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頭に血が上った勢いで日頃の出不精引っ込み思案も返上し参謀室の前までやってきたものの、いざ中へ踏み込もうと扉に手をかけたその時になって、私の頭に理性、あるいは弱気が戻ってきた。
入って……いいのかな。
その場で動きを止めて躊躇する。
いいわけないよね。国の重要な機関で、しかも今はお仕事中な時間帯だ。小娘がずかずか入り込めるわけがない。
オリグさんに会いたくて、参謀室長なら参謀室にいるだろうという単純な発想で来たけれど、それってまずくないか。今さらに、あやうく最後の一歩を踏み出す直前になって、気が付いた。
どうしよう。出直すにしても、いつならいいのだろう。そもそもここは私用で訪ねられる場所ではないから、自宅の方へ行くべきなのか。でも一度会っただけの、面識と言えるほどの面識もない相手の家へお邪魔するなんて、もっと無理だ。
せめて電話があればな。時間を取ってもらえないかお願いするくらいなら、お仕事中にすみませんと謝りつつかけられるのに。
紹介しようというハルト様の話も、直後にキサルスの問題が起きてそれどころではなくなってしまった。毎日遅くまで話し合いをしているハルト様に、お願いする気にはなれない。
私は扉の前に立ちつくして、ぐずぐずと悩んだ。前の廊下を誰も通りがからなかったのは幸いだ。傍から見ればおもいきり不審者だろう。
どうしよう。あきらめて帰るしかないのかな。オリグさんはいつでも来ていいと言ってくれたけれど、それがこの場所のことだとは限らないし、単なる社交辞令の可能性もある。真に受けて乗りこめば、きっと迷惑がられるだろうな。
私は手を戻し、ため息をついた。やっぱり他をあたろう。といって私の心当たりなんて数えるほどしかいないし、その誰もが今は忙しいのだけれど……それでもこの扉を叩く勇気はない。
あきらめて引き返そうとしたその時だった。突然、扉が中から開かれた。
「きゃ!」
外開きの扉は私に向かって押し開かれる。すぐ前に立っていた私がそれをよけられるわけもなく、ものの見事にどつかれてしまった。
おでこと手を強打して、私はたまらずにふらつく。扉の向こうの人が驚いた声を上げた。
「え? うわ! ごめん、大丈夫?」
「……いえ、すみません……」
ただの不幸な偶然だが、私にも責任はある。扉の前でずっと立っていたのだから、起こるべくして起こった事故だった。
「失礼しました……」
痛む場所をさすりながら扉の前から下がる。飛び出してきた人が私の前髪をかき上げておでこを確かめた。
「わー、赤くなっちゃってるよ。こぶになるかな? 本当にごめんね。中入って。手当しよう」
「いえ、ちょっとぶつけただけですから……お邪魔してすみませんでした」
「いやいや、ちょっと待ってよ。何か用があって来たんじゃないの? いいから入ってよ」
出てきたお兄さんは、しきりに私を中へ誘う。いくつぐらいかな。カームさんと同年代に思える。明るい茶色の癖っ毛に、色白の人のよさそうな顔だちだ。愛嬌のある目元に丸い眼鏡をかけていた。
「いえ、お仕事のお邪魔になりますから」
「遠慮しなくていいよー。龍の姫君を追い返したなんて知れたら、飛竜隊長にしばかれる。あ、地竜隊長にもかな? あの二人ににらまれたら怖いからねえ。弱み突いて脅し返すにしても難しいんだよね。飛竜隊長はあけっぴろげな人で隠し事とかしないし、地竜隊長は隙がなくて弱みらしい弱みを見せないし。うちの調査能力をもってしてもつかめないんだから、大したもんだよ」
「はい……?」
お兄さんは一人でぺらぺらとまくし立てる。うっかり聞き流しそうになったけれど、私のことを知っている? そしてさらっと聞き捨てならないことを言ったような。なんだ弱みとか脅すとか。その手のネタは好物だぞ。ぜひ詳しく聞きたい。
「うん、中でゆっくり話そうね。室長ー、お姫様がいらっしゃいましたよー」
お兄さんは扉を大きく開き、室内へ向かって声をかけた。
