7
翌日はこの秋いちばんの冷え込みとなった。
玄関を出ると冷たい風が吹き付けた。空はぱっとしない曇りで、優雅な噴水もひどく寒々しく見える。
ユユ姫はドレスを隠してしまうほど丈の長いゆったりとしたコートを着、帽子にもベールをつけて風よけにしていた。重装備だと思うことはない。そのくらいは必要な、冬に近い寒さだった。
「ティト、それで大丈夫? 寒くない?」
私は防寒具の類を持っていない。季節が変わるごとに新しい服を仕立ててもらってきたから、冬服はこれからだ。なのでユユ姫がショールを貸してくれていた。厚手の毛織物はワンピース一枚の私をあたたかく包んでくれた。
「うん、ありがとう。これすごくあったかい」
大きなショールを頭からかぶって、私は彼女と一緒に街へ出かけた。メインの目的地はもちろん、新製品の糸を作る工房だ。
ユユ姫のお供はいつものごとくヘンナさんで、護衛にはアークさん。その他にも何人かの侍女が同行していた。レイ君もいる。
武装した人間が大勢襲いかかってきたら、ユユ姫を守りきれるとは言えない人員だ。ただ彼女は行く先々で街の人から注目され、随行員以外のたくさんの人が周りを取り巻いている。そこへ襲撃をかけるのは、あまり得策ではない。
それに彼は、護衛を武力で排除するのではなく、策でもって引き離すことを望んでいた。その策を成功させるか否かは、私の行動にかかっている。
ユユ姫と一緒に街を移動しながら、私はこれからの計画に思考を巡らせていた。
そうしてひととおり視察が終わり、工房を出る前になって、私は行動を開始した。
「ねえユユ姫、昨日見たお店に行きたいんだけど、いいかな?」
「ええ、かまわなくてよ。何の店?」
工房主との話も終わり、外へ出るための身支度をする時、私は話を振った。ヘンナさんがコートとベール付きの帽子を持って控えている。
「一ヶ所じゃなくて、いくつかあるんだけど……昨日は我慢したけど、やっぱり気になって。すごく可愛いものがたくさんあったから」
「我慢なんてしなくてよかったのに。欲しいものがあるなら、いくらでも買いなさいな。ハルト様からも、あなたが楽しめるようにしてやってほしいって言われているの。遠慮しなくてよいわよ」
持ち出された名前につい胸が痛む。私は笑顔を浮かべるだけで、その件に対するコメントは避けた。
「ありがとう……ユユ姫も一緒に行かない? ああいうお店って、ひとりで見るより友達と一緒の方が盛り上がって楽しいんだけど」
「あら……そうね。わたくしも、たまには店で買い物をしようかしら」
ユユ姫が何かを購入する時は、業者が三の宮まで出向くらしい。考えてみれば当然だな。お姫様が街へ繰り出してショッピングなんて、あまりないだろう。まして彼女は脚が悪いのだし。
でも私の希望ということで予定が変更され、一行は商店街へ向かった。街の人たちは思いがけない領主の訪れに驚きつつ喜んでいた。
「ほら、ここも可愛いのがいっぱいでしょ」
私はアクセサリーの店を指差した。目がくらむような宝石よりも、布で作った造花や繊細な木彫りなどをメインに取り扱っている。もちろん安物ではないだろうけれど、私の年頃でも手に取りやすい品である。
あまり広い店ではなかったので、店内にはヘンナさんだけが一緒に入った。他の人は外で待機である。扉についたベルの音が響くと、奥から男性が出てきた。
「これはいらっしゃいませ。ご領主様にお越しいただけるとは光栄の極みにございます。本日はどのような品をお探しでしょうか」
愛想のいい出迎えに、私が答えた。
「特に決めてないんです。可愛いものがたくさんあるから、じっくり見てみたくて。かまいませんか?」
「ええ、ええ、どうぞご覧ください。ああ、ご領主様に見ていただくのに、ここにある品では不足ですね。もっとよい品を出してまいりましょう」
私にも丁重に答える。姫君がベールをかぶったまま無言でいても、営業用スマイルで完璧にスルーだ。身分の高い女性は気安く下々に話しかけたり顔を見せたりしないものだと思っているのだろう。
