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明日天気になったなら  作者: 桃 春花
第六部 すれちがう想い
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12



「不躾な訪問を、まずはお詫びいたします」

 いつもと変わりない艶やかな声で言って、カームさんは向かい合うハルト様に軽く頭を下げた。

「突然に連絡もなく押しかけて、申しわけありません」

「いったい、どうなさったのです。このようなこと、あなたらしくもない」

 ハルト様が困惑もあらわに尋ねる。広い謁見室でふたりは向き合っていた。相手が公王なのでハルト様も玉座から下りてきて、同じ場所に立っている。私はそれを、隅の垂れ幕の陰に隠れて見ていた。

 そばには同じようにイリスが身をひそめていた。彼に頼んでここまで連れてきてもらった。本当なら隊長職を返上したイリスはもう勝手に入り込めないのだけれど、まだ処分を公表されていないので誰にも止められなかった。それを幸いに、ふたりで絶賛ピーピング中である。

 見つかったら叱られるだけではすまないので、私たちはものすごくこっそり覗いていた。

「先日の件について、正式な謝罪をしに参りました。こちらの勝手でご迷惑をかけ、ご息女に被害を与えましたことを、心よりお詫び申し上げます」

 さほどよりも深々とカームさんは頭を下げる。公王がするには深すぎる礼だ。周りに控えた人たちは動揺を隠せない。宰相ですら驚いている。平然としているのはカームさんと後ろに控えたシラギさんだけで、ハルト様も複雑な顔になった。

「……それに関しては、もう少し時間を置いてからお話ししたかった。今はまだ、冷静にお答えできる気分ではありません」

「お怒りは当然のこと……いかなる非難も受ける覚悟で参りました。わたくしに示せる限りの誠意でもって、償う所存です」

 気持ちを落ちつかせるためか大きく息をついて、ハルト様は首を振った。

「あなたの立場もリヴェロの状況も、理解できるつもりです。だが……いや、よしましょう。今は正しい判断を下せる自信がありません。この話は、後日改めて……」

「感情的なお言葉でもかまいません。そちらにはその権利がありましょう。それにわたくしも、国同士の駆け引きをしに来たわけではありません。彼女の父君と会いに来たのです」

「なにを……」

 ますますハルト様の困惑が深まっていく。見ている私にもよくわからなかった。言っていることは難しくないけれど、カームさんの立場を考えると、ちょっと考えにくい行動だ。

 最初からハルト様を怒らせることも承知であの計画を実行したのだ。どうやって後始末をするかも、十分に検討していただろう。それはこんな、体当たり的な謝罪ではないはずだ。

 謝罪しつつも美味しい条件を持ち出して、対等な取引へと持ち込む。それが国同士の付き合い方だろうし、私がやるとしてもその方向で行く。

「何考えてんだろ……」

 思わず声に出してしまった。さあ、とイリスも首をひねる。

「さほど難しい状況ではありませんな。公王という肩書を外し一人の男として見れば、十分に理解できる行動では」

 すきま風のような生気のない声が言う。一人の男?と真面目に考えかけて、私はぎょっと振り返った。

「お静かに。あまり動くと気付かれてしまいますぞ」

「……なにやってんですか、オリグ殿」

「あなた方と同じことですが」

 脱力しかけたイリスの問いに、私たちと同じように身をひそめたオリグさんは平然と答えた。

 いつの間に入ってきたんだよ。私はともかくイリスにまで気付かせないって、この人の生気のなさも半端じゃないな。今日も死にかけみたいな顔色で、幽霊ですと名乗っても普通に通りそうだ。彼の立場なら覗き見なんてせずとも堂々と同席できるだろうに、なんでわざわざピーピング。ぜったい面白がっているだろう。