「さささ、入ってはいって」
私の背中を押して部屋に招き入れてくれる。おっかなびっくり踏み込んだそこは、なんというか……とても散らかっていた。
不潔というわけではない。食べ物の残骸とか、何日も洗っていなさそうなこうばしい服とか、そんなものが転がっているわけではない。所狭しと積み上げられているのは書類の山。壁を埋め尽くす棚にもぎっちりと本……いや、バインダーかな? 多分資料の類が詰め込まれ、入りきらない分が床だの机の上だのそこら中に適当に積み上げられていた。
こんな状態で調べたい資料がすぐに見つけ出せるのだろうか。仕事ができる人は整理整頓も上手いと聞いたことがあるぞ。資料の山にぶつからないよう苦労して歩いていたら、能率にも影響しそうだ。
教室より少し広いくらいの部屋には何人か人がいて、それぞれデスクに着いてお仕事していたのが、いっせいに顔を上げてこちらを見た。
「おおっ? 龍の姫君じゃないか!」
「寝込んでたんじゃなかったの? 元気になったんだ、よかったね」
「うーん、やはり十七歳には見えない胸だ」
「その服は見たことがないな。さては新しい服だな。青系が好きなのかと思ったら、今回は焦茶と桃色か。なるほど、好みというより季節を感じさせる色使いにしているわけだな」
「そんなことより茶菓子だ。姫君は甘いお菓子が好物だ、誰か調達してこいよ」
「まかせろ! 財務卿が机の中に隠しているのを知っている!」
二十代から三十代くらいの男の人たちが、珍獣が来たみたいに騒ぎ出す。胸のことを言った奴はとりあえず無視してやる。私の近況や好みを知っていたり服装チェックしたりする連中にはちょっと引く。ええたしかに今日のワンピは新作ですが、なんでそれを初対面の人が見抜くかな。そしてお菓子を調達すべく飛び出していった人――財務卿って偉い人なんじゃないのか。そこから強奪してくるつもりか。ていうか財務卿って、たしかスーリヤ先生の旦那様。
面食らって入ったところで立ち尽くしつつ、ひとつだけはっきり理解した。ここの人全員が、私のことを知っている。
それも近況から好みや手持ちの衣装にいたるまで、やけに詳しく把握されているようだ。なんなんだ。びっくりするのを通り越して気持ち悪いぞ。
「はい、進んで」
眼鏡のお兄さんが背中を押す。資料の山を崩さないよう注意して奥へ進めば、少しだけ整頓された一角にオリグさんがいた。
「来られましたか」
書き物から顔を上げて私を見る。今日も素晴らしく顔色が悪い。救急車呼んでも怒られないレベルだと思う。
「こんにちは」
来てしまったものは仕方がない。私は頭を下げて挨拶した。オリグさんは軽くうなずいて、近くの椅子を示す。
「申しわけありませんが、これだけ書き上げてしまいますので、しばらくお待ちください」
「あの、お忙しいのでしたらどうぞお構いなく。急にお邪魔して申しわけありません。出直しますので、ご都合のいい時を教えていただけませんか」
「お気遣いなく。話ができぬほど忙しくはありません。それに、そろそろ来られる頃合いではないかと思っておりました」
「……そう、ですか」
大人の仕事場に踏み込んだ上にこりともしない無表情で対応されると、こちらとしては大いに気が引けるのだが、お兄さんたちがしきりに私に座れと椅子を勧めてくる。オリグさんもかまわずに書き物を続けるので、私は言われるまま腰を下ろした。
「ちょっと待っててね、今お茶を淹れるから」
「その間に質問させてくれ。君の衣装はすべて君自身が考えていると聞いたが、本当なのか? 今日のその服も?」
眼鏡のお兄さんが離れるや、入れ替わりに黒髪のお兄さんが目の前に膝をつく。目線を合わせるためにしてくれているのだとはわかるが、妙な気迫に反して聞かれた内容のくだらなさについ眉が寄る。
「……なぜそんなことを?」
どういう意図か。からかっているつもりなのか、遠まわしに嫌味を言っているのか。
私の反応に気付いて、お兄さんはいやいやと首を振った。