背後でまたベルの音がする。ヘンナさんが扉を閉めている。ショーウインドウは店内のようすより商品見本を見せるためのものだから、これで外からの視線はかなりシャットアウトされた。
「せっかくのお越しですから、最高の品を見ていただかねば。すぐにお持ちしますので、お待ちくださいませ」
男性はいそいそと奥へと引き返す。次に戻ってきた時には一人でなく、若い男を二人、後ろに連れていた。一人は商品らしい箱を持ち、もう一人はお茶の乗った盆を持っている。
「さあ、どうぞゆっくりお選びください」
私たちに椅子を勧め、目の前のテーブルにお茶と商品を並べる。箱の中には宝石や金細工があふれていた。もっと気軽に使える可愛い品ぞろえがこの店の魅力なのに、姫君には高価な品が喜ばれるだろうと考えたのか。
私たちはまずお茶をいただいた。私は茶器を口許に運び、飲むふりだけをした。
「……姫様? いかがなさいましたか」
しばらくしてヘンナさんが声をかけた。ふらふらと不自然に揺れる身体を支えようと腰を浮かし、彼女自身もめまいを感じたように崩れ落ちる。
「あ……なに、が……」
必死に身を起こそうとしていたが、その身体からはどんどん力が失われていく。やがてふたりが完全に倒れ伏したのを見届けて、私は立ち上がった。
男の一人がテーブルに突っ伏した姫君を抱き上げる。ヘンナさんはそのままにしておかれた。
「あなたも一緒に来ていただきましょうか」
店主のふりをしていた男が私に言った。
「私はここに残ります」
「それでは不自然だ。姫君がさらわれてあなたが残っていては、疑われるだけですよ。さあ、早く」
男は強引に私の腕をつかんでひっぱる。彼の仲間はすでに獲物を手に店の奥へと姿を消していた。
男に連れられて私も奥へ踏み込めば、縛られて猿轡を噛まされた本物の店員が転がっていた。怪我はなさそうなようすに安堵する。恐怖と焦りの視線をこちらへ向けていたが、彼らはすぐに救助されるだろう。
そのまま男たちは裏口へ向かった。そこにはありふれた、目立たない馬車が待機している。もちろん御者台に乗るのも彼らの仲間だ。
私たちを放りこみ、馬車はすぐに動き出す。怪しまれることのないごく普通のスピードで、馬車は堂々と表通りに出ていった。
そっと窓から見れば、相変わらず店の前で待機する人々が見える。まだ騒ぎは起きていない。
何も知らずに待っているアークさんに、私は心の中で謝るしかなかった。
途中で追手に発見されることもなく、馬車は順調に街はずれまでやってきた。
大きな街道とも離れた、あまり使われることのない裏道だ。道の状態は悪く、さっきから馬車がひどく揺れている。すぐ近くまで森が迫っていて、ちょっと一人では歩きたくない雰囲気だ。
揺れがこたえて辛い。お尻も痛いし何より酔いそうだ。一度停めてもらおうかと考え始めた頃、予定の場所に到着したようで頼まなくても馬車が停まった。
人が来る前に、私は自分で馬車の戸を開けて外に出た。
ふらつきそうになる足をどうにか踏ん張って、深呼吸をする。少し気分が悪い。軽く貧血も起こしているようだ。
けれど目の前に進み出た人の姿を確認した瞬間、背中に気合が入った。デュペック侯は満足げに私を見ていた。
「うまくいったようですな。さすがです」
「あまりうまくないのでは? どうして私まで連れて来るんですか。私はロウシェンに残る予定でしょう」
事前の打ち合わせと違う展開に、とりあえずつっこんでみる。部下の独断というわけでもないようで、デュペック侯は驚くようすもなく微笑んだ。
「そうできればよかったのですが……内部から協力していただければ、こちらとしてもありがたかった。しかし、この状況では無理ですよ。残れば、あなたは疑われる。あなたが選んだ店に都合よく曲者が待ち受けていたなどと、誰が聞いても不審に思うでしょうからね。投獄されて、下手をすればむごい尋問を受けることになりますよ」
