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港から離れ王宮へ近づくにつれて、街並みは華やかさを増していった。
話に聞いていたとおり、窓辺に花を飾っているところが多い。通りに面した窓にはたいていフラワーボックスがあって、道行く人の目を楽しませていた。黄色やオレンジ色が目立つ。秋の花なのだろう。花だけでなくグリーンもふんだんに使われている。日本で見た雑誌に載っていたような、おしゃれなコンテナやハンギングがあちこちに飾られていた。
おしゃれなのは花だけでなく、建物の雰囲気も道行く人の服装も垢抜けた印象だ。同じ島のお隣さんといってもロウシェンとはいろいろ違って、外国に来たんだなあと実感する。
ロウシェンの都は、にぎやかだけど洗練というより雑多な印象が強いもんね。活気という点ではジーナよりエナ=オラーナの方に軍配が上がるかな。こうなるとアルギリの都も見てみたくなる。ディンベルはどんなところだろう。
「ジーナの街は気に入っていただけましたか?」
馬車の窓から風景を眺める私に、カームさんが尋ねてくる。私は向かいに座る彼に視線を戻した。
「とてもきれいでおしゃれな街ですね。どこも花を飾っているのは、何かそういう決まりでもあるんですか?」
「決まり、といえば決まりでしょうか。推奨しているだけで、強制ではありませんが」
ふむ。街の美化運動みたいなものかな。
「坂のない街が久しぶりで、なんだか妙な気分です」
「ふふ、エナ=オラーナは街全体が山の一部ですからね」
そう、何よりいちばん違いを感じるのはそこだ。どこまで行っても平坦な道という状況に、不思議な気分になる。もともとそういう町に住んでいたのに、こちらで暮らした半年ほどの間に、すっかり山の暮らしになじんでしまったようだ。
カームさんはかたわらから平たい箱を取り上げ、ふたを開けて差し出した。
「王宮に着くまでもう少しかかります。おやつでもどうぞ」
中にはきれいに形を整えられたチョコレートが詰まっていた。馬車の中に、ふわんと独特の甘い香りがただよう。
「わぁ、ありがとうございます!」
私はありがたくひとついただき、口に放り込んだ。おおう、高級チョコだ。フルーツソースやクリームとブレンドされた、とろける食感だ。デリシャス。
「相変わらず、甘いものに目がありませんね」
至福の味わいにうっとりする私を、カームさんはくすりと笑う。
「普段あまり食べさせてもらえないんですもの。虫歯になるとか、ご飯を食べなくなるからとか言われて、おやつはほんのちょっとなんです」
「ハルト殿は君に甘いのかと思いましたが、意外に厳しいのですね」
「食べ物関係ではね。お肉や魚は苦手だって言ってるのに、なんとか食べさせようとするし」
すすめられるまま、もう一個いただく。こちらはナッツ風味だった。またもデリシャス。
「彼は生真面目ですからね。メイリ殿もどうぞ、遠慮せず」
カームさんは私の隣に座る人にもチョコレートを勧めた。
「あ、ありがとうございます」
恐縮しつつ、若い女騎士はチョコを取った。王様手ずから勧めてくれるだなんて、さぞびっくりだろう。
そんな彼女のようすを余裕の笑みでながめ、カームさんは言う。
「竜騎士に女性がいるとは知りませんでした。一般の騎士よりも厳しい試験があると聞きますのに、それを乗り越えて資格を得るとはたいしたものです」
「いえ、あの、えっと、おそれいります」
誉められて照れつつも、ちょっぴり誇らしげなメイリさんだ。無表情なのは私と話す時だけで、本当はけっこう表情豊かな人らしい。
護衛なら一緒に乗るべきだろうと、彼女の同乗はカームさんの方から勧めてくれた。レイダさんは本来のお迎えである大使の馬車に乗って、この馬車の後ろに続いている。公王じきじきの出迎えに大使も驚いていた。