「誤解しないでくれ。ただ知りたいだけだ。いや、正確ではないか。俺を含めて、君の服装に興味を持つ者が大勢いる。先日の式典以来、特に若いご婦人の間で話題になっているんだ。珍しいものに関心が集まるのは当然だろう? それを踏まえた上での調査というわけだ」
「……参謀室って、ファッションチェックまでやってるんですか?」
これじゃあ参謀官というより雑誌記者だ。そう考えてあらためて周りを見れば、どこかの編集部という風景に見えなくもない。
「情報は大事なんだよ。ご婦人たちの興味対象について詳しく調べることも、別な場面で役に立つことがある」
本当だろうか。女の子の服装について詳しくなって、どんな役に立つのかさっぱりわからない。せいぜい個人的に、ナンパの役に立てるくらいだろう。
「式典での衣装は、ご婦人たちに大変な衝撃を与えたようだ。今後ああいったものが増えるかもしれない」
「はあ……」
まあ、その辺はユユ姫からも聞いている。狙った通りの反応だ。
「刺繍は装飾としてよく使われるが、あんなふうに一ヶ所だけ、しかもそれを大きく入れたものはこれまでなかった。大抵細かな模様を裾や襟元などにびっしりと入れる形で」
「そうですね」
だからこそだ。あれは刺繍を目立たせるためのデザインだったのだから。
袖口と襟と裾についた控えめなレース以外、何の飾りもないワインレッドのワンピースは、実はフィギュアスケートのコスチュームを参考にさせてもらった。上半身は身体にぴたりと沿った形で、襟も高くしていた。そこに、背中から肩にかけて大きく翼が広がり、左腕に細い鎖が巻き付き手首の辺りを薔薇の花が飾るという刺繍を入れた、どこぞの二次元キャラが着ていそうなものだった。コスプレ会場にいても違和感がなかっただろう。
心がけたのは、とにかくインパクト。出会う人がまずそのモチーフに目が行くようにとデザインした。
「あの刺繍に使われたのは、シャール地方の糸だね? 金糸のようでいながら淡い薔薇色だなんて、誰も見たことがないものだ。ユユ姫がお召しになっていたドレスにも同じ糸が使われていた。あれは今後爆発的に売れるだろう」
「ええ、そのための宣伝でしたから」
金糸を作る工程を教えてもらった時、もっと色幅があればいいのにねと何気なく漏らした一言が新製品開発のきっかけになった。
私の世界にあったメタリックカラーについて述べたにすぎないのだが、こちらの人たちにはそれまでにない新しい発想だったらしく、職人さんたちのやる気をかきたてたのだ。そしてわずか数か月で試作品を持ってきた。職人すごい。
これは売れるぞと確信した私たちは、ちょうどいい宣伝の機会だったので式典用の衣装に使った。結果は上々。大評判で、さっそく注文依頼がきているとユユ姫がうれしそうに報告してくれた。
一口に刺繍といっても、糸を作る人、それを加工する人、そして刺繍職人と、何段階もの工程が必要となる。さらに言えば、刺繍をほどこすための衣装だのファブリックだのといった製品も必要になる。新しい刺繍が流行すれば、いろんなところに経済効果が出るのだ。まずはロウシェンの宮廷から、やがては外国や一般庶民にまで流行が広がれば、どれだけの収益が見込めるだろう。一時期苦しくなっていたシャール地方の業績が、一気に盛り返しをはかれるチャンスだ。そこにちょっとだけ貢献できて、私もうれしかった。
「君はなかなかの策士だな。地竜隊長の名誉回復を狙って行動する傍ら、そんなことも仕掛けるとは」
「別に……たまたまいい機会だったからですよ」
どうでもいいけど、式典での一幕がトトー君にかけられた疑惑を払拭するためだったということも、この人たちは先刻承知らしい。
「で、その衣装は?」
「これには何の意図もありません。自分の好みで作っただけです」
しつこい追及にうんざりしてそっぽを向くと、待ち構えていたように手が伸びてきた。
「ひゃ……」
おでこに冷たいものがくっつく。別のお兄さんが湿布を貼ってくれていた。
「ダインは変なことに興味持つからな。放っといていいよ。あ、でもその服は可愛くてよく似合ってるよ」
