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明日天気になったなら  作者: 桃 春花
第五部 秋嵐
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 ハルト様の姿を見た途端、私の中にまた重く暗い気持ちがわきあがってきた。

 デュペック侯の一件で一時的に気分が切り替わり昂揚していたのに、急に浮力を失って沈み込んでいく。私はハルト様から目をそらした。

「……いらしてたんですか」

「来ないと思ったのか」

 返ってくる声は硬く、低い。向こうも機嫌が悪そうだ。今さら笑顔を期待するのはあつかましいと思いつつも、気持ちが落ち込むのを止められない。

「無茶な真似をしおって。取り返しのつかぬことになっていたら、なんとする」

「ユユ姫には絶対に危険が及ばないよう、それを最優先に考えていましたよ」

「ユユのことだけではない!」

「別に独断で動いたわけではありませんし。元々はオリグさんの計画でしょう。それに乗っただけです。イリスとトトー君にも来てもらいました。何か問題が?」

「そなたまでが、危険な場に出る必要はなかろう」

「あったから出たまでですが」

「チトセ!」

 ハルト様の声に怒りといら立ちが増していく。私の方も神経がささくれ立っていた。言うまいとこらえていたものを、我慢できなくなって口に出してしまう。

「……心配なさらずとも、寝返ったりしませんよ」

 悔しくて。腹立たしくて。悲しくて。いろんな負の感情が胸の中に渦巻いて、それをぶつけてやりたくなる。自分でもびっくりするほど冷たい声が出た。視線を上げれば、ハルト様の傷ついた顔があった。後悔するべきところなのに、頭のどこかでは冷静にそう思うのに、もっと傷つけてやりたいという昏い気持ちがわき上がる。私が嫌な思いをした分、彼も苦しめてやりたいと思ってしまう。

「恩を忘れてはいません。私が野垂れ死にせずにすんだのは、ハルト様たちに拾われたおかげです。その後も不自由なく暮らせるように便宜をはかっていただきました。私が問題なく暮らせるのはハルト様のおかげなのだと、一日たりとも忘れたことはありません。恩に背かず、役に立つのが私の存在意義だとわかっています。龍の加護もそのためにしか使いません。敵に加担してロウシェンの不利益になるようなことは絶対にしませんから安心してください」

「…………」

「待て。なんだその言いぐさは」

 絶句したハルト様にかわって、イリスが私をとがめた。こちらをにらんでくる青い瞳を、私も見返す。端正な顔を怒らせてイリスは言った。

「何あてつけがましいこと言ってんだ。ハルト様がおっしゃったのは、そういうことじゃないだろう。なんだ寝返るとか。そんな疑いを持ってるって言いたいのか」

「持っていないとでも? 私が信用できないから、今まで龍の加護が持つ意味を知らせないようにしてきたんでしょうが。黙って監視されてたと知った時はショックだったけど、でもそっちの事情だって理解できるわ。龍の加護が悪用されたらそりゃあ困るものね。見張られるのは当然でしょう。その分不自由のない生活を与えてもらったんだから、ありがたく感謝して恩返しをするって言ってるだけじゃない」

「……本気で言ってるのか」

 イリスの声がぐっと低くなる。彼の怒りを感じるが、私の中にも強烈な反発が生まれてくる。どうして私ばかりがそんなに責められなくてはいけないのかと、無性に反論したくなる。

「本気も何も、事実をありのままに言ってるだけでしょう。じゃあ龍の加護について、まったく何も気にしていなかった? どんな影響があるか知った上で、どうでもいいと思っていたっていうの? そんなわけないでしょうに、白々しい」

「…………」

 イリスの顔がますます険しくなる。険悪さを増す私たちの間にハルト様が割って入った。

「待ちなさい――チトセ、そのことについては」

「もう結構です」

 私は乱暴にハルト様の言葉を遮った。

「もうさんざん考えて、結論は出してるんです。私はハルト様を裏切りません。理由がどうだろうと、ハルト様のおかげで住むところにも食べるものにも困らず無事に生きていられるんです。私はハルト様によって生かされているんだから、ハルト様のために尽くします。それでいいでしょう」

「チトセ……」

 悲しそうなハルト様から顔をそむける。立ち去ろうとした私の肩をイリスがつかんで引き止めた。

「いい加減にしろ。なんだってそんな言い方をするんだ。意地が悪いにもほどがあるぞ」

「――どうせ私は性格が悪いわよ!」

 力一杯イリスの手を振り払う。悔しい。うっとうしい。腹立たしい。悲しい。哀しい。かなしい――

 頭の中がぐちゃぐちゃだ。自分でもおかしくなっているのはわかる。でも止められない。もう我慢できない。したくない。

 言い方が悪い? 態度が悪い? そうでしょうとも、私だって怒っているんだから。いつでもどんな気分の時でもにこにこして言われることに逆らわず相手を喜ばせることだけ口にするなんて、そんなことできるもんか! 私だっていい加減嫌なんだから!