「そんなこと……」
「ない、と思うのは愚かな希望です」
私の反論をデュペック侯は強くさえぎった。
「あなたはご自分がハルト公に大事にされていると思ってらっしゃる。もちろん、それは間違いではない。しかし、彼にとって他の何よりも大事ということはないのですよ。愛する姫君をさがすためなら、彼はあなたを痛めつけることもためらわないでしょう」
「…………」
「ひどいことを言うと恨むでしょうが、あなたのために心を鬼にして申し上げる。彼があなたをそばにとどめ置いたのは、竜とあなたの関係、ただその一事に尽きます。竜を操れる者など、野放しにできるわけがない。手元に置いて監視し、必要があれば利用するつもりで、あなたを懐柔したのですよ。それはもう、ご存じのはずでしょう?」
「…………」
私は唇を噛む。握りしめた掌に爪が食い込んだ。
「あなたが害にならない限りは可愛がり、大事にしてくれたでしょう。だがひとたび逆らえばどうなるか……聡明なあなたなら、現実を認めることができるはず。今のロウシェンに、真実あなたを受け入れてくれる場所はない。我々と共に来なさい。エランドは、どのような出自であろうとこだわらない。差別に苦しめられてきたからこそ、我らはけして人を差別しない。仲間に入る者はみな等しく家族です。あなたのことも家族として受け入れます」
デュペック侯は私に手を差し伸べ、足を踏み出してくる。彼の背後にも、私の左右にも、仲間の男たちがずらりと並んでいる。私が動けるのは背後の、馬車の前までしかない。
「ティトシェ嬢、私と共に皇帝陛下の御許へ――」
「……そうやって、最初から私も連れて行くつもりだったんですね」
馬車の戸に背をつけて私は言った。デュペック侯が言葉を切る。
「あなたの言うとおりですよ。私が選んだ店にすぐさま曲者が現れて、準備よく眠り薬を飲ませて姫君をさらっていくだなんて、できすぎです。そんなこと、計画を考えた当初からわかっていたはず。それをあえて決行したのは、私の退路を断つためでしょう?」
「…………」
「あなたは私をロウシェンに残していくつもりはなかった。ユユ姫を手に入れると同時に、龍の娘も手に入れる計画だったのでしょう」
デュペック侯を見つめたまま、私は横へ移動する。戸を開くのに邪魔にならない位置へ。黙ったデュペック侯にかわって仲間の男たちが動く。剣呑な光を目に宿した男たちがこちらへ来る前に、馬車の戸が中から勢いよく開かれた。
「な……っ!」
発した声は誰のものだったのか。
私の横をすり抜けた人物は、手近な男へ飛びかかる。彼が脱ぎ捨てたコートとベールが地面に落ちるより早く、一人が斬り伏せられた。
赤い髪が動きに合わせて踊る。小柄な身体は燕のように敏捷に動き、一人、またひとりと斬り伏せる。
「――謀ったか!」
デュペック侯が顔を歪めて唸った。
「おたがい様でしょう。あなたこそ、私をだまして体よく利用するつもりだったくせに」
「なに――」
私はまっすぐにデュペック侯を見据える。仮面の剥げ落ちた、彼の素の顔を。
「冷静だの高潔だのと耳触りのいいことを並べ立てておだて、いい気になった娘が正義感を燃やしてあなたの話に同調するよう仕向けた。子供はそういう自尊心をくすぐられ、選ばれた人間だと言われるのが好きですもんね。虐げられた可哀相な人々を助けるため、世界に真の平和をもたらすために、君の力が必要だ――なんて、物語によくあるパターンですよ。でもあいにく、私は物語の主人公と違って正義感に燃えてはいないし、やたらと愛想よく誉めてくる人間なんて信じないんです。現実はそんな都合のいいものじゃないって知っているから――あなたは私を御しやすい子供と見下し、利用しようと近づいてくる、うさんくさい人間にしか見えなかった」
配下の連中が何人もこちらへ向かってくる。トトー君に対する人質にするつもりなのか、それともとにかく私を確保してしまおうと思ったのか。