「……一人の男って、どういう意味ですか」

 この人にいちいちつっこんじゃダメだ。私は細かいことは無視して尋ねた。

「言葉どおりです。まあ、見ていればよろしい。すぐにわかります」

 垂れ幕の隙間から覗く姿勢のままオリグさんは答える。私とイリスは顔を見合せ、ピーピング体勢に戻った。

 公王同士のやり取りはまだ続いていた。

「おっしゃる意味がよくわかりません。こたびの訪問といい、理解を超えることばかりです。こちらの動揺を誘って、また何か仕掛けられるおつもりですか」

 苛立ちの混じるハルト様の言葉に、カームさんは静かに微笑んだ。

「そう疑われるのも、身から出た錆というものなのでしょうね……企みなどは、何もありませんよ。わたくしはただ、愛する人の父君に許しを乞いに来ただけです」

「な……あ、愛、と……」

「わたくしの罪を赦していただきたいと――そしてその上で、彼女をわたくしの花嫁にいただきたいと、お願いに上がりました」

「――――」

 目を丸くしたままでハルト様が絶句する。私も思わず垂れ幕をつかんでしまった。幸い謁見室に居合わせた人全員がびっくりしてどよめいたので、物音や漏らした声には気付かれずに済んだ。

 今、なんつった……? 花嫁……花嫁って、アレか? 日暮れの瀬戸で夕波小波に揺られながらあなたの島へって古すぎるか!

 そうじゃなくて――そう、サンバサンバ。一人のものにならないでってこれも古い!

 私平成生まれだから! 有名な歌だから知ってるだけで! ついでにうちのお母さんはヒロミファンなんだよ! 私が好きなのは奈々ちゃんだから!

 ――いかん、動揺しているようだ。思考が逃避したがっている。

「大丈夫か?」

 イリスに心配されてしまった。それになんとかうなずく。

「お、お待ちなさい」

 こちらも動揺しまくった声でハルト様が言った。

「花嫁などと……む、娘とは言っても、チトセは私とは血がつながっておらぬし、正式な養子縁組もしていません。この国の生まれでもない、身寄りのない娘です。あなたもそれはご存じでしょう」

「知っています。彼女がどこから来たのかもね」

「そ……っ、それならば、おわかりのはず。あれは、公王のもとへ嫁げるような娘ではありません」

 ひっくり返りそうな声で威厳もとりつくろえないハルト様に対して、カームさんはどこまでも落ちついていた。謝罪しに来たはずの人と、状態が完全に逆である。

「すべて承知の上で参りました。利害も慣例も関係なく、わたくしはただ彼女を――チトセを妻に迎えたいのです。長年奥方に一途な想いを寄せられていたハルト殿ならば、この気持ちはおわかりいただけましょう。どうか、お聞き入れ願います」

「…………」

 二の句が継げないようすでハルト様はただカームさんを見つめていた。長いながい沈黙の後、どうにか落ちついた声を絞り出す。

「……すぐには、お返事しかねる話です。本人の気持ちも確認せねばなりませんし、猶予をいただきたい。至急部屋を整えさせますので、まずはお疲れを癒してください」

「お待ちしましょう。お心遣いに、感謝いたします」

 優雅にカームさんが一礼する。公王同士の対面は、それでひとまず終了となった。

「面白くなってまいりましたな。恋愛相談も随時受け付け中です。いつでもお気軽にどうぞ」

 全然面白くもなさそうな顔でオリグさんが言う。飄々とした参謀室長の頭を後ろからはたいてやりたい気分になったが、下手にどつくとそのまま昇天してしまいそうな人なので怖くて手が出せない。私はふらふらと謁見室を後にした。

 いったい何を考えているんだろう、あの人は。突撃プロポーズって、テレビの企画じゃあるまいし。それもわざわざみんなの見ている前でハルト様に言うなんて。

 いや、王様なんだからそれは当然か。結婚問題は国の問題、まして相手が外国人なら国際問題にもなるんだから、当事者同士の話だけでは済ませられない。

 ……相手って、私なんだけど。

 遠い世界の他人事だと思っていた話が、突然自分にふりかかってきて混乱した。もっと他に考えるべきことがあるんじゃないかと思うのに、落とされた爆弾の威力が大きすぎて、どうにも冷静な思考を取り戻せなかった。