思いがけず公王と――それもこんな超美形と向かい合って座ることになり、メイリさんは最初かちこちに緊張していた。でも元々が物怖じしないたちなのだろう。カームさんがいろいろ話しかけていくうちに、だんだん笑顔で答えるようになっていった。
「騎士になってどのくらいなのです?」
「竜を得たのは十五の時です。でもあたしを乗せて飛んでくれるようになるまで一年以上かかりましたから、一人前の竜騎士を名乗れるようになってからまだ一年も経ってないです」
「そう。ずいぶん優秀なのですね。男でもなかなかその年で騎士にはなれぬでしょうに。君は、騎士の家系の生まれなのですか?」
「父さんの実家は貴族なんですけど、竜騎士になったのは父さんだけだそうです。竜騎士っていっても、普通の騎馬隊の方ですけど。あたしは一人娘で、父さんから剣や弓を教えられて育ちました。母さんは女の子にそんなことって反対してましたけど、あたしは強くなれるのがうれしくって。守られるしかできない女の子ではいたくなかったんです。いつか絶対竜に乗るんだって子供の頃から決めてました」
メイリさんはいきいきと話す。ラノベのヒロインみたいだなと横で感心しつつ、同時に私は内心首をかしげていた。
うーん……これ、どうなのかなあ。
「飛竜隊ならばイリスの配下ですね。彼はどんな上官です?」
「厳しいですよ、すっごく! あんな顔してるくせに、中身は荒っぽくって。訓練の後はみんな死にそうです。でも部下思いのいい隊長なんですよ」
だんだん調子を取り戻して、メイリさんはにこにこ話す。別に悪い内容じゃないし、カームさんも微笑ましそうにしているし、まあいいっちゃいいんだけど……ちょっとだけ、ひっかかるなあ。
私が神経質すぎるのかな。でも友達じゃなく目上の人と話しているんだから、「あたし」ではなく「わたし」、「父さん母さん」じゃなくて「父、母」と言うべきじゃないかと思うんだけど。
……まあ、でも、私の頭に入ってくるのは、龍の加護によって翻訳された言葉だからな。完全に同じニュアンスの言葉が使われているともかぎらないか。もしかすると、こっちには「あたし」と「わたし」の区別なんてないのかもしれない。英語だって全部「I・MY・ME」だもんね。
そもそも人に偉そうなことを言えるほど、私も立派な人間じゃないしな。
――うん、いいや。スルー、スルー。
勉強しかしていない私なんかより、一人前の騎士として働いているメイリさんの方が社会人としての経験値は持っている。こんなツッコミ余計なお世話だろう。
気にしないことにして、私はその後も景色をながめたりカームさんと話したりした。メイリさんとはひと言も話さなかった。会話は私とカームさん、メイリさんとカームさんの間でかわされた。
……別にいいんだけどね。嫌われているのがはっきりしていて、私が話しかけたらむしろ迷惑だろうという状況で、無理に会話を持とうとは思わない。こうして並んで座っていても、彼女はちらりともこちらを見ようとしないし。そこまで拒絶されているのに、何を話せばいいのかもわからない。
ただこの状況、傍目にははげしく不自然だろうな。カームさんは何も言わないし表情にも出さないけれど、絶対に気付いているだろう。けんかをしたとでも思われたかな。
メイリさんもなあ……嫌うのはいいけど、表面上とりつくろうくらいしてくれないものかな。せめてよその人の前ではさ。
それを気にするのは私の勝手であって、相手に求めることはできないのだろうか。メイリさんとしては、私と仲が悪いと周りに知られても、なんら不都合はないのかな。