けれど、森から飛び出した影が頭上を通過するや、彼らは悲鳴をあげてその場に転がった。
素早く方向転換した飛竜がふたたびこちらへ飛んでくる。立て続けに放たれた矢が、また何人も仕留める。信じられない速さと正確さだ。剣より弓や槍が得意だとは聞いていたけれど、これは得意なんて次元ではないんじゃないか。
次にイシュちゃんが通過した時には、イリスはもう地面に着地していた。体勢を直した勢いそのままに、デュペック侯へ向かって走る。
騎士ではないデュペック侯では、とうてい勝ち目はない。彼は逃げ腰になったが、イリスの方が速い。あっという間に距離を詰めて取り押さえようと腕を伸ばし――
次の瞬間、イリスは飛びずさった。左手が腰の剣にかかり、抜き放つと同時に嫌な金属音が響いた。
黒い大きな影が、彼とデュペック侯との間に割り込んでいた。
アルタに負けないくらい上背のある男だ。フードをかぶっていて顔はよくわからないが、他の配下の連中とは明らかに異質な存在感だった。
黒い男の剣がうなりを上げてイリスに襲いかかる。イリスは打ち合わせるのを避けて攻撃をかわした。間髪を入れず反撃に出る。肩口を狙った剣はあっさりと弾き返された。
激しい攻防が続いた。体格では負けているイリスだが、力で負けることはなかった。何度も剣を打ち合わせ、飛びずさってはぶつかり合う。伝わってくる殺気に私は息を呑んで立ち尽くすしかなかった。
「ぎゃあっ」
すぐそばで悲鳴が上がって飛び上がる。私に襲いかかろうとしていた男が脚を斬られ、さらにその身体をトトー君が蹴って私から遠ざけた。
「……気を付けて」
剣を血で汚しながらも、顔には興奮の色がない。落ちついたようすでそばへやってくる。我に返って私は周囲を見回した。もう立っているのは私たちとデュペック侯、そしてなおも激しく戦う二人だけだった。
「トトー君、イリスに加勢を……」
「無理だ」
焦る私に、トトー君は無情なほどにきっぱり答えた。
「あそこに割りこんだら、かえってイリスの足を引っ張る。簡単に手を出せる状況じゃない」
一瞬も止まらない二人から、トトー君も目を離さない。無理と言いながら、隙があればいつでも動けるよう全身に緊張をみなぎらせている。
「……イリスって、剣は強いの?」
「強いよ。弓と槍の方がより得意ってだけで、剣だって並よりはるかに強い。……ただ、相手も相当の手練れだ。勝てるかどうか……」
「そんな」
ほぼ互角、もしかしたら負ける可能性もあるというのか。
そんな勝負はしてほしくない。これは試合じゃない、命を懸けた本当の戦いだ。負けたら、イリスは。
「くっ」
小さくうめいたイリスが、わずかに足元を崩した。赤い色が目に飛び込んでくる。あれは――嫌だ――
「イリス!」
素早く体勢を立て直したイリスの袖が切り裂かれていた。そこから伝う血が地面を汚す。
黒騎士はわずかに見える口許をふっと笑わせ、唐突に身を引いた。デュペック侯が用意していた馬に飛び乗る。
トトー君が飛び出したが間に合わなかった。強く腹を蹴られた馬が、ものすごい勢いで走り出す。負傷して動けない仲間を置き去りに、二人は逃げ去ってしまった。
「イシュ!」
イリスが相棒を呼ぶ。私は彼に飛びついて止めた。
「だめ。追ったら危険よ」
「あいつを、逃がすわけには」
イリスの息が乱れている。きれいな顔に汗がしたたっている。
大きく上下する肩をトトー君が叩いた。
「その怪我じゃ、さっきの黒騎士を倒してデュペック侯を取り押さえるなんて無理だよ」
「じゃあお前も一緒に来いよ!」
「ティトをここに一人残して?」
「……っ」
イリスがぐっと詰まる。私を見、急に脱力して大きく息を吐き出した。
「くそ……」
剣を持つ左手が、だらりと下げられる。その腕にまとわりつくシャツをトトー君が破り、怪我の少し上をきつく縛って止血した。
「イリス……」
「大丈夫だ」
息を整えながらもう一度私を見た青い瞳は、いつもの穏やかな明るさを取り戻していた。
