8
柔らかく下りてきたものが、優しく唇をついばむ。
じっさいに経験したら気持ち悪いんじゃないかと思っていたそれは、予想に反して穏やかに優しく、あたたかいばかりだった。
直前の雰囲気を考えたら、意外なほどに。
……きっと、とても気をつかっているんだ。知識だけは豊富だから、本当のキスはこんなものではないとわかっている。カームさんはあくまでも優しく触れるだけで、それ以上先に押し入ろうとはしない。
それでも、私には受け入れられない行為だった。
こんなこと、望んでいない。私の意志を無視して、勝手にされていいことじゃない。まして、身動きもできないよう押さえ込まれてだなんて。
こんなの、ただの暴力だ。これで女が喜ぶとでも思っているの? こんなことされて、その気になると思っているの?
そもそもなんで、この人は私にこんなことをしているの? 王様で、絶世の美貌で、きっと星の数ほどの女性に好かれていて、私よりうんと年上で、そんな対象に見られることなんて絶対にないと思っていたのに。
嫌だ、嫌だ、いやだ――
顔をそむけて繰り返される口づけから逃れる。けれどそうしたら、そのまま彼の唇は私の肌を滑り、頬から耳の下、うなじへとたどっていった。
吐息にくすぐられ、ぞくりと肌が粟立つ。無意識に押し退けようと動きかけた腕を、より強い力で押さえつけられる。瞬間にわきあがったのは、怒りではなく恐怖だった。
こわい。私にはかなわない力で、無理やりな行為を強いる男の存在がこわい。
この人にそんな気持ちを抱くことなんて、ありえないと思っていたのに。常に優雅で、言葉もしぐさも上品で、乱暴なところなんてひとつも見たことがなかった。企みごとをするような策士でも、私には優しかった。ちゃっかり利用してくるけれど、彼自身が私に接する時はいつだって優しくて親切だったのに。
なんで今は、こんなに怖いの。
「……や」
こらえきれず声が漏れた。おびえているなんて思われるのは悔しい。こんなの強気で跳ね返してやりたい。そう思うのに、恐怖と嫌悪感がふくらんで止められない。
「やだ……いや、嫌……!」
私が嫌がっているのに、カームさんはやめてくれない。強い力で押さえつけて放してくれない。いやだ、こわい、やめて。
涙がにじんでくる。いやだ、誰か助けて。お姉ちゃん、コーちゃん、助けて。いやだ、お願い!
「イリス……っ」
脳裏におひさまの笑顔が浮かぶ。無意識に呼んだ名前に、カームさんの身体がはっきりわかるほどこわばった。
「……どこまでも……」
頭をもたげ、ふたたび私を見下ろしてくる。アメジストの双眸が憤りに燃えていた。
ミルシアさんと同じだ。こんな時に思い出すなんて。でもこの瞳を私は見たばかりだ。嫉妬にとらわれた瞳だ。この人が、こんな目をするなんて。
「どこまでも、わたくしを拒絶し、彼を求めるのですか……」
どうして、この人が。どうして、私なんかに。
きつく握られた手首が痛い。伝わってくる激しさがおそろしい。どうしよう、どうしたらいいの。もういやだ、誰か助けて――
恐怖と混乱に泣きだしてしまいそうになった時、突然に大きな音が響いた。何かを激しく打ちつけた音に一瞬恐怖も忘れ、びくりと震える。カームさんも顔を上げ、二人同時に音の方を振り向いた。
うそ……。
そこにある姿をみとめた瞬間、私は目を疑った。
たった今、救いを求めて思い浮かべた人だ。でもここにいるはずはないのに、どうして?
