づきはじめ、冬の気配が近づいてきた。
その間にもあたしの心を揺さぶるできごとはいくつもあった。隊長は相変わらずティトシェと仲良くしているようだ。彼女が街へ遊びに行くために、わざわざ送り迎えまでしていた。栄えある飛竜隊の隊長を下男みたいにこき使うなんて何様だ。おまけにその外出には地竜隊長がお供したという。つまりうちの隊長は、他の男と遊び歩く手伝いをさせられたのだ。馬鹿にしている。
ティトシェにも腹が立ったし、そんな扱いを受けても平然としていられる隊長も腹立たしかった。くやしくないのかと問い詰めたくなる。でも下っ端の立場で、そう頻繁に隊長と個人的な話をする時間はもらえない。隊長は忙しいのだ。隊全体をまとめ行動計画を練り、よそとの連絡を取り合い公王様や団長、宰相閣下なんて方々と話し合う。特に今はエランドの問題があって何かときなくさいから、隊長は訓練にもあまりゆっくり顔を出せなかった。
「メイリ、気が抜けてるぞ! 訓練中に考え事とは余裕じゃないか。そんなに力が余ってるなら五十周走ってこい!」
つい隊長のことを考えていたら、副長から叱責が飛んできた。あたしは謝り、大人しく走り出した。隊長がどう思っていようと、ティトシェがどんなふるまいをしようと、あたしにできるのは仕事と訓練に励むことだけだ。この努力は、いつか結果を咲かせられるのだろうか。
隊長の恋人になりたいだなんて願わない。あたしなんて、まったく意識されてないのはわかってる。隊長にとってはあくまでも部下の一人だ。それでいい。いっとき付き合うだけのうすっぺらい関係なんかより、同じ場所で戦う仲間として信頼し合える関係の方がずっといい。
だけど……もう少し、隊長との距離を近づけたい。大勢いる部下の一人じゃなく、より信頼され頼りにされ、個人的な話もできるような、そんな相手になりたい。
努力と経験を重ね、あたしが立派な騎士として活躍していったら、そんな日が来るのだろうか。
五十周走りきって息を整えていると、副長がやってきてあたしの頭をはたいた。
「最近雑念が多そうだな。騎士団での生活に慣れて余裕が出てきたか? たいていそういう時期に痛い失敗をやらかすんだ。お前ひとりがこけるくらいなら指さして笑ってやるが、周りの足を引かれると迷惑だ。任務中にやらかされたら、仲間の命にもかかわる。しっかり性根を正さないと、隊から叩き出すぞ」
「すいません」
「すいませんじゃねえ、『申しわけありません』だ!」
「申しわけありませんっ」
「ったく……お前は能力はあるが、礼儀面で欠けてるな。親父さんが貴族出身だってのに、ろくに躾もされてねえのかよ。この先貴人と接触する機会も出てくるんだから、もうちょっと言葉づかいをなんとかしろ」
「……申しわけありません」
自分だって品のある言葉づかいとは言えないじゃないか。そう思ったが、もちろん口には出せない。普段はこんなでも、いざって時には副長は完璧な礼儀を見せるって知っている。それも騎士のたしなみのひとつだ。あたしも見習わなければと思うのだが、長年身に染みついたくせはなかなか抜けなかった。
父さんも普段の言葉は荒っぽい。武術の訓練では厳しくても、礼儀作法でうるさく言われた覚えはなかった。それにあたしの言葉づかいは、主に母さんの影響だ。自分の親だし、嫌いなわけではないけれど、こんな時には平民育ちの品のなさを恨んでしまう。
周りの先輩たちを見て学ぼうにも、みんな普段の言葉はめちゃくちゃだ。隊長や副長相手にも遠慮なく野次を飛ばしている。それでいて必要な時にはちゃんとできるなんて、いったいどうやって切り換えているんだろう。
