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「……痛っ」
背中に強い痛みが走って、つい声が出てしまった。優しいリズムで叩いてくれていたイリスの手が、驚いて離れていく。
「悪い、怪我したとこに当たったか?」
「……ん、大丈夫」
私はイリスから身を離し、座り直した。小さなランプひとつだけの暗い部屋の中、イリスは心配そうに私の顔を覗き込む。
「ちゃんと手当てしてもらったか?」
「うん。レイダさんが湿布貼ってくれた」
「ならいいけど……本当に、ごめんな」
落ち込んだようすでイリスは頭を下げた。銀の髪が揺れて、ランプの明かりをはじいた。
「守ってくれるって信じていた相手に嵌められるなんてな……ごめん」
「もういいわ。それほどひどい目に遇ったわけでもないし」
「いや、十分ひどいだろ」
イリスの反論に、首をかしげて考える。ひどいかな? ひどい、かも? ……でも結果的に大したことにはならなかったのだから、もういいじゃないか。
「メイリは、たしかにまだ子供っぽいところが残っているけど、仕事には熱心だし誰とでもすぐにうちとけて明るく話すやつだから、君とも仲良くできるんじゃないかと思ったんだ……本当に、普段はあんなこと言うやつじゃないんだよ。なんであそこまで君に悪感情を持ってしまったのか……これまで接することもなかったのにな」
とてもわかりやすい状況なのに、イリスは本気で気がついていないようだ。さすが、無神経鈍感男だ。メイリさんに同情してしまう。そして私も、きっと立場はおんなじだな。
「メイリさんは……」
言いかけてためらった。教えてしまっていいのだろうか。デリケートな問題だ。他人に、それも、よりによって私の口から勝手に伝えられてしまうのは、メイリさんには許しがたいことなんじゃないだろうか。
そう思うと続きを言えない。「なんだ?」とイリスがうながすので、違うことを口にした。
「メイリさんを私につけたのは、同い年の女の子で、普段は気さくな人だから?」
「ああ……それに、チトセとは対照的だからな。お互いにいい刺激になるんじゃないかと思ったんだ」
「刺激?」
吐息混じりに小さく笑って、イリスは私に毛布を着せかけた。寒くないようしっかりくるまれる。
「さっきも言ったように、普段のメイリは誰にでも明るく接して、すぐうちとける。積極的で悩むより先に行動する。君に足りないものを持っている」
……そうだな。たしかにそれらは、私が苦手とする部分だ。
「対するに君の方は、上品で礼儀正しく思慮深い。メイリはその辺が不足している。お互いがいい手本になって、相手から長所を学んでくれればと思ったんだがな……」
甘かったな、とイリスはため息をついた。
「今回のことは、僕の失態だよ。部下を指導、監督するのは上官の責任だ。それが行き届いていなかった。君から学んでくれないか、なんて他人まかせなことを考えて見事に外した……僕の采配が招いたのは、悪い結果ばかりだ。それ以前に、もっとちゃんとあいつを見ていてやれば、こんなことにはならなかったろうにな……」
後悔のにじむ顔でイリスはうつむく。厳しく叱っていたけれど、きっとイリスにとってメイリさんは可愛い部下なんだろう。今回のことに腹を立てるよりも、彼女を処罰しなければいけないことに苦しんでいるようすだった。
私はイリスにどう言ってあげればいいのか、考えたけれどもわからなかった。
百人以上いる隊員の一人ひとりを、イリスひとりで細かくチェックするのは無理だろう。教師が担当できる生徒数が、最大何人だっけ? うちの学校は一クラス三十名少々だった。それを考えると、すべてをイリスの責任と言ってしまうのは酷な気もする。普段問題行動を起こすこともなく、熱心に仕事をしていた隊員なら、信頼してしまうだろう。
でもきっと、そんな言い分は通らない。何かあれば上の人が責任を問われるものだ。一社員の不祥事でも、社長や会長クラスの人が記者会見を開いて謝罪していたではないか。
大企業よりは目も行き届く飛竜隊。メイリさんのことを名前だけでなくちゃんと知っていて、派遣すると決めたのはイリスだ。たしかに責任はある。私も、そう思って手紙を出した。イリスにも非があったと認めざるを得ない。
……でもいちばん責められるべきなのは、やはりカームさんじゃないのかな。彼はミルシアさんの性格を知った上で利用して、私やメイリさんが巻き込まれることを狙ったのだから。