 ――だめだ。こんなの、ひとりで考えていたって埒があかない。

 私は足を止め、向かう方向を変えた。侍従たちをつかまえて尋ね、先回りしてカームさんの行く手で待ち伏せた。

 廊下の真ん中に立って待っていると、侍従に先導されたカームさんたちが歩いてきた。私に気付いて侍従が驚き、カームさんを振り返る。

 カームさんはわかっていたように、深い微笑みで私を迎え撃った。




 廊下でやり合うのも何なので、私たちは近くのバルコニーに出た。シラギさんたちは廊下で待機する。日暮れの近づいた空はますます暗く、吹く風は冷たかった。これはあまり長居できないな。

 さて何から切り出せばいいのかと考えていると、カームさんの方から口を開いた。

「怪我の具合はいかがですか。しばらく寝込んだと聞きましたが」

 相変わらず情報通だな。

「周りが過保護なだけで、大したことはありません。直後はちょっと辛かったですけど、もう落ちつきました」

 そういえば温泉行きそびれた。後でもう一度トトー君に頼めないかな。

「君には本当にひどいことをしました。謝ってすむものではありませんが、心からお詫びいたします」

 手を胸に当ててカームさんは深く頭を下げる。日本人の感覚では当たり前の行動だが、こちらの人としては公王が平民の小娘相手にここまで丁寧な礼をとるなんてありえないことだ。柔和に見えてけっこうプライド高そうなのに、面子よりも誠意を優先してくれるんだな。それだけで、自分が利用されたことについてはもういいやって気分になってくる。他にもいろいろと影響が出ているので、そう簡単には片づけられないけれど。

「……私の方も、お詫びするべきと思っていました。一時は感情的になって、あなたの立場も考えずひどい言葉を投げつけました。抗議するにしても、もっと冷静に状況を見極めるべきだったと反省しています。申しわけありませんでした」

「本当に、君は優しく公正なこと」

 姿勢を戻し、カームさんはやわらかく微笑んだ。

「言われて当然のことをしたのですから、わたくしに何を言う権利がありましょうか。だというのに、君にあのようなことまでして……思い返すほどに、情けなく恥ずかしい限りです。己が思うほどに理性的な人間ではなかったと知りました」

 あのようなこと……って、あれか。そうだ、押し倒されたんだっけ。もしイリスが来なかったら、あのままどうなっていたのだろう。考えるとものすごく気まずい気分になった。まさか本気じゃなかったよねと、思いたいけど……勢いっていうのもあるからなあ。

 あの時は本気で怖かったのに、妙なことに今思い返すと恥ずかしい気分の方が強かった。なんだかまともにカームさんの顔を見られない。

「あの、あれについては、もうなかったことに……ハルト様のお耳には絶対入れたくないので」

 ロウシェン側であのことを知っているのは、イリスとレイダさんだけだ。二人には厳重に口止めをしてある。さすがにこれを知ったら、ハルト様も激怒して手がつけられなくなるだろうからね。

「内緒にしてくださると? わたくしは非難を覚悟で来たのですが」

「言えませんよ、いくらなんでも……ハルト様って、ああ見えて怒るとけっこう怖いんですから」

「その場合、怒られるのはわたくしの方ですが……まあ、君の名誉にも関わりますし、伏せてくださるというのならお言葉に甘えましょう。ですが、なかったことに、とは言わないでください」