本当に、落ち込むな。どうして私はこうも人づきあいが下手なのだろう。この世界へ来てから友達ができたり周りの人に優しくしてもらえたり、これまでの生活とは百八十度ひっくり返ったような日々だったが、私が変わったわけじゃない。単に寛容な人々に恵まれていただけだった。ハルト様以下みんな大人だから、いろいろ欠点の多い私を、時には叱りつつも許してくれていた。年の近いユユ姫や同い年のトトー君だって、立場のある人たちだから普通の少年少女よりずっと大人びていて、私を優しく受け入れてくれていた。
それを基準にしちゃいけないんだね。誰も彼もに甘やかされることを期待してはいけない。メイリさんみたいに、はっきり許せないと拒絶する人もいるんだ。
そういう人とも、うまく付き合えるようになりたいのだけれど。
頑張っているつもりでもうまくできない自分は、もしかして人として何か大切なものが欠けているのではないかと、しみじみ切なかった。
壮麗な門をくぐってからもしばらく走り続け、ようやく到着した王宮の正面口で馬車を降りると、カームさんは待ち構えていた臣下の人たちにとっつかまった。
「お帰りなさいませ。エステラの使節団がすでに到着しております。急ぎ謁見のお支度を」
進み出たのはお久しぶりのクールビューティ、シラギさんだ。カームさんはため息をついて私に言った。
「せっかく会えたというのに、ゆっくり話もできませんね。申しわけありません、チトセ。部屋へ案内させますから、どうぞくつろいで疲れを癒していてください。晩餐の席でまた会いましょう」
「ええ……いえ、あの」
何から言おうかな。シラギさんたちのようすからして話し込んでいる時間はなさそうだから、できるだけ手短に言わないと。
「今さらなんですけど、私の滞在場所って宮殿になるのでしょうか? 大使館の方かと思っていましたが」
久々の再会だからお茶でもご一緒しようと宮殿に連れてこられたのだと思っていたら、どうやら違うらしい。でも大使館があるのに、それっておかしくないか。ちらりと大使を見れば、彼も困惑顔だ。
「いいえ、君には宮殿に滞在していただきますよ。かまいませんね?」
カームさんは大使に向かい、やけに押しの強い笑顔で言った。気難しそうな顔をした大使が何か言い返そうとすると、
「たしかに彼女は特使という立場ですが、元々友人として招待していたのです。こたびの式典も特使の肩書も、口実のようなもの。ハルト殿もご承知のことですよ。堅苦しい役目だけで来てもらったのではないのですから、ぜひ我が家で歓待させてください。よいですね?」
「…………」
大使はあきらめ半分、呆れ半分の顔でこちらを見る。私もしかたなくうなずいた。
「わかりました。そちらのご迷惑でないのなら、お世話になります」
「ええ、そうしてください」
うれしそうなカームさんに、もうひとつだけ大事なことを告げる。
「それと、晩餐のお誘いは光栄なんですけど、私あまり食べられませんから……なるべく、少なめでお願いします」
ここ大事。とっても大事。この世界規格でごちそうを並べられたら、私の胃袋が耐えられない。
「承知していますよ、わたくしの小鳥」
私の不安を、カームさんはおかしそうに笑いとばした。
「わがままを言って申しわけありません」
「いいえ、希望はどんどん言ってください。君が快適に過ごせるよう、必要なものは何でも用意させますから。遠慮は無用ですよ」
「ありがとうございます」
伝えるべきことを伝えて、それではと別れかけた時だった。突然私の後ろからメイリさんが声を上げた。
「あの、すみません!」
「……なんでしょう?」
周りが驚いた顔で注目する中、メイリさんは進み出た。
「彼女が宮殿に滞在するんだったら、あたしにも滞在許可をください。一応護衛なんで」
――あ、そうだった。
メイリさんの言葉でようやく気付いて、私は内心焦った。彼女とレイダさんのことを忘れていた。ふたりは私のためについてきてくれたのだから、ちゃんと配慮しなければいけなかったのに。
私が何も言わないからメイリさんをあわてさせてしまったんだな。ああ、失敗した……お供や護衛を連れ歩くという状況に慣れていなくて、つい自分のことしか考えなかった。そういうところがだめなんだよなあ。