「最初からわかりきってたことでしょう! 私は性格の悪い嫌われ者よ! ずっと嫌われて、友達なんか一人もいなかった。それなのに、こっちに来てから急に優しくされて仲間扱いされて、おかしいって思うべきだったのよ。私が人に好かれるはずなんかないんだから! まんまとだまされて、いい気になって、さぞ滑稽だったでしょうね。龍の加護があるから、だから放置しておけない。それだけだったのに、何も気づかず馬鹿面さらして。みんな陰で笑ってたんでしょう!」

「ティト……」

 さしのべられるユユ姫の手を払いのける。嫌だ。誰も来ないで。私にさわらないで。もうこれ以上、私に関わらないで!

「私だって好きでここにいるんじゃないわよ! 好きでこんなとこに来たんじゃない! あのまま日本で、普通の高校生として暮らしていたかった! 友達がいなくたって、いじめられてたって、ここよりずっと平和で幸せな毎日だったわ! 戦争なんかなかった。暗殺事件なんて歴史で習ったくらいしか知らない。日本じゃ武器を持って歩くだけで犯罪よ。どんな悪人だって、よっぽどのことがない限り殺されたりしない。正当防衛でも武器を使用すれば厳しく追及される社会だったわ。ここみたいに、何かあったらすぐ殺し合いが始まる社会じゃなかった!」

 何事かと周りの人たちもこちらに注目している。みっともないことをしている思った。こんなふうにわめき散らすのは恥ずかしいことだ。冷静な部分ではそう思うのに、爆発した感情の方が圧倒的に大きくて、もうどうにでもなれと投げやりになる。

「こんなところ、大嫌いよ! 電気もガスもない、電話もない、車もない! 何もかもが呆れるほど不便で、医療技術も低くて、身分なんて馬鹿馬鹿しいものだけはしっかりあって! 人はすぐ殺し合うし最低よ! みんな大っ嫌い!」

 目に涙がにじむ。物心ついて以来、こんなに大声で叫んだのは初めてだ。癇癪を起こして怒鳴るなんて、生まれて初めてかもしれない。

 この世界に流れ着いて以来、ずっと黙って我慢してきた。言ってもしかたがないと思っていた。理解も得られないと思っていた。あきらめて、受け入れるしかないんだと自分に言い聞かせて、ずっと押し込めていた不満が一気に噴き上げて止まらない。

「ティト!」

「違う!!」

 イリスの叱責にも涙をこぼしながら私は叫び返した。

「私はそんな名前じゃない! 千歳よ! 佐野千歳よ! ティトシェなんて名前じゃない! 変な呼び方しないで!」

「……っ」

「名前ひとつまともに呼んでくれないくせに、偉そうに非難しないでよ! もう嫌、こんなとこいたくない。家に帰りたい。私を利用することなんか考えない家族のとこに帰りたい……帰りたい帰りたい帰りたい――帰して! 家に、かえしてよ!」

「…………」

 口元を引き結んだイリスが、無言で足を踏み出してくる。抵抗する私の腕を難なくつかみ、痛いほどの力で引っ張る。私が脚をもつれさせても、おかまいなしに引きずった。

「イリス、何を――!」

 ユユ姫の悲鳴じみた声が聞こえる。つかまれた二の腕が痛い。にぎりつぶすつもりなのかと思った時、勢いよく放り出された。

 勢いに抗えず、私は転がる。とたん、ひどく冷たいものが全身を襲った。

 水――水に落ちた――沈む――溺れる――

 死にかけた時の恐怖がよみがえり、私はもがいた。腕や脚が何かに当たり、こすれて痛い。我に返ればそれは硬い底で、水はへたり込んでも腰までしかない浅さだった。

 頭の上からも、冷たい水が絶えず流れ落ちてくる。噴水に落とされたのだと、ようやく理解した。

「頭を冷やせ!」

 私の前に仁王立ちになってイリスは言った。

「帰してやれるものなら、とっくに帰してる! 生まれ育った場所から遠くへ引き離されて、家族と生き別れて、辛いだろうってみんなわかってるよ。可哀相に思ってる。でも帰してやることはできないんだ。それは誰にもできない神の業だ。どんなに辛くても、理不尽でも、受け入れるしかない。誰もが逃れることのできない、運命ってものの力なんだよ!」