 声に艶が増して、どきりとした。アメジストの瞳に熱がこもり、私を緊張させる。

「あの時のふるまいは反省しています。けれど、わたくしの気持ちに変わりはありません。チトセ、君を愛しています。どうかわたくしのもとへ来てほしい」

「…………」

 あまりにはっきりストレートに言われて、私は言葉を失ってしまった。

 愛って、愛してるって……そんな、ゲームの台詞じゃあるまいし。私にそんな言葉がかけられることなんて、一生ないと思っていたのに。

 本気なのかと、どうしても疑ってしまう。でもカームさんのまなざしに、からかいの色やいつもの余裕は見られない。

 とてもまっすぐに、強く、私を見つめてくる。

「そ……わ、私は、もう、嫌われているのではと思っていましたが……」

「なぜ?」

「ひどいことを言いましたし……それ以前にも、ずっと……あなたの言葉を真面目に受け取らず、聞き流してばかりで、とても無神経だったと」

 くすりと、カームさんは小さく息をもらして笑った。

「可愛いこと。その程度で気が変わるようならば、本気の想いなどではありませんよ。わたくしとて、遊びの恋で我を失い醜態をさらすほど愚かではないつもりです」

 な、なんだか経験値を感じさせるお言葉だな。こっちは本気も遊びもレベル1の初期装備だよ。クエスト一つもこなしてないよ!

「ハルト殿の前でも言いましたが、君を花嫁に迎えたい。妾妃や愛人などではなく、正式に求婚します。チトセ、わたくしの妻になってください」

「…………」

 動揺している間にも次々容赦なく攻め込まれて、体勢を立て直す暇がない。こういう問題にはどう対応したらいいのか、私の中に引き出しがなさすぎて対策なんかひとつも出てこない。

「ど……どうして……」

 駆け引きや腹の探り合いなんてする余裕もなく、ただ浮かぶ疑問を口に出すしかなかった。

「どうして、私なんですか……そんなことを言われるような、立派な人間じゃありません。根暗で、性格が悪くて、人とうまく付き合えなくて……いつも嫌われてばかりの、駄目人間なのに」

「おかしなことを。ここには君を愛する人がたくさんいるでしょう」

「れ、恋愛とは別です。私に女性としての魅力なんかないし、それに、カームさんとはまだ出会ったばかりでそれほど深く付き合ってもいないし。直接会ったことなんて数えるほどでしょう。私のことなんてろくに知らないじゃないですか。何か勘違いしてるんじゃありませんか? 私はいつも心の中でいやらしいことばかり考えている、性悪ですよ。優しい、いい子なんかじゃない」

「それを、わたくしに向かって言いますか」

 少しばかり呆れたようすを織りまぜて、カームさんはゆったりと微笑んだ。

「性悪というなら、わたくしの方がよほどに上ですよ。君が想像もつかないことを考えていますし、行ってきました。わたくしから見れば君など、善良きわまりない素直な人間ですよ」

 う……そ、そうかも。腹黒主張をするには相手が悪いか。いやそんな勝負で張り合ってるわけじゃないけれど!

「長く付き合っていないからというのは、関係ないでしょう。たしかに君と過ごした時間は短いが、その間に君を知る機会はたくさんありました。勘違いなどと言われる筋合いはありません。わたくしはただの思い込みで舞い上がっているのではありませんよ」

「あ……ご、ごめんなさい……」

 今ちょっとだけ怒らせたな。笑顔だけどなんとなくわかる。雰囲気が怖かった。勘違いって言われるのは腹が立つのか。つまりお馬鹿扱いするなと。うーん、やっぱりプライドが高い。

 でも、納得がいかない。ほんの数回顔を合わせたくらいで、結婚したいと思うほど人を好きになる? 文通だって近況報告ばかりだったし。たしかにカームさんからの手紙は、やけに濃い口説き文句のような文面だったけれど……。

 私がまだ疑っていることがわかったようで、カームさんはやんわりと苦笑した。

「卑屈になりすぎるのが君の悪いくせですね。恋に規則などありませんよ。非の打ち所のない完璧な人と長くつきあわなくては恋をしてはいけないのですか? そんなおかしな理屈はないでしょう」

「……そこまでは言いませんけど、でも……私のどこがそんなに気に入ってもらえたのか、どうしても納得できません」

「さて、それは難しい質問ですね」

 ピアスを揺らして、カームさんは首を傾けた。

「もっともらしい理屈なら、いくらでも並べられますが……君は自分で言うほど悪どい人間ではない。むしろお人好しです。たとえ対立する相手であっても、目の前で危機に陥っていれば己の身を危うくしてでも助けようとする。それを誇示もせず、見返りも求めない。しかたがないからやっただけだ、などと言って、つまらないことのように片づけてしまう。己の命をかけていながらそのように考えられる者などそうはいませんよ」

