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祈り



 短い休みが終わり、クリーニングしておいた制服に袖を通す。

 今日から新しい学年が始まり、俺は先輩と呼ばれる立場になる。一日早く行われた入学式で下級生たちが誕生している。

 それ自体にさほどの感慨はない。中学の時にもそうだったから、高校でも同じことの繰り返しだ。

 ただ、これから自分が身を置く学年に対しては、いささか感傷的な気分になった。ごく個人的な理由から。

 部屋を出て階段を下りれば、いつもはとうに家を出ているはずの母さんがいた。

「今日休み?」

「うん、代休なの」

 印刷会社でデザイナーをしている母さんは忙しい。休日出勤もしょっちゅうだ。でも法律やら何やら決まりがあるらしく、減った分の休日はどこかで補わなければいけないらしい。それでこうして平日に家にいることも時折あった。そこらへんをきちんと守っているあたり、母さんの会社はブラック企業というわけではないようだ。

 食卓に着く前、隣の和室をちらりと覗けば、仏壇に手を合わせているばあちゃんの背中が見えた。忙しい両親のかわりに俺たち姉弟の面倒を見てくれてきたばあちゃんは、最近小さくなったように思う。

 仏壇にはじいちゃんの位牌と、真新しい小さな位牌が並んでいた。

「コーちゃん、来週の日曜日は空けといてね。四十九日だから」

「……ああ」

 母さんはいつもと変わりないようすで朝食を出してくれる。仕事を抱え、子供も二人いて、落ち込みっぱなしではいられないと、毎日元気に働いている。父さんもそうだ。俺たちの前では暗い顔を見せずにいつも通りの生活を続けている。だから時々夜中に母さんが隣の部屋に入って泣いていることや、父さんの晩酌の量が増えたことに、俺は知らんふりをしている。

 そうやって、どこかで辛い気持ちを吐き出さないと、やっていられないのだから。

「お母さん、私の手帳知らない?」

 菜の花の味噌汁をすすっていると、騒々しい足音を立てながら上の姉が飛び込んできた。……いや、もう姉は一人だけだ。上も下もない。

「ピンクの表紙のやつ!」

「上着のポケットに入れっぱなしになってたから、洗面所の棚に置いといたわよ。洗濯物出す前に、ポケットの中のものは出しなさいって言ってるでしょ」

「忘れてたのよー」

 姉が洗面所へ駆けていく。ひらひらした普段着とは違って、リクルートスーツ姿だ。問題の手帳には就職活動に関する予定や情報がぎっしり書き込んであるらしい。

悠姉(ゆうねえ)、まだ内定取れないの?」

 俺と同じく姉も進級して、今年は大学四年生だ。早ければとうに就職先が決まっているらしいが、そんな幸運な連中は少ない。超氷河期と言われる昨今の事情から、在学中に内定が取れれば御の字といったところだとか。俺も他人事とは思っていられない。数年後に自分の番がやってくる。