「……失礼いたします」
扉に拳を叩きつけたままの格好で、イリスは低く声を出した。青い瞳はまっすぐにカームさんをにらみつけている。他国の王が相手だというのに、殺気すら感じさせそうな怖い顔だった。
「まことに、無礼」
ゆっくりと身体を起こしながらカームさんが言った。凍りつくような声だった。冷やかにイリスをにらみ返す。
「誰の許しを得て入ってきましたか」
「この状況で許可が必要ですか。チトセを放してください。いくら公王でも、していいことと悪いことがあるでしょう」
王の怒りにひるむことなく、イリスは彼らしいまっすぐな言葉でとがめてくる。一瞬唇を噛んだカームさんは、私から静かに手を放した。
飛び起きようとして、でも身体に力が入らない。腕も足も馬鹿みたいに震えて使い物にならない。立ちそこねて長椅子からずり落ちた私に、カームさんが手を差し伸べた。それが怖くてまた身をすくませたら、彼はひどく切なそうな顔で手を引き立ち上がった。
イリスが室内へ踏み込んでくる。背後に侍従やシラギさんの姿が見えた。きっと彼らはイリスを止めようとしたのだろう。それを振り切って、無礼をとがめられるのを承知で、イリスは来てくれたんだ。
私は夢中で腕を伸ばした。屈み込み、目の前で膝をついてくれた彼の首にすがりつく。たしかな手応えに心から安堵する。イリスだ。ここにいる。本物だ。
大きな手が何度も髪をなで、背中を叩いてなだめてくれた。もう大丈夫だと教えてくれる。ちょっとだけ荒っぽく、でもあたたかなしぐさに、ほっとして涙が出てきた。イリスの肩に顔を伏せ、さらさらした銀髪を感じながら少しだけ泣いた。
そのまま私を抱いてイリスは立ち上がる。しばらく立ち止まったままでいたのは、カームさんとにらみ合っていたのだろうか。
けれど結局、ふたりがそれ以上言葉を交わすことはなく、イリスはだまって踵を返した。
誰にも止められることなく部屋を出る瞬間、私はそっと顔を上げてカームさんのようすをうかがった。
白い貌は私からそむけられ、どんな表情を浮かべているのかうかがえなかった。
緊張状態の連続は、私をずいぶんと疲れさせていたらしい。
客間へ帰り着きともかくもと寝台に寝かされた私は、イリスとろくに話もできないまま気を失うように眠り込んでしまった。彼が来てくれたという安心感も手伝ったのだろう。昏々と眠り続け、目が覚めた時には室内はすっかり暗くなっていた。
完全に真っ暗じゃないのはランプに明かりが灯されているからだ。暖かな空間に、人影がふたつあった。
ジャスリー大使がベッドサイドに腰かけ、そのそばにレイダさんが控えている。私が目を覚ましたことに気付くと、二人は身を乗り出してきた。
「起きたか。気分はどうだね。痛みがひどくなっていたりしないか」
ジャスリー大使が、彼にしてはずいぶんと優しい声で尋ねた。
「……大丈夫です……えっと、どうなって……」
起き上がろうとすると大使に止められる。そのまま寝ていなさいと、やけに心配そうに言われてしまった。
「あの、大丈夫ですよ。怪我っていっても、ちょっと痣を作ったくらいですから」
重症だと勘違いされているのかと思い、説明する。大使は妙な顔になった。
「ちょっとではすまないと思うがな」
「そうですか? 大丈夫ですけど。前に比べたら、本当にどうってことなかったし」
「前?」
「あ、崖から落ちたことがあるんです。あの時は怪我もひどくて痛かったです。あと崩落に巻き込まれて生き埋めになったのもきつかったな……いちばん苦しかったのは溺死しかけた時ですけど。今回のは本当にたいしたことなくて。落ちたって言っても階段一階分くらいですし」
「…………」
ふたたび妙な顔で大使は黙り込む。その後ろで、たしかにとレイダさんがうなずいていた。
「あの時は大変でしたね。何日も高熱が続いて。さぞ痛くて辛いでしょうによく我慢なさっていると、みな感心していましたわ。ようやく熱が下がった時には一の宮の者全員が胸をなでおろしました」
そうなのか。あの頃はまだろくに面識もなかったのに、みんなそんなに心配してくれたのか。いい人たちだな。
「……ずいぶん、見かけによらない経験をしているようだな」
コメントに困るようすで大使が言った。
「はあ、そうですね……二、三回死にかけましたか……あ、四回かな? あれも入れたら五回?」
「陛下が君を心配なさって、特にと私に頼み込んでこられた理由がよくわかった」
重々しく大使はうなる。なんだそれ、ハルト様何を言ったの。
「君がカーメル公とずいぶん親しげなのを見て、不安に思ってはいたのだ。ミルシア姫の公に対する執着ぶりは有名だからな。常日頃から彼の花嫁になるのだと公言してはばからなかったし、父親のロットル侯もそういうつもりでいるようだった」
「ああ……そんな感じでしたね」
式典の夜のロットル侯を思い出せば、遊びはあくまでも遊びと、節度を心がけるように釘を刺していたっけ。ミルシアさんの態度を謝るふりして、結局のところ彼女をないがしろにするなという主張だった。
「あまりおおっぴらには口にできないことだが、彼女の不行状は社交界でひそかな噂になっている。過去にも何度か問題を起こしたらしい。どれもロットル侯によってうまくもみ消され、表沙汰にはなっていないがな」
カームさんも言っていたな。そうか、社交界で噂になるほどだったのか。それでよく今までとがめられずにきたものだ。それだけ、父親のロットル侯の存在が大きかったというわけか。
……カームさんはどういうつもりで彼女を放置していたのだろう。本当にどうでもよかったの? 被害者に対する罪悪感はなかったの?