「……どうも」
ロリータ系コーデは自分でも気に入っているが、おでこに湿布付きではだいなしだろう。眼帯ならある意味定番アイテムだけど、私の趣味ではない。
眼鏡のお兄さんが戻ってきて、私にお茶を差し出した。
「はいどうぞー。姫君のお好きなリッカの花茶だよー」
「……なんでみなさん、そんなに私の個人情報に詳しいんですか」
「あはははは、だってここ参謀室だから!」
それは答になっているのか。国の諜報機関は小娘のファッションや好きなお茶まで調べるのか。そもそも参謀室というのは、本来諜報機関と呼ぶべき部署でもない。
つっこむのが気持ち悪いので、私は黙ってお茶を受け取った。緑茶に似た爽やかな風味がおいしい。
「いやあ、本当に口数の少ない姫君だねえ。その分腹の中でたくさん考えていそうなところとか、噂通り男嫌いなところとか、見てて面白いな」
騎士になった方が似合っていそうな大柄なお兄さんが笑う。男嫌いだってことも知っているなら、もうほっといてくれないかな。知らない男性に取り囲まれてものすごく落ち着かないんだけど。
「そんな嫌そうな顔しないで。意地悪する気もないし子供を口説く趣味もないから。で、飛竜隊長と地竜隊長、どっちが本命?」
「待て待て、リヴェロ公を忘れてるぞ。あの美貌と公王の地位、さらには一夜を共にした仲という点からも、いちばん有力な候補じゃないか? 文通までしてるしな」
「おおっ! そうだ、あの事件の時、ふたりが山中でどんな夜を過ごしたのかも大いに気になる! 刺客に追われ助け合いながらさ迷い歩くふたり……どこの恋物語だって状況だよな! さぞ盛り上がったことだろう!」
「リヴェロ公の方はもうあからさまに惚れてるしな。あんな美形に熱烈に言い寄られてよろめかない女はいないだろう」
「うーん、しかし俺としては竜騎士団長を推したいな。あの人もいい年だから、いい加減嫁さんもらわんと」
「それは大丈夫じゃないか? 陛下がようやく婚約なさったからな。義理立てて独り身を貫いてきたアルタ様も、肩の荷が下りただろう」
「そうだな。ふざけて振られ男を装っちゃいるが、本当はすごくもてる人だからな。どう、姫君? ああ見えて団長はいい男だよ? 頼りになるしお買い得! 狙うなら協力するよ!」
「…………」
私はゆっくりとお茶を飲み干し、空になった茶器を静かに下ろした。
微笑みをたたえて、興味津々で覗き込んでくる男共を見回す。
「安心しました。お仕事中にお邪魔してご迷惑をおかけするかと心配していたのですが、参謀室は恋バナで盛り上がって仕事しなくても大丈夫な部署なんですね。お暇なはずはないですから、よほどに仕事の手際がよくて、今日やることはもう全部片付けちゃったんですね。素晴らしく有能な方達で、尊敬いたします」
わざと丁寧に言ってやれば、男共が笑顔のままフリーズする。
「あ、あはは……は」
「いやー……ははは」
いっせいに顔を引きつらせて一歩しりぞいたところで、ペンを置いたオリグさんが立ち上がった。
「お待たせしました。あちらで話しましょう」
それまでの騒ぎなど聞こえていなかったかのように、無表情のまま抑揚なく言う。隣室へつながる扉を示す彼にうなずいて立ち上がり、私はお兄さんズに笑顔で会釈した。
「ごちそうさまでした。湿布もありがとうございます」
「いえいえ、お粗末様で」
「あ、どうぞごゆっくり。うるさくしてすんませんでした」
えへえへとお愛想笑いをするお兄さんズに背を向けてオリグさんの後を追う。扉が閉まる直前、背後の声が聞こえた。
「はー、あれが噂の氷の微笑みか……」
「ぐさーっとくる言葉といい、冷やかな迫力といい、まさに女王様だなあ」
「なるほど、騎士たちが変な盛り上がり見せるのもわかる。あれはいっそ崇めて女王様素敵ーってやった方が楽しいね」
振り返ってにらみつけたいのをこらえ、できるだけ静かに扉を閉める。もう、なんなんだ、龍の姫君だとか女王様だとか。勝手に変なあだ名をつけないでくれ。ったく男ってやつは!