 ……いや、そう言われても。じっさい立派な意気込みなんてかけらもなく、しようがないからやっていただけだし。

「悪意を向けられてもその場限りのことで終わらせ、いつまでも恨みを引きずらない。これは他人に対する関心の薄さとも言えますから、よいことばかりではありませんが」

 ……そうですね。ずっといじめられていたのも、私が人とかかわろうとしないのが大きな原因だった。

「今の君は実質上公王の娘として扱われ、目もくらむような幸運と人がうらやむ立場です。しかし君は何一つ奢ることなく、贅沢もわがままも望まない。どれほど大事に世話をされても、特別な扱いを受けても、それに舞い上がり調子に乗ることはない。自分と周りの状況を見つめる、冷静な目を失わない。わたくしにとっては手ごわい相手でしたが」

 最後の言葉はちょっといたずらっぽく付け足された。私が数々のアピールをスルーしたことを言っているんだな。当たり前だったのに。

 素敵な男性から特別扱いされて素直にのぼせられるほど、これまでもてた経験はない。ごく一部の例外を除いて、男というのはおおむね敵だった。なのに最初からやたらと愛想よく親切にされたら、うれしいどころか裏を勘繰ってしまう。じっさいあったじゃないか、裏が。

「時に驚かされるほどの聡明さや度胸のよさを見せ、大人と堂々と渡り合う。かと思えば、ひどく幼い無邪気なところも見せる。少女特有の魅力かもしれませんが、不思議で目の離せない存在ですよ」

「…………」

「――とまあ、並べてはみましたが、しょせんは後付けの理由ですね。君への興味を深める材料にはなりましたが、それがゆえに君に惹かれたわけではない。……きっと、どんな出会いをしても君を好きになっていましたよ」

 静かにカームさんが足を踏み出す。ゆっくりと近づいて、私のすぐ目の前にまで来る。間近に立つ美しい人を、私は馬鹿のように見上げることしかできなかった。

「あの離宮で初めて君の姿を目にした時、ただの可愛い子供としか思いませんでしたが、それでも君に目が引きつけられた。竜と楽しそうに戯れ歌う姿が、強く印象に残り興味をかきたてられた。恋と呼べるような感情ではありませんでしたが……それでも、あの時から始まっていたのでしょうね」

 静かに膝を折り、カームさんがひざまずく。見上げていた顔が私の視点よりも低くなる。

 右手を心臓の上に当て、一度頭を下げた後、彼は左手で私の手を取った。

「わたくしはこの通り、清廉潔白とはほど遠い人間です。これから先も、必要に応じて人をだまし、利用し、汚い真似をすることでしょう。それはわたくしが公王としてリヴェロを守っていくために必要なこと。人としては罪ですが、恥じませんよ。わたくしはこう生きると決めたのです。……けれど、誓います。チトセ、君だけは、何があろうと二度と利用しません。君の心も身体も、すべて大切に守ります。全身全霊でもって君を愛し、生涯尽くすと誓います。どうかわたくしの罪を赦し、共に生きていく伴侶となってください」

 冷えきった手がぬくもりに包まれる。しっとりと与えられた口づけは、優雅でありながら強い情熱を感じさせるものだった。

 困惑して、私は何とも答えられない。そもそもプロポーズしながら手に口づけるって、どういうことだろう。

「……どうかしましたか?」

 私の困惑を読み取って、手を取ったままカームさんが聞いてきた。

「あ……その、手に口づけるのは友情を示すものでは……」

 言ってから自分に激しくつっこんだ。今そんなことを言っている場合じゃないだろう!