「そうですね。もちろん、許可しますよ」
「それと、侍女のレイダさんもお願いします」
「ええ、もちろん。その辺りのことは部屋付きの者と相談してください――ではチトセ、またのちほど」
口を挟めず眺めているしかなかった私に向き直り、カームさんはついと身をかがめた。あ、と思った時にはもう顎をすくわれて、頬に唇が押し当てられていた。ほっぺたでセーフ……前も、油断した隙をついてやられたんだよね。あの時はしっかり唇に……。
周りに人がたくさんいる中で怒るわけにもいかず、なんでもない顔でやりすごすしかなかった。この手の早さがカームさんの悪いところだと思う。本人は深く考えずにやっているんだろうけれど、女ったらしとしか言えない。存在するだけで人目を引く美貌と存在感なのに、こんな行動までしてたちが悪いったら。
周囲の視線を痛いほどに感じながらカームさんと別れた私は、メイリさんとレイダさん、大使を連れ、侍従に案内されて客室へ向かった。
「こちらにございます」
長い廊下を延々歩いた末にたどり着いた場所は、呆れるほどにゴージャスな空間だった。
なんだ、このだだっ広い部屋は……一体何畳分あるんだろう。特別教室がゆうに二つは入る。テーブルやソファはあるけれどベッドは見当たらないから、あくまでもリビングルームということだろう。見回せば隣室に通じる扉がふたつあった。多分あの向こうが寝室だ。
足を踏み出せば、毛足の長い絨毯に靴が沈んだ。これもしかして、シャール産の高級絨毯じゃないのか。何度か見たから特徴がわかるようになった。たしか一坪程度の面積で家一軒分の値段がつくとかいう話だったのに、この部屋に敷かれたものはその十倍以上――庶民の性でつい計算してしまい、怖くなって途中でやめた。
靴、汚れていないかな。この上歩いて大丈夫かな。
天井には芸術品としか言えないシャンデリアがつり下げられ、きらきらと光をふりまいている。壁の燭台は金細工だ。家具調度の類も凝った造りで、テーブルにはさわるのも怖いような見事なレースがかけられていた。
この部屋を使えと。ここでくつろげと。カームさん、無茶を言う。王様の感覚を舐めていた。気さくに見えても、やっぱり住む世界の違う人だ。庶民の気持ちをわかっていない。
こんなすごい部屋じゃなくて、普通の部屋でよかったのに。ハルト様だってもっと質素な部屋を使っているぞ。いや、あれだって十分贅沢の部類だけど、これに比べたらずっと質素だ。
身の置き所のない気分で立ち尽くす私を尻目に、荷物を運んできた侍従がレイダさんの指示を受けて寝室へ持って行った。それとは別に女官がやってきて、お茶の支度を始める。すすめられて、私はおっかなびっくりソファに腰を下ろした。さすが、素晴らしい座り心地だ。柔らかすぎず、硬すぎず。うっかりこのまま寝てしまいそう。
お茶と一緒にお菓子と軽食もセットされた。とても魅力的なのが逆に辛い。今調子に乗って食べたら晩ご飯が入らなくなる。晩餐の約束しちゃったし、我慢するしかない。
テーブルを挟んで大使も座る。メイリさんは、私とは離れた一人がけのソファに腰を下ろした。レイダさんは寝室でさっそく私の荷物を開いていた。一緒にお茶しましょうと誘ってもやんわり断られた。荷物なんて放っといてくれれば、後で自分で片づけるのに。そう言ってもこれが仕事ですからおかまいなくと言われ、申しわけなくもおまかせする。帰ったら本当にボーナス出してもらわないと。
「……なんだか、落ちついてご挨拶もしませず、申しわけありませんでした。あらためまして、佐野千歳です。よろしくお願いいたします」
私は大使に挨拶しなおした。予定外のことが続いたおかげで、ここまでろくに彼と話もできなかった。滞在中いろいろお世話になる人なのに、後回しになってしまい失礼な話だ。ごめんなさい。