「お、いたいた。訓練は終わったか?」
軽く落ち込んでいると隊長がやってきた。一気に胸が騒ぎだす。副長が顔をしかめてふりかえった。
「今頃お出ましか。おせーんだよ」
「悪いな、最近本当に忙しくて。問題はないか?」
「いつもどおり、にくたらしい奴らだよ」
副長が肩をすくめると、周りの先輩たちがぶーぶーと野次を飛ばした。
隊長は笑って、そしてあたしに目を向けた。
「メイリに頼みたいことがあるんだけどな。今いいか?」
「……はいっ!」
びっくりして、あたしは直立不動になった。隊長があたしに頼み!? なんだろう、初めての話だ。
期待と喜びに緊張して続きを待っていると、隊長は「そう固くなるな」と笑った。
「今度チトセがリヴェロへ特使として派遣されることになったんだ。まあ、それは表向きの理由で、じっさいのところは向こうからしきりに誘いがかかってたからだけどな」
……ティトシェの話か。舞い上がっていたあたしの気持ちが、とたんに落ち着きを取り戻す。
隊長が口にしたのは、ティトシェの本当の名前だ。発音が難しくてちゃんと呼べる人は少ない。隊長もずっとティトって呼んでいたのに、何度も舌をかみながら懸命に練習して習得した。そこまでティトシェに気をつかっているのか、よく思われたいのかと、胸の靄は増すばかりだ。
あたしの気持ちになんか気付かず隊長は続ける。
「チトセの方も、ハルト様とユユ姫に水入らずの時間を差し上げたいって考えて、しばらく留守にすることになったんだ。ちょうどリヴェロで公王生誕の記念式典が行われるから、それに便乗する形でな。ただハルト様が心配なさり、護衛をつけることを条件にされてな」
いいご身分だな。もとは素性の知れない行き倒れのくせに、今やすっかりお姫様扱いか。
大事なだいじな龍の姫君だもんな。本人の性格がどうだろうと、その能力は軽視できない。悪用されたら困る。狙われないよう守ってやらなきゃいけないってわけか。ふん。
「とはいえ、チトセは知らない男にそばにつかれるのは苦手だからな。今は僕もトトーも長く留守にできないし。だからメイリ、お前に頼みたい。チトセの護衛としてリヴェロへ同行してくれ」
「…………」
途中からなんとなく話が見えていたが、あたしは即答できなかった。
あたしがティトシェの護衛? あいつがほけほけ遊び歩くのに、お供してやるってのか?
気持ちの面では断固お断りだった。冗談じゃない、なんであたしが、そんなやつのために!
でも、そう言うことはできない。頼みと隊長は言うけれど、これは命令だ。騎士団に所属する者として、上官の命令に逆らうなんてできるわけがない。理由を聞かれたら答えられない。あたしが個人的にティトシェを嫌っているからだなんて、そんな理由が認められるわけがない。それ以前に、せっかく隊長があたしをと考え言ってきてくれたのに、その期待をはねつけることなんてできなかった。百人以上いる隊員の中からあたしを選んでくれたんだ。女はあたし一人だからって、それだけの理由だとしても、あたしは隊長の期待には全力で応えたかった。
……たとえそれが、気にくわない相手を守ってやることであっても。
内心の葛藤になんとか折り合いをつけていたら、あたしより先に副長が口を開いた。
「こいつに単独任務はまだ早いんじゃねえか」
隊長は首をかしげた。
「そうか? 最近ずいぶん腕を上げたみたいだし、いけるかと思ったんだけど」