「少しかすっただけだよ。大したことない」
反対側の手で私の頭を抱き寄せ、くしゃくしゃと髪をかきまわす。私は怪我にさわらないよう注意して、彼の身体に腕を回した。温かい。胸に耳をつければ、息遣いと鼓動が伝わってくる。ちゃんと生きている。細身に見えてもたくましい身体は力強く、ふらつくことなくしっかりと立っている。
よかった……。
ほっとして涙が出そうになった。
それどころじゃないのですぐに引っ込んだけれど。
イリスもトトー君も敵の急所は避けて、動けなくしただけだった。そこかしこで苦痛にうめく男たちが、なんとか立ち上がろうともがいている。比較的軽症の者が逃走を試み、トトー君の蹴りをくらってあっさりと沈められていた。
イリスもせっせと働いた。死に物狂いで抵抗する連中を次々殴り、蹴って、昏倒させていく。実に荒っぽく情け容赦がない。見ていてちょっと嫌になるほどだった。でもこれは仕方がない。こっちは戦闘員が二人だけ、しかも片方は怪我人だ。その十倍近い敵が、負傷しているとはいえ意識はしっかりあるのだから、優しく手加減なんかしていられない。
彼らにはこれから尋問が待っている。どれだけの情報が引き出せるかわからないけれど、せっかく捕えたのだから役に立ってもらわなければ。
デュペック侯を逃がしてしまったのは、実に惜しかったが……。
ふとトトー君が顔を上げた。イリスもすぐに気づく。彼らの視線を追った私は、道の向こうから迎えの一団がやってくるのを見つけたのだった。
「ティト!」
馬車を下りた私に、ユユ姫が飛びついてきた。あわてて抱き止めるも私の力では彼女を支えきれなくて、二人して倒れそうになる。それを助けてくれたのはアークさんだった。
「お怪我は、ありませんか」
ユユ姫を支え、彼は問う。私はうなずいた。
「私は大丈夫です。イリスが負傷したので、すぐに手当を」
「イリス?」
「かすっただけですよ」
ユユ姫の不安そうなまなざしに、イリスは笑って答えた。間に合わせの包帯を巻いた左腕を動かしてみせる。
「あわてるような怪我じゃありません」
「それならばよいのだけど……待っている間、気が気ではなかったわ」
ユユ姫は深々と息を吐いた。
「あなたまで一緒に行くなんて聞いていないわよ」
「私も聞いてなかった」
「でも向こうの思惑は最初から読んでたんだろ。言っとけよな。こっちも焦ったぞ」
イリスが横から口を挟んでくる。私はだまって肩をすくめた。
言えば猛然と反対されるに決まっている。それでは、向こうを油断させ罠にはめることができない。あそこは連れ去られる必要があったのだ。
「……私も、事情を聞かせていただきたかったです」
控えめながらアークさんからも抗議が来た。男らしい顔に不服の色が浮かんでいる。彼には申しわけないことをしてしまった。計画の一切を話さず内緒にしていたので、少しの間とはいえ彼はユユ姫がさらわれてしまったと思いパニックになったことだろう。
「すみません。アークさんはとても生真面目で、嘘のつけない人だから……知らん顔でだまされたふりはできないかと思って」
「…………」
アークさんが顔をしかめる。お父さんから職人気質を受け継いだのか、彼はちょっと融通の利かない性格をしている。向こうの策に乗せられたふりをして逆に罠をしかけるなんて作戦、彼には向いていない。本当にだまされてもらうしかなかったのだ。
トトー君とユユ姫が入れ替わったのは、工房を出る直前だ。帰ったと見せかけて工房に残ったユユ姫は、私たちが出て行った後、護衛と共にひそかに領主館へ戻っていた。どこに内通者がいるかわからないから、この入れ代わり作戦は周りにも秘密だった。ただし、ヘンナさんだけは知っていた。背丈は同じくらいでもさすがに声を出したら男だとばれてしまうので、トトー君はだまっているしかない。怪しまれないよう、私と彼女とでフォローしていたのだ。睡眠薬入りのお茶だって本当は飲んでいない。ふりだけだ。