そうやって騒いでからかって、結局人を馬鹿にしているんだろう。ああいやだ、男なんて滅んでしまえ。
「部下たちが失礼しましたな」
オリグさんが言った。あまりにひっそり静かな声だから、うっかりすると気づかずに聞き逃してしまいそうだ。見た目にふさわしく、精力や生気といったものに乏しい人だ。部下たちはあんなにやかましいのに、妙な組み合わせだな。
「あの者どもに悪気はありません。少々好奇心が強く詮索好きで無遠慮なだけです」
いや、それ十分悪いから。実はフォローする気ないだろう。
つっこみたいのをぐっとこらえる。なんか話を始める前に疲れてしまった。
隣室とは正反対に、小ぢんまりとしながらも綺麗に片付いた部屋で、私はオリグさんと向かい合って座った。打ち合わせ用の部屋なのだろうか。資料などは少なく、小さな机と四客の椅子が部屋の主役だった。
「それでは、訪問の目的を伺いましょうか」
「はい……」
この人はとっくに気づいているのだろうなと思いつつも、私は言葉を探して話し始めた。
「先日は助けていただいて、ありがとうございました。いただいた資料もとても役に立ちました。あらためてお礼を申し上げます」
頭を下げれば、オリグさんも軽く会釈で応える。
「あの時、いつでも来ていいと言っていただけましたので、あつかましいのを承知でお邪魔しました。いろいろと気になっていることが多くて。教えていただけるとありがたいです」
「どうぞ。私でお答えできることでしたら、何なりと」
この人は、私に対してどんな感情を持っているのだろう。丁寧な応対にそう考える。わざとらしいお愛想を感じさせない、自然な口調だ。誰にでもこういう話し方をする人なのだろうか。
「ありがとうございます……では、単刀直入にうかがいますが、エランドとロウシェンが戦争する可能性はどのくらいでしょうか」
「ほぼ確定的ですな。回避は難しいかと」
思いきって斬り込んだ問いにあっさりと答を返され、私は束の間絶句した。いや、私も可能性は高いと思っていたよ? でもこうも簡単に肯定されるとは思わなかった。いいのかそんなにきっぱり言い切っちゃって。
「……難しいですか」
「いくら平和的解決を望んでも、相手にその気がなければ話になりません。隣国同士が諍いの末に武力衝突するのとはわけが違います。エランドは初めからすべての島を支配下におさめようと動いております。かの国の方針が突然反転しない限り、いずれこの島にも侵攻してくるでしょう」
「ハルト様は戦争回避を望んでいらっしゃるようですが」
「左様。ですがそれが難しいことも承知でいらっしゃいます」
「戦争になったら……勝てますか」
膝に置いた手につい力がこもる。オリグさんはストレートには答えず、違うことを口にした。
「キサルスを制圧すれば、エランドはシーリースの目の前に前線基地を置くことができます。これまで課題であった輸送や補給の問題がおおむね解決します」
「それは、こちらにとっては不利な状況になるということですよね?」
「左様です」
「なら、キサルスからの援軍要請には応えるべき、ですよね」
「ところが、そう簡単にはいきません」
オリグさんの顔は憔悴した人のもののように見えるが、もともと痩せこけて顔色が悪いだけなので、じっさいのところは平然とした態度なのだろう。ハルト様のものより色の濃いグレーの瞳は、冷徹なほどに落ち着いていた。
「キサルスは国王が政権を持たず、軍部によって実質支配されております。その国王がエランドに保護を求めて亡命したとのことです。エランドはこれを口実にキサルスに攻め入りました。本来の国主が望んだことであるとして、一方的な侵略ではないとの主張です。現キサルス政権からの援軍要請に応えるのは、かの国の国王を排斥することに同意するも同然です」
「…………」
政治や軍事のことなど何も知らない高校生にも、難しい状況であるのはわかった。王様が君臨するだけで統治していないところから、日本と似たような国だと思っていたけれど、それは大きな間違いだった。軍部が実権を握っているのは、暴動やテロが多発していた外国を思い出す。国王と軍事政権と、どちらの味方をするかでシーリースはもめているのだろう。まるであの世界の国連みたいだ。
――でも。
「なんだかとってつけたような話ですね。キサルスの王様って、自分の意志で亡命なさったんでしょうか。お隣のシーリースを頼るならまだしも、遠いエランドを選ぶなんておかしくないですか」
「誘拐されたとの説もありますな」
私の疑問に、やはりオリグさんはあっさりとうなずいた。
「エランドの主張がただの口実なのは誰の目にも明らかです。国王の身柄を得るために強引な手段を用いたとしても不思議はありません。ただし、証拠はありません。エランドの公式発表にキサルス国王の同意署名があったことは事実です」