 冷たい水に熱いものが混じる。ひくひくとこみ上げる嗚咽がこらえられない。水底に手をついたまま、私は肩をふるわせてしゃくり上げる。

「自分だけが可哀相だと思うな。事故や病で家族を失った者、戦で故郷を失った者、災害で何もかもを失った者――いろんな人が、いろんな苦しみを抱えて生きている。理不尽な不幸と向き合いながら、懸命に生きているんだ。辛いのは君だけじゃない!」

「……っ」

「龍の加護を気にするかって? 気にするよ、当然だろう! けど利用することや監視することしか考えないなら、どこかに監禁でもしてそれで終わりだ。こんなに大事にするもんか! 少しでも辛い思いをしないように、不自由することのないように、健康に暮らせるように、どれだけ周りが気を遣ってると思う! 可哀相だから、それ以上に幸せにしてやろうって考えてるんじゃないか。なんでそれがわからない? なんで疑う! 信じてないのはそっちだろう。人の好意も思いやりも全部裏があると決めつけて、悪意に取り囲まれてると思い込んで。そうやって自分の殻にこもって何もかもを否定してちゃんと見ようとしないで。何ひとつ、変わってないじゃないか!」

「…………」

 変わっていない――その指摘が、私の心を深く突き刺した。

 人から嫌われる、私のもっとも大きな欠点。それを少しも克服できていないのだと、あらためて知る。私が信じないから、受け入れないから、だから人からも嫌われるのだと……。

「そんなふうになる前に、気になったのなら聞けばよかったんだ。納得がいくまで話を聞いて、自分の気持ちを訴えて、互いの理解を深めるべきだった。その努力をしたか? 話し合おうとしたか? 何も言わないで一人で考え込んで、決めつけて、勝手に傷ついて。周りが君の意思をくみ取って、何も言わなくても君の望むように動いてくれることを期待していたのか。いつまでそうやって人に求めるばかりで自分は動かないつもりだ。甘えるな!」

 もう何も言い返せない。言い返す言葉が出てこない。喉からあふれるのは嗚咽ばかりで、水の中にへたり込んだまま、動く力も出てこない。

 胸の中のものが噴き出した後には、情けなくかなしい気持ちだけが残った。いろんなことが辛くて、かなしくて――でもいちばん嫌いなのは、やっぱり自分で。

 しびれるほど冷たい水に、いっそこのまま溶けてなくなってしまいたい。何よりも、自分の存在そのものが嫌でたまらない。

「陛下……!」

 誰かの戸惑う声がした。長衣の裾をさばいたハルト様が、噴水の縁を踏み越え中に入ってくる。頭から水をかぶり濡れるのもかまわずに、私の前に膝をついた。

「…………」

 何も言えない私に黙って腕を伸ばし、へたり込む身体を抱き起こす。そのまましっかりと、彼の懐深くに抱きしめられた。

「……っ」

 冷たい水の中、私を抱きしめる腕と胸だけが温かくて。

 涙が止まらない。噴水の水に洗い流されても、次から次からあふれ出る。

 泣き続ける私を、ハルト様はただ黙って抱いていた。大きな手が何度も頭をなでる。もう一方の腕が強く抱きしめる。けっして見捨てないとぬくもりが伝えてくる。

 私は彼にすがりついて、大声を上げて泣きじゃくった。




「ほら、こちらへいらっしゃい」

 お風呂から上がった私を、ユユ姫が呼び寄せる。彼女の前の暖炉に火が入れられていた。厚い敷物を何枚も敷いた床に座り込めば、毛織のショールが肩にかけられる。

「寒くない?」

 優しい問いかけにだまってうなずく。濡れた髪を後ろからヘンナさんが拭いてくれた。

「ぶつけたところは痛まない?」

 噴水に放り込まれた時、あちこちぶつけた。いくつか小さな痣ができているし、すりむいたところもある。意識すれば痛みもあるが、それを辛いとは思わなかった。私はまただまってうなずいた。ユユ姫は微笑んで、私の頬をなでた。