「うむ、こちらこそ。ジャスリー・ラン・サイナスだ。君のことは陛下と父から連絡を受けている」
色の濃い金髪をした四十代くらいの大使は、生真面目な顔で答えてくれた。
この人は宰相の息子さんだと聞いている。たしかに線の細い顔だちがよく似ている。厳しそうな雰囲気がちょっと怖いけれど、かなりの美男子だ。
瞳の色は宰相とは違って明るい茶色だった。それが、にこりともせずに私を見据える。
「いきなりだが、ひとつ確認させてほしい。君とカーメル公は、どういう関係なのかね」
あー……やっぱり、聞かれたか。
「友人です」
「友人?」
大げさなほどに細い眉がぐぐっと上がる。小娘が何言ってんだとか思われているんだろうな。
「はい。あちらのご身分やお立場を考えれば不遜な話ではありますが……以前に、ちょっとあれこれありまして。公的な立場はともかく、個人的には友誼を結んだんです」
「友人、ね」
ジャスリー大使は鼻を鳴らした。
「とてもその範囲におさまるようには見えなかったが」
「承知しています。多分他の人たちにも誤解されましたね。私もあれはどうかと思いますけど、カーメル公のくせというか習性みたいなものなので……あまり気にせず、適当に流すことにしています」
あれは友情のキスだ。そのはずだ。
――でも、友情を表す時は手に口づけるんじゃなかったっけ。額や頬へのキスは家族の愛情だって、この間イリスから聞いた。カームさんに妹扱いされているとは思えないのだけどな。
このうえ実は二の名で呼んでいるとか知られたら、もう誤解と言っても通らないだろう。うっかり人前で口にしてしまわないよう気をつけなければ。
「流しているのか。まあいいが、あまりくだけすぎないよう気をつけるのだね。今の君はロウシェンを代表する立場なのだから、その責任を忘れないように。節度と品位を心がけなさい」
「はい」
「宮殿に滞在するのも、先方のご希望だからかまわないが、ふるまいには重々注意するように。何か問題が起きたり、わからないことがあったら、すぐ私に連絡しなさい。くれぐれも、勝手な判断で動かないように」
「はい」
印象どおり厳しい人のようだ。ただ厭味っぽさはないので素直に聞ける。言われている内容もしごくもっともなことばかりなので、私はしっかりうなずいた。
ジャスリー大使の方も、それで納得してくれたようだ。私へのお小言はひとまず終了し、次にメイリさんへ顔を向けた。
「メイリ・コナーと言ったな」
「はい」
呼ばれてメイリさんが背筋を伸ばす。
「君はティトシェ嬢以上に注意が必要だ。礼儀と常識をわきまえろ」
厳しい声音と言葉に、私までびっくりしてしまった。メイリさんも顔をこわばらせ、聞き返した。
「なんでですか。あたしが何かしましたか」
「自覚もしていないのか。まったく、イリス隊長は部下にどういう躾をしているんだ」
「な……」
「おそれ多くも他国の公王陛下に許しなく声をかけ、自分のことを頼むとは何事だ。無礼きわまりない。カーメル公はとがめず流してくださったが、あの瞬間周りがどういう反応をしたかも気付いていないのか」
……うん、たしかに一瞬妙な空気が流れたなとは思った。でもあの時のメイリさんの行動は、そんなに問題だっただろうか。
「……あたしは護衛を命じられたんです、離れるわけにはいかないじゃないですか! 彼女が何も言ってくれないから、しかたなく自分で頼んだんです。それがいけないとしても、あたしの責任になるんですか」
う……そうだよね、責任を問われるなら私の方だ。
謝ろうと口を開きかけたが、ジャスリー大使の方が早かった。
「ティトシェ嬢が滞在するのに、彼女一人だけと誰が考えるか。侍女など随従の者がついてくるのは当たり前だろう。その程度のこと、わざわざ念を押さずともあちらも承知しておられる。確認すべきことがあったとて、後で侍従なり女官なりに聞けばよい話だ。あの場で公王陛下に直接頼むなど、非常識にもほどがある!」