煽られるままに悪事を働いたミルシアさんも当然悪いし、それに乗せられたメイリさんも悪い。そして、うかつすぎた私も悪い。
突き詰めて考えていくと、みんながそれぞれ悪いという結論にいたってしまう。そうやって責任の所在を曖昧にしてしまうのは日本人の悪いくせだと聞いたことがあるけれど、誰かひとりだけを悪者にして、そこにすべての責任を負わせて終わりにできる話だとは思えなかった。
「……メイリさんのこと、本当に除名しちゃうの?」
「これだけことが大きくなると僕の一存では決められない。アルタに報告して判断をあおぐことになるよ。過去の事例から見て、そういう処分になるだろうなとは思うが……きっとハルト様もお怒りになるだろうし」
「ハルト様には私から話すわ。メイリさんは主犯じゃないし、本人は軽い嫌がらせ程度だと思っていたわけだし、きちんと説明すればハルト様だってわかってくださるわよ」
イリスは顔を上げ、複雑な笑みを私に向けた。
「メイリのこと、許してくれるのか」
「……許すのは、本人が本当に反省して謝ってきてから。でも除名は厳しすぎると思うの。メイリさんは一人前の竜騎士になってからまだ日が浅いでしょ。失敗や間違いはあって当然だわ。私と同じ十七歳だもの、大人でもない。それなのに、挽回の機会も与えずに追い出して終わりなんて、あんまりだと思うの」
「……ありがとう」
イリスは私を抱き寄せ、肩口に額をつけて表情を隠した。なんだか前にも似たことがあったような。落ち込んだ時のくせなのだろうか。
イリスのぬくもりや息づかいを間近に感じて胸が高鳴る。でもこれは特別なものではないのだと思えば、切ない気持ちがこみ上げた。メイリさん、私も一緒だよ。私だってイリスに片思いだ。けっして特別なんかじゃないのに、こんなふうに触れてこられるのって切ないね。近いのに遠い。うれしさと苦しさが同居している。
メイリさんはずっと同じ隊でイリスを見てきて、届かない想いにこんな気持ちを抱いていたのだろうか。他の女の子がイリスのそばにいるのを見るたび、辛くなったことだろう。自覚してしまった今ならよくわかる。私もきっと、イリスに恋人ができたら辛くてたまらない。
だけど、好きなんて言えない。私を特別に見て、なんて頼めない。今のこの関係すら失ってしまいそうで、怖くてとても伝えられない……それも、メイリさんと一緒なのだろうか。
対照的だとイリスに言われた、私とメイリさん。
けれど私たちは、とてもよく似た存在でもあった。
翌日、私はジーナを発って帰路につくことになった。
予定を早めての帰国だ。船長さんたちに迷惑をかけたのではないかと心配になる。昨日のうちに大使から連絡が行っているそうだが、船に戻ったらよく謝らないと。
出発準備をしていると、部屋に訪ねてくる人があった。思いがけない相手だった。
「お忙しいところにお邪魔して、申しわけございません」
色の薄い金髪をさらりと揺らして、シラギさんは私に頭を下げた。
カームさんの秘書官として常にそばに控えている彼と、これまで顔を合わせる機会は多かったものの、話をすることはほとんどなかった。個人的に会ったのはこれが初めてだ。この人とこんなふうに向かい合うのは予想外なできごとだった。
「ご出発までに、どうしてもお伝えしたいことがございましたので」
椅子を勧めても辞退して、シラギさんは立ったままで私と向かい合った。こちらは失礼して椅子に座らせてもらっている。背中の痛みが昨日より強くなっていて、あまり動き回れないのだ。長く立っているのも辛い。
私より年齢はもちろん、身分も社会的地位もずっと上の男性は、偉そうに座ったままの小娘を不快に思うそぶりも見せず、真摯な態度で言った。
「先日のできごとにつきまして、ティトシェ嬢におかれては大変ご不快な思いをなさっていることと存じます。心より、お詫び申し上げます」
ふたたび深く頭を下げる。
「……それは、カーメル様からの伝言ですか」
尋ねると、いいえ、とシラギさんは首を振った。
「無論、主もあなたに申しわけなく思っております。ですがこれは、わたくしの個人的な判断による訪問……実を申しますと、主には無断で参りました。叱責を受けるやもしれませんが、どうあってもお聞きいただきたかったので」
「何をですか」