「あと一年あるんだから焦らなくてもいいのよ。お姉ちゃんの前で言わないのよ」

 俺の前に弁当の包みを置いて、母さんは小声でたしなめた。

「……まあ、悠姉なら大丈夫なんでないの? 自己主張はっきりできるタイプだし、行動派で競争にも強いしな」

 無口で人見知りで内向的だった彼女とは違う。

 彼女は人とぶつかることが嫌いで、勝負もしないうちからさっさと身を引いて逃げる癖があった。頭はよかったんだから、やる気さえ出せば強かったのに。

「そうね」

 同じ相手を思い浮かべたかどうかはわからない。母さんはあっさりうなずいてキッチンへ戻っていった。

 俺は朝食を食べ終え、弁当を持って立ち上がった。洗面所はまだ姉が占拠していた。ドライヤー片手に髪と格闘している横へ割り込んで、歯を磨く。鏡の中で目が合った。

「コウ、今度の日曜のこと聞いた?」

「ひってる。ひでゅうふにひだろ」

 歯ブラシをくわえたままで返事する。

「サッカーの試合とかぶらない?」

「らいじょぶ」

 俺は口をゆすぎ、タオルを取った。

「……今さらだけどな。四十九日どころか、とっくに百箇日も過ぎてるのに」

「気持ちの問題よ。どこかで区切りをつけなきゃいけないんだから」

 姉はドライヤーを置き櫛を手に取った。セットすることは諦めて、お団子にひっつめることにしたらしい。整えにくい髪質には姉妹そろって悩んでいたな。

「中途半端なままだと、ちいちゃんだって気になって心配しちゃうでしょうからね。もう前に向かって行かないと」

 性格がずいぶん違う割に、二人の姉は仲が良かった。ちい姉がいなくなってから、悠姉は何度も泣いていた。

 ――でももう、吹っ切った顔でこんなことを言う。

 母さんも父さんも悠姉も、こうやって立ち直ろうとしている。ばあちゃんはまだ落ち込んでいるようだが、趣味のサークル仲間が心配して何かと誘ってくれるから、多分大丈夫。きっと元気になれる。

「お先」

 まだ四苦八苦している悠姉を置いて、俺は洗面所を出た。




 桜の下を、同じ制服を着た連中がぞろぞろ歩いている。

 半月ぶりに顔を合わせた相手と挨拶して盛り上がる光景が、そこかしこで繰り広げられている。俺の背中にも追いかけてきた友達の手が叩きつけられた。

広生(こうせい)、久しぶり!」

「……なにが久しぶりだ。力一杯叩くなよな」

 顔をしかめて振り向く俺に、小学校からの腐れ縁な貴也(たかや)はにこにこして手を振っていた。

「三日前に会ったばかりじゃないか」

「クールなこと言ってんなよ。新学期のお約束だろ」

 同じサッカークラブに所属していたところから始まったこいつとの付き合いは、そろそろ十年目に突入する。今の学校でも当然一緒にサッカー部だ。一週間以上顔を見なかったことなんて、今まであっただろうか。俺がちい姉を追いかけてこの高校を受験すると決めた時、貴也もレベル的にけっこうきつかったくせに進路志望に同じ高校名を書きやがった。あんまりベタベタしているものだから、周りからは親友を通り越してアヤシイ関係なんじゃないかとあらぬ噂を立てられたほどだ。ちい姉いわく、腐女子的に美味しい構図らしい。

 外見も内面も明るくて爽やかな貴也と、クール系美少年らしい(ちい姉が言ったんだからそうなんだろう)俺は、この学校でも変な意味で名物化しつつある。困ったものだ。

 そこかしこから意味ありげな視線を向けてくる女子どもがうっとうしい。

「今年は同じクラスになれっかなー。せめて隣くらいだといいんだけどな」

 あまり周囲の視線を気にしない貴也は、人の気も知らず呑気なことを言っている。そんな台詞が聞こえれば、また腐った女どもが喜ぶというのに。

「どうせ部活で顔合わせるんだ。クラスなんて、いっそ端と端に離れるくらいがいいよ」

「なにその冷たい反応! ていうか去年モロに端と端だったじゃん。入学したばっかであれはきつかったわー」

「……お前、彼女作れよ」

 貴也は女子に人気が高い。本人さえその気になれば、希望者はいくらでも出てくるだろう。

「あー……それは当分いいや。まだ失恋の痛みが消えてないから」

「…………」

 えへへとごまかすように笑う貴也の言葉がどこまで本気なのかはわからない。俺はだまって寝癖のついた頭を鞄ではたいてやった。

 小学校の時からずっと一緒で、うちにもしょっちゅう遊びに来ていたから、もちろんこいつはうちの家族とも面識がある。男嫌いのちい姉も貴也のことは嫌がらずに受け入れていた。

 そこに恋愛感情なんて微塵も存在していなかったけどな。

 ちい姉にしてみれば弟がもう一人、くらいの認識だっただろう。同人誌即売会参(イベント)加の荷物持ち兼ボディーガードとしてこいつもくっついてきたことがあったけれど、頼りになる男としてアピールするまでにはいたらなかった。会場のすさまじい人の多さで迷子になったあげく熱気にあてられて気分を悪くし、救護室のお世話になって迎えにきてもらったという、なかなかしょっぱい結末だ。