「……っ」
そ、そうなのか。知らなかった。すみません、私も非常識でした。
「……そんなの、当たり前って言われても。そういうものだって、知らなかったし」
不服そうなメイリさんの言葉に、ジャスリー大使は大きく息を吐いた。
私はどうしていいのかわからずに、ふたりの言い合いをはらはらと眺める。レイダさん、戻ってきてくれないかな。これ、どうにかなだめられないだろうか。
「平民ならば無理はないな。その言い分は理解しよう」
「あ、あたしの父さんは貴族出身です!」
「父親がどうであろうと、君は平民だ。血筋や身分だけの話ではない。素養が足りていない。こうした場での常識を知らぬと、今みずから公言しただろう」
「それは……っ」
「知らないのは、教える者がいなかったからだ。君の両親も、上官であるイリス隊長も、君に必要なことを教えなかった。たしかにそれは君ではなく彼らの責任だな」
「父さんたちや隊長の悪口を言わないでください!」
「悪口? 何が悪口だ。事実を言っているだけだろう。子供同士のけんかではないのだ。くだらないことを言うのではない」
「だって……!」
「教える者がいなかったのなら、私が教えてやろう。立て、メイリ・コナー!」
ジャスリー大使の声がますます厳しくなる。きつく命じられて、メイリさんは顔中に不満を浮かべながら立ち上がった。
「緊急時以外、貴人相手に自分から声をかけるな。許しが出るまで黙って控えていろ」
「…………」
「自分はあくまでも随従であるということを忘れるな。わかるか? 分をわきまえろと言っているんだ。当たり前のようにそこに座ったが、誰がそれを許したか」
「……っ」
「ま、待ってください」
さすがにここでだまっていてはいけないと、私はなんとか割り込んだ。ジャスリー大使の厳しい目がこちらを向く。怖い。でも言わないと。
「私は、みなさんと一緒にお茶をいただくつもりでした。先程の女官も人数分用意してくれましたし。座ったってかまわないじゃないですか。そんなことでとがめなくても」
「そう思うのなら、君も考えを改めなさい。同席を許すつもりなら、はっきりそう伝える必要がある。言わなければ許可しないということだ。君は一度も許可を出していないだろう」
「許可なんて……私だって平民です。人にえらそうに許可を出せる立場じゃありません」
「いいや、そういう立場だ。君もわかっていないな。君は陛下の身内であり、今は特使の任に就いており、そしてカーメル公が正式に招待した客人だ。それだけの立場が君にはある。私と同等、場合によっては私以上の権限を持つ立場なのだ」
「…………」
えええええ。私が大使と同等の権限だと。なんでそうなる。
言ってみれば友達の家に遊びに来ただけなのに。その口実に特使という肩書を使わせてもらってはいるが……たしかにその分、責任を持って行動すべきだとは思うが……。
でも権限なんて言葉が出てくる話ではないと思っていた。
間違いなのか、その認識は。
「身分、地位、権限――形はいろいろだが、人の間には序列というものがある。むやみに乱すべきではないものだ。序列を守ることによって秩序が保たれる。それを無視したふるまいは非常識、無礼と言われ眉をひそめられることになる。これがまだロウシェン国内でのことならば、身内同士で多少は見逃されようが、ここは外国だ。身内ではない、外部の人間が我々を見ている。その中で非常識なふるまいをし顰蹙を買えば、それはすなわちロウシェンの恥となる。そういう立場にあると自覚し、一挙手一投足が人から見られていると思って自重しなさいと、さきほどは言ったつもりだったのだが」
「…………」