「主がご説明しなかった部分についてです。たしかに主は――我々は、あなた方を利用しました。そのことについて非難を受けるのは当然ですし、お許しいただけるまで謝罪も償いも行うつもりです。ただ、単に都合がいいからと軽い気持ちで利用したわけではなかったのだと、それだけは知っていただきたく」
カームさんほどではないにしても、この人もずいぶんと整った顔だちをしている。普段はあまり表情を見せず、それこそ人形めいている。冷やかな雰囲気で話しかけづらいと思っていた人だったのが、今は人間的な憂いをはっきり見せていた。
私の座る椅子に軽く手を置いて、イリスがそばに立った。目線の高さはシラギさんと同じだ。シラギさんにはプレッシャーになっていることだろう。しかしそこはさすがに動じることなく受け止めて、シラギさんは言葉を続けた。
「主が即位するより前、そして即位のしばらく後までも、このリヴェロが内乱によって荒れていたことはご存じでしょう。先代の公王はありていに言って無能な方でした。お人柄が悪かったわけではないのですが、気弱すぎました。あちこちに気をつかい遠慮しすぎて、どこにも強く出ることができず、貴族や王族たちの専横を厳しく取り締まることができませんでした。国政も軍事も正常な状態ではなくなり、有力者たちの多くが私利私欲に走りました。富や権利を奪い合い、そのしわ寄せは無力な一般の民に来ました」
先代の王って、カームさんのお父さんかな? 多分そうだよね。性格が全然違うみたいだけれど。
「ジーナの街をご覧になって、美しいと思われませんでしたか? 窓辺に花を飾り、人々は華やぎ……ですが、それはごく最近になって得られた風景です。ほんの十年ばかり前には、街も民も荒み、道端に餓死した者が転がっているような、そんなありさまでした」
シラギさんの話がにわかには信じられない。来る途中に見た街はとても洗練されて美しく、そんな悲惨なことがあったなんて少しも感じさせなかった。
歴史や外国の話でなら、似たようなことはいくらでも聞いた。日本も昔はそんな時代があった。平安京って雅びなのは裕福な貴族たちだけで、庶民はそれこそ道端で飢え死にしていたそうだ。重い病にかかれば鳥辺野に打ち捨てられ、そのまま死を待つしかなかったとか。
この国も、ほんの十年前にそんな状況だったというのか。
「主は、かならず国を正常な状態に戻すと……民が飢えることなく、脅かされることなく、穏やかに暮らせる国にするのだと、あなたよりもまだ若かった頃に誓いました。そのためには、どんなことでもしてみせると」
どんなことでも――その言葉に反応してしまう。シラギさんが伝えたかったのも、きっとそこだろう。
「胸を張っては言えないような真似を数々行ってきました。我欲にとらわれ王権を無視する輩を相手にして、正義だけでは対抗できません。ロットル侯と手を組んだのもそのためです。あの方も我欲の強い人物でしたが、兄を排除して自分が公王になろうとまではしませんでした。できなかった、と言う方が正しいでしょうか。それをすれば国内のいたるところで反乱が起き、有力者たちがこぞって王権を求めることは目に見えていましたから。かろうじて持ちこたえている王室を支持し、陰から実権を握る方を選んだのです」
最初からロットル侯は王の権力を求めていた。そのために、彼は彼でカームさんを利用したわけか。
血のつながった叔父と甥で、殺伐とした関係だ。歴史ドラマでよく見かける話ではある。戦国時代の武将たちも、昔のヨーロッパの王侯も、血族同士で戦ってばかりだっけ。
……なんでもかんでも、全部伝え聞いた話だな。歴史の授業やニュース、ドラマや漫画やゲーム――それらが私の知識の源だ。自分とは関わりのない、物語の世界だった。でもカームさんにとっては、常に向き合う自分の現実だったのだ。
根本的に違いすぎる。私と彼とでは、見ている世界があまりに違う。彼のしたことを許せないと思う私は、リヴェロの人たちからすれば、現実を知らずに正義ぶって理想を口にしているだけでしかないのかも。
「ロットル侯はいずれミルシア姫を公妃にするよう求めました。当時姫はまだ十にも満たない幼子でしたから、正式な話とはせず、内々の話として受け入れたように見せかけました。主がこれまで独身だったのは、そういった事情があったからです。ミルシア姫が適齢期になるまで待っているのだと、向こうに思わせておりました」
ミルシアさんは今十八歳。王族ならもう適齢期と言えるだろう。カームさんもそろそろ結婚すべき年頃だし、その約束は期限が迫っていたのではないだろうか。
