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子育て教室



 ロウシェンにこの人ありと言われた名宰相、リュシー・ソール・サイナスが執務室へ踏み込んだ時、彼の主君は真剣な顔をして書物に向き合っていた。

 口許が動いて何やらぶつぶつと呟いている。重要な報告書や資料を読む時、その内容を口に出して音読するのが主君の癖だ。まだ新しそうな表紙に、古い文献ではないことがうかがえる。最近発行された本でこれほど彼の興味を引くものとは一体何なのか。その疑問は、そばへ近づくことで解消された。

「……子供の反抗は成長の表れです。自我が発達しいろんなことに挑戦したいという気持ちが育ってきたことにより、親の干渉を拒絶するようになるのです。困ったこと、悪いことと否定的にとらえるのではなく、自立への第一歩とおおらかに受け止めましょう……」

 よほどに集中しているのか、目の前に立っても気付かず文字を追い続けている。表紙の題名が見え、宰相は白くなった眉を上げた。

「わがままがひどくなり、困り果てるという話をよく聞きます。この時期は親も心身ともに疲れ果て、ついきつく叱ってしまいがちですが、頭ごなしに叱りつけるだけでは効果がありません。親が聞く耳を持たないという態度を取れば、子供は親に理解してもらえないと傷つきます。親子の信頼関係を大切にしましょう」

「…………」

 遠くなった記憶を振り返り、少しばかりなつかしくなる。そういえば自分も妻とともに、こうしたものに教えを乞うた時代があった。

「子供の要求に従うばかりでは、本当の信頼は得られません。だめなことはだめと言う必要もあります。その時は、なぜだめなのかをきちんと説明します。子供には理解できない、聞こうとしないなどと決めつけず、丁寧に話しましょう。子供の自我を尊重することが大事です。また、子供とふれあうことも積極的に行ってください。しっかり抱きしめる、手をつなぐ、話す時にはかならず子供の目を見る、子供の話も聞き流さずきちんと聞く、など、真剣に向き合う姿勢を示すことで、信頼関係は作っていけます……」

 しかしそろそろ止めさせてもらおうか。宰相は咳払いして声をかけた。

「陛下」

「……ん? お、おお、リュシーか。いつからそこにいたのだ」

 本から顔を上げた公王は、目の前に立つ人の姿に驚く。息子よりも若い主に、宰相はまず指摘した。

「おそれながら、その書物は幼児教育の指南書にございます」

 公王は手の中の本を見おろし、ばつの悪そうな顔になった。

「思春期には、思春期なりの対策が必要かと」

「う、うむ。いや、なにごとも順序が大事であろう?」

「そのあたりの段階は、実の親が担当しておりましょう」

「それは、そうなのだが……」

 公王は閉じた本をもじもじといじり回しながら言った。

「私とチトセの関係は始まったばかりだ……だから、こういうところから始める必要があるのではないかとな……」

 それで「〇歳~三歳までの子育て」「魔の二歳児――ひとりで悩まない――」「反抗期との正しいつき合い方」といった本が積み上がっているわけか。

 努力は買うが、いかんせん方向が間違っている。

「現在陛下が直面しておられる問題は、成長の一過程である反抗期とは別のものと存じますが」

「…………」

 さらなる指摘に公王は肩を落としてうなだれる。力ないため息をつき、本を山の上に積み重ねた。

「己のいたらなさに恥じ入るばかりだ……親としてあの子を守るなどと言いながら、何もできてはいない。そもそも私は、まともに子育てをした経験などない。リオンの時は、ソーニャと乳母たちにほとんどまかせきりだったしな……」

 幼くして亡くなった王子は、両親によく似て大人しく気質の優しい子供だった。反抗期といっても、それほど激しくなかったように思う。あまり周りの手をわずらわせることもなく、そして無邪気なままで永遠に成長を止めた。第二の反抗期で親を悩ませるところまで、あの子供は行けなかった。

 幼い息子の姿しか記憶にないせいだろうか。この主君は、娘として迎えた少女のことも、年齢よりずっと幼く見ている気がする。

 たしかに、あの年頃にしては未熟さが目立つ娘ではある。おそらくは、実の親兄弟から相当に甘やかされて育ったのだろう。しかし自我が芽生え始めたばかりの幼児とは違い、成人に近い年齢にまで育っているのだから、甘えた部分はむしろ厳しく鍛えるべきだ。幼児への接し方とは違う教育法が必要である。