「だから目の届く範囲に置いておきたかったのだがな……公王じきじきの招待となると断るわけにもいかず、護衛もついているからと思ったのに、よもやその護衛が脅威となるとは」
その言葉に私ははっと思い出した。そうだ、メイリさんは? あの後どうなったの。それにイリス――イリス、いたよね? あれは夢じゃないよね?
「あ、あの、イリスは……?」
どこかにいないかと視線をめぐらせる。寝室にいるのは大使とレイダさんだけだった。
「ああ……君が彼を呼んだそうだな」
「いえ、相談の手紙を出しただけで、呼んだつもりではなかったんですけど」
「ふむ? だが血相を変えて駆けつけてきたぞ。ロウシェンからほとんど不休で飛んできたらしく、しばらくここで休んでいた。今はメイリ・コナーを引き取りに行っている。なかなか帰ってこないところを見ると、取り調べに立ち会っているんだろう」
私は寝台の上で半身を起こした。すかさずレイダさんがショールを広げて肩にかけてくれる。それからお茶を淹れてくれた。
温かく甘い味に、ほっと気持ちがなごむ。
「メイリさんは……どうなるんでしょう」
「正式な処分は国に戻ってからだが、まず最低限騎士位は剥奪だな。それに加えて量刑が言い渡されるだろう」
大使もお茶を飲みながら答える。想像以上の厳しい話に、一瞬私は絶句した。そこまでされるのか。
たしかに彼女は悪いことをした。無罪放免にすべしとは思わない。でも言ってみればいじめの延長じゃないか。彼女にも何か言い分や事情があるかもしれないし。
我ながらお人好しなことを考えているとは思う。だが何の理由もなく嫉妬だけで彼女があんな行動をしたとは思えないのだ。
ミルシアさんとメイリさんは違う。身分と権力に甘やかされ、何をしても許されるのだと思い込んでしまった姫君みたいな真似を、メイリさんができるわけがない。彼女の立場なら、もっと常識的に物事をとらえられるはずだ。
もしかしてミルシアさんに脅されていた? いや、メイリさん自身が私に悪感情を持っていたのはたしかだ。あれだけ憎まれるような何を私はしたのだろう。それを知りたい。知らなければいけない。
「あの……メイリさんに会いに行きたいんですけど」
意を決して訴えると、大使は眉を上げ、それから一転難しい顔になった。
「よしなさい。不愉快な思いをするだけだ」
「それは承知しています。でも人任せにしたまま、何も知らないでいるのはどうかと思うんです。私がいちばんの当事者なんですから」
「実を言うと、私も聞きたかったのだ。いったい彼女との間に、どういう確執があったのだ?」
当然の問いかけに、私はどう答えたものかしばし迷った。
「すみません、わかりません……薄々気付いている部分もあるんですが、それが理由のすべてだとは思えなくて。私も知りたいんです。私は彼女に、何をしてしまったのか。どうして彼女があそこまで思い詰めてしまったのか、その原因が私にあるのなら知らなければいけないと思います。だからお願いです、行かせてください」
大使は口を結んだままうなり、そしてため息をついた。
「それだけしっかり考えているのなら、まあいいだろう。ただし、メイリ・コナーの身柄は現在リヴェロの管轄下にある。取り調べの妨げになったりしないよう、配慮は忘れんように」
「はい」
うなずいて、私は勢いよく布団をはねのけた。ベッドから下りるとなぜか大使があわてて席を立つ。
「馬鹿者、年頃の娘がそのような姿を人前にさらすのではない!」