続くシラギさんの話が、私の考えを肯定する。
「そろそろ話を正式なものとし、発表してもらいたいと、ロットル侯から再三要請がありました。うやむやにして引き延ばすのはもう限界でした。ですが、あの姫を公妃にすることはできません。何よりロットル侯にこれ以上力を持たせるわけにはいきませんし、本人の性質も到底受け入れがたく……」
「ミルシア様があんなふうになってしまったのは、周りの教育に責任があるんじゃないですか。カーメル様だって人のせいにはできないはずです」
「否定はいたしません。……これを申し上げると、あなたにはますますご不快かとは存じますが……実のところ、わざとそうしたふしもございます。最初から妃にする気はなかった相手です。いざという時、誰の目にも不適格と映る方が都合がよかった」
だからミルシアさんを甘やかしてきた? 彼女が間違った意識を持って他人に害を与えるのを放置してきたというのか。
それって……。
「卑怯のそしりは覚悟の上です。弁明させていただけるならば、それでも本人の自覚と努力さえあれば、妃にふさわしい女性になることもできたでしょう。主は何もわがままや悪事を奨励していたわけではありません。あまりに度を超した時には諫めもしましたし、被害者に救済の措置も取ってきました。ミルシア姫がそれらをもっと真摯に受け止めて、己を見つめなおすことをしたならば、現在のようなことにはならなかったはずです」
周りの教育が悪かった。でも本人の性格や意識にも問題があった。シラギさんはそう主張する。それも事実なのだろうけれど……。
うなずいてしまっていいのか、わからなかった。それで納得してしまっていいのだろうか。
わからない。問題がややこしくて、単純な善悪では判断できない。
――それが、政治というものなのだろうか。
「主は主なりに、姫を憐れんでおります。大人たちの思惑の犠牲になった方ですから。一度表舞台から切り離してしまう方が、今のあの方にはいい。父親の失脚と、それによって起こる騒動から、先に遠ざけてしまおうと考えたのです。そこから先、己の罪を自覚し意識を改めることができるか、ただ恨みの念に凝り固まっていくばかりか……それはもう彼女次第ですが、できる限りのことはしていくつもりです」
ひとしきり話して、シラギさんは少し息をついた。私は黙って続きを待つ。イリスも口を挟まない。隣の部屋でレイダさんが荷造りする音だけが、ひそかに聞こえていた。
しばらくしてシラギさんはふたたび口を開いた。
「……色々申し上げましたが、ご理解いただきたいのは、主はけっして、他人を利用することを何とも思わない冷たい人間ではないということです。必要とあらばためらわずに行動します。迷い、ためらっていては、先代の二の舞になる。誰にも悪い顔を見せず、どこにも被害を出さず、誰もが満足する円満な解決法など存在しません。そんな理想は求めません。できることは、せいぜい被害を最小限に抑えるくらいです。その信念に基づきあの方は行動しております。そしてその目的は、自身の利益ではありません。すべては国と民のため……二度と、あのような時代を招かないためです。あなたを利用し負傷までさせたことについては、どれだけ非難されてもいたしかたないと承知しております。ですが、どうか……あの方が、あなたを軽視していたわけではないのだと、それだけはわかっていただきたく」
懸命なまなざしを向けられて、私はどう答えればいいのか悩んだ。簡単にうなずく気にはなれない。でも、頭から拒絶することもできない。
どうしたらいいんだろう。
迷っていると、それまでずっと黙っていたイリスが口を挟んだ。
「だから許せと言われるのならば、勝手な言い分としか思えませんね。どんな事情があろうと、チトセがとばっちりで被害を受けたことには変わりない。そのうえ、あんな真似までされて、悪意はなかったのだと言われても」
「……主とて人間です」
シラギさんは視線を動かし、イリスを強く見返した。
「ひとりの男として、想いを抑えきれない時もございます。心から愛し求める相手から手ひどく拒まれて、一時冷静さを失ってしまうこともございます」
「それだけ聞けば情熱的な話ですが、相手の合意がなければただの暴力でしょう」
「非は認めます。主もわかっております。けっして許容されない行動だったと……ですが、どれほど英明な君主であろうとも抗えない、道を踏み外すきっかけにもなる――それが、恋というものではありませんか」