「そんなの、脅して書かせれば済む話なんじゃないですか。それか筆跡を真似るとか」
「そう思ったところで、追求するための証拠とはなり得ません。逆に言いがかりをつけたとエランドに抗議する材料を与えるだけです」
その通りだけれど、納得がいかない。そもそもなんでそんなに口実にこだわる必要があるのだろう。エランドが周辺国家をすべて征服しようとしているのは明白なのだから、キサルスのお家事情がどうであろうと、エランドの侵攻を食い止めるために援軍を派遣すべきではないのか。
そこまで考えて、自分が何を言おうとしているのかに気付きぞっとなった。援軍とはつまり、兵士だ。生きた人間だ。イリスやトトー君たちが、戦争に行って戦う――殺し合いをするということだ。
そんなの絶対に嫌だった。状況が戦に向かっていると承知しつつも、誰にも戦ってほしくないと思う。ハルト様も回避の方向で努力しているって聞いたじゃないか。
でも回避は難しいとオリグさんは言う。このままだと、遠からずエランドはシーリースに攻めてくる。
「戦の勝敗は状況に左右されます。現時点でどちらに軍配が上がるか、明言できる者はおりません」
「…………」
不安から発した私の質問は、とても幼稚なものだった。そう、勝敗なんて戦う前からわかるものではない。そんなにはっきり結果が見えているのなら、いっそ戦わなくてもいいくらいだ。
もし負けたら――どうなるのだろう。
第二次世界大戦で日本が負けた時と同じには考えられないだろうな。戦争に至る状況がまったく違う。敗戦してもそのまま国は存続し、天皇制も廃止されることはなかった。そんな結果を今の状況に望むことはできないだろう。
……それに負けるっていうのは、たくさん人が死ぬことだ。
「こちらからもひとつ、質問してよろしいですかな」
「なんでしょうか」
オリグさんから逆に質問と言われて、私は手元に落としていた視線を上げた。感情をうかがわせない静かな目が、まっすぐに私を見ている。
「キサルスに援軍を送るべきか否か、あなたはどうお考えですか」
「…………」
難しい状況だと思ったことを、そのまま問われてしまった。私は即答できずに悩んだ。
単純に考えれば、エランドが前線基地を作れないよう援軍を派遣してキサルスを守るべきだ。でもそれは、キサルスの政治に介入することになる。キサルス国民はどう思っているのだろう。いなくなった王様を奪還したいのか、それともこのまま追い出してしまいたいのか。
そんな隣国の事情など知ったことじゃないと、とにかくシーリースを守ることを優先し、ここでエランド軍を撃退したとして、それで戦争の脅威は去るのだろうか。
私が皇帝だったら、また準備を整えて攻め直す。いや、それよりも。
「エランドの大使……デュペック侯でしたっけ。彼はどうしてるんですか」
「まだおります。エランドとロウシェンが交戦状態に入ったわけではありませんからな」
「今回のことについては、なんて言ってるんです?」
「建前どおりです。キサルス国王の要請に従って軍事介入したのであって、シーリースを巻き込むつもりはない。静観してもらいたいと」
「エランドにいるロウシェンの大使たちは?」
「召還すべしとの意見が出ておりますな」
「帰ってこられるんでしょうか」
「エランドがどう出るかは、正直なところ不明です。仮に大使たちを拘束し帰国させまいとするなら、こちらもデュペック侯を人質とします。彼は皇帝の従兄ですから、エランドもたやすく切り捨てることはできますまい」
互いに人質を取り合っていても仕方ない。多分人質交換ということになるのだろう。その後はどちらも遠慮なしというわけで。
私は息を吐いた。
「何が最善なのかは、わかりません。ただ、こちらがどう考えようとエランドは攻めてくるつもりでしょう。援軍を派遣しようがしまいが、いずれ戦うことは避けられない……ならば、少しでも早いうちに手を打つ必要があるんじゃないかと思います」
戦争。殺し合い。派遣される軍隊には、みんなの家族や友達がいる。戦いが終わった時、全員がそのまま無事に帰ってこられる保証はない。かならず、帰らない人が出る。
イリスやトトー君が帰ってこなかったら。そう考えると戦いになんか行ってほしくない。すがりついてでも引き留めたい。
――でも、もっとたくさんの人を守るために、行ってもらわなければいけないのだろう。
なんて嫌な考えだ。ハルト様の苦悩がよくわかる。あの人は、みんなのために戦って死んで来いと命令しなければいけない立場なのだ。今、どれだけ辛い気持ちでいるのだろう。