落ちた雷にはどこか迫力がない。そそくさと隣室へ出て行く彼を見送り、レイダさんと顔を見合わせて思わず笑ってしまった。真面目な人だなあ。彼と私じゃ本当の親子くらい年が離れているのに。
レイダさんに手伝ってもらいながら手早く身支度を済ませ、大使と共に部屋を出る。長い廊下を急ぎ足で歩くと、少しばかり身体が痛かった。数が多いだけで、手足の痣はたいしたものではない。いちばんひどい痣は背中にあるらしい。着替えの時レイダさんが驚いていたから、なかなか怖いことになっていそうだ。自分で見られない場所でよかった。見ちゃうとじっさい以上に痛く感じてしまうからね。
目的地にたどり着くと、少し前に取り調べは終わったと残っていた役人が教えてくれた。今室内にはイリスとメイリさんの二人だけらしい。ちょうどいい。私は許可を得て扉を開いた。
「ちょっと驚かすだけだって聞いたんです! 牢獄跡を見せて怖がらせるだけだって! 怪我をさせるとまでは思わなくて」
とたんにメイリさんの声が耳に飛び込んでくる。必死に弁解する彼女は、私が来たことに気付いていないようだった。
彼女の前に立つイリスも、厳しい顔のままこちらを振り向かない。声をかけられる雰囲気ではなく、私は戸口に立ち止まったままふたりのやり取りを見守った。
「姫君がそんなひどいことするって思わないじゃないですか。ちょっとしたいたずらくらいだと思って」
「お前は馬鹿か? ひどいかひどくないかの問題じゃない。お前の任務はチトセを守ることだったんだぞ。嫌がらせに加担してどうする」
「……っ」
イリスの声は低く、鋭い。私を叱った時と同じか、それ以上に。言い逃れを許さないまなざしは、はたで見ていても怖いほどだった。
「任務放棄どころの話じゃない。れっきとした背任行為だ」
「そんな! あたし、そんなつもりじゃなくて……っ」
「じゃあどういうつもりだったというんだ。どんな理由があれば、護衛対象を逆に攻撃する側に回る!?」
「…………」
答えられずにメイリさんはうつむいてしまう。イリスは大きく息を吐いた。
「お前がまだ未熟なのはわかっていたが、やる気だけは一人前だと思っていたぞ。与えられた任務に全力で励んで、いい経験にしてくれると思っていた。チトセをそばで見て、お前に足りないことを彼女から学べばいいと……楽天的すぎたな。お前がこうも後先考えず、自分のしでかしたことの意味も理解しないような奴だと、今まで気付かなかった僕がいちばん悪い。隊長として大きな失態だ。気付いていれば指導もできたし、今回の任務にも当たらせなかったのにな」
「……っ」
唇が切れそうなほどにきつくメイリさんは噛みしめる。握りしめた拳が震えていた。
「お前の処分はアルタに任せるが、除名は免れないと思え。剣も竜も、返さない」
「隊長……っ」
「帰国まで身柄は監視下に置く。反抗的な態度を取るようなら拘束具も使う。逃亡をはかれば斬り捨てる。承知しておけ」
「……!」
容赦のない宣告にメイリさんが蒼白になる。私は黙っていられずに踏み出した。
「イリス」
「……チトセ?」
彼も気付いていなかったようで、驚いた顔で振り向いた。とたんにメイリさんの目に激しい焔が戻った。私は立ち止まりそうになる足を励まし、二人の前へ歩いて行った。
「どうしてこんなとこへ。寝てなきゃだめだろ」
「大丈夫。それより、イリス……」
「だいじょうぶじゃない。大使、あなたがついていながら何故来させたんですか」
私の言葉をねじふせるようにさえぎって、イリスは後ろに続いたジャスリー大使に抗議した。大使は表情も変えず、さすがの貫祿で言い返した。