「戦闘能力に限ればな。けど今までは俺たちの後ろをついてくるばかりだったんだ。何かあった時に自分でちゃんと判断をくだせるか不安だ」
「うーん……」
隊長は頭をかきながら考え込んだ。
あたしはむっとなって副長をにらんだ。そうしたらにらみ返された。くやしいが、分が悪い。
「そうだな……けど竜騎士になってもう二年だろ。そういつまでも、人の後ろばかりついて回るわけにはいかないだろう。後輩もできたんだし、そろそろ一人前の仕事ができないと」
「そいつはわかるが……」
「今回の件は、結構いい条件だと思ったんだけどな。行き帰りは龍船を使うから道中で何か起きる心配はないだろう。チトセはすごくおとなしいから、奔放に飛び回るなんてことはしない。そばにつくのは難しくない。でもって行き先はリヴェロ――カーメル公のところだ。どうせ向こうじゃどこへ行くにもカーメル公と一緒ってことになるだろう。あの方はチトセが大のお気に入りだからな。当然お供もわんさかついてくるさ」
ティトシェはリヴェロ公にまでうまく取り入っているらしい。男に媚びるのがうまい女の子たちと同類なんだな。そういう女はみんなあたしを見てせせら笑う。女らしさや美しさのないあたしを嘲笑い、優越感に勝ち誇る。こっちからすれば、男にぶら下がるのが女の真価みたいに思ってる連中の方こそ軽蔑の対象だ。
「エランドはキサルスから撤退したばかりで、今すぐ何か仕掛けてくる可能性は低い。向こうにはジャスリー大使もいるし、メイリ一人で頑張らなきゃって状況じゃない」
「あのおっかねえ大使ね。さぞかしかみつかれるぜ。こいつはどうも品がないからな。言葉づかいもいまだに直らねえし、飛竜隊はどんな教育してんだって言われかねん」
「言われても仕方ないだろう。そういうお前も普段は口が悪すぎるぞ」
隊長は肩をすくめてから、ちょっと厳しい顔であたしを見た。
「メイリ、何度も言ったな。意識しなけりゃくせは直せない。お前はまだ本気で自分を改めようと思っていないだろう。チトセをよく見て、正しい言葉づかいや作法を見習え。あの子はそういう点はよくできているから。わからないことがあれば聞いたらいい。真面目に答えてくれるよ。うちの連中は、あまりいい手本にならないからな」
隊長は周りに集まった野次馬たちを見回した。
「必要な時にはちゃんとできるからって言わず、普段からもうちょっと上品にしてもらいたいところだぞ。自分の言動が後輩の手本になるんだって、もっと意識しろ。メイリもだ。この先どんどん後輩が増えてくるんだから、先輩として恥ずかしくない姿を見せられるようになれ」
耳が痛い。隊長の言うとおりだ。あたしはもう新人じゃない。もっと真剣に自覚しなきゃいけないんだ。
……けど、ティトシェを見習えって、それだけは聞き入れたくないな。つまらない意地と言われても譲れない。同じ立場なら誰だってそうだろう。
「まあ貴人と話すのはチトセや大使の仕事で、護衛はだまって控えているのが仕事だ。非常時以外は置物になってなきゃいけない。向こうから話しかけられない限り、とにかくだまって立っていろ」
だまってるだけか。それなら礼儀作法は関係ないな。あたしにでもできるだろう。
「けっこう忍耐力のいる仕事だぞ。できるか?」
「やります!」
あたしは全力で即答していた。護衛対象が気に入らないからって、そんなことにかまっていられなかった。ここでできないなんて言えるもんか。
やってやるさ。ティトシェの護衛だろうがお供だろうが、我慢して勤めてやる。ちゃんと仕事ができるんだって示して、みんなや隊長に認めてもらうんだ!
