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式典の翌日にさっそくカームさんからお誘いがかかったが、体調不良を理由にお断りした。あんなことのあった直後にノコノコ出て行けるか。
じっさい朝からぐったりだ。旅の疲れと大勢の人前に出た気疲れで、今日は何もする気が起きない。でもなんにもないひたすら豪華なだけの室内で、ぼーっと座っているだけっていうのも退屈だ。
ああ、ここに携帯ゲーム機があればなあ。そうしたらいくらでも時間を有意義に使えるのに。現実のめんどくさい恋愛事情に巻き込まれることなく、二次元の予定調和な恋愛を楽しみたい。
「大丈夫ですか? 具合がお悪いのでしたら、寝台でお休みになられてはいかがです」
お茶を出してくれながらレイダさんが言う。熱があるわけではないので、私は笑顔で首を振った。
「いえ、疲れているだけですから。レイダさんとメイリさんも一緒にお茶しましょう」
勇気を出して壁際に立って控えるメイリさんにも声をかけてみる。返ってきた答えはやはりつれないものだった。
「けっこうです」
「……ずっと、そうやって立っているだけって疲れるでしょう? 今は他に人もいないんですし、どうぞ座ってください。お茶飲んで、話でも……」
「慣れていますから平気です。おかまいなく」
取りつく島もないとはこのことだ。レイダさんも呆れた顔になる。どうしたものか……そうやってツンツンしながら立っていられるのも気になるんだって、はっきり文句言えたらいいんだけどね。さすがにケンカを売る勇気はないし。
見かねたのか、レイダさんが提案してくれた。
「それなら、隣室にさがっていただいては? 何かあればすぐに駆けつけられますし、おそばに控えるのでなければ座ろうとどうしようと自由ですから」
寝室と並んで、もうひとつ小さめの部屋がある。侍女の控室ということで、レイダさんとメイリさんが共同で使っている。彼女たちの使う寝台も荷物もあちらにあるので、部屋を別にすればメイリさんも休めるだろう。
「そうですね。メイリさん、そうしませんか?」
「……わかりました」
メイリさんはほんの一瞬だけ会釈して踵を返す。きびきびした動作で出ていく彼女を見送り、私はそっと息をついた。
現実の人間関係は、本当にめんどくさい。そう言って逃げるばかりでは以前に逆戻りだから、なんとか踏ん張るしかないのだけれど、正直逃げたいよ。
これがゲームなら、最初どんなに冷たい相手とでも、選択肢を間違えず進めるうちにうちとけていけるのに。間違えたって戻ることができるし、いっそ物語自体最初からやりなおすこともできるのに。
――でも、ゲームの中でもいろんなできごとがあって、主人公は楽しいだけでない苦しみや悲しみも経験していく。私は感情移入しつつも、しょせんは絵空事と安心して見ているから、どれほど残酷な物語が繰り広げられても平気なのだ。それが現実なら全然平気じゃないのに。
私って、本当に傍観者だったんだな。友達がほしくても自分から努力することをせず、いつも離れたところから眺めるばかりだった。物語の中に入っていこうとしなかった。それじゃあ、何ひとつ得られるわけがない。
ずっと怠けて対人関係のスキルを会得しなかったから、今頃苦労しているのだ。普通ならこの状況に、もっと違う対処ができるのだろうに。
「先日の大使の注意が、ずいぶんこたえているみたいですね」
そばの椅子に座ったレイダさんが、隣室には聞こえないよう声を落として言った。
「少し意地になっているようなところもありますけど」
「そうですね……」
はたから見ていて、私とメイリさんの関係はどう映るのだろう。下手すると陰口みたいになってしまいそうなので、うかつに聞けない。その話題は避けて、大使からのお説教にしぼって話した。
「大使の言うことは正論でしたけど、言い方をもうちょっと考えてほしかったですね。実の父は、誉める時には人前で、叱る時は人の見ていないところでって言っていました」