言われた言葉は、もっともだった。身分というものがあるこの世界で、上下関係は私が考える以上に重視されているのだろう。私が平民出身で全然偉い人間なんかじゃなくても、立場だけは立派だから、周りの人はそれを基準に私を見る。なのにふわさしくない行動をしていたら、呆れられたり怒らせたりしてしまう――と、いうことなのだろう。
だから私は、立場にふさわしい行動を心がけなくてはいけない。それは単に礼儀正しく上品にしているだけでなく、序列を乱さないということも含まれるのだと、ようやく理解した。
メイリさんやレイダさんを格下扱いして、座るのにもいちいち許可をするだなんて、感情面ではどうにも受け入れがたい話だ。でも、そうしないといけないのか。少なくとも、この宮殿にいる間は。
思い返せば、かつてリヴェロの離宮を訪れた時、それからカームさんがロウシェン滞在中にハルト様と訪問した時にも、お供の騎士たちはみんな離れて控えていた。イリスやトトー君が特別に呼ばれて同席したけれど、呼ばれない人は勝手にやってきてそばに座ったりしなかった。
――そういうものか。ああ、そうか。今のメイリさんの立場は、あの時の騎士たちと一緒なんだ。
そして私は多分、ハルト様がいた立場にある……。
私から視線をはずし、ジャスリー大使はまたメイリさんを叱責し始めた。
「君の言動を見ていると、躾の不十分な子供としか思えない。分をわきまえないふるまいはもちろん、言葉づかいからしてなっとらん。一人前の騎士だというなら、もう少しましな話し方をしたまえ。他国の人々の前でみっともない」
「…………」
「だからイリス隊長の躾が悪いと言ったのだ。部下の態度が悪いのは、上官の責任だ。つけくわえるならば、躾のできていない半人前を派遣するなど、人選間違いだ。この件は本国に連絡し、イリス隊長に厳重に抗議しておく」
「そんな……!」
――うん、私もイリスが悪いと思う。メイリさんが悪いんじゃない。礼儀を教えていない上官や先輩が悪いんだし、それなのに放り出すだなんて無責任だ。
イリスはこまかいことにはこだわらない大雑把人間だからな。武術の訓練には厳しくても、礼儀作法なんて部分はきっと適当でいい加減なのだろう。
……そのわりに、イリス本人はいつもきちんとしているよね。やはり貴族だから、そういう教育を受けているのかな。それなら部下にだって教えられるだろうに。なんで矛盾するかな。
「あ、あたしの言葉は、そんなにおかしいですか」
「まず、それを直せ。『あたし』ではなく『わたし』か『わたくし』だ。父親のことも『父さん』などと言っていたな。人と話す時には『父』だ。まったく、こんなことは騎士であるなしにかかわらず、わきまえて当然の常識だぞ」
あ、やっぱりそこつっこまれるんだ。こっちの世界では問題なしかと思ったら、そうではなかったか。
「父親が貴族だと主張するくせに、正しい言葉づかいができていない。そういったことは教えられなかったのか」
「…………」
「目上の相手に向かって、家族や親しい知人と話すような口のきき方をするのではない。語尾だけですますにすればいいというものではないぞ」
ジャスリー大使のお説教は、その後もくどくどと続いた。私はメイリさんが泣き出してしまわないかと心配したが、さすがにそんな気弱な人ではないようで、無用の心配だった。
でも、神妙に聞いて反省するという態度にも見えなかった。
反論をこらえ、唇をかんでじっとうつむいているメイリさんは、到底納得しているようすではなかった。拳はきつく握りしめられ、かすかに震えている。床に向けられた視線はとてもきついもので、彼女が爆発しそうな不満と怒りを抱えていることを、ありありと感じさせた。
私たちに山ほどの小言を言ってようやくジャスリー大使が辞去するまで、彼女はひとことも口をきかなかった。大使を送り出す時、一瞬だけ私と目が合ったけれど。
それはあまりに暗く鋭い、憎しみに満ちたまなざしだった。