隊長は満足そうに笑ってうなずいた。
「頼むぞ。ま、チトセに対しては身構える必要はない。気取った令嬢なんかじゃないからな。人と話すのが苦手でとっつきにくく感じるかもしれないが、本当はいい子だから仲良くしてやってくれ」
……それだけは、お断り。
その後も副長からくどくどと説教されて、内心辟易しながら聞き流し、いよいよ出発の日がやってきた。あたしはリヴェロへ向かう龍船の前で、初めてティトシェと対面した。その存在を知ってから、実に半年近くの時間が流れていた。
拾われた元行き倒れのくせに偉そうに侍女を連れて現れたのは、あたしと同い年とは思えない子供っぽい女だった。そういえば以前先輩たちが冗談で、隊長を幼女嗜好だなんて言ってたっけ。隊長に対する評価はともかく、この外見ならそう言われても納得だ。
小柄でかぼそい身体をしている。みるからにひ弱そうだ。ろくに日に当たっていないだろうと思わせる白い肌。頬に血の気は薄く、あまり健康そうに見えない。たしかにこれじゃあ、隊長じゃなくても不安を抱くだろう。
でもその原因はわがままなんだよな。知っていると同情できない。
「サノ・チトセです。よろしくお願いします」
隊長に紹介されて、ティトシェはひんやりと抑揚のない声で言った。一応笑顔らしきものは浮かべているが、心がこもっているように見えない。いかにも作った笑顔だ。それも、にこにこ、なんて表現はできない。ひっそりと静かに微笑んでいて、何を考えているのか読めず、薄気味悪かった。
……これまでの噂に対する悪印象と、竜のことと、隊長が気にかけている子だってことで、必要以上に厳しい目で見ている自覚はある。できるだけ公平に客観的な意見を述べるなら、ティトシェは可愛い子だった。
子供っぽい外見は、それだけで可愛い印象を与えるものだ。美人というほどじゃなく、まあ普通の容姿なんだけど、じゅうぶん可愛い顔だちをしている。か弱そうなところといい、男が守ってやりたいと思う女なんだろうな。
あたしは自分が女らしくないことを恥じてなんかいない。おしゃれよりも腕を磨くことを目指してきた。短く切った髪も、日焼けして荒れた肌も、騎士として努力してきた証だ。
それでも、ティトシェと並んで隊長の前に立つのが、少しばかり辛かった。あたしはこんなにきれいな肌をしていない。こんなにふんわり柔らかそうな髪をしていない。剣や弓で鍛えた手はごつごつしていて、ティトシェみたいな細いしなやかな指じゃない。筋肉のついた身体はいかつく見えるだろう。ティトシェと比べられるのがたまらなくいやだ。他人の視線なんてどうでもいいけれど、隊長にだけはそんな目で見られたくなかった。
あたしとティトシェを並べて、隊長は今どう思っているんだろう……。
「メイリさんは私と同い年だそうですね。それでもう一人前の騎士としてお仕事なさってるんですね。とても優秀な方だって、イリスから聞いていました。女性なのに、すごいですね。うらやましいです」
称賛を装ったティトシェの言葉が、ますます神経を逆撫でする。ああ、そんな言葉、今までさんざん聞かされてきたよ。偉いわね、ご立派ねと、さも人を誉めるようなことを口にしながら、露骨に嘲笑を浮かべていた女がどれだけいただろう。そいつらが他の連中と聞こえよがしに言っていた陰口を、こいつも今腹の中で思っているんだろう。なんてみっともない、がさつな女。ああはなりたくないわね――って。
馬鹿にされるのなんか慣れている。こんな、ちょっとひっぱたけば吹っ飛びそうな女に見下されても、どうってことない。ああそうとも、あたしはあんたよりずっと強いんだ。あんたのできないことを、色々やってるんだ。あんたが一生懸命おしゃれや美容に努力を重ねても、それで誰かが救われるわけじゃない。何かを守れるわけじゃない。あたしは騎士の力で国を守ってるんだ。あんたよりずっと役に立ってるんだよ。