 毛嫌いされていなかったという点では、世間の男どもよりはるかにいい待遇だ。ただし、それには男のうちに数えられていないからという理由がついてくる。

 失恋以前の段階で貴也とちい姉の関係は終わった。こいつにも、いずれ別の女の子と出かける日が来るのだろう。

 遅刻組の最大の敵となる坂を上ると、校門が現れる。一時期連日マスコミが押しかけていたその場所に、今はもう生徒と教師の姿しかない。俺は顔見知りの教師に挨拶をして貴也と共に校門をくぐった。

 玄関脇に臨時の掲示板が設置され、クラス分けが張り出されている。群がる生徒たちの間から首を伸ばして見上げた貴也が歓声を上げた。

「やった! 同じ! 二組だってよ! おい広生、一緒のクラスだよ!」

「はしゃぐなよ。見りゃわかる」

 抱きつこうとする貴也を振り払う。いい加減こいつも周りの目を意識しようって気にならないのか。

「あとは……おお、イノっちも一緒だぞ! あ、渡辺もいる。やだなー、あいつも一緒かよ。げ、担任イヤミン!? マジっすか!」

 ひとりで騒ぐ貴也から少し離れ、隣の掲示板を見上げる。俺には直接関係のない、三年のクラス表だ。もちろんそこに、ちい姉の名前はない。ないのに探してしまった自分に笑った。

 ちい姉はもう進級することはない。俺は彼女と同じ学年になり、そして追い越していくのだ。

 ふと、見知った顔が視界に入った。別に友達なわけでも、部活の先輩なわけでもない。ただ存在だけよく知っている相手だ。

 そいつは隣の友達らしき生徒と話しながら笑顔で掲示板を見上げていた。割と整った容姿で女子から人気があることは知っている。俺から見れば貴也の方がいい男だと思うが、奴がイケメンであるということだけはちい姉も認めていた。

 去年ちい姉とクラスメイトだった大野というそいつは、あの修学旅行のことなど忘れたかのような顔で晴れやかに新学期を迎えている。二年のクラス表に比べ、明らかに人数の少ない三年のクラス表を見ても、もう何とも思わないのだろうか。

 ちい姉のことが好きで、そのくせ素直に接することもできず、わざと意地悪な態度を取って気を引こうとするなんて、小学生みたいな真似をしていたくせに。

 はたから見ればバレバレな行動も、ちい姉には一切通じなかった。額面通りに嫌な相手と受け取って、ちい姉はこいつを嫌っていた。ざまあみろだ。

 ちい姉は美人じゃないけど、いつも身ぎれいにしていたから可愛らしい印象ではあった。小柄でおとなしくて清楚なタイプで、人から話しかけられれば丁寧に答えるし、面倒な仕事も嫌がらず真面目にこなしていた。そういう女の子を男は好む。本人は周り中から嫌われていると思い込んでいたけれど、実のところ嫌っていた相手なんてごく少数だ。大抵は無関心か、さもなくば好意を持っていた。

 周りになじめずいつもひとりで浮いていたし、成績がトップクラスということもあって近寄りがたい雰囲気はあったから、ちい姉にアタックする勇気のある男がいなかっただけだ。

 その中で大野は積極的な行動に出た珍しい存在だったのだが、努力のしかたを間違っていたせいで、ちい姉に気持ちが通じることはなかった。むしろこいつのせいでますますちい姉の男嫌いが加速していた。高校生にもなって好きな子いじめをするような馬鹿に同情する気はいっさいない。こんなやつとちい姉がくっつくくらいなら、全力で貴也を押してやると思っていた。

 ――今となっては、すべてが思い出話だが。

 でも俺がこいつに軽い恨みを持つくらいは許してほしい。ちい姉のかわりだ。

 大野が掲示板の前から離れていく。いつまでも見ている自分が馬鹿馬鹿しく思えて、俺は視線をはずした。するとこちらを見ている女子の存在に気付いた。俺と目が合ったそいつは、途端にぱっと顔をそむけた。

 気まずそうな顔。見ようによっては、うしろめたそうな顔とも言えるだろうか。

 なんで彼女がそんな顔で俺を見るのかはわからない。でも直接関わったこともない彼女が俺に注目し、そして目を合わせることを避けたのは、ちい姉のことを忘れていないのだと確信させる根拠になった。