恋、と、はっきり口にされて胸が大きく音を立てた。
恋……カームさんが、私に? 私がイリスを想うように、メイリさんが苦しんだように、彼は私に恋をしたというのだろうか。
どうしてそうなるのか、いまだに理解できない。あの人にそこまで想われるような何があった? 下手な冗談としか思えない。
……けれど、あの時のカームさんの目は、冗談やからかいなんかじゃなかった。本気の激しさを伝えていた。それだけは、はっきりと感じていた。
もうわけがわからない。人から向けられる憎悪や好意、自分の想い――いろんなものに悩まされて、気持ちの整理が追いつかない。
結局許すとも許せないとも言えないまま、シラギさんを見送ることになった。彼が退出した後、のろのろと荷造りに戻った私に、レイダさんが遠慮がちに差し出したものがあった。
「こちらは、どういたしましょう。持って帰られますか?」
ノートくらいの大きさの、小さな額だ。竜たちが仲良く並ぶ、とてもあたたかな絵の。
私が喜ぶものをと伝えて、それからカームさんが描いてくれたものだった。すぐに描いたのなら、もっと早くに届けられていたんじゃないだろうか。ずいぶん遅く、寝る直前になって届いたのは、もしかして何だったら喜ぶかと悩んでくれたのだろうか。
額に隠されて見えない絵の裏には、私が頼んで入れてもらったサインと、「愛する千歳へ」の一文。あの時は、いつもの軽口だと気に留めないでいた。定型文みたいなものだろうと思っていた。でも、それを書いた彼の気持ちは……。
いつも、いつも、そういう言葉を向けられていた。手紙でも何でも、彼は私に親密な言葉を向けてくれていた。私はずっと、それらはただの社交辞令だと、彼の口癖みたいなものだと、真剣に受け取らず流してばかりいた。本気の言葉なんて向けられるはずがないと決めつけて。
……ずっと、カームさんの気持ちを踏みにじってきた。
目の奥が痛い。せっかくの絵を濡らしてしまわないよう、私は額をバッグに押し込んだ。こみあげるものを抑えきれず、そのままうずくまる私を、レイダさんとイリスは何も言わず、そっとひとりにしてくれた。
昼前には支度も終わり、宮殿を出ることになった。
カームさんとは会っていない。向こうからも会いに来ない。このまま別れるのはどうかとも思うが、今顔を合わせても何を言えばいいのかわからない。しばらく時間を置いて、冷静に考えられるようになったら手紙を書こうと決めた。
代理で見送りに出てくれたシラギさんに滞在中のお礼を言って馬車へ向かう。その途中でイリスに呼び止められた。
「悪い、ちょっとだけ協力してくれないか」
「何を?」
周りにはジャスリー大使やその護衛騎士たちもそろっている。メイリさんも、彼らの陰に立っていた。ひどく思い詰めた顔をしているのが気になる。
「あいつに言い聞かせてほしいんだ。ちゃんとついてくるようにって」
イリスが示す方向に目をやると、二頭の飛竜がいた。一頭はイシュちゃんだ。言うまでもなく、彼女に命令する必要はないだろう。いつもどおりに落ちついて主人の指示を待っている。
問題があるのは明らかにリアちゃんの方だった。
リアちゃんには、何が起きているのかわからないだろう。でも周りの雰囲気や何より主人であるメイリさんのようすから、ただならぬ気配は察しているようだ。落ち着きがなく、苛立っているように見えた。
「ここまではどうにか引き出してきたんだがな、頑として動かなくなっちまったんだ」
困った顔でイリスが言う。近づこうとする人を威嚇するリアちゃんの姿に、メイリさんも悲しげな目を向けていた。
彼女に任せればリアちゃんも従うだろうに、そうするわけにはいかないのか。周りを厳重に囲まれ、剣も取り上げられ、メイリさんは完全に犯罪者扱いだ。
「わかった」
私はうなずいてリアちゃんの方へ足を向けた。はじめリアちゃんは私にも苛立った目を向けたが、声をかけながらゆっくり近づいたら、暴れずに受け入れてくれた。
「だいじょうぶ……帰るだけだからね。一緒に帰ろう? ちゃんと、ついてきてね」
私は手を伸ばす。リアちゃんの首をなでようと触れかけた瞬間、
「やめて!」
悲鳴のような叫びが辺りに響いた。
「さわるな! リアにさわるなっ」
メイリさんが飛び出してこようとして、周りの騎士たちに取り押さえられる。たちまち拘束されて、それでも彼女は必死にこちらをにらんできた。