いつものことだ。馬鹿にしてくる女なんか、どうでもいい……でも、隊長の目が気になる。こいつの言葉で、ますます比べられてるんじゃないかと思った。
隊長はあたしを部下として可愛がってくれるけど、女として見てるわけじゃない。過去の恋人たちはみんな、女らしいきれいな人ばかりだった。向こうから言い寄られたとはいっても、付き合うくらいだから隊長もちょっとは好意を持っていたんだろう。付き合う相手には、やっぱり女らしいのが好きなのか……。
ああ――いやだ。ティトシェを前にしていると、どんどん胸の中が黒くなっていく。あたしはこいつに嫉妬している。わかってる。それこそみっともない感情だと思うのに、次から次へといやなことばかり考えてしまう。
ティトシェに対する悪意を表に出してしまわないよう、あたしは必死にこらえなければならなかった。返した挨拶はそっけないものになってしまった。隊長はあたしのようすに少し首をかしげていたが、見送りに出ていた他の人たちが話し出したので、結局話をしないままに別れた。
エンエンナを出発しリヴェロへ向かう道中、ティトシェはほとんど船室に閉じこもって過ごしていた。船員たちに声をかけることもしない。自分のために船を出してもらったってのに感じが悪いったら。あたしには例の作り笑いで適当なお愛想を口にしてきたが、向かい合っていると文句を言いたくなってくる。だからあたしも極力ティトシェとは接触せず、話もあまりしないようにしていた。ティトシェはリアに興味を持っていたようだが、もちろん近寄らせなかった。もう二度と勝手な真似をさせるもんか。飛竜が船を嫌がることを口実に、ほとんど自分で飛ばせていた。
かわりにあたしは、船員やティトシェの侍女など、他の人とたくさん話をした。もともと人とふれ合うのは好きだ。なんでもない楽しい話をしていればティトシェへの悪意も忘れられ、明るい気分でいられる。初めて乗った龍船も珍しくて、道中退屈することはなかった。空の上じゃ襲撃もないんだから、ティトシェに張り付いている必要はない。時々ようすを見る程度でよかった。
問題は、リヴェロに着いてから起こった。
噂には聞いていたけど、リヴェロ公の美貌には度肝を抜かれた。なんだよあれ、本当に人間か? 人形みたいに完璧すぎて、下手すると怖いくらいなのに、登場した時のとろけそうな笑顔といったら! あまりに破壊力抜群で、不覚にも一瞬魂が吹っ飛んだよ。
リヴェロ公は、それはもううれしそうにティトシェを出迎えた。見ていてこいつちょっとやばいんじゃないかと思うほどだった。たしか今回の誕生日で三十歳だろ? それが、子供にしか見えないティトシェ相手に色気ふりまいて口説いてる姿は、一国の公王として……いやそれ以前に良識ある大人として、あまり誉められないあぶない光景だった。
こいつこそ幼女嗜好なんじゃないのか。そんな疑念を抱かずにはいられない。けどその後、護衛ならばと同じ馬車に乗ることを勧められ、気さくに話しかけられて、認識が少し変わっていった。
はじめはそりゃあ緊張したさ! 相手は公王だよ? うちの陛下とだって話どころか間近に対面したこともないのに、いきなりよその公王様と馬車の狭い空間で向き合って会話だよ! 失礼を言ったらどうしようと、冷や汗かきまくりだった。
だまって控えているだけでよかったはずなのに。貴人の相手はあたしの役目じゃないはずじゃん。話が違うよ。でも向こうから話しかけられたら答えなきゃいけない。無視なんかできない。それこそ失礼だ。
出発前に副長からさんざん注意されたはずなのに、緊張でちっとも思い出せない。どういう話し方をするんだっけ。なにがいけないんだっけ。