佐野の父は中間管理職だった。社会常識のない新入社員に苦労しては、家でよく愚痴を言っていた。ジャスリー大使みたいな人が上司だったらもめごとが多発しそうだ。平成ニッポンのわがままで軟弱な若者に比べれば、メイリさんはずっと出来がいいと思う。
「そうですね。でもあのくらいは耐えられないと。まして彼女は騎士なんですから」
「大使がもうちょっとソフトに言ってくれてたら、彼女も素直に聞けたんじゃないかと思うんですけどね」
「それは通りません。自らの失態に対して、叱責する側に配慮を求めるなんて。騎士団ならば厳しい指導には慣れているはずなのですが」
うーむ、どうなんだろうなあ。
たしかにイリスが私を叱った時も、けっこうきつかった。寒空の下噴水に放り込まれたものね。男だったらさらに殴っているところだったと言われた。彼の下で働くメイリさんなら、厳しい指導なんて日常茶飯事なんじゃないかと思うのだが。いくら女の子だからと配慮しても、私の時よりもソフトってことはないだろう。
優秀な人だから、厳しく叱られるほどの失態をこれまでに犯したことがなかったのかな。隊内での勤務ばかりなら、外国の要人と接することなんてなかっただろうし。言葉づかいに関しては、あのイリスだからあまり気にしないのだろう。
「……レイダさん、ロウシェンへ手紙を送ることってできますか? なるべく急ぎで」
あることを決心して、私は尋ねた。レイダさんは少し考え、うなずいてくれる。
「大使館には緊急連絡用の鳥が用意されているはずです。それを使わせてもらえば一日で届けられますよ」
「たった一日で?」
「地上を移動するとなると、山を越えたり迂回したり、河を渡ったりしますから、どうしても時間がかかってしまいますが、鳥は一直線に飛んでいきますからね。飛竜ならもっと早く飛びますから一日もかかりません。ティトシェ様の護衛に飛竜騎士がつけられたのは、万一の事態を想定して、そういう能力を持つ者だからだと思いますよ」
なるほど。たしかに空を飛ぶ龍船での旅も、実質二日足らずだった。
「大使館かぁ……貸してくれるかな?」
「どなたに書かれるおつもりですか?」
イリスにだ。メイリさんのことを大使より先にしらせたい。大使からの連絡は多分厳しい内容になるだろうから。
できるだけ状況を細かく説明し、カームさんが特に気にしていないことも付け加えて、なるべく穏便に済ませるよう頼みたいのだ。
あと、この状況に私がどう対処すればいいのかも相談したい。
メイリさんの直属の上官で彼女を護衛官に選んだ当人なのだから、イリスには責任があるもんね。しっかり働いてもらわねば。
ただ、そのままストレートに伝えると、ジャスリー大使はいい顔をしないかもしれない。ようは彼を出し抜こうとしているわけだから、ここは内緒にするべきだろう。表向きはハルト様に、ということにしておくか。カームさんの妙な行動に困惑してお父様に相談します、とかなんとか。
心得たレイダさんが大使館まで行って鳥を借りてきてくれた。伝書鳩かと思ったら、全然違う鳥だった。鳩より少し大きくて、白と黒のコントラストがきれいだ。燕のような色合いで、種類は猛禽類らしい。おやつの肉をあげたら私の肩に飛び乗って甘えてきた。カワユス。
鳥に託すのだから、手紙に使う紙は特殊な極薄のものだった。気を付けないとすぐにくしゃっとなってしまうので書きにくいったら。慣れない文字と慣れない筆記用具、そして慣れない紙に悪戦苦闘しつつなんとか手紙を書き終えて、私はもう一度ポポちゃん(仮名。なんとなく)に肉をあげてから空へ放った。
一度近くの木の枝に止まったポポちゃんは、方角をたしかめるように周囲を見回した後、雄々しく飛び去っていった。
よろしく頼むよ、ポポちゃん。
「失礼いたします」
一仕事終えてやれやれと息をついていたら、女官が入ってきた。
「公王様より、お届け物です」
彼女の後にも人が続き、ゴージャスな花束だのリボンのかかった箱だの籠に入ったお菓子だのと次々に運び込まれた。私は重たい花束を抱えながらでっかい箱のふたをそーっと開き、黙って閉めた。
「……お花とお菓子はありがたくいただきます。こちらは受け取れませんので、お返ししてください」
言うと、女官たちが困惑した顔になる。