「こんな私に、親と名乗る資格などあるのだろうか……リュシー、そなたから見てどう思う。私は、親として失格なのではないだろうか」

 公王はすっかり自信を失い落ち込んでいる。内心やれやれとため息をつきつつも、息子二人と娘三人を育て、現在は孫が合計十四人いる人生の先輩として、宰相は助言を与えることにした。

「わたくしとて、偉そうに言える親ではありませんでしたが、ひとつだけ自信を持って言えることがございます」

「何だ」

 期待のまなざしが見上げてくる。ひそかに、息子を一人心に追加する。

「親たる資格など、子を愛しているか否かの一事のみです。そこだけ押さえておけばよろしい」

「…………」

「差し出口をお許しいただきますならば、あまり気を遣われすぎませぬように。反抗的な態度を見せるのは、こちらの反応を窺っている面もございます。どこまで許されるのか、見捨てられないだろうかという心理の表れ――すなわち、愛されたい、見捨てられたくないという気持ちからです。愛情を求めているのですから、愛情で返してやればよろしい。甘やかすという意味ではございませんぞ。叱るべきところは厳しく叱らねばなりません。気を遣って甘やかすばかりでは、むしろ不信感を与えましょう。時には厳しくすることも愛情です」

 公王は手元に視線を落とし、息をついた。

「叱る、か……」

「あの娘には、言ってやるべきことが多くございましょう。一度とことんまでぶつかり合う覚悟でやり合ってもよろしいのでは」

「リュシーは、とことんやり合ったのか?」

「上の息子の時に、互いの顔が変形するくらい殴り合いましたな」

「…………」

 現リヴェロ公のように、かつて美貌で名を馳せた人物は平然とそんなことを言う。今でも端正な顔立ちを見つつ、この顔が変形した時にはいろんな意味で周りが騒いだことだろうと思う公王だった。

 ちなみにその殴り合った息子は、今では駐リヴェロ大使の職に就いている。

「そなたのようにできる自信はないが……なんとか、頑張って向き合ってみよう」

「そうなされませ」

 少しだけ明るい表情になった主君にうなずきながら、宰相は預かってきた親書を差し出した。

「リヴェロ公からにございます」

「……ああ」

 受け取り、封を開いた公王は、中身に目を通すや深々とため息をついた。

「よくない報せですかな」

「いや、そうではなく……キサルスの方は大丈夫そうだ。そちらの話はよいのだがな……チトセのリヴェロ訪問を許可してほしいという要望がな」

「…………」

 百戦錬磨のはずの宰相が、反応に迷って一瞬沈黙した。

「……依然、熱はおさまりませぬか」

「これを読む限り、いっそう燃え上がっているようだな」

「それは、また……」

 公王と宰相、国の頂点に立つ二人は、それぞれ眉間にしわをきざんで息を吐いた。知らぬ者が見れば、よほどに深刻な問題が起きているのかと思ったろう。ある意味深刻ではあるが、同時に脱力感も覚えつつ宰相は言った。

「あの御方もよくわかりませぬな。いったい彼女の、どこにそれほど惚れ込まれたのやら」

「チトセはよい子だ。好意を寄せる男がいたとて不思議はない……が、たしかに、あの方がというのは不思議だな」

 娘のために反論しつつも、結局は宰相同様首をかしげる公王だった。

 老若男女問わず虜にし、魔性の美貌などと謳われ、智略に長けた隣国の王と、人見知りで内向的でやや人間不信な少女。互いの立場も年齢も育ってきた環境も、何もかもが大きくかけ離れていて、どうにも違和感を覚えずにはいられない取り合わせである。

 恋の相手にはまったく不自由していないであろうに、なにゆえ彼は千歳に目を留めたのだろうか。十歳以上も年下の、特別な美貌もなく恋愛などまだ欠片も意識していなさそうな未熟な少女に。

「恋心というものは、理屈で片づけられるものではないとわかっているつもりだが……」

 便箋をたたんで封筒に戻し、公王は頭を振る。宰相が顎をなでて言った。

「真面目に検討するとして、悪い相手ではございませんな。むしろ、これ以上ない良縁と言えましょう。チトセが普通の娘であったならば、ですが。ロウシェンの立場として彼女を他国に、それもよりにもよってリヴェロ公に取られてしまうわけにはいきませぬ。嫁がせる相手は国内の、陛下に近しい者から選ばれるべきでしょう」