 ちい姉を嫌っていたごく少数、その筆頭と言える女子。人ともめることが嫌いで、それ以前にろくに関わりもしなかったちい姉だから、けんかなんてしていない。こいつが一方的にちい姉を嫌っていただけだ。理由は知らない。仮にちい姉にも原因があったとしても、いじめを正当化する理由にはならないだろう。大野よりも恨むべき相手かもしれなかった。

 もっとも、ちい姉はそれほど気にしていなかった。繰り返される嫌がらせに辟易してはいたが、思いつめて登校拒否になったり自殺を考えたりといった方向にはいかなかった。そばにいると迷惑でうっとうしい存在だが、離れればどうでもいい相手――その程度の認識だったようだ。存在を否定されたも同然の相手には、恨みよりもどちらかというとお気の毒様という気分があった。

 むろん、だからといって俺がこいつに好感を持つことなどない。ちい姉をいじめた以上は、俺にとっても不愉快な相手だ。

 ただ、周りがあの出来事を――ちい姉の存在を忘れていく中で、まだ忘れずに記憶に残している人間がいることを確かめられて――うれしいと、思うべきだろうか。

 忘れられるのは寂しいが、覚えているのがちい姉をいじめていた相手だなんて、それはそれでむなしい気分だ。

 それでも、忘れ去られるよりはいいんだろうな。もし彼女が大野みたいに笑顔ではしゃいでいたら、俺はきっとやるせない憤りをこらえることになっただろうから。

 ちい姉のいない新学期を迎え、ちい姉の弟と出くわして、彼女にも何か感じるところがあったのなら、ちい姉も少しくらいは報われるだろうか。

「広生?」

 逃げるように去っていく背中をぼんやり見送っていたら、貴也が声をかけてきた。

「もう行こう?」

「……ああ」

 うながされて歩き出す。これから退屈な始業式だ。

「……なあ、広生」

「なに」

「今度の日曜、四十九日なんだってな」

「ああ。なんで知ってんの」

「こないだ、街でおばさんと出くわして……でさ、よかったら俺も出席してくれないかって言われたんだけど」

 初耳だった俺は思わず貴也の顔を見た。

「いいのかな……俺、親戚でもないのに」

 長年の付き合いに加え、友達のいなかったちい姉が唯一親しくしていた相手だから、母さんは声をかけたんだろうな。

「料理とかの手配もあるから、早く返事しろってオカンに言われてさ。どうしようかなって……」

「無理に出る必要ないぞ。断りにくいなら、俺から母さんに言っといてやる」

「違うよ!」

 貴也が足を止める。つられて俺も立ち止まる。向かい合って立つ俺たちの周りを、他の生徒たちが通り過ぎていく。いぶかしそうに視線を向けてくるやつらもいた。もめているようにでも見えるんだろうか。

「嫌とか、そんなんじゃないんだ。おばさんの気持ちはうれしかったし……ただ、なんか……」

 貴也は珍しく肩を落としてうつむいた。

「なんかさ……そういうの、やっちゃうと、本当にもうおしまいなんだなって気がして……そりゃ、とっくにわかってたけどさ。でも、まだちょっと抵抗があって」

「…………」

「お、俺がこんなこと言うなんてどうかと思うけど。実の肉親のお前の方が、ずっと辛いはずなんだから……ごめん、本当に」

 謝る貴也になんて言ってやればいいのか、言葉が見つからなかった。

 貴也が言ったことは、まるごと全部俺の気持ちそのものだった。

 俺はまだちい姉のことをあきらめきれていない。葬式もやったけれど、そんなの形だけだった。本当なら祭壇に据えられるはずの棺は存在せず、写真と花だけがあった。四十名を超す死者と行方不明者を出した惨事から数か月経っていて、今さらそんなことをしても何の意味があるのだという気分だった。

 わかっている。父さんも母さんも、みんな気持ちは同じだ。どこかで助かって生きているんじゃないかと、あり得ない期待を捨てきれず、なかなか葬式を出すことができなかった。でもいつまでもそれじゃいけない。区切りをつけないと、と悠姉が言ったように、ちい姉の遺体が見つからなくても葬式をすることにしたんだ。