「そういうわけには……」
「お気持ちだけで十分ですとお伝えください。こんな高価なものをいただくわけにはいきません」
昨夜届いた贈り物も真珠と宝石をちりばめた首飾りだった。そんなものを私にどうしろと。受取り拒否して持って帰ってもらったら、今度はゴージャスレースのドレスときた。いつの間に私のサイズを調べたんだよ。気持ち悪いぞ、アラサーキングめ。
「昨日の式典でお嬢様に大変な失礼があり、そのお詫びにということでございますが」
「その場で謝ってくださいましたから、それ以上のものは必要ありません。そこまで気にしていただくほどのことでもありませんでしたし。むしろ、こんな過分なものをいただいては、かえってストレスになってしまいます」
「すとれす?」
「……精神的負担ということです。カーメル公にお伝えください。どうせなら、私がもらってうれしいものを選んでください、と」
いい加減イラついていたので、ちょっと偉そうな言い方になってしまった。女官たちに不快な印象を与えてしまったかもしれない。表面上は完璧に礼儀を保って彼女たちが退出していき、私はどっとため息をついた。
「直接お会いしてお話しされた方がいいんじゃありませんか?」
レイダさんが言う。ごもっともなアドバイスなんだけど、今あの人に会うのはなあ。ちょっとインターバル挟まないと、あのバカップル空間には耐えられない。
何をたくらんでいるんだろうね、あの人も。
その後はすることもないので勉強して過ごし、晩餐のお誘いも辞退して部屋から一歩も出ないまま一日が終わった。引きこもり万歳。でも部屋の広さが半端ないから、あまり閉じこもった気がしない。
お風呂も済ませて後は寝るだけという時刻になった頃、またも女官がカームさんからの贈り物を携えてやってきた。今度は何だと身構えたら、渡されたのは一枚の絵。
ノートくらいの額の中、飛竜と地竜が仲良く並ぶ図だった。
そっと紙の表面をなぞってみる。多分新しい。乾いたばかりの絵の具の感触だ。
私の伝言を聞いて、それから描いたのだろうか。
私が喜ぶものをと考えて?
私は手近な紙にメッセージを書き、ロウシェンから持ってきたものに添えて女官に預けた。
「明日はお出かけになりそうですね」
寝支度をしてくれながらレイダさんが言う。なんだか照れくさい気分になり、私は彼女の笑顔をまっすぐに見返せなかった。
翌日、朝食の後さっそくカームさんからお誘いがあり、私は午前のお茶を彼と共にすることになった。
硝子をふんだんに使った温室へ案内される。花と緑のあふれる空間に、色鮮やかな羽を持つ鳥が放し飼いにされていた。
「とても素晴らしいものをくださって、ありがとう」
今日も輝く美貌の王様は、紫紺の長衣に刺繍の入った帯を巻いていた。銀灰色の絹地にシャール地方の新商品メタリックカラーの糸で、複雑な模様が縫い取られている。
ロウシェンからの贈り物とは別に、私個人からの誕生祝いということで用意してきた品だった。刺繍の模様は十月生まれの人を守護する文様らしい。大半はプロが作ってくれたが、ごくごく一部、花をひとつだけ、私が自分で刺繍した。
「いえ……王様への贈り物には、ささやかすぎるかもしれませんが」
「とんでもないこと。君が、わたくしのために手ずから作ってくれた品です。この世にふたつとない、かけがえのない宝物ですよ」
「……私が刺繍したのは、花ひとつ分だけですよ。とてもそれ全部作れるだけの腕はありませんから」
その花ひとつだって、事前にいくつも練習して大量の糸を消費して、職人さんおよびユユ姫の指導のもと、どうにかこうにか縫ったものだ。
デザインするのは好きだけどね、作る才能はないんだよ! 授業で作ったパジャマも、結局こっそり祖母に手伝ってもらったんだから。
「君の気持ちのこもった品です。わたくしの幸福と健康を祈る文様でしょう」
……ええ、まあ。
私も誕生プレゼントをもらったし、何かお返ししないとなーとは思っても、どんな品にすればいいのかわからなかった。お金なんて持っていないし、そもそも王様相手に多少お金をかけたってどうにもならないし。