 政治家らしい意見に公王は顔をしかめた。

「そういう束縛をチトセに課したくはない。あの子が望むならば、どこへでも自由に行かせてやりたい。心配せずとも、あの子が龍の加護を悪用してロウシェンに仇なすことなどない。……ただ、そういう問題ではなく、カーメル殿が相手では賛成する気になれぬのだ」

 まるでそこに当の男がいるかのように、手の中の封筒をにらみつける。日頃の温和さが嘘のように、彼は厳しい顔で言った。

「公人としては尊敬できる立派な人物と認めるが、女性関係についてはまったく別だ。あのような遊び人にチトセを任せられるものか。いくら今は本気で熱を上げていても、今後もチトセに一途でいてくれるとは思えぬ。将来チトセが泣かされる可能性が大きいというのに、安易に許せるものか。チトセにはもっと、誠実で真面目な男が似合っている」

「…………」

 親の資格うんぬんで悩んでいたついさっきとはえらい違いである。十分に父親だと、宰相は顔には出さず思った。これで千歳の方もリヴェロ公に恋をしていたなら、大衆劇にあるような家庭争議が起きるところだが、幸いというべきか、

「まあ、チトセは今それどころではないようですが」

 まったくその気がなさそうな少女の現状を冷静に指摘すると、公王は我に返った顔で目を向けてきた。

「あ、そ、そうだな……」

 たちまちしゅんとなる。状況を思い出して、また落ち込んだようだ。忙しいことである。

「カーメル殿より、まず私がしっかりせねばな……しかし、どう接すればよいのか……チトセはもう私と顔を合わせることすら避けるようになって、話もできぬままだ」

 一度は気を取り直したのに、またうじうじと悩み出す。いつまでもこんな調子では公務にも差し障る。宰相は考え、助っ人を呼ぶことにした。

「オリグに相談してみますか」

 参謀室長の名前を出す。そもそも主君がこんな状態になったきっかけは、あの男が独断で千歳に龍の加護についてばらしたせいだ。責任を取って一緒に対応策を考えてもらおうではないか。