きっとあたしのようすは、さぞかし滑稽だったことだろう。でもリヴェロ公はちっとも馬鹿にせず、あたしが話しやすい話題を選んでくれた。ティトシェだけでなくあたしにまでお菓子を勧めてくれて、緊張がほぐれるように気をつかってくれた。生まれて初めて口にしたチョコレートは、うっとりするほど甘くておいしかった。舌の上でとろける甘みが緊張も溶かしていく。
なんかいい人だな。公王様なんて雲の上の存在で、おそれおおくて口も利けないと思ってたのに、案外普通だった。すっごく上品で優雅で、うちの先輩たちと同じ男だなんて思えなかったけどな。
そしてひとつ気がついた。この人こそ女ったらしだ。無自覚な天然でもててる隊長とはまったく違う。女の扱いに慣れている。
ティトシェもうまい具合におだてられ、すっかり調子に乗っているようだった。陰気さはなりをひそめ、やけに楽しそうに話している。あの笑顔は本物だな。口もよく動くじゃないか。ちやほやしてくれる色男が相手なら、お愛想にも熱が入るってわけか。
あからさまな態度の違いを見ていると腹が立つので、ティトシェのことは無視だ。完全無視! あたしはただ、彼女を守るだけでいい。ご機嫌をとるのは仕事に含まれない。
宮殿に到着した後で、ティトシェの宿泊場所についてちょっと予定と違うやりとりがあった。リヴェロ公が熱心に招待し、ジャスリー大使にも文句を言わせなかったのだ。大使館ならあたしもちょっとは息抜きができたのにな。宮殿ならずっと気を張ってなきゃいけない。ティトシェにはきっぱり断ってもらいたいところだが、期待するだけ無駄だよな。
そこはしかたないと思ったものの、あたしや侍女のことにまったく言及されないまま話が終わりそうなので焦った。おいおい、このままじゃティトシェ一人が宮殿に宿泊することになるぞ。なんとか言えよ。お前ひとりでどうする気だよ。
多分気がついてないな。リヴェロ公にのぼせて他のことは全部忘れているのか。大使も何も言わないし、しょうがないのであたしは思いきってリヴェロ公に声をかけた。緊急時以外話しかけられるまでだまってろとは言われたが、これはだまっていられないだろう。緊急時のうちに数えてもいいんじゃないのか。
周りの連中がなんだこの無礼者はという顔をしたのには気付いた。でもしかたがない。あたしは自分と侍女にも滞在許可をくれるよう頼んだ。リヴェロ公は快くうなずいてくれたよ。必要なことだから、とがめられなかったんだ。ほら、間違ってなんかいなかったじゃないか。
――そう思っていたのに、あてがわれた部屋に着くなりジャスリー大使から叱られた。
「ティトシェ嬢が滞在するのに、彼女一人だけと誰が考えるか。侍女など随従の者がついてくるのは当たり前だろう。その程度のこと、わざわざ念を押さずともあちらも承知しておられる。確認すべきことがあったとて、後で侍従なり女官なりに聞けばよい話だ。あの場で公王陛下に直接頼むなど、非常識にもほどがある!」
そんな――そんなの、知らない。当たり前とか常識とか言われても、あたしは知らなかった。
貴族や王族の世界の常識なんか、知るわけないじゃないか。あたしは竜騎士だ。貴族の従者じゃない。今はこいつ(ティトシェ)の護衛なんてしてやってるけど、本来の仕事は前線で戦って国を守ることだぞ。
失敗したのは事実なんだから、叱責はだまって受けなければいけない。でもつい我慢できなくて、知らなかったと言ってしまった。
大使はわざとらしくため息をついた。
「平民ならば、無理はないな」
その言葉に、頭がかっと熱くなった。品のない平民って言いたいのか。
「あ、あたしの父さんは貴族出身です!」
母さんが平民だから。それもお上品な家庭の育ちじゃない、下町のはすっぱな女房だから、だからあたしまで馬鹿にされる。あたしに流れる血の半分は貴族なのに。どこの生まれとも知れない、行き倒れのティトシェなんかよりあたしの方が出自は優れているはずなのに!