どうしたものかと悩んで思い出したのが、イリスからもらったお守りだった。モチーフになっている生き物の美醜はともかくとして、そこに込められた気持ちはうれしかった。そういう形での贈り物なら、さほど高価な品でなくてもいいんじゃないかと思い、ハルト様やユユ姫に相談して決まったのがこの帯だった。資金はハルト様が出してくれました。
一部だけでも自分で刺繍しろと言ったのはユユ姫だ。完全に人任せにしてしまうのではなく、自分の手をかけることでさらに気持ちのこもった品になるからと。
頑張った甲斐あって、いたく喜んでいただけたようだから、ひと安心。
「こちらからの贈り物は、なかなか受け取っていただけませんでしたが」
「当たり前です。あんな宝石だのドレスだの、私がもらってどうするんですか」
「どうって、使えばよいでしょうに」
「似合わないでしょう。仮装大会になっちゃいますよ」
「似合いそうなものを選んだつもりなのですが」
「言っちゃ悪いですけど、見た瞬間思いっっっきり引きましたよ。お姫様じゃないんですから、あんなのもらってもドン引きします」
今日はふたりっきりだ。メイリさんや女官は温室の入り口近くに控えていて、大声を出さなければ会話が聞こえることもない。周りの植物がいい感じに周囲からの視線もさえぎってくれ、気兼ねなく話をすることができる。
そのせいか、カームさんも式典の夜ほどにベタベタしてくることはなかった。やはりあれは周りに見せつけるための行動だったらしい。
「欲のないこと。結局受け取ってくれたのが、絵一枚とはね」
私の遠慮のない言葉に気を悪くするようすもなく、カームさんは微笑む。
「カームさんが描いてくださったんでしょう? よく実物を見もせずにささっとこんな絵を描けますよね。すごいです」
「そう? 記憶を頼りに描いたので、細部は描き込めていないのですがね」
私は持ってきた絵をあらためて見る。たしかに細かいところまで描いたものではないが、特徴はよくとらえてあった。実物も写真も見ず記憶だけで描いたとは思えない出来だ。天才め、うらやましい。
「お願いしたこと、よろしく」
私は絵を差し出した。受け取ったカームさんは額をはずし、中の紙を取り出す。その裏に用意してきた筆でさらさらと書きつけた。
「これで?」
「上に『千歳ちゃんへ』と入れてくれたら完璧なんですが」
おかしそうにくすくす笑いながら、リクエストに応えてくれる。サインの上に書き足されたのは『愛する千歳へ』の一文だった。
「なんでこういう枕詞をつけるかな……」
「素直な想いがあふれたまでです」
すました顔で言って、もとどおり額におさめた絵を私に返してくれる。
「署名を求められるとは、予想外でしたね」
「こっちではそういう習慣ないんですか? 私の世界では、作品に作者のサインが入るのって当たり前でしたよ。鑑定にも必要ですし」
特に絵には不可欠だろう。
「王様の直筆サイン入りの絵なんて、プレミア物ですよ。これでひと財産です」
「おやおや、それでは何か困った時には、それでお金に替えるとよいでしょう」
「……冗談ですよ。売ったりしません」
布で巻いて保護した額をバッグにしまう。このバッグもチェンバで買ってもらったばかりだ。大きめでたくさん入るのが実にいい。貴族のお嬢様はハンカチくらいしか入らない小さなバッグを持つものらしいが、私がバッグを選ぶ時の基準は同人誌が入るサイズ、である。こっちで同人誌は買えないけれど、やはり大きめのバッグの方が何かと使い勝手がいい。
「ところで、お仕事の方は大丈夫なんですか? 他の国からのお客様とかは……」
「みな昨日のうちに帰国しましたよ。君ももう、特使ではなくただの友人として滞在してくれているのでしょう? せっかく友人が来てくれているのに、仕事ばかりでは意味がない。急ぐものは事前に片づけておきました。できるだけ、君とゆっくり過ごせるようにね」
「……それなら、少しお聞きしたいことがあるんですが」
私の言葉に、カームさんは笑顔で続きをうながす。けれどいざ本題を口にすると甘い雰囲気は消え、政治家の顔つきになった。
「エランドのことです。少し前に、エランドのなりたちとこれまでの経緯を知る機会がありました」