「イリスもねえ、あんなに乱暴にしなくてもいいでしょうに……男兄弟で育ってそのまま騎士団に入っちゃったものだから、あんな顔していても根っからがさつなのよねえ」

 やわらかでなめらかな、どこまでも優しい指が私をいたわる。いい香りがする。目を上げた私の疑問を読み取って、ユユ姫はああ、と笑った。

「彼のところは男ばかりの四人兄弟なの。イリスは長男。下に三人いるの」

「…………」

「弟たちと同じつもりで扱わないでほしいわよね。こっちは女の子なのに」

「同じじゃないですよ。ちゃんと加減してます」

 嘆息混じりの言葉に反論が返ってくる。イリスが戸口に姿を現していた。

 私は反射的に身を縮めた。ユユ姫が彼に言い返してくれた。

「どこがよ。とうてい女の子に対する扱いではなかったわ」

 イリスは肩をすくめて中に入ってきた。手にカップを持っている。私の前に差し出されたそれからは、湯気が立っていた。

「うちの弟どもが相手だったら、まず殴ってそれから水に叩き込みますよ」

「基準がおかしいわ。そのくらいの差で胸を張らないで」

 ユユ姫に叱られてイリスは頭をかいた。

「騎士団なら、もっと厳しくやられるんですがねえ」

「だから、そこを基準にしないでちょうだい。騎士でも何でもない女の子なのよ」

「頭に血が上った人間を落ち着かせるには、あれがいちばん効果的なんですよ。ああいう時にあれこれ言ったって耳に入りやしませんから」

「それにしたって、もう少し方法を考えてちょうだい。こんなに寒いのに水に放り込むだなんて、具合を悪くしたらどうするの。ただでさえ身体の弱い子なのに」

「う……」

 言葉につまったイリスは、またがしがしと頭をかく。反論を考えていたようだが、結局気まずい顔で肩を落とした。

「……ごめん」

 私は手の中のカップを見つめた。透き通った温かな飲み物から、甘酸っぱい香りが立ちのぼってくる。薬湯なんかじゃなく、私の好きな甘い物だ。イリスが持ってきてくれた。あれだけ怒って、厳しく私を叱りつけた後でも、こうして気づかってくれる……。

「……ごめんなさい……」

 今の私に精一杯の声を絞り出せば、一瞬彼らが私を見つめ、大きな手が少し乱暴に頭をなでた。

「ごめん、なさい……」

 謝り続ければ、一度はおさまった涙がまた出てきそうになる。

 ユユ姫が私の肩を抱き寄せた。

「もういいの。もういいのよ」

「ごめ……っ、なさ……」

「いいの。嫌なことはもう全部落っこちたわ。だからおしまい。ね? 誰ももう怒ってないわ」

「……っ」

「わたくしはあなたが好きよ。困ったところもあるけど、とてもいい子だって知っているわ。人を信じられなくて疑っていても、それでも何かあれば人のために一生懸命になって頑張るでしょう。あなたの善意は相手を選ばない。自分の得のためでもない。自分が損をしても人を助けようとする。生真面目で優しくて不器用なあなたが大好きよ」

「…………」

「わたくしも、何度も助けられたわ。ハルト様とのことだって、本当はあきらめかけていたのに、あなたが一生懸命後押しをしてくれて想いをかなえられた。感謝しているのよ……あなたは嫌われ者なんかじゃないわ。きっと元の世界にだって、あなたを好きな人がいたわ。あなたが気づいていないだけよ。どうか、自分を貶めないで。人を信じるためには、まず自分自身を信じてあげないと。自分を認めることから始まるのよ」

 優しく言い聞かせる声に、こらえきれなかった涙がひとすじこぼれた。

 どうして信じられなかったんだろう。こんなに優しい人たちを。いつだって大事にしてくれていたのに。時には小言を言いながらも私を見守ってくれていたのに、なぜその気持ちを疑ったのだろう。

 自分が信じられなかったから……自分に価値を認められなかったから、疑い出したらすぐに揺らいでしまった。大丈夫って言いきれるだけの根拠が、自分の中になかった。無条件に優しくされることよりも、裏があってそのために優しくしているのだという方が現実的に思えて、向けられる気持ちがすべて偽物にしか思えなくなってしまった。

 私にもいいところがあるのだと、だから人に好かれるのだと、もっとしっかり自信を持っていられたら、違ったのかもしれない。

 でも私にはそんな自信は持てない。こんなにだめな人間だ。何の努力もしないで甘ったれてばかり。イリスに言われたことは本当だ。人に好かれるはずなんかないって、今でも思ってしまう。