そのヘンナさんが私にショールを差し出してくれる。拉致のどさくさで店に落としてきたものだ。ありがたく受け取り、私は冷えた身体に巻き付けた。
領主館の前庭はてんやわんやの大騒ぎだった。捕虜と城の兵士とでごったがえしている。こんな出来事、ここの人たちは初めて経験するんじゃないだろうか。王都からも騎士が来ているから、ちゃんと対処できるだろうけれど。
「……首謀者は、取り逃がしましたか」
温度を感じない静かな声がした。振り向けば、くすんだ緑の長衣を着た男性が歩いてくる。頭巾はもうかぶっていない。今にも血を吐きそうな痩せこけた青白い顔がさらされていた。
「向こうにおそろしく腕の立つ騎士がいましたので。深追いは危険と判断しました」
「いたしかたありませんな」
イリスの腕を一瞥し、オリグさんはうなずく。感情のわかりにくい人だけれど、多分機嫌は悪くないのだと……思う。
「すでに手配はしております。どこかの検問で引っかかるとよいのですが」
「引っかかると思いますか?」
「無理でしょうな」
あっさりと言われて私は呆れた。
「そのくらいは向こうも考えて、対処法を用意しているでしょう」
「それじゃあ、検問なんて用意するだけ無駄なんじゃ……」
「無駄と思ってもするべきことですから。正規の道を避けてひそかに逃亡すれば、それはそれで人の目につき痕跡を残します。各地に放った偵察部隊から報告があるかもしれません」
――参謀官というものは、やはり頭脳でもって働く人なのだと実感する。
彼はデュペック侯がまだロウシェン内に潜伏していることを知っていて、その行方を捜していたのだ。私とユユ姫が宮殿を離れれば接触してくるのではないかと読んで――というか、そうさせるためにあえて情報を漏らし、釣り出した。私がハルト様とうまくいっていないことまでそれとなく漏らしたというから、怒るべきなのか感心するべきなのか。城内の内通者がそれをデュペック侯に知らせれば、私を籠絡する材料に使うだろうと踏んだらしい。じっさいその読みは当たっていた。ついでに内通者を見つけ出す役にも立ったようで、お見事と言うしかない。
神殿で彼が現れた時、私は思わず固まってしまうところだった。ちょうどオリグさんのことを思い出したその瞬間に目の前に現れたものだから、心霊現象かと思ったよ。見た目が見た目だし。
そしてその瞬間、私には裏が見えた。デュペック侯が接触してきて、宮殿にいるはずのオリグさんが神官に扮して現れるだなんて、もう陰謀の匂いしかしない。とっさに聞いたばかりの告解を持ち出して場所を移し、そこでオリグさんを問い詰めつつこちらの状況も説明して、大急ぎで作戦会議を行ったのだった。昨夜の密談だって、彼の部下がひそかに見守ってくれていた。デュペック侯だけでなくこちらも、仲間を近くに潜ませていたわけだ。
チェンバからエンエンナまで、早馬を飛ばせば半日で着く。至急応援を要請してトトー君とちょうど帰ったばかりのイリスに来てもらった。飛竜ならさらに半分の時間で着くことができる。もっとも、それでふたりはほとんど徹夜だったのだけれど。
トトー君はユユ姫の身代わりになり、イリスは事前に森に潜んで待機。時間差で援軍が到着し、デュペック侯を逮捕するという計画だった。途中までは上手くいっていたのに……あの黒騎士さえ、いなければなあ。
さすがにデュペック侯も、身を守る保険はかけていたか。
悔しい思いで私は連れていかれる捕虜を眺めていた。あの連中を締め上げたところで、大した情報は得られないだろう。今回は引き分けといったところか。
「チトセ」
緊張から解放された疲労感に少しぼうっとなっていると、低い声で呼ばれた。私は息を呑んだ。背後から聞こえたのは、ここで聞くとは思わなかった声だった。
ゆっくり振り返る。周りの人が道を譲る中、彼はまっすぐに私を見、こちらへ歩いてくる。
いつもは穏やかな顔が厳しく引き締められ、グレーの瞳が私をとがめている。
ハルト様は私の前に立ち、苦い息をついた。