チェンバで起きたできごとを、かいつまんで説明する。デュペック侯のことはすでに耳に入っているらしく、カームさんに驚くようすはなかった。私が誘いに乗ったふりで逆に罠をしかけたと言った時には危険な真似をと軽く叱られたが、最後まで真剣に話を聞いてくれた。
「私なりに調べてみたんですが、なかなか成果を上げられなくて。じっさいのところエランドの立場はどういうものなのか、知りたいんです。これまでは怖い侵略国家という印象しか持っていませんでしたけど、むしろ現実は逆なんじゃないかと思えてきて」
「逆とは、エランドが支配を受け搾取される立場だと? それはありませんよ」
私の疑問をカームさんは一蹴した。
「遠い昔、かの地に人が流されたというのは本当です。しかしシーリースの支配下にあったわけではない。当時エランドは悪霊が住む恐ろしい島と考えられていました。人を流したのは刑罰より宗教的な意味合いの方が強い。悪霊を鎮めるための生贄に罪人が使われたため、流刑地という印象が残ったのです」
「悪霊……」
「ただの迷信です。昔の話ですからね」
カームさんはさらりと流す。迷信って、みんなそう思ってる? もしかして今でも信じられていたりしないだろうか。
罪人の流刑地という以上に、差別の原因になりそうな逸話だ。呪われた地と呼ばれる理由が腑に落ちた。
「やがて人が流されることもなくなり、長い時が流れ……それでも、あの島に近付く者はいなかった。悪霊の祟りを恐れ、探検や入植など試みようとはしませんでした」
エランド周辺の海域は潮流が複雑なのか、事故も多かったらしい。そのせいで余計に恐れられていたのだそうだ。科学の未発達な世界では、事故も祟りのせいにされてしまう。
「あの島に国家を成せるほどの人が住んでいるとは、誰も思わなかったのですよ。エランド人の存在は長い間外に知られることはありませんでした。彼らが外へ出てくるようになり、その存在が知れ渡ると、やがて他の地からも人がエランドに流れ込むようになりました。移住した者の多くは犯罪者です。追捕の手が届かない地として、エランドは犯罪者たちの楽園になりました」
罪人の島という認識は、流刑地だったことよりそのせいなのかもしれない。
「無法者が住みついて悪事の拠点としている島。それがエランドに対する諸国の認識でした。厄介なことと思いつつも、討伐に出向こうとする国はありませんでした。近寄らなければそれほど被害を受けることもないのだからと……討伐したところで特に利益があるわけでもない。わざわざ軍を差し向ける必要はないと、放置され続けました」
その状態が三百年以上続いたというのだから、呆れてしまう。利益があるから出動するのなら、それは討伐ではなく侵攻だろう。
エランドへ攻めてきた外の国は、財産を奪うためだとデュペック侯は言っていた。討伐目的でなく、侵攻目的で乗り込んできたのだ。
「たんなる海賊の根城、無法者の集団――そう思われていたエランドですが、実は秩序ある、統率された社会を形成していました。我々外の者が知らぬだけで、エランドはれっきとした国家として成長していたのです。帝国として正式に名乗りを上げたのはごく最近で……今から二十年ばかり前でしょうか。わたくしやハルト殿が即位する以前のことです。かの国の指導者も、今の皇帝の父親でした」
当時シーリースでは、辺境の犯罪者集団が血迷った宣言をしていると、誰もが笑い飛ばしまともに取り合わなかったらしい。
彼らが名乗りを上げたのは、我々はもう罪人ではない、一国家として認めてほしいという願いだったのかもしれない。それを表した理由があるのでは。
「……エランドの国家宣言は、自発的なものですか? その前に何らかのできごとがあって、彼らに主権を主張させるきっかけになったのではありませんか?」
アメジストの瞳に鋭さが宿る。私は慎重に言葉をつむいだ。
「北の果ての不毛の地。そう思われて、人が入植することもなく長い間放置されていた。人が生きていけるはずがないと思われて。でも実は違った。エランドにはたくさんの人が住んでいて、ちゃんと国を作っていた。もしかすると、エランドは不毛どころか資源の宝庫なのかもしれない。それが人々を助け、生き延びさせたのではないでしょうか」