「本人の強い希望だ。私もことの次第を知りたかったしな」
「そんな……」
私はイリスの袖を引いてこちらを振り向かせた。
「私がお願いしたの。私もちゃんと事情を知りたいから。当事者なんだから、立ち会うべきでしょ」
「あとでちゃんと説明してやる。とにかく今は休んでろ。無理するとまた熱を出すぞ」
「十分寝たから大丈夫よ。無理なんてしてない。今回は特に身体に負担はなかったし」
「何言ってる、階段転げ落ちたんだろうが」
「そうよ、その程度よ。痣がいくつかできただけだわ」
「ひ弱で筋力も体力もないやつが、なんで精神力だけたくましいんだよ。自分で思ってるよりずっと負担がかかってるはずだぞ。いいから休んでろ」
イリスはまるでとりあってくれず、私を抱き上げようとする。これでは話を聞くどころではない。私は困ってしまった。どうやったら大丈夫だとわかってもらえるのだろう。
「なんで……」
イリスに抵抗して押し退けようとしていたら、メイリさんが声を漏らした。思わず動きを止めて、私たちは彼女を振り返る。うつむいていたメイリさんは、きっと顔を上げ、涙のにじむ目でこちらをにらみつけてきた。
「なんで隊長は、そんなにその子ばっかり大事にするんですか!? みんな……隊長も、団長も、公王陛下も……っ! その子がいったい何したって言うんですか!? なんにもしないで、ただ周りからちやほやされてるだけじゃない! 龍の姫君とか呼んで、馬鹿じゃないの!? なにが龍の加護だよ、そんなのそいつが偉いわけでも何でもないだろ! 偉いのは龍だろ! 本人は何ひとつ努力しないでたまたま幸運に恵まれただけなのに、祖王の再来だなんて言ってありがたがって、馬鹿馬鹿しい!」
「メイリ!」
イリスが鋭く叱責する。それでもメイリさんは止まらなかった。
「そんな特別扱いするような立派な人間かよ!? 隊長は知らないんだ、そいつがここで何やってたか! リヴェロ公と露骨にベタベタして、まるで恋人みたいにふるまってたんだから! ミルシア姫が怒ったのはそのせいじゃないか! リヴェロ公だけじゃない、地竜隊長にもコナかけてる。ただの男好きの尻軽女だろ!」
「いい加減にしろ!」
「見た目はいかにもおとなしそうな可愛い子で、かよわそうなふりで男の気を引いて、そうやってあちこちで遊んでるんだ。公王陛下や団長にだって、その手で取り入ったんじゃないのか? なんでそんなやつにみんなだまされるんだよ! 最低の性悪女だって、なんでわかんないのさ!」
「…………」
私は呆気にとられ、そして妙に納得してしまった。
そうか、はたから見ると私はそんなふうに見えるのか。たしかに、言われてもしかたがないかも。内情を知らず状況だけを見れば、複数の男と親密にしていると思われるよね。カームさんとのことは半分以上あの人の作戦だったけれど、私もその気になればもっと毅然と拒絶できた。それを、まあいいやで流してしまっていたのだ。男遊びだなんて意識はまったくなかったが、そういう行動だと言われれば否定できないのかもしれない。
……そりゃあ、嫌われるな。私だって、そんな女がいたら嫌いになる。あちこちの男に色目を使う女が、自分の好きな人にまでちょっかいを出していたら、嫌いだけではすまないだろう。嫌がらせのひとつもしたくなったって、無理はない。
誤解だって言いたいけれど、誤解させてしまったのは私自身だ。
……だから、カームさんもあんなことをしたのだろうか。私にその気があると思わせてしまった? なのに土壇場で拒絶したから怒らせた……?