 立ち直って、前へ進むために。

 でも俺だけが、今でもあきらめきれず立ち止まっている。

 助かる可能性なんてないってわかりきっているのに、ちい姉の死を受け入れることができない。

 ちい姉。俺の、大事な人。

 年上を意識したことは、あまりなかった。悠姉にはよく面倒を見てもらったけれど、年子のちい姉とは同じような立場で一緒に世話を焼かれていたし、成長してからは俺がちい姉の世話を焼くこともあった。特に、外へ出かける時には。

 我ながらひどいとは思うが、他の家族が死んでもこれほどの気持ちにはならなかっただろう。俺にとってちい姉はいちばん特別な相手だった。ちい姉だったから、今でもあきらめきれない。

 賢くて、けっこう腹黒で、したたかな面も持っているくせに、人と接することが苦手で後ろ向きになってばかりの、世話の焼ける俺のちい姉。通学以外ではろくに外へ出ず、部屋にこもって漫画やゲームの世界にばかり没頭していた。現実(リアル)では恋愛どころか友達も作らず、家族だけを心の支えにしていた。

 俺の学力じゃ厳しいと言われた高校に必死に受験勉強して入ったのは、ちい姉をひとりにしておくのが心配だったから――なんて、言い訳だ。本当は俺がちい姉から離れたくなかっただけだ。

 他人には心を開けないちい姉が、俺を頼りにしてくれるのがうれしかった。ちい姉には俺が必要なんだと思うことで満足していた。

 多分それは、間違っていたのだと思う。ちい姉のためには、もっと他人とうちとけて、外の世界へ出ていけるよう手助けしてやるべきだったのだ。

 でも俺は、ちい姉を独り占めしていたかった。他のやつになんて取られたくなかった。

 ちい姉が人となじめなかった理由の何割かは、俺に責任があるんだろうな。だめだとわかっていながら、ちい姉が俺に依存するのをよろこんで甘やかしていたんだから。

 ちい姉――可哀相なちい姉。きっと今頃は、冷たく暗い海の底に沈んでいる。見つけてやることもできず、ひとりぼっちで朽ち果てていく。どれだけ寂しがっているだろうか。いつもひとりでいるくせに、愛されることを強く望んでいた甘ったれは。

「広生……?」

 貴也が俺の顔を覗き込む。いつの間にかうつむいてしまっていた。俺は一度強く拳を握りしめ、それから開いて息を吐いた。

「大丈夫か?」

「……平気だ」

 乾いた声が出る。俺はまだ一度も涙を流していない。ちい姉がいなくなったことを受け入れられず、泣けずにいた。

 でもこいつには、きっと全部伝わってしまっているんだろうな。

「貴也」

「なんだ?」

 もうじき予鈴が鳴る。早く教室に鞄を置いて講堂へ行かないといけない。時間には気づいているだろうに、俺を急かすこともせず貴也は待ってくれている。

「どう思う? 遺体を見つけられず、墓に骨を入れることもできないのに、葬式だの法事だのやって、それで供養になんてなるのかな」

「…………」

「本人がそこにいないのに、坊さんがお経読んで、一体何の意味があるんだろうな。そもそもあれ、サンスクリット語だろ? 死んだからって日本人にサンスクリッド語の意味なんかわかるのかね。いくらちい姉がオタクでも、せいぜい短いマントラを知ってるくらいだったと思うけど」

 皮肉な笑いがこぼれる。現実を受け入れたくなくて、理屈を振り回して抵抗しているだけのガキだ。馬鹿な自分を自覚しながらも、俺は素直に泣くことができない。

 こんな質問をされてさぞ困っただろうに、貴也は少し考えた後、訥々(とつとつ)と語った。

「えっとな……前に、うちの法事に来た坊さんから聞いた話なんだけど……お墓とか仏壇とかは、亡くなった人のためじゃなくて、遺された者のためなんだってさ」

「…………」

「祈る時にさ、何か対象がある方が気持ちを向けやすいから、とかだったかな……多分、目印みたいなもんじゃないかと……ええと、つまり、祈りってのは本来、そういうもんがなくても構わないって話で」