 頼りになる知恵袋の存在を思い出して、公王もうなずいた。さっそく参謀室に人をやって室長を呼び出す。ところがしばらくして現れたのは、彼の部下だった。

「なんじゃ、オリグはどうした」

 渋面を作る宰相に、眼鏡の青年は場違いな明るい笑顔で答えた。

「室長はちょっと出かけておりまして。しばらく不在になります」

「不在? どこへ行ったのだ」

 公王の問いにもとぼけた顔で答えをはぐらかす。

「いやー、まあ、ちょっと色々と。そのうち連絡が来ると思いますよ。あ、もし陛下がお悩みのようでしたら、これをお渡しするようにと言付かっておりました」

 いささかわざとらしく言って懐から一枚の紙を取り出す。小さく折りたたんだ紙を丁寧に広げて伸ばし、公王へ差し出した。

「…………」

 いぶかしげな公王の表情が、書かれたものに目を走らせるや真剣になっていく。

 いったい何を残していったのかと横から覗き込んだ宰相は、その姿勢のままでしばらく沈黙し、やがてそっとため息をついたのだった。




「娘さんはおいくつで? 十七歳? まあ、それは難しい年頃ですねえ。まったくの子供ではないけれど、まだ大人にもなりきっていない、不安定な時期ですね」

「ええ……妻がいれば女同士でわかることもあったのでしょうが、なにぶん男親ですので、いたらぬことも多く」

「男手ひとつで育てていらしたのですから、ご立派ですよ。そんなふうにご自分を責めないでくださいな」

「いや、育てたというか……実は血のつながりはなく、最近引き取ったばかりでして」

「あら、そうなんですか? そう……それは、よけいに難しくもなりますわね」

「いいえ、こうやって真剣に考えてくださる、いいお父さんじゃないですか。きっとお嬢さんにも気持ちは伝わっていますよ」

「子供なんてねえ、親を悩ませるのが仕事みたいなものですよ。うちの子もそりゃあ生意気で、毎日けんかばかりですよ。叱ったってちぃとも言うことを聞きやしないんだから」

「いや、気兼ねなく言い合えるのがうらやましい。私と娘は、どうもまだ遠慮があって」

「大丈夫ですよ、そういうのは時間が解決してくれます。焦らないで、どーんと構えていればいいんです」

「そうでしょうか……」

「そっ、そうですよ、遠慮してくれるだけいいじゃないですかっ。う、うちの子なんて、親をののしって、馬鹿にして……っ、ううっ」

「いや、それは反抗期というものだからでしょう。きっと本気で言っているのではない」

「今朝も私のことを『カビの生えそうな陰気なババア』だなんて……ううううっ」

「いや、そんな、憎まれ口を本気にして泣かれずとも……」

「あらいいんですよ。思いっきり泣きなさいな」

「え? いや、なぐさめてさしあげるべきでは」

「我慢するからよけいに辛いんですよ。ここではね、我慢はいらないんです。不満をぶちまけて、泣きたいだけ泣いていいんです。そのための集まりなんですから」

「はあ……」

「ご主人も、遠慮せずにどんどん愚痴を言ってくださいよ」

「はあ、どうも……」

 ――とある街中の集会場の一室で、ご婦人たちが集まって子育ての悩みや不満を話し合っている。中に一名混じった男やもめも、気さくな奥様方のおかげでなんとなくその場になじんでいた。

「……どうなんだよ、これ」

 少し離れて主君のようすを見守っていた騎士団長は、手にした案内のチラシを読み上げた。

「『子育てに悩むお母さん、ぜひ一緒に語り合いましょう。同じ悩みを持つ親同士、気持ちを分け合って対策を一緒に考えましょう。経験者からの助言も受けられます。ひとりで悩まないで! 子育てには周囲の力を借りることも必要です。参加費無料、どなたでもお気軽にお越しください』……って、さあ……」

 ぽりぽりと頬をかく。目を戻せば、先ほどまで励まされる側だった主君が、今度は励ます側に回っていた。

 世の母親たちは、こんなにも子育てに苦労していたのか。わが身を振り返り、ちょっとごめんと母に謝る気分だった。

 ――しかし。

「なんだってオリグはこんなもんを持っとったんだろうなあ」

「さあ……何持ってても不思議じゃないけどな……あの人なら」

 無理やりつき合わせた部下が言う。それもそうかとうなずいた。

「全部計算してるんだよなあ。ハルト様が悩まれることも見越して、こんな情報まで仕入れて。嬢ちゃんもうまいこと転がされてるな」

「……オリグはティトを参謀室に引き入れたいみたいだね」

「あー、まあ向いとるかもしれんな。オリグの後継者になれるかな?」

「ティトが……次期参謀室長……?」

「…………」

 しばしふたりは無言で見つめ合い、微妙な気分で目をそらした。

 似合いそうだ。

 人を見れば疑い、戦う策を腹黒く考える。目的のためには人をだますことも平気でやらかす、可愛いくせに辛辣な少女。

 未来の参謀室長として、大いに有望株だろう。

 親子問題で悩んでいるうちは、まだ平和なんじゃないかと思った。彼女が強力な師匠を得て才能を伸ばせば、おそらく煮ても焼いても食えない人間に出来上がる。現在の参謀室長のように。

 今日の光景をふりかえり、あの頃はまだ可愛かったなあなんてぼやく日が来るかもしれない。

「……そうなればいいな」

 想像すると自然に笑いが浮かんだ。明日も、明後日も、その先もずっと、彼女がこの地に存在している――主君のため共に働く仲間として。そんな未来は楽しそうだ。

「なるよ」

 部下があっさりと断定する。そうだな、と彼はうなずいた。

 血のつながらない娘のために、懸命に悩み助言を求める父親がいれば、きっと訪れる未来だ。

 大丈夫――そう思えずにいるのは、当事者のふたりだけ。今はまだすれ違う想いも、きっと通じ合えるだろう。

「となると、カーメル公の邪魔をせねばならんが」

「そうだね……向こうに取られちゃったら困るからね……」

「よし、言ったな? じゃあ嬢ちゃんが籠絡されないよう、お前さんがしっかり口説いてものにしろよ」

「なんでボクなんだよ……アルタがやったら?」

「いいのか? いいと言うならやるぞ。いいんだな?」

「好きにすれば……どうせ相手にされないけどね」

「なんだよ余裕かましやがって、腹立つな!」

 軽口を叩き合う精悍な男と可愛らしい少年に、ご婦人方が注目しないわけがない。じきに彼らも話の輪に引きずり込まれることになるのだが、まだその気配には気付いていないふたりだった。




                    ***** 終 *****

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