「父親がどうであろうと、君は平民だ。血筋や身分だけの話ではない。素養が足りていない」
大使は冷たく一蹴した。くやしさと恥ずかしさでめまいがしそうだった。
ティトシェはあたしと大使のやりとりをだまって眺めている。内心さぞかしせせら笑っているんだろう。もしかして、あたしが失敗するようにわざと何も言わなかったんじゃないかって、そんな勘繰りまでしたくなってしまう。
違う……できるだけ距離を置くように、話もしないようにしていたのはあたしの方だ。もしちゃんと話していたら、ティトシェはあたしに今後の予定とかいろいろ教えてくれたんだろうか。あたしがそっけないからって何も言わずに知らん顔していたなら、やっぱり意地悪だ。でも……あたしが自分で招いた結果なんだ。
「自分はあくまでも随従であるということを忘れるな。わかるか? 分をわきまえろと言っているんだ。当たり前のようにそこに座ったが、誰がそれを許したか」
「……っ」
ティトシェや大使と同席するのは、あたしの分じゃないっていうのか。あたしは格下なんだと、差を突きつけられるのか。
竜騎士は国中から尊敬を受ける存在なのに。命がけで試練を越えて、名誉ある称号を手に入れたのに、なんでそんなつまらない差別をされなきゃいけないんだ。こいつ(ティトシェ)なんて、自分では何もせず尊い血筋も持たず、ただ人の善意に甘えているだけの図々しい女なのに。後ろ楯が公王だからってだけで、当然のようにあたしより上の扱いを受けるのか。
ティトシェがいかにも親切ぶって大使にとりなそうとするのが、たまらなくいやだった。優しいふりして点数を稼ごうって腹か? 大使にはあっさりあしらわれていい気味だ。
でもティトシェをあざ笑ってはいられない。大使はなおもあたしを叱責した。言葉づかいがなっていないと……騎士以前の常識がないと指摘された。くやしい。あれだけ隊長や副長から注意されたのに。なんであたしはうまくできないんだ。
もっと上品な家庭で生まれ育っていたら。父さんと母さんが、あたしにちゃんと教えてくれていたら。そんなことまで考えてしまう。ティトシェだって同じ環境で育っていたら、きっと上品ぶってなんかいられなかったはずなのに。
――じゃあ、こいつは上品な家庭で育ったのか?
いまごろになって、ようやくそこに気がついた。行き倒れてたからって、下層の生まれとは限らない。元々は、ちゃんとした暮らしをしていたのだろうか。
まさか……貴族? いや、名前はふたつだけだ。平民だよな。
でもシーリースの生まれじゃないらしい。他の島なら、名前がふたつしかない貴族もいる。
ティトシェが貴族、かもしれない。元は下層の女が分不相応な幸運に恵まれただけだと思っていた、あたしの認識が根底からくつがえされる。
……いいや。身分なんか関係ない。こいつが何も努力しないで、幸運だけで今の地位を手に入れているのは事実だ。龍の加護だって貴族だから与えられるものじゃない。長い歴史の中、祖王以外誰も得られなかった能力だ。こんなちっぽけな女が何をやったって得られるわけがない。きっと偶然授かったんだ。そうに違いない。
ティトシェへの憎悪がどんどんふくらんでいく。頭のどこかで、そんな自分の異常さに気がついてはいた。最初はあまりいい印象を持てないという程度だったのに、だんだん嫌いになって今や憎いとまで思う。ティトシェに何かされたわけじゃないのに。こいつの性格に問題があるからって、あたしが憎むような話じゃないのに。
あたしはどうなってしまったんだろう。自分で自分がわからない。行き過ぎている、だめだと思っても、止められない。腹の底からどす黒い気持がわきあがってきて、押しとどめようとする良心をはね飛ばしてしまう。
いやだ……こんな自分はいやだ。暗いことばかり考えて、嫉妬と憎悪でいっぱいになって、今どんなに醜い顔をしているんだろう。いつからあたしは、こんなに悪意ばかりになってしまったんだろう。
汚いことなんて何ひとつ知らないような顔をして、ティトシェはきらびやかな人々に囲まれている。きれいな服を着て、きれいな場所に立って、光の中に咲く花のようだ。
その光が強いほど、あたしを覆う影は濃く黒くなる。汚いことばかり考え、人を妬み憎む自分がたまらなくいやだ。けれどそれも全部ティトシェのせいだという気がして、ますます彼女への憎悪が増していく。
こんな気持を抱えて、栄えある竜騎士と名乗れるだろうか。隊長の前に胸を張って立てるだろうか。
あたしだって明るい場所で笑っていた時があった。それはほんのちょっと前のことなのに、どうやったらそこに戻れるのかがわからない。間違って入り込んでしまった場所から抜け出せない、迷子の気分だ。
だれか、助けて。ここから出して。
隊長……。
どうしても影を追い払うことができないあたしには、せめてそれを抑え、隠すのが精一杯だった。
けれどそれは、あまりうまくいっていなかったらしい。
あたしがティトシェへ向ける憎しみの視線に、気付く人がいた。