 オタクでもなければ宗教に詳しいわけでもない貴也が、懸命に説明してくれる。

「きっとどこにいても届くよ……心から祈ればさ」

「…………」

「……ごめんな、こんなことしか言えなくて」

 黙る俺に貴也がすまなそうに謝る。いや、と俺は吐息と一緒に吐き出した。

「行こうか」

 止めていた足を動かし、ふたたび歩き出す。貴也もすぐに追いついて俺と肩を並べた。

 階段を上がり、二年の教室がある階へ向かう。端から二番目が、これから一年俺たちのクラスになる。

 二組――ちい姉のいた教室か。

 見回してみても、当たり前だがそこにちい姉の痕跡なんてない。一年の時と同じ構造の空間が広がっているだけだ。

 ちい姉の姿が残っているのは、俺の記憶の中だけだ。あの隅の席、あそこに座っていつもひとりで本を読んでいたっけ。

 後で最初のホームルームが行われ、そこで正式な席順も決められるのだろうが、今はどこに鞄を置こうと自由だ。俺はちい姉がいた席に行き、鞄を置いた。

 使い古された机の面を手でなぞる。ちい姉のことだから落書きなんてするわけがない。あちこちについた汚れやいたずらの彫り込みは、歴代の生徒のしわざだろう。

 その中に、小さなちいさな落書きがあった。机の端に、注意して見ないとわからないほどに小さく書かれた文字。誰がだれに向けて書いたものかもわからない「ごめんなさい」の一言。

 何があったんだろうな。この言葉は、ちゃんと相手に伝わったのだろうか。

 ちい姉に向けられたものだと思ってしまうのは、俺の思い込みだろう。そもそもちい姉がいた頃そのままに机が使われていたとは限らない。入れ替えがあって違う机に変わっている可能性だって大きい。

 でも、もし――もし、これがちい姉へのメッセージなら。

「広生、もう行かないと」

 隣に鞄を置いた貴也が急かした。それに返事をして俺は机に背を向ける。講堂へ向かい渡り廊下に踏み出すと、風に散らされた桜の花びらが飛んできた。

 青い空に満開の花が美しい。新学期の始まりにふさわしい、晴れやかな空だ。美しくて、まぶしすぎて、目が痛くなる。

「広生……」

 見上げたまま立ち止まる俺の周りに、花びらが降りそそぐ。俺がこぼすものを隠すように、桜が一緒に泣いてくれている――なんて、感傷がすぎるか。

「貴也」

「……なんだ?」

 俺は空を見上げたまま言った。顔を上げていても、熱い雫は頬を伝って顎からこぼれ落ちた。

「日曜、やっぱ来てくれるか」

「あ、ああ。うん、もちろん。お前がいいなら、行かせてもらうよ」

「一緒に、祈ってやってくれ」

 もう寂しがらなくてすむように。辛い思いをすることのないように。

 生まれ変わりなんてものがあるのなら、どこかにまた新しい生を受けて、幸せになれるように。

 俺はもう、そばにいられないけれど。でも新しい家族に愛されて、次の人生ではちゃんと友達も作っていつか恋愛もして。

 幸せに、なってくれ。

 忘れていない。俺はずっとちい姉のことを忘れない。貴也も覚えていてくれる。他にも、きっと誰かが、記憶に残してくれるだろう。

 いじめたことへの後悔でもいい。うまく気持ちを伝えられなかった後悔でもいい。何でもいい、ちい姉がここに存在したことを覚えていてくれるなら。

 俺はそれで満足だ。だからちい姉はもう全部忘れて、幸せになってくれ。

 桜の舞う空に予鈴が鳴り響く。貴也がそっと俺の背を叩き、俺たちは歩き出した。

 笑顔で集まる生徒たち。でもそれぞれの顔の下に、いろんな想いを抱えているのだろう。

 一緒に新学期を迎えるはずだった友達や、憧れていた先輩を想い、見えない姿を追っている者はきっとたくさんいる。

 俺たちはその悲しみと寂しさを抱え、乗り越えて、明日へ向かって行く。

 遠くに眠る大切な人に、どうか幸あらんと祈りながら。




                    ***** 終 *****

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