「…………」
「そう考えた人が、昔にもいたのではありませんか? 海賊の討伐と称して乗り込み、エランドの秘密をさぐろうと――ひいては、自分たちのものにしてしまおうと、手を出したのではありませんか」
はじめにエランドへ攻めてきた国は、何を奪おうとしていたのか。そこまではデュペック侯も話さなかった。ささやかな財産と言っていたけれど、本当にささやかな暮らしならわざわざ外国も狙わないだろう。狙うならもっと豊かな南の国――シーリースなどに目を向けるはずだ。
エランドを狙った、その理由は何なのか。
「……さすがですね」
しばらくの沈黙の後、カームさんは吐息に感嘆を乗せてつぶやいた。
「君は本当に……幼く愛らしい姿の中に、一流の政治家か軍師の才を秘めている。その能力、実に欲しい」
私への評価はともかく、これは否定ではないということでオッケーだよね? 私の仮定を、肯定する言葉だ。
「ほめすぎです。そんなすごい能力はありません。私の世界でも技術の発展によって、海底などそれまで調べようもなかった場所から資源が発見されるようになってきているんです。人や動植物にとって不向きな土地であっても、資源の埋蔵とは別問題です。エランドに何かあっても不思議ではないと思っていました」
「……ほう」
「私が思いつくくらいなんだから、他にも考えた人はいるはずです。そう思ったらなんとなく予想がつきました。最初にエランドが戦ったのは、自分たちの島と暮らしを守るため――デュペック侯はそう言っていました」
吐息とともにカームさんが微笑む。彼は軽くうなずいた。
「エランドが国家宣言をする三年ほど前に、ジリオラが軍を差し向けました。表向きの理由は海賊討伐――あの国がエランドにもっとも近い島でしたので、被害甚大によりこれ以上の放置はできないと、一見納得できる言い分でした」
頭の中に地図を再現する。ジリオラは、エランドより少しだけ南東にある島だ。今はもう帝国領となっている。
「でも、討伐どころか逆に滅ぼされる結果になった……ですね?」
書庫の資料に、わずか数行で記されていた。あれの話だ。
「その戦いですぐにジリオラが制圧されたわけではありませんよ。何度かエランドに攻め入るうちに、やがて逆に攻め込まれるようになり、王の首が獲られたのです。その後ですね、エランドが国家宣言を出したのは」
秘密の存在を嗅ぎつけられたと知ったエランドは、国家として認めさせることによって他国の干渉を防ごうとしたのだろうか。
「その宣言は、すぐには認められなかったのでしょう? ロウシェンが国交を開始するまでに十年ほどあります。その期間にどんなことがあったんですか」
「多分君の想像どおりですよ。ジリオラ以外にもエランドに食指を伸ばす国があったということです。もうすべてが、国の名を失っていますがね」
「そんなに次々戦って勝てるほど、エランドは力を蓄えていたんですか」
「そう……そこが、驚くべきところです。たしかにあの国の軍は強い。ただ、いくつもの国を支配下におさめ、その後も統治していくとなると、かなりの人員が必要になります。反乱を防ぐために軍も駐屯させなければなりませんからね。さすがにそこまでの力は持っていませんでしたので、エランドも工夫しました。どこの国にもある反体制派と手を組み、帝国の名のもと、彼らの自治を認めたのです」
「……なるほど」
帝国というより、連邦国に近い形なのかもしれないな。宗主国はエランドだけど、反抗的な勢力を倒すのみにとどめ、基本は元通り現地の人に任せたと。
「反体制派にもいろいろです。信用のおけない、いずれ敵となりそうな者にはエランドも用心をした。はじめのうちは蜜月関係にありながら、いざという時には討てるよう準備をし、あるいはじわじわと力を奪い……そうやって、ひとつずつ確実に手に入れていったのですよ」
「シーリース三国が国交を決めたいきさつは?」