 頑張ったって報われるとは限らない。真面目に正しいことをしていたって、それを評価されるよりも都合よく利用される。それが当たり前だったから、現実なんてそんなものだと思っていた。誰かがわかってくれるなんて、期待しなかった。

 期待すれば、どこかに誰かは見つけられたのだろうか。

 今、私をいたわってくれるユユ姫のように、真実優しい気持ちを向けてくれる人がいると、信じていられたのだろうか。

 ハルト様やイリスや、みんなの気持ちを疑わずにいられたのだろうか。

「ねえ、ティ……っ」

 さらに何か言いかけたユユ姫が、急に言葉に詰まった。困った顔になって、彼女は口籠っている。その理由に思い至って、私は小さく言った。

「……ティトでいい」

 私が文句を言ったから。ティトシェなんて呼ばないでほしいと言ったから、彼女は気にしているのだ。でもあんなの、ただの八つ当たりだ。チトセと、彼女たちには発音しづらいのだから仕方がない。私だって外国の難しい発音はできない。言葉が通じていると思っても、もしかしたらこっちの人たちの名前をちゃんと呼べていないかもしれないのだ。お互い様だ。

「でも……」

「いいの」

 首を振れば、ユユ姫は軽く息をついて微笑んだ。

「本当に具合は悪くない? 寒気や頭痛はしない?」

 優しい問いに首を振る。感じるのは温かさと、何かがぽっかり抜け落ちた脱力感のようなものだけだ。

 ……あと、少し眠い。

 そういえばゆうべはあまり寝ていないのだった。夜中に抜け出してデュペック侯と密談して、その後イリスとトトー君の到着を待ってオリグさんと打ち合わせをした。ほとんど徹夜状態なのは私も同様だった。

 休ませてもらおうかな。そう思った時、くしゃみが聞こえた。私じゃない。みんな一瞬きょとんとした顔になり、音のした方を振り返る。ハルト様が鼻の辺りを押さえていた。

「……あ、いや、どんなようすかとな。風呂は済ませたのだな」

「まあ、ハルト様。もしやお風邪を召されたのでは?」

「いや、そうではない。大丈夫だ――っくしっ」

 またくしゃみが出る。ユユ姫が顔をしかめて立ち上がった。

「早くこちらへおいでくださいまし。ヘンナ、ハルト様にお薬を」

「いや、いや、かまわぬ。本当に大丈夫だから」

「でも」

「ちょっと引っかかっただけだ。心配いらぬ」

 ハルト様の髪もまだ湿っている。着替えを済ませて、すぐに来たのだろう。

 ユユ姫に腕を引かれて、ハルト様はこちらへやってきた。私を見下ろし、少しためらってから横に腰を下ろす。

「…………」

「…………」

 互いに言葉が出てこない。無言で並ぶ私たちを見ていたユユ姫は、急に明るい声を出した。

「それでは、わたくしたちはこれで失礼いたしますわね」

「え?」

 驚いて顔を上げるハルト様を無視して、彼女はイリスとヘンナさんをうながす。

「さ、まいりましょう」

「あー……はい」

 イリスがうなずき、ユユ姫に腕を差し出す。ヘンナさんもてきぱきと辺りを片づけ、ユユ姫の後を追う。さっさと彼女たちが出ていってしまい、私とハルト様のふたりだけが残された。

「…………」

 困った顔でハルト様は視線をさまよわせ、またひとつくしゃみをした。

 私はまだ口をつけていなかったカップを差し出した。

「ん? ……ああ、ありがとう」

 ぎこちなく微笑みながらハルト様は受け取り、口をつける。そしてすぐにこちらへ返してきた。

「そなたも飲みなさい。しっかり身体を温めんと、また熱を出す」

 受け取った私は言われるままに口をつけた。少し冷めて飲みやすい温度になったお茶には、何かの果物らしい風味と蜂蜜と、ほんの少しぴりっとする生姜のような味が混じっていた。

 イリスがこんなに上手にお茶を淹れられるとは思わないから、誰かに頼んだんだろうな。身体が温まるものにしてくれと注文をつけたのだろうか。

 優しい甘みと温かさが胸にしみ込んでいく。

 暖炉の炎も温かかった。エアコンとは比較にならない原始的な暖房だと思っていたけれど、赤く燃える薪を見つめていると、とても穏やかに温かい気分になる。

 そしてやはり温かな手が、私の頭をなでた。慈しみを込めて、ハルト様は私にゆっくりと語りかけた。

「話を、しようか」

 暖炉の中で薪がパチリとはぜる。窓の向こうでは、傾いた太陽が赤くなり始めていた。

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