 カームさんはおかしそうに笑いをこぼした。

「誰かにそう教えられましたか?」

「…………」

「口づけの意味など、時と場合と相手によって変わるものですよ。友情の意味もありますが、臣下から主君へならば忠誠の誓いとなり、男から女へ贈ればそれは愛を伝え乞うものです」

「…………」

 え、ええ? 男から女へって……じゃあ、前にイリスがしてくれたのは……。

「君に教えてくれた人は、きっと友情しか意識していなかったのでしょうね」

 一瞬沸騰しかけた頭は、続く言葉でたちまち冷却された。

 ……そうだよね。あのイリスが、他の意味なんて考えているわけないよね。

 家族への親愛だと言っていた額や頬へのキスだって、きっと言葉どおりの気持ちしかなかったのだろう。

 気持ちがずどんと落ち込んだ。そしてすぐにはっとなった。だめだ、今はカームさんと話しているのに。それもプロポーズなんて重大なことをされているのに、こんなことを考えていちゃいけない。

 きちんと向き合い、返事をしなければと思った。でも意識するほどに、どうしてもイリスのことを考えてしまう。そうだ……私は、この気持ちに応えることはできない。

 いろいろあったけれど、カームさんのことはやっぱり好きだ。一度は怖いと思ったのに、こうして触れられても嫌悪感は抱かない。この人のそばにいるのは心地よい。

 でも好きの種類が違う。イリスに向ける想いとは別のものだ。私はこの人に恋をしていないと、はっきり感じる。

 イリスへの恋が片思いだからといって、受け入れることはできなかった。他の人を想っているのに、何食わぬ顔で応じることなんてできない。

 それを、ちゃんと言わないと。断るのは勇気がいるけれど、正直な気持ちを伝えることが誠意だろうから。

「ご……ごめんなさい……」

 私は意を決して口を開いた。

「カームさんのこと、嫌いじゃないです。あの時言ったのは、ただの癇癪です。今でも好きです……でも、違うんです。そういう気持ちとは、違うんです」

 ずっと私に好意を伝えてくれた人。公王として、本当なら私なんかに求婚しちゃいけないのだろうに、立場よりも私を取ってくれた。それほどの想いを寄せられて、同じ気持ちを返せないのが辛い。申しわけなくてたまらない。だけど、好きだからこそ本当の気持ちで答えたい。

「私……私は、好きな人が……」

「知っています」

 落ちついた声が私の言葉をさえぎった。

 ひざまずいたままの姿で、カームさんは私を見つめ言う。

「君が誰を見ているのか、気付かぬほど鈍くはありませんよ。あの時はっきりと思い知らされましたしね。それを承知の上で来たのです」

「どうして」

 泣きそうな気分になって身を引こうとした。けれどカームさんは私の手を放してくれなかった。

「私は同じ気持ちを返せません。それなのに、受けられるわけがないでしょう? カームさんは平気なんですか? 他の人が好きなのに結婚したって、そんなの最初から裏切ってるじゃないですか! それでいいんですか? そんなの許せるんですか?」

「……いとけない子」

 泣きそうな私とは裏腹に、カームさんは笑みを深くする。頬をすり寄せるように、もう一度私の手に口づけた。

「初めて恋を知ったばかりの君には、まだわからないのでしょうね。人の心とは移ろうもの。届かぬ想いに痛めた胸も、いずれ穏やかになる時が来ます。共にあるうち、育つ想いもある。今の君がわたくしを見ていないからといって、この先も完全に望みがないなどとは思いませんよ。君と彼が互いに想い合い、割り込む余地などないならともかく、そうではないのですからね」

 ずきりと胸が痛んだ。ひどい。私が片思いだと知って、そんなことを言うのか。

「かなわなかった恋など、忘れさせてみせますよ。もっと甘く幸せな想いを教えてあげましょう。君がわたくしを愛するようになるまで、いくらでも待ちます。……ただ、あまりにのんびり余裕で構えていては、横からさらわれてしまうおそれがあるのだと学びました。ですから、そこは待ちません。そばに置いて、誰にも手出しなどさせぬ。君の目を他へは向けさせない」