「遠い北方国の話と傍観するには、エランドの躍進は無視できませんでした。歯止めをかける必要がある。初代皇帝から現皇帝に代替わりするや、エランドはそれまでの防衛を主とした方針を反転させ、積極的に他へ攻めて出るようになりましたから。放置すればいずれこのシーリースへも手を出してくるだろうと、容易に想像がつきました。ただその当時、わが国は他国へ手が回せる状況ではありませんでしたので、交渉はロウシェンにまかせる形になりました。うかつに大使を派遣するのもためらわれたのですが、向こうの情報も必要です。このようなことにならなければ、いずれわが国からも派遣する予定でした」
「…………」
私は目を閉じた。唯一国交を開いたシーリースも、友好のためなどではなくむしろエランドを警戒してのことだった。国同士の関係なんて、そんなものかもしれない……でもなんだかやるせない。
結局根本に差別意識があるからではないかと思い、そして偏りかけた思考を修正した。だめだ、ハルト様たちを批判的に見るのは、デュペック侯の思うつぼだ。
ものごとにはいろんな側面がある。エランド側からの言い分もあれば、シーリースにだって言い分がある。それらをすり合わせ、妥協点をさがすのが正しい国交の形だ。
ハルト様は、少しくらいはそういう目的も考えたのだろうか。
「春にハルト殿がエランドへ訪問したのは、直接かの国の状況を見たかったからでしょうね。無法者国家という評判とは裏腹な、ごく普通に秩序の保たれた国であったと言ってらっしゃいましたよ。民の表情も明るく、けっして過酷な暮らしに荒んでいるようすではなかったと。十分に国力を蓄えている、そういう印象だったそうです」
――私を拾ったのが、その帰り道だ。
あの時、ハルト様の随行はほんの数十名だった。今にして思えば、いつ牙を剥くかわからない相手の懐へ、よくもそれだけの数で入っていけたものだという話だけれど。
でもその数十名は、えりすぐった精鋭中の精鋭だった。飛竜は連れていくことができるけれど、馬や地竜は無理だ。飛竜騎士以外が龍船に乗り込むのは不向き――それでも、何人も混じっていた。その最たる例がトトー君だ。隊長の彼が部下と自らの竜も置いて、単身ハルト様の護衛として同行したのは、ひとえに彼自身の戦闘力の高さゆえだった。さすがにアルタは留守を守るために残ったが、一騎当千の騎士を選抜して護衛にあてたとのことだった。
船に乗り込める人数は限られているから、大勢連れて行くことはできない。そのため、元々の龍船の乗組員を可能な限り下ろして、操船に必要な細々とした作業はほとんど騎士たちが分担していた。そうやって表向きのんびりした訪問に見せかけて、実は精一杯に武装していたのだ。もしもの時にはすぐに脱出できるよう、常に飛竜をそばに置いて――
警戒だらけの交流。それが、両国の関係。
……どうして、こんなに難しいのだろうな。みんな同じ人間なのに。どうして仲良くできないのだろう。気にくわなくたって、距離を取って衝突しないようにすればいいのに、なぜ人はぶつかり合うのだろう。
身近の小さな人間関係に悩むのも、国同士の問題に悩むのも、結局根っこは一緒な気がする。どうしても仲良くできない相手もいる、ぶつからずにはいられない時もある――と。
人間って、本当に……。
カームさんと別れ、メイリさんを連れて部屋へ戻る途中で、侍女をたくさん連れたミルシアさんと出くわした。遠慮して道を譲り頭を下げる私に、彼女は小馬鹿にした調子で声をかけた。
「あら、ごきげんよう。大きな荷物を持って、どちらへお出かけかしら」
「いえ、これから帰るところです」
「まあ、もう一仕事終えていらしたの? さすが庶民は働き者ですこと。その大きな鞄の中身は、いったい何なのかしら」
そこまででかいバッグじゃないんだけどな。お姫様基準じゃそう見えるか。
「絵です」
「絵……?」
形のよい眉がぴくりと跳ねる。従兄の趣味を知る彼女には、察しがついたらしい。
それ以上あれこれからまれる前に、私はさっさと挨拶して彼女に背を向けた。嫌われる理由を考えると、どうやったって彼女とは仲良くできそうにないので、衝突を避けるにはひたすら逃げるしかなかった。
背中に殺気を感じたのは、気のせいじゃないんだろうな。
本当に、人間ってめんどくさい。