「キサルスの内政に干渉しないという立場を貫くなら、キサルス国王はエランドに拉致されたのだという主張を通すしかないでしょうね。公式発表はエランドの大嘘だと言って、こちらはあくまでも隣国の危機を助けるだけだという立場を取る……できれば、じっさいにキサルス国王を奪還できるといいんですけど、それは難しいでしょうね」
「国王の所在は不明です。それを探し、奪還するとなれば、援軍の範囲を越えますな」
オリグさんの言葉にうなずく。エランドだってそう簡単に奪還させてはくれないだろう。
「現在攻め込んできている軍を撃退したところで、いずれまたエランドは攻めてくるでしょうから、今後のためにも向こうに潜入して工作できる態勢を作っておきたいところですが……同時にシーリース内におけるエランド側の工作活動にも要注意ですね。キサルスだけを攻めていると思うのは間違いで、きっとシーリースも同時に攻められています。各公王の身辺にこれまで以上に警戒するのは当然として、防衛の要所などにも……」
言いかけて気が付いた。そうか、それでイリスは出て行ったんだ。ナハラという場所は、きっと防衛拠点として重要な土地なのだろう。
私が考えることなんて、とうにハルト様たちが考えている。ひどく無意味なことをしている気がして、それ以上先が続けられなかった。
私が黙り込んだのをしばし眺めていたオリグさんは、ややあって口を開いた。
「それだけわかっておられれば十分です。よく現状を理解し、考えられました」
私は力なく首を振った。
「誰にでもわかることです……素人が当たり前のことを偉そうに言いました。すみません」
「そう卑下なさることもないでしょう。貴族の令嬢などは戦と聞いても嵐が来る程度にしか考えないものです。王や軍にまかせておけばどうにかなると、他人事のようにとらえている。状況を正確に認識し、これだけきちんと考えて発言できる人は滅多におりません」
それは、令嬢たちの受けてきた教育に問題があるんじゃないのかな。政治や軍事のことなんて考える必要はない、むしろ女がそんなことを考えるべきではないという風潮があるのではないか。素地と情報さえ与えられていれば、女性だっていろいろと考える。
「リヴェロが援軍の派遣を決定したとの報せを受けました。アルギリもじきに動くでしょう。ロウシェンだけが知らぬ顔をしてはいられません。一両日中に陛下より出動命令が下ります」
オリグさんはあっさりと言ったけれど、これってまだ非公式の話だよね? 言っちゃっていいのか私なんかに。今日明日にでも発表されることだからかまわないのかな。電話もメールもない世界だから、漏れた情報がすぐにエランド本国に伝わるという心配がないからか。いや、漏らす気なんかないけどね。
「それに伴い、エランド駐在の大使を召還いたします」
「もう決定してるんですか」
「これ以上駐在させていても益はありませんので。近いうちにデュペック侯も帰国することになるでしょう――つきましては、あなたに一つ忠告があります」
「なんでしょうか」
忠告。身構えてしまう言葉だ。何か悪いことをしただろうかと緊張する。
オリグさんはどこまでも冷徹に、静かな口調で言った。
「今後はけしてお一人で行動なさらぬように。かならず護衛を同行させなさい。一の宮内部であっても油断はしないことです」
「…………」
なんだそれは。私が狙われる危険があるということか? 誰に? エランドに?
「……ハルト様を強迫するための人質ということなら、私よりユユ姫でしょう。警備を強化すべきなのは、あちらの方では」
「無論、ユユ姫も。が、あなたもです。むしろユユ姫よりもあなたの方が狙われる危険が高い」
「どうしてですか」
わけがわからなくて尋ねると、オリグさんは軽く首をかしげた。
「ご自分がこれまで何をしてきたか、考えてごらんなさい」
これまで? 私がこれまでにしてきたことと言っても、ひたすら勉強してきたくらいだ。たまに事件に巻き込まれつつ。他に何かしただろうか?
「どうも、周りのことはよく見えるのに自分のことは見えないという類のお人らしいですな。そのようすですと、あなたに好意を寄せる男がいることにも気づいていらっしゃらないでしょう」
――はあ?
「そんな人がいるとは思えませんが」
どこにそんな物好きが。それとも、単なる友人関係の話か?
「無自覚でかたくなな娘をどう口説くのか、傍から見ている分には愉快ですが――そのように平和な話ばかりではないのが残念ですな」
「……?」
もうさっぱり話についていけなくて私は眉を寄せるしかない。そんな私に苛立つでもなければ馬鹿にするでもなく、オリグさんは淡々と、信じがたいことを言ってくれたのだった。
「あなたに魅力を見出しているのはシーリースの若者たちだけではありません。おそらくデュペック侯は、皇帝への手土産にあなたを連れ帰るつもりですよ」