私が、誤解されるようなまぎらわしい態度をとっていたのが、いけなかったのだろうか。
鋭く乾いた音に、はっとなった。イリスがメイリさんの頬を叩いたのだ。目の前で行われた体罰に身がすくむ。私だったら吹っ飛んでいただろう一撃に、メイリさんは少しふらついただけでしっかり踏みとどまった。さすがだ。
「もうやめろ。言えば言うほど、自分自身を貶めるだけだとわからないか」
「隊長……っ」
「チトセはお前が言うような子じゃない。だが仮に、そういう人間だったとしても、お前のしたことが正当化されるわけじゃない。それとこれとは別問題だ。お前は命令に背き、人を害することに加担した。騎士としてあるまじき、恥ずべき行いだ。そのことをじっくり考えろ」
どこまでもイリスは厳しく、正論でメイリさんをだまらせる。彼女が納得したようすはなかったが、その場はそれで終わりになった。彼女の身柄は大使館預かりとなり、大使とその護衛騎士たちによって連れて行かれた。私の護衛はイリスが引き継ぐことになった。別に護衛が必要な状況ではないし、メイリさんについててあげた方がいいんじゃないのかと思いながら、結局そう提案することはできなかった。
私も、イリスにそばにいてほしかったのだ。
我ながら自分勝手でずるいと思う。やむを得ない事情があるわけではなく、ただ単に不安だからそばにいてほしいという、それだけの理由なのだから。
メイリさんに嫌われても、なじられても、反論のしようがない。あまりに利己的な考えだ。
やっぱりそれはだめだ、ひとりで部屋に戻るって言おうと思った。甘えちゃいけない。ちゃんと正しい行動を選択しないと。
……そう思うのに、優しいぬくもりと離れることがどうしてもできず、私はそのままずるずると甘えてしまった。ひどく卑怯な人間になった気がして落ち込みながらも、イリスが当然のようにそばにいてくれることを喜んだ。矛盾する思いに困惑し、部屋に戻ってからもなかなか寝つけなかった。
深夜、寝台から抜け出し、そっと隣室への扉を開ける。広々とした居間の長椅子で、イリスが毛布一枚をかぶって寝ていた。レイダさんと一緒に控室を使うわけにはいかず、そういう形になったのだ。私がわがままに流されなければ、彼は大使館のベッドでちゃんと寝られたのに。
「どうした?」
気配にすぐ気付いてイリスは身を起こした。こちらを向いてくれる顔にたまらなくなり、私は彼のもとへ歩いた。
イリスのそばにもぐり込み、細身に見えてがっしりした身体に抱きつく。
「寝ぼけてるのか?」
呆れた声を出しながらもイリスは私を抱きとめ、優しく髪をなでてくれる。あたたかい手――ここにいれば絶対に大丈夫だと思わせてくれる、たしかなぬくもり。全身に彼の存在を感じながら、私は気付いてしまった。
ああ……どうしよう、私は、イリスが好きなんだ。
友達としてじゃない。お兄ちゃんでもない。ひとりの男の人として、イリスのことが好きなんだ……。
涙がこぼれた。心の中で何度も、メイリさんにごめんなさいと謝った。そして絶望にも打ちのめされた。
私が好きになったって相手も好きになってくれるとは限らないって、ハルト様に言ったっけ。そのとおりだ。イリスは優しくて、私を大事にしてくれる。好意も寄せてくれる。最初から、イリスがいちばんの味方だった。
――でも、それは恋愛感情なんかじゃない。友達として、もしくは兄みたいな好意だ。イリスは私を恋愛対象になんか見ていない。
イリスが今まで女の子と付き合ってもうまくいかず、みんな別れることになった理由は、彼に特別な意識がなかったからだと聞いた。いつも好きになるのは相手の女の子の方で、イリスは望まれれば付き合ってくれるけれど、結局恋愛感情は抱かない。形だけ恋人同士でもずっと片思いのままで、それに耐えられなくなってみんな離れていったのだそうだ。
私が望めば、イリスは付き合ってくれるのかもしれない。でも結末は見えている。これまでの彼女たちと同じ道をたどるだけだ。そして私が耐えきれなくなった時、イリスとの関係は、どうなってしまうのだろう。
この人を失いたくない。恋人になんて望まない。ただそばにいてくれるだけでいい。今のまま、変わらず私と仲良くしてほしい。
だけど、本当にずっとこのままでいられるのだろうか?
いつかイリスだって、誰かを好きになるだろう。本当の恋人ができた時、もう私は今ほどそばにはいられなくなる。イリスの優しさもあたたかさも、全部恋人のものになる。私はそれを、遠くから眺めるだけなのだ。
きっと遠くはない未来を思うと、辛くてまた涙がこぼれた。胸が痛い。人を好きになることが、こんなに辛くて悲しいなんて。
『いやだの面倒だの言っていられぬものだよ。いざ恋に落ちてしまえばな』
あの時のハルト様の言葉がよみがえる。
こんな気持ちを、ハルト様も経験したのだろうか。
辛くて、苦しくて、逃げ出してしまいたいのに、伝わるぬくもりがうれしくて、好きという気持ちはとめどなくあふれ続けた。