「あたしの竜だ! あんたのものじゃない!」
「メイリ!」
イリスの叱責も耳に入らないようだ。
「やめてよ、あんたなんか竜に近づく資格ない! 何もしてないくせに! あたしたち竜騎士が、どれだけ厳しい訓練に耐えて命懸けで竜を得ているのか、知ってるのか!? 何一つ努力しないで龍の加護に甘えてるだけのあんたが、当然の顔して竜に近づくなんて許せない!」
「…………」
私は息を呑んだ。手足が冷えていく。心臓が嫌な音を立てて暴れ出した。
もしかして――メイリさんが私を憎む、もうひとつの理由は……。
「リアはあたしが育てた! あたしの竜だ! あんたのものじゃない! 二度と勝手に近づくな!」
二度と――そう言われたことに意識が引きつけられる。
メイリさんと引き合わされてから、私はリアちゃんにさわったことはない。彼女はいつも、私をリアちゃんに近寄らせないようにしていた。だから「二度と」なんて言われるとしたら、もっと以前の話だ。
心当たりはあった。ユユ姫がさらわれた時、地竜のお母さんに頼んで騎士団の竜を呼び集めてもらった。それから夏に、宴の余興で竜を呼んで一緒に踊った。
そのどちらかの時――もしかしたら両方、集まってくれた竜たちの中に、リアちゃんがいたのだろうか。
騎士たちが命懸けで卵を獲りに行き、親のかわりに大切に育てる竜。唯一無二の相棒であり、竜騎士の誇りだ。他の誰にもなつかず主人にだけ忠実であるはずの彼らが、けれど私には無条件に従う。いざとなったら主人よりも私を取るだろうと、オリグさんが言ったことを思い出す。
それは、竜騎士たちにとってどんな気持ちがすることなのだろう。
気付けば足を踏み出していた。ふらつきそうになるのを、背中の痛みが引き止めてくれる。暴れる身体を両側から押さえ込まれ、地面に膝をついたメイリさんの前に、私も膝をついた。
きれいな金褐色の髪が、激しく振り乱されていた。見上げてくる明るい緑の瞳は、怒りと屈辱に支配されている。本来は溌剌とした可愛らしい人なのに、別人の形相になっている。拘束がなければ今にも殴りかかられそうな、血走った目が私をにらみつけた。
「ごめんなさい……取ったりしません。勝手にさわりません。リアちゃんはあなたの竜です。今だけ、今だけ我慢してください……」
ごめんなさい、ともう一度謝りかけた時、彼女が勢いよく何かを吐き出した。それが私の頬に当たる。一瞬、何をされたのかわからなかった。次に考えたのは、こっちの世界でも唾を吐きかけるという行動があるのかなんて、間抜けな感想だ。私が惚けている間にメイリさんは頭までも押さえつけられて、あわてて駆け寄ったレイダさんが私の頬を拭いてくれていた。
「メイリ、聞き分けろ。リアを落ちつかせて移動させなきゃいけないんだ。我慢しろ」
「嫌だ、いやだぁ……っ! あたしのリアにさわらせないで! そんなやつに近づかせないでっ!」
イリスの説得にも耳を貸さず、メイリさんは泣き叫んで抵抗する。その姿は、少し前の私を思い出させた。
同じだ。自分の感情を持て余して、人の言葉を受け入れられなくなって、もうどうすることもできなくなっていたあの時の私と、今のメイリさんは同じだ。
今、目の前で泣き叫んでいるのは、あの時の私だ。
性格も能力も外見も、いろんなことが対照的なのに、私とメイリさんは合わせ鏡のようにそっくりだった。
ここにいるのは、もう一人の私。
私が、泣いている。辛いと泣いている。わかってほしくて、助けてほしくて、どうにもできない感情の中でもがいている。
抜け出せない重い闇を私は知っている。私をそこから救い出してくれたのは、イリスとハルト様だった。ユユ姫やトトー君、アークさんにオリグさんも、みんなで私を明るい場所に連れ出してくれた。
メイリさんは? 彼女は、誰が助けてくれるの?
イリスの顔を見上げる。苦悩に満ちた厳しい顔のイリスもまた、どうすればいいのか悩むようすだった。
通い合えば、とてもあたたかく優しく、何より力強い支えとなる人の想い。
でも行き違ってしまうと、どんどんこじれて辛い気持ちばかりを生み出していく。
メイリさん、カームさん、イリス……。
どうしてこんなに、うまくいかないのだろう。私が悪いから? 私が人とうまく付き合えないから、あちこちで想いをこじれさせてしまうのだろうか。
すすり泣きに変わったメイリさんの声に、リアちゃんの悲しげな鳴き声が重なった。