 甘い声が全身にからみついてくる。手の甲を滑る唇の感触に、ぞくりとする。これはなんだろう。怖いの? いやなの? ……それとも、違う気持ちだろうか。

 気がつけば立ち上がったカームさんの腕の中にとらわれていた。大きな胸に抱きしめられて、花の香りに包まれる。

 くらくらする。こんなのはだめだと思うのに、押しのける力が出てこない。

「今は彼を想ったままでよい……そのままでよいから、わたくしのもとへ来てください。約束しますよ、けして君を傷つけない。自然と心が変わるまで、無理強いなどせず待ちましょう。ただそばにいてくれるだけでよい……愛しい人、どうかわたくしを受け入れてください」

 この人のそばにいれば、切ない想いを忘れられるのだろうか。胸の痛みに苦しむことはなくなるのだろうか。これほど言ってくれるのに、気持ちを返せないのが辛い……でもいつか、返せるようになるのだろうか。

 優しい拘束から逃れることができない。どうすればいいのか混乱しながらも、以前のように拒絶することができなかった。

 口づけが下りてくる。あの時のように強引に唇を奪うのではなく、優しく頬を滑るだけだった。

 家族への親愛……これも、相手と状況によって変わるのだろうか。この人が今、私に家族愛を伝えているだなんて馬鹿なことは思わない。これはそういうキスじゃない。わかっているのに、拒絶できない。

 このまま溺れてしまいそうだった。もう何も考えられなくなって、ただ優しさと温かさに甘えてしまいたくなる。

 でも――でも、本当にそれでいいの?

 間違ってはいない――?

 頭の片隅にかろうじて引っかかった疑問を意識した時、小さな物音に気付いた。反射的にそちらへ目を向け、一気に正気を取り戻す。冷たいものを飲み込んだように、全身が震えた。

「…………」

 イリスが立っていた。バルコニーの入り口で、踏み込むべきか迷うようすでこちらを見ている。私を心配して見に来てくれたのだと、すぐにわかった。でもあの時のように割って入ろうとはしない。彼は何も言わず、気まずげに目をそらした。

 ますます身体に震えが走った。見られた――私が、カームさんの言葉に流されて、抵抗することもなく受け入れそうになっているところを、イリスに見られてしまった。

 私が嫌がってはいなかったから。あの時のように助けを求めていなかったから、だからイリスは止めようとしない。邪魔をしたと言わんばかりに遠慮している。

 涙がひとすじ、こぼれた。イリスは、そうなんだ……私さえ嫌がっていないのなら、止めなくていいと思っている……止めたいと、思ってくれない。

 わかっていたのに、あらためて思い知らされてかなしい。彼は、カームさんのように私を求めてくれない。

 かなしい気持ちが次々涙になってこぼれ落ちた。私はカームさんの身体を押した。抵抗はなく、カームさんはすんなり私を放してくれた。何も言えず、うつむいたまま足を動かす。イリスの横をすり抜けて廊下へ飛び込む。彼は一瞬私に手を伸ばしかけたけれど、結局呼び止めることも追いかけてくることもなかった。

 泣きながら夢中で走る。人に見られることもかまっていられなかった。

 かなしい、かなしい、かなしい――

 でもきっと、自業自得なんだ。カームさんをはっきり拒絶することができなかった。彼の言葉に流されて、甘えてしまいたい気持ちになっていた。ずるいことを考えていたから、だからばちが当たったんだ。私がそんな態度だったら、イリスだって止めてくれるわけないじゃない!

 ……自分で自分に、引導を渡したようなものだ。




 視界いっぱいに白いものが舞っていた。

 尽きることなく空から落ちてきて、風に吹かれて山を谷間を飛んで行く。

 冷たい空の花にまぎれて、私もどこかへ消えてしまいたかった。風に吹き飛ばされ、はかなく溶けて消え去りたい。

 からっぽになった胸に、かなしさだけが満ちていて。

 あふれ出したかなしみが、花を追いかけられず重く地面に落ちていった。




                    ***** 第六部・終 *****

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[一言] 想いを返せないのに受け入れるのは裏切りだ、という千歳に「いとけない子」と返すカーメル氏が最高でした。堪りません。 自分が感じるの苦さも千歳の不器用さも、全部飲み込んだような一言に痺れました。…
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